主の祈り 日曜聖書講義

主の祈り

                               日曜聖書講義 2020年9月27日

1序 

 「祈る」ということをひとはどのように受け止めているのであろうか。誰かに願うことはあっても、祈りの対象をもたないひともいよう。そのようなひとでもなにか窮境、苦しい状況に立たされたとき、ひとは神や仏に縋りつくこともあるであろう。そのとき、その祈りを捧げる対象は不可視な存在者であることについては同意されよう。「祈り」という言葉はそのような存在者に向けられている。ひとは自らの限りある生を持つ者であること、その有限性を自覚するとき、ひとは自然であれ宇宙であれ内面の道徳律であれ神や仏であれ、何か人間を超えた存在者に祈りや念仏を捧げてきた。この事実は誰も否定できない。祈りが生起する文脈は尋常ならざることが起きたときに助を求めるそのような状況である。そのような限界状況をも含めて、そのようなひっ迫した状況でなくともひとは自らの内面に「祈り」と呼ばれる何らかの促しを感じることも人類には自然なことであったに相違ない。祈りたくなるということ、それは神とひととを繋げるひとつの自然的なサインだと言うことができる。

 そのなかで、ひとは「祈りが聴かれた」と、時に、感謝と賛美を伴い言うことがあるであろう。或いは、その祈りの効力にむなしさを感じつつ、「祈りはついに聴かれなかった」と落胆と共に言うこともあるであろう。祈りが届かなかったという記録は、聴き届けられたという記録とともに歴史に残されてきた。われらはこのような問いをどのように受け止めることができるであろうか。本当の祈りではなかったからなのであろうか。本当の祈りとはあるのであろうか。祈りと偽りはどのような関係にあるのであろうか。

 聖書はこれらの一般的な問いに対してもやはり福音において応答している。山上の説教に記されている「主の祈り」を実現させるためにイエスは十字架につき、そこで父なる神はわれらの罪を赦した。主の祈りをわれらが心から祈ることができるように、すなわちこの言葉において偽りから解放されるべく、神の子は受肉し信の従順の生涯を貫き十字架と復活を介して福音を歴史の中にうちたてたことを伝えている。このことを学びたい。 

2主の祈り―天と地のことがらをめぐる二つの祈りの秩序づけ―

 イエスは明確な祈りの対象に対し明確な祈りがあることを群衆に教える。それは山上の説教のなかほどで為され、「主の祈り」と呼ばれてきた。そこではイエスは群衆に天の父に何をどのように祈るべきかを教えている。そこではこう言われている。

 「汝らは祈るとき、偽善者たちのようになってはならない。彼らは礼拝堂や広場の角で立ち続けて祈ることを好む、彼らが人々に見てもらうためである。わたしは汝らに言う、彼らは彼らの報いを現に受け取ってしまっている。しかし、汝が祈るとき、汝の部屋に入りなさいそしてその戸を閉めて、隠れたところにいます汝の父に祈りなさい。隠れのうちに見ています汝の父は汝に報いるであろう。

 祈る者たちは異邦人たちのようにくどくどと述べ立てるな、というのも彼らは自分たちの祈りは多くの言葉において聞き入れられると思っているからである。だから、彼らに倣うな。なぜなら汝らの父は汝らがご自身に求める前に汝らが必要としているものごとについてご存知だからである。だから汝らはこのように祈りなさい。

 天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものと崇められますように、汝の御国が到来しますように、汝の御心が成就されますように、天の如くに地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらにわれらの負い目をお赦しください、われらもまたわれらの負い目ある者たちに赦してしまっておりますように。われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください。もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」(Mat.6:5-15)。

 祈りはドアを閉め、他人の入る余地のないところでの基本的に父とわれら個々人の一対一のことがらである。他者がからむことによる、本心に偽りが生じてしまうことがなく、心からの内奥の思いを吐露することができるからである。父なる神との対話のなかで、心を調整するそのようなものだからである。カルカッタの路上にころがる人々を助け続けたマザーテレサは朝の二時間をそのように一人で過ごしたという。一日の働きの心の準備をしていたのであった。二時間を瞑想についやしたとしても、最後は主の祈りに帰ったことであろう。くどくどと繰り返し冗長になるな、六つの祈りで十分であるとイエスは教える。

 一切を知りそして公平にして憐れみ深い正義にして同時に愛でありたまう天にいます父なる神に祈ることは、誰もが「祈る」ということがらにおいて望むことであろう。恣意的な神々に祈ったとして、それはあたかも運命という名のもとに翻弄されるだけの人間存在と変わることがないであろう。祈るに値する信実な対象でなければ、われらの祈りは空を切るような手ごたえなきもの、或いは唆され欺かれるだけであろう。言葉の力として、ここまでは誰にも同意を得られることであろう。

 しかし、全知である神に何を祈り求めるのであろうか。祈りは神が嘉みするものである、ただし偽善者のようにひとに見られるための祈りや、くどくどと長い祈りを好まない。神は「求めない先から必要なものをご存知である」。であるとすれば、祈りは神との二人の個人的な関係であり、各自の心魂の基本的な態勢に戻り、心の調整を図るそのようなものであることが分かる。すなわち、心魂のこの世のものごとに散逸してしまった眼差しを一切を知り、憐み深くまた正義でありたまう神にその都度立ち返ること、それが祈りのゴールであり機能である。イエスはその祈りを教える。最初の三つは眼差しを天に向け神ご自身に栄光と賛美を帰し、聖性を賛美し、御国の到来を願い、御心のこの地に成ることを祈る。これらは簡潔であるがゆえにこそ、神ご自身の聖性と御国と御心の地における成就、神ご自身についてこれらは包括的な一般的な祈りであり、これら以外の何も神について祈ることはないであろう。続く三つは地のことである。日常の生活のこと、あやまちの赦しのこと、そして試みと悪から救いだされることである。

 祈りの相手はどこまでも「天にましますわれらの父」であり、「天の父が完全であるように」(5:48)と言われたその天の父に祈るということは、もともと祈りというものの対象としてふさわしい。偶像、アイドルに祈っても裏切られるだけであろう。これまでの講義でパリサイ主義の分析を通じて偽りがどのように忍び込むか、二心、三つ心に忍び込むことを確認してきた。偽りは本来、神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すこと、或いは偶像という自らの願望の投映に自らを見出すことに他ならない。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまでは。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺きとなるであろう。

 イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。ただし、山上の説教においてイエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものをもっていく途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。実際、そこでは聖霊の注ぎも奇跡さらには、「信(pistis)」や「罪(hamartia)」という語句を見出すことはできない。当時の道徳観の言語で心に潜む偽りを乗り越えるべく言葉のみによりチャレンジしている。主の祈りもそのチャレンジの一つである。

 天にましますわれらの神に栄光を帰し、そして地に住むわれらのケアをもとめる、これは山上の説教の骨格、基本構想に合致する。彼はこの説教をひとつの基本構想のもとにこう秩序づけている。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ(oligopistoi)。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の労苦はその日だけで十分である」(6:30-34)。

「何よりもまず、神の国と義とを求めよ」。「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」。この帰一的な構造が主の祈りの構成でもある。天から地であって、地から天ではない。もし主の祈りがなかったなら、われらはどのように祈ったらよいか、とりわけこの帰一的な構造のもとでの秩序付けをこれほど簡潔にして要を得た仕方で理解することはなかったであろう。それほどわれらの眼差しは地を這いつくばっている。この祈りは仰ぎ見ることを教える。「主よ、わが魂は汝を仰ぎ望む。わが神よ、汝により頼む」(Ps.25:1)。

3 祈りにおける偽りの克服

 山上の説教がわれらの心魂とそこから生まれる行為の一切を秩序づけるように、主の祈りはそれを求める祈りであると言ってよい。この説教の内部で、主の祈りはこの説教全体を神とひととを結びつける祈りという仕方で秩序づけている。主の祈りはイエスご自身の祈りであったことであろう。ちょうどイエスご自身が山上の説教を語り、山上の説教を掛け値なしに生き抜いたように、彼が彼についてきた群衆に教えた祈りは彼自身の祈りであったことであろう、彼に偽りがない限り。この祈りは山上の説教におけるモーセ律法の急進化、純粋化と軌を一にしている。イエスはモーセ律法を愛に収斂させていた。そしてわれらに愛を実現させるべく神の子であることの信の従順を貫いた。そのように、この祈りを実現させるべく、つまり天のことと地のことを媒介すべく、帰一的に秩序づけるべく信の従順を貫いた。われらはイエスの十字架と復活なしに山上の説教を生きることができないように、二千年前のあの罪の赦しの出来事なしに、主の祈りを心から祈れないのである。

 われらの視点から語るなら、この宣教する方は宣教される方であった。リアルタイムに信の律法のもとに神の国を持ち運び福音を生きておられた。彼こそ主の祈りにおいて天と地を繋げるべくご臨在を求められるべきひとである。しかし、彼は肉の生のただなかで、リアルタイムにこの祈りを教えている。彼についてくる寄る辺なき群衆、ユダヤ人の立場に身を置く彼は、その肉の生のただなかでは、天の父にこう祈るよう教える。その背後には彼の信が揺るぎないものとして控えている。

 イエスはまず眼差しを天に向けるよう教える。御国とは天のことである。御心とはその天において実現されていることがらである。それらが地においても成るように祈る。これはとても素直で自然なことである。これ以上簡潔で直截な祈りは想定できない。ただひたすら天が崇められ、天の如くに地もなるようにという祈り以上に祈るべきことを人類はもたない。とりわけこの地上は多くの苦難と困難に見舞われており、そのような苦境の中で、それを乗り越え開放する力能ある方に訴えている。そしてそう祈るよう天の父の御子から教えられる。「求めよ。さらば与えられん。探せ、探せば見つかる。門をたたけ、開けてもらえる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。汝らの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように汝らは悪しき者でありながらも、自らの子には良いものを与えることを知っている。まして汝らの天の父は求める者に良いものをお与えになるであろう。かくして、人々が汝らにしてくれるよう汝らが望む場合に、その限りのすべてのものごとを汝らもまた彼らに為せ。これこそ律法と預言者である」(7:7-12)。これ以上に人類は何を必要としているであろうか。この地は天に支えられている。そして「われらの父よ」と呼び掛けるよう教えられる。

4罪の赦し

 天のことがらに続き、地上の生活のことがらとして、生存に必須な食物を求める祈りが勧められている。またわれらを試みに遭わせず、悪から救い出してくださいとは、自然災害や戦争や争いそして疫病や飢餓そして事故などに囲まれているわれらにとって、常に喫緊のことがらである。

 そして何よりもわれらの最も難しいことをクリアさせることによって天と地を秩序づけようとしている。それは赦すということである。「われらの負い目ある者たちに赦してしまっておりますように」と現在完了形で語られている。その都度負い目ある者また「われらにあやまちを犯した者」を赦してしまっていなければ、この祈りを日常に祈ることができないというハードルが置かれている。これこそわれらを日々新たにする。われらの心魂は刷新を必要とする。「明日のことを煩うな」における「煩う(merimna)」は「部分、分割(meris)」を構成要素にしている。心が煩うとは様々なことに思いが分断されていることを言う。

 主の祈りが山上の説教に基づく生を導く主導原理である。まず神の国と神の義である。神の意志としての律法はパウロによれば最も明確にはモーセとイエスを介して「業の律法」と「信の律法」として知らされているが、それらは二種類の神の正義を構成している(Rom.3:27)。神の国と神の義の成就が、神の聖性を崇めることとともに挙げられる。続いて、生活のこと、そして信にとって最も困難な試金石、ハードルと言える赦すことが挙げられる。ここでも「罪の赦し」ということばは見られず、元来「借金」も意味する「負い目」さらには、「失敗」や「失態」を意味する「あやまち」が用いられる。イエスは群衆たちに道徳的次元に留まりつつ、それを内側から突破するよう言葉の力により教え導いている。主の祈りを教えたことに続いて直ちにこの祈りに帰る。「もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」。それだけこの第五の祈りが主の祈りの隠れた中心であることが分かる。

 主の祈りはキビキビとしており、最も困難なことが日々の日常の祈りに織り込まれている。必要にして十分なことがらが簡潔に枚挙されている。それはただの六つである。隣人を愛するとか、自らが平安であるようにとか祈らずとも、「御心が成就するように」の一言に包摂されている。思い悩むという仕方での自我中心から解放されることの祈りである。その自己への執着から解放させるものが赦しの祈りであり、それがなされない限り、実はこれを祈れないそのような厳しいものである。イエスは招く、「疲れたる者、重荷を負うものわれに来たれ、汝らを休ませて挙げよう」(11:28)。そう言われる方である。われらを苦しめる方ではないはずである。

 祈りは神の国と義を求めるべく心を整えるものである。「天の父は求める者に聖霊をくださる」(Luk.11:13)と言われるように、神に聖霊を求め、清められるために祈りがある。主の祈りも心を神に向け、神からの憐れみとして聖霊をいただく、そのような父と子の交わりである。主の祈りを教えるイエスご自身はリアルタイムにこの福音を新しい契約を実現すべくこの地上の生を歩んでおられた。

 イエスは栄光を捨てご自身ひととなり自らを低くされたが、天の父は聖なる方であり栄光に光輝き、天高くいますがゆえにこそ、御子を栄光に引き上げ、一切を統べ治めたまう方である。「キリストは神の形姿のうちに属しているが、神と等しくあることを固執すべきものとは看做さず、奴隷の形姿をとり、人間たちの似様性になり、自らを空しくした。この方は型において人間として見出されており、は死に至るまで、十字架の死に至るまでご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-9)。神は十字架上のイエスをご自身の「現臨の座として差し出した」(Rom.3:25)。つまり、神は御子が苦しむ十字架をご自身がご自身の民とまみえる会見の場と定められた。これがエレミヤの言う新しい契約の成就であった。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導きだしたときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(Jer.31:31-34)。イエスご自身も言われる「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。

 罪の赦しがいかにして成立するかの理論は「贖罪論(atonement)」と呼ばれる。ここでその議論を十全に展開することはできない。「代償刑罰説(vicarious punishment)」、「身代金説(ransom)」そしてわたしが正しいと考えている「父と子の協働説(cooperative)」などがある。どの理論にも共通にある基礎は罪なき方が彼を十字架に磔たわれらの罪をわれらの代りに身代わりとなり贖ってくださったということである。身代わりということがいかなることか正しく理解されねばならない。神の前で神によりナザレのイエスは信の従順を貫き罪なき者であるという神の認識は揺るがない。罪なき方が罪あるわれらの身代わりとなりわれらの罪を担ったのである。父なる神はその信の従順を嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられた。もし父なる神が罪なき御子をわれらの罪の代りに十字架上で怒りを示し罰したということであるなら、そのような神は不義をご自身の子に犯してしまうことになるであろう。この代罰説は審判者が被審判者を罰するという「目には目を」の業のモーセ律法のなかで福音を啓示したことになる。福音は「律法を離れて、しかも律法と預言者により証されて」啓示されたのである(Rom.3:21)。他の説に、神は贖い代としての身代金を支払ったというものがある。ここでの問いは罪人を贖いだすべく神がイエスを十字架につけて「誰に」身代金を支払ったのかというものである。オリゲネスはそれはサタンに対して支払われたのであるが、サタンはイエスがあまりに清いために、キリストへの対応をもてあまし、神に返したという興味深い解釈を展開している。他方、協働説というものがあり、わたしはこれがパウロのものであると考える。

 パウロは言う、「時の充溢が到来したとき、神はご自身の子を女から生まれることにより、律法のもとに生まれることにより、派遣した。それは律法のもとにある者たちを贖うためであり、われらが子としての身分を受け取るためである」(Gal.4:4)。十字架の贖いの出来事は旧約を乗り越え新約を成就することであり、業の律法から信の律法に人類を導きだすことであった。個々人の誰が贖いだされたかはイエス・キリストの信を介したほどには誰にもしらされてはいない。ここで遂行されたのは無償の恩恵の注ぎである。父なる神はイエスの信の従順に基づく罪なき義を嘉みしたのであり、生贄を好んだわけではない。「わたしは憐れみを好み、犠牲を好まず」(Hosea 6:6)。十字架は父と子双方による人類への憐れみからくる救済行為であった。

 パウロの贖罪論を「父と子の協働説」と名付けよう。その一ヴァージョンをアンセルムスが展開している。アンセルムスは言う、「父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われをとり、汝を贖え」と言われた場合以上に深い憐みを考えることができるか」(Cur Deus HomoII18)。ここには代償刑罰はみられない。イエスは十字架上で信の従順を神に貫いた帰結として罪人たちの身代わりとなり罪を担うべく司法的次元で罪人の位置に自らつき、神はそれにより罪人を「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、その罪を十字架上についた御子が担ったと考慮することにより、和解を成立させた。「神は罪を知らざる方を罪と為した、それはわれらが[罪なき復活の主である]彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここで「彼において」の理解として、不義なる彼において義となることは想定されないため、「(復活によりその義を証した)彼において」が正しいと思われる。ここでは自発的に罪を担った罪なきキリストが甦らされたがゆえに、われらの罪は赦され義とされると語られている。

 イエスご自身はゲッセマネの祈りに見られるように、父の御心の奈辺にあるかを尋ね求めつつ、信の従順を貫いた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ。・・・父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、汝が望むようになりますように」(Mat.26:38-9)。神は御子が人類の罪を担うべく罪なきままに罪と成ることを認可した。神はご自身の視点から罪なき者を罪ありと同定したのではない。罪なき者そのままで十字架を背負うという仕方で罪人の位置につき罪人の罪を担うことを認可したということである。

 ここではこれ以上追及できないが、主の祈りはこの罪の赦しなしには心から祈れないのである。われらは祈りにおいても偽善者であり、偽りなのである。悔い改めよう、心から迫害する者のために、敵のために祈ることができるように。そのとき、われらは古きおのれから解放された新しい自己を見出すであろう。「キリストの愛われらに迫れり、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代りに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。彼はすべてのひとびとの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである。かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。かくしてもし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、新しくなった」(2Cor.5:14-17)。

 終わりに

 このような事情であるとき、われらの祈りは聴かれるのかという問いは、小さなものに見えてくる。人類は大丈夫なのである。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛された」(John.3:16)。

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