道徳次元の内破―山上の説教概観―
日曜聖書講義 「道徳次元の内破―山上の説教概観―」
2020.9.20
[録音はこの原稿をもとに自由に加えています]。
1序
新しい学期が始まりました。いつのまにか季節も秋めいて涼しくなってきました。日の出も日の入りもゆっくりとなってきました。コロナ禍において生活が制約されていますが、健康と生命にかかわることだけに、やはり慎重な対応が求められます。この国の医療と社会と学寮を崩壊させないということを念頭において、ウィルスに感染しているかもしれないという前提のもとに、留意して感染させないように密を避け、マスク、手洗いをするなどして生活していきましょう。
60周年改修工事はご協力のもと、もう少しで完了です。装いを一新し見違えるように美しくなりました。またエアコンやキッチン、風呂場など生活も快適になります。なによりも耐震壁により守ってもらえることでしょう。聖書の言葉に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労は徒労(むな)しく、主が城を護るのでなければ、衛士(えじ)の覚めおるは徒労しい」(詩篇127:1)とあります。皆さんも見て感じられたように、真夏の日々多くの方々のエネルギーがこの建築、改修に注がれました。わたしも彼らの働きに大きな感銘を受けました。きつい労働が敬遠される中、彼らは黙々としかも楽しそうにわたしどもの生活のためにうちこんでくださいました。そのことについて来月刊行の学寮ニュース9号に書きましたので一部紹介します。
「60周年改修工事:8月3日、二つの高気圧に覆われた力強い夏空のもと、築62年の男子棟改修工事が始まりました。仮設足場の気の遠くなるような上下左右運動の運搬、組立に始まり、この過酷な労働条件に耐え抜いた屈強な男たちが―スナフキン帽の黒装束の細身青年を交え―チームで学寮の改修に取り組んでいます。屋上には防水シートが美しくはりめぐらされ、外壁の汚れは高圧洗浄により洗い流され、養生に覆われた壁はシールと三重の塗装により見違える外観となっていきます。耐震工事では鉄筋枠に最後にグラウトが流し込まれ盤石の壁面が出現しました。
学寮の心(ソフト)に賛同くださる多くの方々の、次世代を担う若者への期待のあらわれとしてのご厚志がこのように具体的に形を成していきます。見えない所でのご労苦の果実により、建築現場の若者たちのエネルギーの迸りを介して、学寮は美しく甦っていきます。見ず知らずの作業員たちが汗吹き飛ばしながら学寮のハードを立ち上げていく。学寮の若者たちよ、立ち上がろう!多くの愛に支えられて学寮のソフトをそれぞれの仕方で実らせていこう。この時代にあってこの世界を美しい秩序ある構成に変革していこう」。
2 道徳的次元とその乗り越え
さてわれわれは山上の説教を4か月学んできました。そこではイエスは素手で、すなわち聖霊の力に訴えることも、奇跡をおこなうことも、さらには信仰の直接の勧めをすることもなしに、当時の伝統的な道徳観のもとで、言葉の力だけでその乗り越えを企てています。話はいかなる特別な前提もない、誰もがそこにおいて善悪の判断をしながら生きている道徳的次元だけに限定し、そこでの偽りをえぐりだし、道徳的次元の突破を図っています。とても勇敢な企てです。
ここではもういちど山上の説教5章にもどりイエスによる道徳的次元におけるモーセ律法の純化、急進化を確認します。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用します。5章で6回繰り返されます。古からの教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出します。
例えば、こう言われています。(参考http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/Matt.html)。
① 5:21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければならない。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡される。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれる。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まず汝の兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげよ。
② 5:27『姦淫してはならない』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯してしまっている。もし、右の目が、汝をつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまえ。というのも、からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからだ。もし、右の手が汝をつまずかせるなら、切って、捨ててしまえ。というのも、からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからだ。
③ 5:31また『だれであれ、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われている。しかし、わたしは汝らに言う。だれであれ、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させる。また、だれであれ、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯す。
④ 5:33さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。汝の誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。決して誓ってはならない。すなわち、天をさして誓ってはならない。そこは神の御座だからである。地をさして誓ってもならない。そこは神の足台だからである。エルサレムをさして誓ってもならない。そこは偉大な王の都だからである。汝の頭をさして誓ってもならない。汝は、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからである。だから、汝らは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言え。それ以上のことは悪からくる。
⑤ 5:38『目には目を、歯には歯を』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。悪い者に手向かうな。汝の右の頬を打つ者には、左の頬も向けよ。汝を告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやれ。汝に一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行け。汝に求める者には与え、借りようとする者には背を向けるな。
⑥ 5:43『汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め。』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ。それでこそ、天におられる汝らの父の子どもになることができる。天の父は、悪人にも善人にも太陽を上らせ、正しい者にも不義の者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いを持つであろうか。取税人でも、同じことをしているではないか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのか。異邦人でも同じことをするではないか。だから、汝らは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
3 ナザレのイエスにおける信の従順による律法の成就
今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識に抗しがたい魅力、引力がある。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。ナザレのイエスの一挙手一投足には人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。
イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者そしてこの世の何ものによっても満たされない、その霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清い者たちが神のお好のみなのである、愛しい者を失い悲しむ者とともに。天の父はナザレのイエスを「わが愛する子、わたしは嘉みした」(17:5)と祝福したが、その八福を語る方は実はリアルタイムにその祝福を生きる方であった。彼の言葉はひとの心に一度届くともはやそこから逃れられない「権威をもって」(7:29)語られた。
いかにも憎悪即殺人、色情即姦淫、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動と共に常に身近である人々がいる(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安と疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任の名のもとに歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァルの部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいる。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座である。彼は言う、「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。そこには信仰の直接の勧めも、聖霊の賦与も、奇跡の執行もない(「信」の派生語が一か所のみoligopistoi「信小さき者たちよ」(6:30))。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に身を置き、対人論法によりその不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘し、モーセ律法(業の律法)を純化、急進化した新しい教えを言葉の力のみによって伝える。
その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において最大の利益が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により「現に」善行と報酬のあいだには等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。イエスは信に基づく正義を打ち立てるが、ここでは道徳的次元のみにて比量的、応報的正義をつきつめ、それ自身の議論領域のなかでその種の正義を乗り越え突破する。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において支配や操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
レビ記の記者が「汝の隣人を、汝自身を[愛する]の如くに、愛せよ」と命じる時、愛は等しさ、例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するものであることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜べ、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである(読者におかれては各位の敵を無理にでも思い浮かべて頂きたい)。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。
人類は山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は防衛を不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。
しかし、イエスは言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を福音書に報告されている彼の生の歩みの中の今・ここにおいて遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,26)と呼ばれるが、そこでは各自が偶像を拝むか拝まないか、偽るか偽らない、貪るか貪らないか等という二者択一の一方を自ら遵守することにより正義であると神に看做される。他方、新約における「信の律法」(Rom.3:26)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であったとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。神が提示する戒めに自らの業による応答かそれとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信による応答か、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている。
業の執行においてパリサイ人に優ることが求められている。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。イエスは神の律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけており、イエスは義と愛と信これら三つのなかで、不可視な神に向かう途上の生における根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。ナザレのイエスの信に基づく正義と愛の働きによる神とひとの和解の理論的解明がパウロの課題であった。
天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(22:36,cf.「律法の冠」Rom13:9)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも廃れてはいないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。その言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだ。
ナザレのイエスは自らの生命をかけて父なる神に自ら神の子であることの信の従順を貫き、そして神の子であることを証することは敵である罪人を贖うべく、罪人が彼を十字架に磔たが、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げることであった。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛した」(John.3:16)
その和解者はひとの弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学べ、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の煩いはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。
イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。
人間社会が自律したものとして自らを制度化、律法化しさらに科学技術を促進することは一見人間の知性の証であるように見えるが、これらは神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くする一種のパリサイ主義に陥る危険に常にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの理解する公平さ、快適性、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を正当化するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しを忘れてしまう。肉の欲につけこみ誘うものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹」を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom.ch.7,Phil.3:19)。
ひとびとは日常の労苦に絡み取られるとき、また自らの欲望に囚われるとき、神の国を仰ぎ見ることをいつの間にか忘れてしまう。それゆえに生の一切がそのもとに秩序づけられるヴィジョンのもとに日常の一切が常にふさわしく位置付けられることが不可欠となる。心の在り方所謂心情を定まりなきものとして無視し、責任倫理の名のもとに、自らを吟味せず、いきあたりばったりの敵と戦うそのような国益や私益に隷属することは定見なき無思慮な企てであり、一定の舵取りができず、周章狼狽することになる。心情倫理のもとに責任倫理をも包摂する人間と世界の理解が求められる。聖書的に言いなおせば、神の国の信と希望のもとに、愛に収斂する純化、急進化させられる業のモーセ律法が秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。
「目には目を」(5:38)の比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもと先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」陰徳は一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。神は御子の従順の信を介して信に基づく義を知らしめている。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示においてひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。