「断食」から野の百合空の鳥へ(1)

                         日曜聖書講義 2020年10月4日

序にかえて

(「生き抜かれた山上の説教」 (登戸学寮ニュース9号 「聖書の言葉」から)

「座右の銘」とは常にその言葉に立ち返り自らを顧みる生の根源的視点である。小学生の頃から筆者の心の内奥から飛び出してくる言葉(群)はイエスの山上の説教(Mat.5-7)であったと今にして思う。野球でボールをそらすと、父が後ろから「探せ、探せば見つかる」(7:7)と声をかけた。材木屋の我家には建築資材に事欠くことはなかったが、母は日曜学校で「岩の上に家を建てた賢者」(7:24)の紙芝居を見せて、「土台をしっかり立てましょう」との明るい声を、人生は「天国への入学試験」とともに思い出す。今頃亡き母はどこかで微笑んで「信じた通りよ、「明日を煩わず」「狭き門から入りなさい」(6:34,7:13)」、それとも一層ニコニコして「ごめん、間違いだった」と言っているのであろうか!?

 この四か月学寮では山上の説教を学んだ。天父が祝福する人々は、戦後高度成長期の競争的な時代精神と何とも相いれなかった。子供心に二つの世界の認知的不協和を痛みとともに感じていた。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清い者たちが神のお好のみなのである、愛しい者を失い悲しむ者とともに。イエスご自身が「わが愛する子、わたしは嘉みした」(17:5)と天父に祝された。その八福を語る方は実はリアルタイムに祝福を生きる方であった。彼の言葉はひとの心に一度届くとそこから逃れられない「権威をもって」(7:29)語られた。いかにも憎悪即殺人、色情即姦淫、愛敵即無抵抗などは良心・共知(con-science)の痛みの発動と共に常に身近であった。この春初めて聖書に触れた寮生諸氏にも、その言葉は不思議な力により心に格納され、突然良心が疼くこともあろう。

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。そこには信仰の直接の勧めも、奇跡の執行もない。彼は当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に身を置き、対人論法によりその不徹底さを指摘し、モーセ律法を急進化した新しい「教え」を言葉のみで伝える。パリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三つ心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「既に報いを受け取っている」(6:5)。「報い」は、地における善行への報酬で「既に」等しさが成立しており(さらに天は過剰)、功利主義的理解(最大利益即福)よりもまず比量的、応報的な等しさという正義を意味する。

 比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。右手で為す善行を左手に知らせない隠徳は一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる。恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄すべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。その言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、またそれ故に死んだ。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげわたし[の歩調]から学べ、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは信である。この比量不能な恩恵(御子における信に基づく神の義の啓示)においてひとは良心の宥め、平安、柔和を得る。

1イエスの鋭さ、深さそして高邁さ

 山上の説教はイエスの志の高さと偽りの追求の鋭さとそしてこの地上で生きることの喜びを伝える。ここには聖性と高邁さが満ちておりそして詩人のインスピレーションのもとに力強い推論と構想力が縦横に展開される。神の国と神の義に集中するその教えは生の一切をそこから秩序づけ天と地を繋ぐものであり、宇宙論的な構想が描かれている。これまでモーセ律法の急進化、純粋化において舌鋒鋭いイエスを主に学んできた。言葉の力のみで、われらを神の完全性に倣うよう高みに導こうとする気迫におそれを抱いてしまうそのような姿を主に描いてきた。山上の説教において彼の純一さと鋭さが前面にでているけれども、他方、イエスは子供達、弱い者たちを愛した優しさ、柔和さを兼ね備えており、そして実はそこから山上の説教も語られており、少しづつ彼のこの側面についても学んでいきたい。イエスにはひととしての高度のバランスが見出され、心魂の根底から全方位的にそして情熱を伴い聴衆を引き付けている。さもなければ、二千年も読み継がれ、彼についていく者を生み出すことはなかったであろう。

2テクスト

 今日のテクストは6章16節から34節である。「汝らが断食するとき、陰鬱な偽善者たちのように成るな、というのも彼らは自分たちの顔を醜くするがそれは人々に断食しているように見えるためである。わたしは汝らに言う、彼らは現に報いを受けとっている。しかし汝が断食するさいには香油を汝の頭に塗りそして汝の顔を洗いなさい、それは汝が人々に断食しているように見えずに、隠れの内にいます汝の父に見えるためである。そして汝の父は見ておられ、隠れの内に汝に報いたまうであろう。

 汝らは地上に汝らにとっての宝を積むな、そこでは虫と錆が浸食してしまいそしてそこでは盗人が押し入り盗んでしまう。天に汝らにとっての宝を積め、そこでは虫と錆は浸食せず、そしてそこでは盗人は押し入りもせず盗みもしない。というのも、汝の宝があるところ、かしこには汝の心もあるであろうからである。

 身体の灯火は目である。だからもし汝の目が健全であれば、汝の身体全体が輝くであろう。しかし、汝の目が悪しきものであるなら、汝の身体全体が闇となるであろう。かくして汝のうちにある光が暗いものであるなら、暗さはどれほどであろう。

 誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない。

 そのことの故にわたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝らは何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養っていたまう。汝らは彼らよりも遥かに優ったものであるのではないか。汝らのうち誰が煩うことによって自分の身の丈に一キュービット[50センチ]足し増すことができるのか。また衣服のことで汝らは何を思い煩うのか。野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。かくして、汝らは「われらは何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言って思い煩うな。というのも、これらすべては異邦人が熱心に求めるものである。汝らは、しかし、まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(Mat.6:16-34)。

3断食を介して見える生活の煩いとその乗り越え

 「断食する(nēsteuō)」は「食べる(esthiō)」の否定語であるが、生存欲求の最も基本的な食べることを否定する営みはとても禁欲的、宗教的な儀式ないし実践であるという印象を与える。現在、一方では空腹に苦しみ断食どころではない人々が多数おり、他方、断食が語られるとすれば多くは健康上の理由による人々がいる。空腹時は毒素の排出がおこなわれており、健康に寄与するという報告がある。日本という金銭さえあればありつくことのできる食事についてわれらはどれだけのメッセージをこの断食の教えから聴き取ることができるであろうか。イエスは荒野の誘惑を受けるさいに40日40夜、即ち十分な日時を断食したと報告されている。知り合いの僧侶がアウシュビッツで完全断食したおり、10日目に或る女性が涙ながらに暖かい牛乳をさしだしという。それを誘惑と退けることなしに、彼は飲んだ。もし飲んでいなければその日のうちに視力を失っていたかもしれないと彼は後に言っていた。断食はせいぜい十日間が限度であり、それほどに栄養摂取は言うまでもなく身体に甚大な影響を与える。

断食と聞くだけで、嫌悪を感じる人もいよう。それほどまでに食は生存の基本的な欲求であり、生がそしてその喜びが脅かされるのを感じる。グルメ番組は賑わい、どこまでも美味を求めての料理の追求は飽くなきものであり、「何を食べるか煩うな」と言われると、もう既にキリストの弟子であろうとすることから脱落してしまう人もいよう。

 ただ、イナゴを常食した洗礼者ヨハネとの対比において、イエスご自身「大食いにして大酒のみ(phagos kai oinopotes)」(Mat.11:19,cf.Luk.22:17,30)という悪評を播かれることもあったようである。これは彼が罪人と呼ばれる人々と親しく交わったという状況のなかで、噂されたことであろう。確かに、彼は断食をしていなかったと報告されている。洗礼者ヨハネの弟子がイエスのもとにきて、「われらとパリサイ人は断食するのに、何故汝の弟子たちは断食しないのか」。それに対するイエスの応答は「新郎の子供たちは新郎が彼らと共にいる限りはまさか悲しむことはできまい。しかし、新郎が彼らから去るとき、そうすればそのとき彼らが断食する日々が来ることであろう。誰も新しい布切れを古い衣につぐことはしない、補った布切れはその衣を破って、綻びは一層甚だしくなるからである。新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:14-17)。これは旧約と新約の関係にあてはまる。業の律法のもとに福音は入れられない。業の律法を破ってしまうであろう。福音は信の律法に入れられる。

 彼がこの地上で弟子たちと共に生活する日々は限られていた。彼は弟子たちと苦楽を共にしていた。例えば彼は弟子たちを伝道に派遣し、その成果が「主よ、汝の御名により、悪鬼もわれらに従います」と喜び勇んで報告されると彼は「悪魔が稲妻のように天から落ちるのが見えていた。視よ、わたしは汝らに蛇、蠍を踏みしだき、仇のすべての力を抑える権威を授けたので、汝らを害するものはなくなるであろう。しかし霊の汝らに服するを喜ぶな、汝らの名の天に記されたるを喜べ。そのときイエスは聖霊により喜んで言う、「汝、天地の主なる父よ、賛美します、汝はこれらを知者や賢者から隠し、幼子に顕わされました」(Luk.10:17-21)。

 この新郎とのういういしい日々の記述からまず明らかなことは、イエスとその弟子たちは少なくとも頻繁に断食をすることはなかったことである。それからイエスは断食を喜びとではなく悲しみと結び合わせていることである。別れが来た時には悲しみの表現として断食するであろうことが預言されている。

 他方、イエスは戒めている、「汝ら自ら心せよ、汝らの心は酒宴と酩酊によりそして生活の煩いにより鈍くなり、かの日[終末]は突然汝らのうえに来るであろう」(Luk.21:34)。いつも目覚めていることが求められている。衣食住の生活は誰もが求める心身のケアであるが、イエスはそれを人間にとって最も重要なことがらにより秩序づけることを教える。その秩序づけは6章において二人の主人に仕えることができないこと、それから生活の煩いを一旦わきに置き、「神の国とその義」とを求めることにより、遂行される。そこに向かわず、断食が神の国とその義への心魂の在り方を妨げ、例えば誇りにつながるようであれば、断食しないほうがはるかによい。(続く)。

 

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