秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(10:最終結論1(2の1))聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(10:最終結論1(2の1))
聖書の死生観
―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―
千葉 惠
「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう、主の御名は褒むべきかな」(Job.1:20)
「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(Luk.24:2-6)。
1 死生観と神観念
1.1生と死の動的な関わりの探求
2021年夏、疫病の蔓延で医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人生崩壊の兆しさえこの国に広がった。人類が生存する限り問われる死が新たに問われた。死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事であるが、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。そのなかで対立する二つの立場を突き詰めると、一方で一切を正確に知り公平な審判を遂行する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論となり、他方、個々人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論となる。双方とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてひとは知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見える。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後神の前に立ち何らかの審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択するという生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めない限り、事実上、無神論に吸収される。
無神論に基づく死生観はここで展開する有神論の論述の否定として理解される。永遠の生命など存在せず、死後、肉体は自然とその生態系に還元されていくという見解である。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうして死について知っているだろうか」と応答した(『論語』11-11)。孔子の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというものであり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。
双方を分断したうえで、生の側から死を推し量ることがある。ひとは自らの過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切の悪しきことの消滅であり、死後は、神ありなしに拘わらず、生の持つ過酷さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでないかもしれない。これに対し、双方を包括的に捉えるとは、生と死は何らか連続的であり、死が一刻一刻迫っているという事実こそ生に意味を与え、その生の内実が死に飲み込まれない肯定的なものである限り、死はその生の延長線上に肯定的なものとして開かれると捉える。その意味で死の何らかの理解が生を構成しており、生の何らかの理解が死を取り込んでいる。
生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断的な思考を免れることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求める。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。生死を支配する神は人類の歴史においてそのような機能を担うものとして看做されてきたのであり、信じること、或いは懐疑においてであれ有神論を真剣に考慮することが生死を真剣に受け止めることを可能にさせる。突き詰めれば、宗教において生きて働く神を相手にするのでなければ、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験のフィードバック(送り返し)を介して全体としての自己理解を形成深化させることである。死を支配する者があるという信なしに、死は不可知の闇に留まる。
1.2 聖書の死生観―旧約から新約への飛躍―
本稿において聖書が伝える死生観を紹介、吟味する。コンコルダンス(字句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれぞれ約数百回見出すことができる(『 コルコルダンス 新共同訳聖書、聖書語句辞典』(木田、和田監修 キリスト新聞社 1997、以下新約からの引用は私訳を用い、旧約からの引用は基本的に日本聖書協会『新共同訳』(1987)を用いる)。二千頁の一つの書物において均せば二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていることになる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、他方で「ひとの生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及はアダムの末の誰もが語るであろう一般的な理解である(Prov.11:19,Lev.10:9,Ps.103:15,Job.14:1)。
同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うしたが、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(Gen.25:8,15:15)。エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。旧約において「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki.2:10)という表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。
この「眠りについた」という表現はエデンの園における「生命の木」に暗示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚醒の可能性を示唆していると言うことができる。この表現は新約における義人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測される。もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれたとえ生物として土に返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられることになる(Mat.27:52、1Cor.15:6,18,20,51)。
The Bookと呼ばれる人類の歴史で最も読まれているこの書物は一つの出来事を契機に二つの異なる文書が連続的な歴史の展開として編集されている。イエス・キリストの復活即ち死者たちのなかからの甦りを契機にして、旧約聖書と新約聖書の死生観は断絶と呼べるほどの飛躍を遂げている。新約において「永遠の生命」と呼ばれるものの在り処が歴史のなかで全人類に向けて神により知らしめられたと報告されている(John.3:18,Rom.5:21)。新約との著しい対比として、旧約において来世についての思弁や幻、永遠の生命の獲得とその希求の記録がほとんど見られない。その理由を探りつつ、人間の永生の可能性を基礎づける(神学的には)「ただ一度」(Rom.6:10)限り生起したと報告される死者の復活、甦りの事件が両文書の連続性と飛躍を道理あるものと理解させる、そのような異なる記述を許容する同一の神についての理解を深めたい。
新旧約を貫く神の特徴づけは明確であり、唯一の神ヤハウェは宇宙万物の創造者として時空の外にあり、永遠の現在において過去も未来も現在のこととして了解している全知にして全能なる宇宙の栄光である(Gen.1:1-2:4,Ps.90:4,91:1,139:1-24,Rom.1:19-20)。双方の相違としては、神は自らの愛の相手として人間を創造したが、楽園追放後の人間との関わりの仕方即ち媒介が御子の出来事を契機にして判別される。一方、旧約においては天、主の使い、預言者そして洪水や疫病等自然事象を介してその都度の今・ここにおいて具体的な状況にある人々に働きかけていることが記録されている(「天」は旧新約全体で約650回使用のうち「天から」は旧新約それぞれ約60回、「御使い」は旧約で約50回、「天使」は新約で約200回使用)。預言者たちは人格的な存在者として神の言葉を取次ぐ。定型表現「万軍の神(主)は言う」は預言者たちにより150回以上用いられ神の認識や判断が取り次がれている。神の審判の預言は至るところに見いだされる(eg. Hosea 7:13-8:14, Isa.30:12-14, Jer.5:14-17)。ユダの王ゼデキアはじめ高官たちは紀元前6世紀に70年間にわたりバビロンに拘束された(Jer.25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたし(神)はエルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」(Jer.9:6-10)。
他方、新約において、神は根源的な仕方で神の子であり同時に受肉により真の人の子である和解の執成し手イエス・キリストないし聖霊を介して関わっていると報告されている。ナザレのイエスが自ら天父の子であるという「神の子の信」、信の「従順」を貫きその都度の今・ここの働きにおいて完全に神の義と神の意志、計画を実現したことにより、神により御子として嘉みされ甦りを与えられたと報告されている(Gal.2:20,Phil.2:8,Rom.4:25)。そのことにより、イエス・キリストは父なる神の信義の啓示および神の人間認識、判断の普遍的な仕方での啓示の媒介者とされる。そしてこれは父と子の協働の知らしめであるが故に、これは最も明白な神の自己顕現である(John.Rom.3:21-26,2Cor.5:19)。
かくして、この自己顕現に基づき旧約における自然事象また族長、預言者を介した神の諸顕現を理解することは道理あるものとなる。根源的かつ普遍的に知られる父と子の協働作業のほうが具体的な状況、とりわけ窮状にある個々人に受け止められた限りにおいて記述される神よりも純化された仕方で神の特徴およびその働きが理解されうるからである。さらに、御子の派遣は然るべき時に決定的な仕方でなされたとする限り、その充足の時に至る準備期間として他の一切の顕現は理解されるからである。永遠の生命の知らしめの準備として旧約が位置付けられる。
両文書の報告において同一の神が自らの隠れと顕現において歴史を一直線に展開させていると理解される。パウロは450節からなる「ローマ書」において旧約に先駆的形態のある信に基づく義・正義がモーセを介した旧約の中心的啓示である業に基づく義・正義よりも神自身にとってより根源的であることを論証する。彼はそこでキリストにおいて成就された福音(信義論、予定論)を旧約から60節(箇所)以上すべて肯定的に引用することにより裏付けている。救世主の復活の知らしめこそがそれまでの旧約人の知らされざるなかでの苦闘と待望を特徴づける。彼らは一回限りの歴史の進行のなかで政治的メシヤの出現であれ他の何かであれ救いを暗中模索していたが、自ら知らずにも或いはわずかに自覚的に復活による永遠の生命を求めていたことが明らかになる。
2 アダム―その組成と堕罪―
2:1 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素
人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことによりひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵でひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息(pnoē zōēs)を吹きこんだ。そして人間は生きる魂となった」(Gen,2:7)。G. von Ratは言う「用いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまったく無媒介的な吹きこみによって「生きもの(Lebewesen)」になった。この七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定義を含んでいる」。G.v.Rhad,Theologie des Alten Testaments 7 Auflage Bd I,S.163 (Kaiser Verlag München 1978).
人間は地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されていることは最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。そのことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(『信の哲学』第二章一節四参照)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象とする人間と聖書の伝統のなかで新約の使徒パウロがナザレのイエスの生涯に基づき解明しようとする人間は少なくとも同一の質料的な基礎を持つということである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor.15:45)と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後のアダムとしてのキリストをさらなる新たな永遠の生命の原理となる「霊」として提示している。
人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が生命原理として最も基礎的なものとして位置づけられる。そのうえに「心(kardia)」に内属する感情や思考、信念等の心的事象が生起しさらには「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する(Rom.7:24,2Cor.4:16)。パウロにおいては「人間」は「最初の人間」とその生物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ。第一の人間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった。第二の人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor.15:44-48)。
この事態は神話的には鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、現代科学がまだ解明できていないことがらを或いは異なる仕方で表現していることがらをパウロはすでに把握している可能性を否定しない。パウロは「霊(pneuma)」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約は帰結主義をとっており、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認されるとき、その証があると主張される(Luk.7:44,Gal.5:22)。信が聖霊を受動する心魂の根源的部位において生起する限り、つまり正しい信である限り、真偽の知識に関わる理性の逸脱である狂信からも、心魂の人格的徳(善悪)に関わる身体的なパトス(受動的情念)の逸脱、過剰(例、恐怖)である迷信からも自由とされ、賢者となり聖者となるからである。
アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるのか。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実質的には霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであり、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受けとる部位、「内なる人間」として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるもの、反応しうる部位が内在していると理解すべきである。
実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け取らない。というのも彼には愚かでありそして知ることができないからである、といのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor.2:14)。霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握した者であり、人間は肉の魂的な生命に還元されないことを知っている。注(生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について即ち聖書が展開する心身論について、より詳しい議論は『信の哲学』第四章パウロの心身論))。
2:2堕罪とその影響―「善悪を知る木」と「生命の木」―
これらは誰もが持つ心魂の態勢、働きであると聖書は主張する。一方で、生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的な心魂のうえに注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen.1:31)。自然的なものは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自然であり本来的である。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(Gen.1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然のままに祝福されたものであったであろう。
神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせた。最初のひとは園の木の実を自由に食することが許されていたが、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と警告されていた(Gen.2:17)。彼らは「神の如くになる」(3:4)という蛇の誘惑に負けて、この木の実を食した。すると目が開け裸であることを恥じた。ルターは「罪とはおのれの内側に曲がってしまった心である」と言う。彼らは神から自律した行為主体として善悪を判断して生きる道を選んだ。ひとは「啓蒙」と呼ぶでもあろうが、神の視点から言えば、従順の中での善悪の識別を介しての道徳的鍛錬は嘉みされたであろうが、神から離れての啓蒙は背きであり罪であった。神は「塵にすぎないお前は塵に帰る」という仕方で自然的な生物的死を生命維持の労役とともに罰として与えた(3:19)。
楽園追放の理由は彼らが「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」となる恐れがあったからである(3:23)。これは時満ちて御子の派遣を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。なぜ人類には初めから永生が明らかな仕方で与えられなかったかが説明されねばならない。
ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能をその創造において所有していた。少なくともそれらが然るべきときに神から与えられたさいには、それらの実を食し消化するする力能を備えていた。エデンの園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼らは園を追放されたのであるから、それ以前も以後も彼らが食する力能を失ったわけではない。とはいえ、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木を食することが許されていたかもしれないが、最初の人間には許されなかった。
人類はその後もこの力能を所持していると看做すべきことは一つの民族の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の復活が生起したことから確認される。堕罪後人類の歴史は自然的制約というこの与件のもとで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。生物的死が単に自然事象であり神への背きの罰であるという認識の欠如こそ神への背きを示しており、悔い改め立ち帰りがその都度求められている。それが原罪の持つ波及範囲の最も確かな理解である。(註 カトリックとプロテスタントにおいて最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論争がある(『信の哲学』第八章、九章第二節一)。カトリック教会は4世紀ヒエロニムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされたVulgata版を1970年のNova Vulgataにおいてアダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している。罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達されるという類の議論はなされえない(『信の哲学』第三章)。遺伝罪という理解は既に克服されたとして、人類はすべて神の前に罪を犯したと理解されている。アダム以来、ひとびとはずっとアダムを「模倣」(ペラギウス)してきたと理解される。或いは、「模倣」という言い方が躓きを与えるとすれば、神の前に一度は嘉みされなかった者として振る舞ってきたことになる)。
3神が生死を支配する
―旧約における確かなものごとと知らされざるものごと―
生物的死はこのように聖書において罪の罰であるという基礎理解のもとに、旧約における来世、永遠の生命の希求の記録の欠如についていかなるものとして理解しうるか考察したい。旧約人はアブラハムの信とモーセ律法により鍛えられることとなる。彼らの歴史における神の意志の明確な知らしめは信仰に基づき義とされたアブラハムへの子孫の繁栄の約束と信仰に基づきエジプト脱出を導いたモーセへの十戒に見られる。この恩恵に絶えず立ち返ることは彼らのあらゆる神との関わりの規準、礎石となった。旧約の義人の系譜が信仰に基づくものであったことは「ヘブライ書」で旧約人14人の言及のもとに記録されている(11:1~40)。
モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。・・汝の神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(Exod.20:4-7)。
生命と死は神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし[モーセ]は今日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。・・汝の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増える。・・もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるなら、・・汝らは必ず滅びる」(Deut.30:15-18)。モーセは偶像崇拝に陥った民を一日で三千人処刑して、神の言葉を伝達した。「わたし[神]に罪を犯した者は誰でもわたしの書から消し去る。・・わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」(32:28,33-34)。
神が唯一であり他のいかなる神をも拝するなという唯一神の顕現とその神の名をみだりに唱えるなという戒めはイスラエル民族の思考と行動を支配した。神になずむことへの禁止は神への畏れのなかで死後への勝手な思弁や要求をブロックする。さらに口寄せや霊媒を通じての死者との交流の禁止は神から知らされていない事柄に対する思弁や希求の禁欲を強いている(Deut.18:11,Lev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4)。
彼らの思考の枠はアブラハムの約束の成就への信とモーセ十戒の遵守による祝福と懲罰のもとに定められた。それはちょうど厳格な親の訓育のもと真面目で規範意識の高い子供が育つことと類比的である。パウロによれば、厳格な律法主義者には「誇り」が残り信に至らない可能性が指摘されている(Rom.3:27)。それでも、どのような養育環境にあっても人間が人間である限り共通する心魂の働きである感情や憧れ、思考そして信念を抱いている或いは何らかの心魂の法則性のもとに心的事象は生起すると想定することは道理ある。
ここで旧約における死生観をめぐって彼らの特徴的な理解を幾つか挙げる。(a)生と死一切が神の支配のもとにある。預言者エゼキエルはバビロン捕囚のただなかで神の言葉を取次ぐ、「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァルの侵攻を預言し神の言葉を取次ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer.21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl.3:1-2)。
(b)神は生物的死や洪水、隕石の落下そして疫病など自然的事象を介して自らの意志とりわけ懲罰を知らしめる。(c)アブラハムは彼の子孫の繁栄に対する神の約束を信じ、それにより神と正しい関係にはいった。旧約においても信仰義認の系譜がその民族に対する神の祝福、肯定的な交わりの源泉である。(d)神を信じ畏れモーセ律法を遵守する者には祝福が与えられる。永遠の生命希求の代替として、指導者たちに見られる長寿とその祝福は定型句「眠りについた」により表現されている。(e)祝福と懲罰の前提として、ひとは誰もが自らの責任ある自由のもとに生きており、神に背くことも立ち帰ることもできる。ただし、楽園追放の与件のもとで立ち帰りが常に必須事項となる。
ここでは(b)自然事象が神の意志を媒介するその擬人化、自然化について考察する。例えば、人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引き起こしたと報告されている。「神はひとを創造したことを後悔し、心を痛めた」(Gen.6:6)。神はノアの家族を生き延びるように箱舟の建造を命じるが、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。
またソドムとゴモラの町がその悪に対する神の怒りのもと硫黄の火により滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究により紀元前1650年頃死海近辺のヨルダン川東岸における隕石の落下であることが判明しつつある。ソドムについて神は三人の使いを介してアブラハムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大きい」(Gen.18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼすのかとソドムの都のために執成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しかし、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。
ダビデの時代にイスラエルにおいて北の端であるダンから南の端であるベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている(2Sam.24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、「もう十分だ、その手を下ろせ」」(24:16)。
この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化されており、意見を変え得るものとして宇宙の栄光を捨てた人間的な神として描かれている。しかし、新約の視点から言えば、これらは真の媒介者キリストを知らない者たちへの神の憐みの表現として理解される。宇宙の栄光である神は自らが理解されるべく、自然事象を介して人間と関わる。このように旧約においては神についての普遍的な理論化は遂行されることはなく個々の神とひとの今・ここの人間的な交わりが記録されている。かくして、旧約の神は神とひととのあいだを分けない仕方でその都度の今・ここにおいて関わる「エルゴン(働き)の神」と特徴づけられよう。