秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(9)―旧約における媒介者の不在―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(9)―旧約における媒介者の不在―
2021年11月21日
聖書箇所 ルカ24:1-38 (新共同訳)
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
7.1 はじめに―旧約から新約への飛躍(復習)―
旧約聖書から新約聖書への飛躍は著しい。これはあたかも洞窟の闇の世界にいて手探りで行く手を探していた者が外に出て光輝くガリラヤの丘で春のおだやかで清新な風を身に受けるそのような情景への転換である。旧約と新約のあいだにはイエス・キリストの出来事が生起した。このコントラストを八回にわたる連続講義で確認してきた。
この秋このキーパーソンを介して劇的な変化を遂げた人類の生と死の理解を学んできた。最初の人間の神に対する背き以来、人類は常に反抗し、背くその事実が伝えられている。この悲惨のなかで、神はモーセを介して律法を与え人類を正しい方向に導こうとしたことが報告されている。同一の人類の歴史はイスラエルを選んだ神の眼を通して理解するとき、生物的死は審判となり長寿や民族の繁栄は祝福となるが、それは神への立ち帰りのもとでの祝福こそイスラエルの民の目指すものとなった。道徳的規準により歴史を導く神の祝福と罰は勧善懲悪とも言える単純なものである。他方、イスラエルの祝福の系譜を支えるものは彼らの信仰であった(秋の連続講義(6)10月31日参照)。アブラハムは神の約束のもとに苦難の末に与えられたイサクを捧げる、そこに見られる生の一切を神への信のもとに遂行するその根源的態度が祝福された。モーセの「業の律法」とアブラハムの「信の律法」の関係づけこそ、この民の追い求めるものとなった。また課題であった。
彼らは律法と約束への信のもとに歩んだが著しい制約のなかに置かれた。旧約の神はとても人間的である。なぜなら御子の受肉による神とひとの媒介者が不在であったからである。人間にもわかるように、神が嘉みする人としての在り方、道徳を教えた。宇宙の創造者にして栄光である神は時間的な制約を受けているかの如くに寛容や忍耐そして後悔等人間的な心の動きを共にする者として描かれることを許容している。さもなければ、選びの民イスラエルは神の意志や嘉みを理解できなかったからである。旧約人は自らの生存と繁栄、民族の繁栄を神に求めた。彼らは自らの永遠の生命を恰も当然の所有物であるかの如くに振る舞うことは、決してできず、嘆願することさえほとんどなかった。ひとの本来的な願いは時代を超えて同じであり、新約から見れば神の計画も罪と死の乗り越えである以上、預言者や詩人は時折、永遠の生命の預言と希求を記録してはいた。旧約人はそのつどそのつど恩恵を受けて感謝と賛美を捧げたが、基本的に自らの外に救いが、永遠の生命の在り処が明確に知らされてはいなかったため、心魂の内面の探索、表白そして希求に時を費やさざるをえない運命にあった。
旧約人は死後を顧慮することは禁じられていた。あの世と交流をはかる霊媒や口寄せはその存在を認められず忌避された。換言すれば、彼らは死後についての神の意志について明白には知らず、自信がなかったのである。新約では生も死も天も深淵もイエス・キリストの出来事との関連で理解されるにいたる(Rom.10:5-13)。
さらに旧約人はペンテコステのように神からの聖霊による平安と喜びのなかで共同に一体感を持つことを経験させられることはなかった。彼らの外に御子を介して明白に啓示された共通の知識を共有することはできなかった。シナゴーグではモーセ五書や預言書、詩篇等が朗読された。過ぎ越しや仮庵の祭りなどにおけるトーラー(律法)を与えられたことの喜びや賛美はあったが、「キリストの叡知」(1Cor.2:16)に基づき神の意志を知り共有することも、集会全体における聖霊の注ぎによるキリストに連なる有機的な交わりにおける平安と聖化を経験することもなかった。詩人のごとくに基本的に一人で神に賛美と栄光を帰しつつ、憐みを求め、虐げる者からの解放を願い、自らの救いを求める、そのような暗中模索の日々であらざるをえなかった。そこには当然神の憐みに具体的に触れ、喜びと賛美を捧げることがあったことは決して否定されない。
これらは新約の視点から見た旧約人の特徴づけである。もし御子の派遣がなかったなら、人類はずっと擬人的な神と個々人の生のアップアンドダウンのなかで呼びかけを続けねばならなかったであろう。我等の外に明確にわれらと人類全体の救いが明らかに建てられたという主張は決して為されないままであったであろう。この状況は新たに知らされたものから、それまで知らされていなかったものどもを確認する営みである。そして、それまでの自らの無知に衝撃を覚えるとともに、どんな暗き世界を生きて来たかを確認することとなる。それはあたかも日本が明治期以来哲学を輸入して、或る大学では最初にはいったドイツ観念論やマルクス主義そして実存主義のみが哲学として講じられていた時代に類比的である。それしか知らされなければ哲学とはそのようなものだと思い込まざるをえなかったが、ヨーロッパには他にも豊かでより健全な思考の営みがあったのである。われらは新しいものとの出会いなしには、これが人生であるという思い込みのなかで生涯を過ごすことになるであろう。探求が求められるゆえんである。「探せ、探せば見つかる」。
旧約においては今・ここで生きて働いておられる神への具体的な呼びかけは見いだされるが、自分たちの永遠の生命への希求は憚られていた。来世と取り次ぐ口寄せや霊媒は禁じられた。民族神ヤハウェへの忠誠のなかで他の神々への崇拝は厳しく咎められた。この現実世界のただなかで、神と正しい関係を結ぶべく、憐みと祝福を求めまた虐げる者からの解放を求めた。いきおい、メシヤ(救世主)を求めその出現を待つこと、それが民族の歴史であり、制約であり限界となった。メシヤが旧約の預言者たちに預言された。そのメシヤは神に背く者たちの罪の苦難を担い死においやられ、三日のあいだ死者たちのなかにいたが、復活することが預言されていた。
7.3 イエスはご自身を旧約の預言の成就と看做した
イエスはこの預言を「神の言葉は失墜しない」という信のもとにご自身への預言と受け止め死を引き受けた(Rom.9:6, Mat.1:21-23,3:3,4:15,12:18,21:5,26:63)。これらの預言はナザレのイエスにおいて成就されたと言うことができよう。
パウロによれば、イエスは自然的な肉の底に「内なる人」と呼ばれる神の霊に反応する「霊」と神の意志について霊的な接触を伴う知識である「叡知」と呼ばれる認知機能を持ち、叡知がその都度働いていた。旧約聖書の引用は自らの叡知の発動(エルゴン)の確認(ロゴス)として用いたと思われる。旧約の引用の報告はそのような認知機能をもちがたい律法学者や民衆に対する説得の言葉であると捉えることができる。ただし、イエスご自身肉の弱さを抱えていたがゆえに、十字架上で極度の苦痛のなかで「キリストの叡知」が一時的に発動しなかったことがあったかもしれない(Mat.27:46,2Cor.2:16,cf.Rom.11:33-34)。
神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。しかし、此岸性が彼岸性にとってかわられたわけではない。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりが記録されていった。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。
この前歴史のもとでイエスは喜び喜べという天における報いを望みつつ、この世界を雄々しく耐え生き抜く力を提示している(Mat.ch.5山上の説教)。生と死は神に属するものつまり神の裁量のもとにあるという考えは旧約においても揺るがないが、新約聖書が記すように神はナザレのイエスにおいて顕現しているなら、人類はやはり他に何を必要とするであろうか。死も生も、天国も地獄もキリストを介して最も明確な仕方で知らされている。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛した。それはご自身を信じる者がすべて滅びず、永遠の生命を持つためである。というのは、神が世界に御子を派遣したのは世界を審判するためではなく、世界が御子ご自身を介して救われるためだからである」(John.3:16-18)。
このように、ナザレのイエスへの探求は人生にとって避けては通れないものとなるであろう。自然的な人間には理解できない、また同じ一人の人間による甦りが人類の歴史において生起したということは自らのうちに自分に知らされてはいない力能が宿っているかも知れないことを告げ知らせるからである。
イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちに自らの生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」が自らについて書かれたものであることを説明した(Luk.24:27)。ルカは復活の主イエスによる弟子たちへの言葉をこう報告している。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべく随伴する弟子たちの叡知を開き示した。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまでポリス(都市)に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」と回想している(24:32)。
(録音されている実際の講義はここまで)。
7.4 イエスの復活が信仰を引き起こすとパウロは論じる。
イエスは自身の受難の後に生じる未来のことであるという理由により、復活は自らの復活をも含め信仰箇条であるが、それは神の力ある働きの証言である聖書において預言されており、その預言の知識に基づく信念であった。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている。というのも、復活においては、人々は娶りも嫁ぎもしない、そうではなく天においては天使のようにあるからである。しかし死者たちの復活をめぐって、神が語ることによって、汝らに語られているものを読まなかったのか、「わたしはアブラハムの神である、またイサクの神そしてヤコブの神である」と。神は死者たちのではなく、生きている者たちの神である」(Mat.22:29-32,Exod.3:6)。
パウロはこう語るナザレのイエスこそ聖書において預言された神の力能の顕われである復活の主メシア(救世主)であると宣教する。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(Rom.1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。
所謂「奇跡」における憐みのロゴスとエルゴン、言葉と働きの展開についてイエスとパウロのおかれた状況は異なる。イエスは十字架への途上の生を信によってリアルタイムに福音を生き抜いた。福音書記者たちはそれを伝記として伝えているが、もし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神に喜ばれず、ご自身が信に基づき義である方であることの啓示の媒介として用いられなかったそのような今・ここをナザレのイエスは生きていた。
パウロにおいては父なる神の専決行為である埋葬されたイエスの甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができた。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義とすることの故に甦らされた」(Rom.4:25)。イエスの復活が救いをもたらす神の力能の福音への信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられた。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができた。
神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。そのことによって、古き罪人はキリストの死に共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担ったのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ったからこそ、身体は光栄あるものとなりその身体に帰属する死は生に飲み込まれる。彼は甦りにおいてご自身の身代わりの死が罪人たちのためであることをさらには永遠の生命を証した。われらの罪は御子の十字架において贖われ赦されてしまっている。御子が受肉した限りにおいて、この弱き肉に喘ぐわれらは甦りを介して神の栄光と化す。
キリストの復活はこの歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、信じる者の罪を赦し、義とするものである。かくして、復活はイエスを神の子と信じる者を義とし永遠の生命に導くことへのその信仰を引き起こすものである。