秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(11) (最終結論その2(3の2)) 聖書の死生観:何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかにしか見られないのか
(録音は事情により4節のみ、最終回は次の週になります)。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(11) (最終結論その2(3回のうち))
聖書の死生観:旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ
2021年12月5日
4.何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかにしか見られないのか
旧約と新約の死生観の論述内容の相違は興味深い。御子の受肉、受難と復活を介して啓示された福音が相互の連続性と展開とともに、新約から見る限り旧約における欠落そしてそれ故に待望が明らかになる。ここで、新約の視点から明らかになる旧約における不在ないし僅少の例を挙げる。(1)永遠の生命の獲得の記録はもとよりその希求。(2)神と敵とのあいだの執り成しの働きとその祈り(とりわけ「詩篇」における)。(3)聖霊による肉の弱さにある個々人への内在を介した呻きを伴う神の肯定的な意志の執り成し。(4)指導者や預言者たちの有徳者であることの記録、そして立派な有徳な人間になることへの奨励、ただし神による義人の認証を除く。(5)聖霊による一つの身体としての集会、教会の形成。(6)異邦人の救い。これらの記述が皆無ないし僅かにしか見られない。旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような共同体や教会の観念をもたなかった。C.H.マッキントッシュは言う、「個々の霊の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。……旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M. 1927, 16,18)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった」(Eph. 3: 4)。
ここでは(1)について考察したい。詩人は神への讃美の機会を失わないためにこの世の生存を嘆願する。「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps. 16: 10)。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps. 30: 10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps. 88: 11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に讃美を捧げることができ、そのなかで祝福を頂くことができる。
端的に言って、旧約人は直接的な仕方での永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されてはいない。その待望は、民族の集団心理として、楽園追放以後、主の名前を「みだりに唱えるな」、「貪るな」という戒めに包摂されるタブー・禁忌であり、避けられたのであろうか。生命の木の実の実質は始めの人間の背きの故に言及することさえ許されなかったのであろうか。アダムが裸であることを恥じ、また茂みに隠れたように、旧約人は神への怖れのなかで自らの心情を吐露したり、最も重要な願望をさえ安易に要求できなかったのであろうか。復活はあまりに信じがたきことであったのであろうか(Mat.22:23)。永遠の生命への希求の記録の欠落は、これらの複合的事情によるものであろう。
フォン・ラートは幾つかの箇所を論拠に挙げつつ、旧約人は来世を望むことがなく彼が「此岸性」と呼ぶ現実世界への集中を彼らの特徴としてあげる (Ps. 90: 4-11, 34: 14ff, 88: 6-11, Job. 9: 2-5, 29-31, Deut. 3: 15ff, Isa. 38: 11ff)。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。……この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないかというふうに説明できるのではないでしょうか。実際、旧約の定めは、神の此岸に対する意志を含んでいます。……すべての不安が解消されるであろうと人々を誘惑する彼岸によって相対化されることはなく、むしろ、大地と人間は、神の側から、「出口なし」と示されて、それを真摯に受け止めたのです。……あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべきです」。(註 ラートはJ.ウェルハウゼンの問いを紹介する。「宗教的な動機をもった誠実な人たちが、それほど長く、死後の永生への希望なしにありえたのはなぜか」。ラートはこの問いが事実に即したものではないとし、「なぜなら、旧約聖書には、死後の生に対する要求はないから」と理由を提示する。しかし、これは人間本性からして、また生死の本性に鑑みて、旧約人に対する過度の要求、また過度の特殊民族性への要求が含まれている(フォン・ラート 2021, 67-68))。
しかしながら、フォン・ラートによる旧約人のこの理解は正しいのだろうか。これまでの論述に基づくとき、少なくとも、「此岸性」と「彼岸性」、ひとの世界と神の世界の分断を含意するこの表現は、生と死を総合的に捉えることを不可能にしており、貧弱な死生観しか持ちえず、旧約人を矮小化してはいないであろうか。神から「出口なし」を示された人間はどこに希望を見出すことができるであろうか。より適切な表現を求めるべきである。
旧約においては神が人間と関わる媒体は洪水や疫病そして死等自然事象を介してであり、そこではこの世界の事象を媒介にして具体的に関わる今・ここのエルゴン(働き)の神の報告で満ちているがゆえに、何か彼岸即ち神の前の事柄が考慮されずに、此岸即ちこの自然的世界だけが考慮される、そのような印象を与えたのだと思われる。しかし、エルゴンの神はひとの現実世界から分けられてはいないだけのことであり、その同じ神がどこまでも宇宙の栄光の神である。この神は当然死を支配している以上、死後を考慮しているが、そのことは新約において明確に知らしめられた。神は旧約人にはアブラハムの信仰義認とモーセの業の律法に基づく義認の枠のなかで、自らが人間的に理解されることを許容しつつ、恩恵を思い起させることにより罪とその値である死の乗り越えを迫っていた。罪と死の乗り越えが彼らの課題でなかったはずはない。あたかも旧約人が此岸に閉じ込められたかに見えるのは、神が自ら譲歩して彼らの理解に応じて今・ここにおいて具体的に人間的な様相において関わったからである。
5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神
新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにある人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものとして論じることができる(千葉 2018, 第三章)。ただし、神がイエス・キリストを介してのひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばならない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1: 1)。
旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出することができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りにおいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこで報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。
二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著しい論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。それは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたという理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだからである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なるであろうことと類比的である。
旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されることを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。
預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かくして、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことができる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心のup and downのなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45: 15, Deut. 29: 28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(Ps. 89: 47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job. 9: 33, 33: 23, Isa. 43: 13, 47: 4, 49: 7, 54: 5)。
しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については『信の哲学』上巻456-462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、その事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 38: 1-3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄きつつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去られ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6: 3-7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たされつつ待望を続けた民族であった。