秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(12) (最終結論その3(3回のうち))聖書の死生観:一回限りの復活信仰が生物的死を乗り越えさせる

 

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(12) (最終結論その3(3回のうち))

聖書の死生観:旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ

                                      2021年12月12日

 

テクスト「コリント前書」15:35-58

 35ひとは問う、「死者たちはどのように甦らされるのか、どのような身体(sōma)で彼らは来るのか」。愚か者よ、汝が蒔くものは、もしそれが死ななければ生命にもたらされることはないではないか。また汝が蒔くものは、やがて成るべく身体ではなく、麦であれ何か残りのものであっても、裸の種粒である。神は自ら意図したように(kathōs ēthelēsen)そのもの[麦]に身体を、そして[生物]種のそれぞれに固有の身体を与えている。すべての肉(sarx)は同じ肉ではなく、かたや人間たちのものであり、他方獣たちの肉は別のもの、鳥たちの肉は別のもの、魚たちの肉は別のものである。40そして天上的な身体もあれば、地上的な身体もある。かたや、天上的なものどもの栄光があり、他方、地上的なものどもの栄光が別にある。太陽の栄光と月の栄光は別であり、また星々の栄光も別である。

 死者たちの復活もまた同様である。朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦らされる。価値なきものに蒔かれ、栄光に甦らされる。弱さのうちに蒔かれ、力能のうちに甦らされる。魂体(魂的身体)(sōma phsukikon)に蒔かれ、霊体(霊的身体)(sōma pneumatikon)に甦らされる。魂体があるなら、霊的なものもまたある。45こう書かれてもいる、「最初のひとアダムは生きる魂となった」、最後のアダムは生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初のひとは地に基づく土製であり、第二のひとは天に基づく。その土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにあり、そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちはそのようにある。ちょうどわれらが土製の形姿(eikona tū choikū)を担ったように、われらはその天上の者の形姿(eikona tū epūraniū)をも担うであろう。50兄弟たち、われ語る、肉と血(sarx kai haima)は神の国を相続することはできない、さらに朽ちるものは朽ちないものを相続しないと。

 見よ、われ汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ(1Cor.15:35-58)。

 「ヘブライ人への手紙」9:24-28

「キリストは、まことのものの写しにすぎない人間の手で造られた聖所にではなく、今や、神のみ前に、われらのために説明するべく、天そのものに入られた。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、たびたびご自身をお捧げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。しかし、今や、一度限り、諸時代の完成において、ご自身の捧げを介して罪の取り去に向けて、顕現されました。また、人間にはただ一度限り死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている限りにおいて、キリストも多くのひとの罪を負うためにただ一度身を捧げられた後、二度目には、罪を離れて、ご自分を待望している者たちに、救いをもたらすべく顕われてくださるのです」(Heb.9:24-28)。

 

5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神

 新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにある人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものとして論じることができる。ただし、神がイエス・キリストを介してのひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばならない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1: 1)。

 旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出することができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りにおいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこで報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。

 二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著しい論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。それは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたという理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだからである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なるであろうことと類比的である。認識が変われば、パトス(身体の受動的反応)もかわっていく。

 旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されることを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。「イエスはピリポに言う、「これだけの時間わたしが汝らと共におりながら、ピリポよ、君はわたしを認識しないのか。どうして君は言うのか、「われらに御父をお示しください」と。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを信じないのか。わたしが汝らに言う言葉は、わたしから語っているのではない。わたしのうちに留まっておられる父が、ご自身の働き(ta erga)を為しておられる。わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。さもなければ、これら働き自体を介して信じなさい」(John.14:9-11)。

 預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かくして、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことができる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心のup and downのなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45: 15, Deut. 29: 28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(Ps. 89: 47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job. 9: 33, 33: 23, Isa. 43: 13, 47: 4, 49: 7, 54: 5)。

 しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については『信の哲学』上巻456-462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、その事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 38: 1-3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄きつつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去られ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6: 3-7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たされつつ待望を続けた民族であった。

 

6. 結論

 エルゴンの神、即ちひととその都度の今・ここにおいて関わる神が前史として描かれなかったなら、父と御子の協働行為としての福音は正しく福音として位置づけられなかったことであろう。あの準備期間においてこそ、同一の神の御子の派遣の必然性と、さらには罪と死の克服としての受肉、宣教、受難、復活の主は正しく理解されるにいたる。かくして、他の民族の歴史からはナザレのイエスは誕生しなかったという理解は道理がある。同様に生と死も旧約のあの禁欲的な準備なしに、総合的な理解はかなわなかったであろう。

 もしユダヤ人の歴史のなかでの受肉はもとより、何の歴史的交流なしにUFOのようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらない神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み)の両立を知ることはなかったであろう。これは御子のあの生涯なしに十全には実現されなかったことがらである。信に基づく正義を介して自らの罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。

 「見よ、わたし[パウロ]は汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。『死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある』[Isa.25:8,Hos.13:14]。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である[Rom.7:23]。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ」(1Cor. 15: 51-58)。

 ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(Rom. 3: 19-20, 3: 27))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのなかで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」(3: 27)が御子の受肉と信の従順の生涯により福音として啓示されている。罪とその値である死が克服された。

 新約の視点から「へブライ人への手紙」の記者は旧約の人々をこう特徴づけている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb. 11: 39-40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生が何であったかが明確にされ、完結されるものであった。

 旧約人の宿命として、彼らは神と自らの交わりのエルゴンの積み重ねをアブラハムの信とモーセ律法のもとに続けた。そこには祝福と懲罰の経験があった。自らの心魂を離れて神の審判に耐えうる力はなかった。新約人は自らの外に、イエス・キリストのうちに自らの救いの力を見出した。旧約人は明確な知識をもたずにも神の義と愛という一本の道を忍耐のもとに歩み続けたそのただなかに、キリストを待望するエネルギーが蓄積されていったのであった。

 

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