神の愛―クリスマス、闇夜に光が輝いた― 日曜聖書講義2021年12月19日
神の愛―クリスマス、闇夜に光が輝いた―
2021年12月19日 2021年最終講義
聖書 ルカ福音書 1章46-55節 「マグニフィカット」
マリアは言った。「わが魂は主を大いなるものとします(magnify)。わが霊はわが救い主なる神を崇め讃えました。主はご自身の奴隷の卑しさを顧みてくださいました。というのも、ご覧なさい、力ある方がわたしに大いなることを為されたがゆえに、今から、すべての世代の人々がわたしを祝福いたします。ご自身の御名は聖です、そしてご自身の憐みは世代から世代へとご自身を畏れる者たちに注がれます。力ある方がご自身の御腕において示されました、心の思いによって高ぶる者たちを散らされました。ご自身は権力者たちを彼らの玉座から引き降ろされました、そして卑しき者たちを高められました。飢えている者たちに良きもので満たされました、そして富める者たちを空しく追い出されました。ご自身の子イスラエルを受け止められました、憐みを思い出されつつ。われらの父祖たちに語られたように、ご自身はアブラハムと彼の子孫に対しとこしえに導かれます」。
1 御子の受肉は神の愛に他ならない
この一年もパンデミックが継続し人類史的なあるいは黙示録的な一年でした。人類にとってこのいっそう濃くなっていく闇のなかで光が燦然と輝いています。キリストの生誕を祝います。闇が濃ければ濃いほど、天上の導きの星のように輝きを増し、ひとびとの歩むべき道を指し示しています。2000年前、ベツレヘムにおいて大きな光が輝き羊飼いや東方の博士たちを馬小屋に導きました。彼らはそこで生まれたばかりの赤子を神の御子として拝しました。
この光は宇宙の始まりの光の源です。宇宙の創造者なる父は子とともに永遠の現在のもとにいました。われらが理解できる時空の外にいます。それ故に、宇宙の歴史、人類の歴史における過去と未来は現在のことがらとして理解されています。聖書が報告する神とひとの交わりは、神の永遠の計画のもとで、御子の受肉の故に父なる神が歴史的存在者として描かれることを引き受けられたことに基づき生起します。神はひととなったのです。それは神が愛だからです。神は宇宙の創造者として単に神が望む一切を為すことができ、また一切を知っているだけではなく、神は、われらが人格的存在者として善悪を判断する道徳的存在者であるように、われら個々人と父と子、即ち我と汝の等しさにおいて交わることを望まれたのです。人類は神の愛の対象として造られたのでした。
我と汝の等しさとは、わたしはあなたによってわたしであり、あなたはわたしによってあなたであるという、父と子、友と友、良人と妻、社長と社員、その都度、隣人とのあいだに成立する等しさのことです。その都度、支配することからも支配されることからも唯一自由なところで出来事になる隣人と隣人のあいだに成立する等しさです。そこには喜びが伴います。ひとは愛を求めているからです。愛が出来事になっていることの感情実質は喜びです。そこには過去により支配される後悔や怒り等の感情からも、未来により支配される焦りや不安そして恐れ等からも自由にされ、今を生きていることの充溢があります。そこではこの現在の充溢のなかで過去からも未来からも自由にされ、今・ここで時と和解しており、なんらか永遠と関わっています。ひとは情熱恋愛でさえ永遠との関わりなしに愛を語ってこなかったのです、それが単におのれの胸のトキメキを、心臓の心拍数を愛しているにすぎないにしても。
ひとは自ら意識しないとしても、自らと同じ値においてない誰かと出会うとき、目をそむけたくなるそのような思いに駆られます。あまりの悲惨、あまりの不正義、あまりの横暴このようなものを目撃するとき、ひとは喜びを失います。楽園を追放された者には、この儚く、残酷な過ぎ去りゆく世界に投げ出されており、労苦と争いが待ち受けています。それに打ち勝つものは人類にとっては永遠と結びつく愛しかないのです。
二千数百年前の「申命記」や「レビ記」の記者は神による隣人愛への戒めを報告するとき、すでに「汝が汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」と語り、「汝が汝自身を愛するように」という限定とともに命じ、愛の持つ等しさを捉えていました(Lev.19:18)。ひとは隣人と等しくあるときのみ、喜ぶがわくのです。この隣人愛の前提には神への愛がモーセにより命じられています。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。汝は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、汝の神、主を愛せよ」(Deut.6:4)。神の愛に反応し、神を愛するとき、心魂は秩序づけられ統一の持つ力を得るにいたります。そしてその力は横にいる隣人への愛として注がれていきます。宇宙の創造者の愛の力がこの弱い身体から溢れだしていきます。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。パスカルは言います。「何かから遠ざかるということがあるとするなら、それは愛からでしかない」と。つまり、愛から遠ざかればすべてから、即ち生きることそのものから離れてしまいます。ですから、神の愛に留まる限り、ひとはこの世界を前向きに肯定的に受け止めることができます。
この世界はシーソーのバランスが崩れるように、勝ち組と負け組、支配層と被支配層により構成されています。このような差別や驕りさらには侮蔑の関係にあるとき、直ちに争いの闇に落ちてしまいます。このような争いと、諦めは闇の支配者である罪の奴隷になることからきます。神は「焼き尽くす火」です(Heb.10:27)。人間的に言えば、神の怒りが大きいのは神の愛が大きいからです。なんとか罪の奴隷となり闇に沈む人類を救い出そうとしておられるのです。人類はこんなはずではないのです。無気力に陥り、諦めてしまっている人々はおのれのポテンシャルを知らないのです。人間の本来性を知れば知るほど、現在の闇に沈む人類とのコントラストが大きくなります。水が高きから低きに流れるように、愛がコントラストに沈む人々に流れ注がれていきます。
2マグニフィカット
マリアの「マグニフィカット」と呼ばれる神への賛歌は、神が取るに足らない貧しい一人の若い女性を顧みてくださったことへの感謝と賛美です。「主はご自身の奴隷の卑しさを顧みてくださいました」。差別に苦しむ者たちが救いの光を照らされ、希望と賛美に満たされたのです。神は人類の最も低いところで苦しんでいる人々に救いの光を差し込んだのです。われらが高ぶって、輪切りの小さいほうに入ろうとし、競争しているとき、そこに救いの光は届きません。われらは光をもとめず、罪の奴隷となる闇を求めているからです。キリストの低さと柔和さはキリストと共に信の従順の軛を担う者に与えられます。
イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜でした。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」と報告されています(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わります。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付けます。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえないのです(Gal.6:1,Mat.5:9)。
3預言の成就
すでに預言者イザヤが今から約2700年前にこの救い主を預言しています。
「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を読んで霊妙なる議士、大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。
イザヤは預言します、万軍の主は熱心にわれらを救いだそうとしていると。この公平と正義そして平和はナザレのイエスにおいて実現されました。ここで「一人の子がわれらに与えられた」と過去形で表現されていますが、預言的過去(prophetic past)と呼ばれるものであり、時間を超える神の霊的な知らしめの何らかの痕跡であると言えます。イザヤは闇に打ち勝つ罪の贖いを先駆的にこう語っています。「恐るるなかれ、われ汝と共にあり、驚くなかれ、われ汝の神なり、われ汝を強くせん。・・汝はわが僕なり、われ汝を造れり。イスラエルよわれは汝を忘れじ。われ汝の咎(とが)を雲の如く消し、汝の罪を霧の如くに散らせり、汝われに帰れ、われ汝を贖いたればなり」(Is.41:10,44:21-23)。
旧約と新約を貫く神はもちろんおひとりであり、旧約人をアブラハムの信に基づく正義とモーセの業に基づく正義により鍛えつつ、御子の受肉と宣教、受難と復活に歴史は向かったのです。物理的時間(クロノス)は時の凝縮、カイロスを持つにいたったのです。イエスは励まします。「この世界にあって汝らは苦難にあう。しかし、雄々しかれ、わたしは既にこの世界に勝っている」(John.16:33)。
あの救いの光を感謝し賛美します。牧場の羊飼いたち、東方からの三人の博士たちは大きな星に導かれベツレヘムの馬小屋において受肉し、自然的な存在者となった神の子に出会い喜び拝しました。天使は高らかに賛美しました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」。彼らは預言通りについに救い主が誕生したことを確認し喜んで帰っていきました。またそのころシメオンという信仰深いひとには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という示しがありました。シメオンはマリアに抱かれエルサレムに昇ってきたイエスを見つけました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです。異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.25-35)。
4罪の奴隷からの解放
この秋学んできたように、キリストの誕生は長い準備をかけてこのような展開のもとに実現しました。わたしどもは人類史的にも個人史的にも闇を抱えています。生物的死は各自の罪に対する罰なのです。罪から自由にされた者には生物的死は一時的な眠りとなります。死の陰に怯えています。死は多くの者には不可知なものとして闇です。死の支配は罪の支配なのです。罪の軛に繋がれている限り、死は恐れと不安の源となります。御子は人類をその闇と恐れそして不安から解放してくださったのです。パウロは言います。
「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。
罪の奴隷であったとき、われらはどんな実を結んでいたのであろうか。悪臭はなつ醜悪なものであった。個人的には、二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思い毎日過ごしています。「そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか」。あの悲惨はもうごめんです。愛のないところ、そこには支配があり、争いがありそして死があります。端的に言って闇に包まれます。ひとは闇に耐えることができないのです。この罪の軛を断ち切ることが人類には不可欠であったのです。
ナザレのイエスはご自身が神の子であるという信によって生涯父の意志の実現にむけて従順の信を貫きました。それ故に罪とその給金である死に対し勝利しました。そこに人類の歴史において、明確に正義の概念が打ち立てられました。それは神との関係の正しさとしての正義であり、「信に基づく正義」(Rom.9:30)と呼ばれました。イエスはガリラヤの野辺で 野の百合、空の鳥を見ながらそして自然的な父と子の類比に訴えながら、「天の父の子」(Mat.5:45)となるよう信仰に招きます。「汝らまず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。神との正しい関係に入ることにより、ひとは神の愛を知ることができます。信仰は正義すなわち神による義認を生み、罪の支配からの解放である義認の喜びは愛を生みます。信→義→愛、この動的な関係が動き出すのです。誰もが心魂(こころ)の根底に信仰・信が宿る部位を力能・ポテンシャルとして持っています。神から聖霊を介して送られる神の愛に反応することのできる部位です。そこは二心がある限り、この世もあの世もという二心がある限り、決して開かない部位です。モーセの十戒において第一の戒めは「わたしをおいてほかに神があってはならない」(Exod.20:3)というものです。これは幼子が親に対してもつような混じりけのない信頼であり、幼子のようになるのでなければ、持ちえない心魂の透明さです。人類は大丈夫だということ、罪の縄目からキリストの十字架と復活において解き放たということ、それ故に喜びだということ。これがクリスマスのメッセージです。