「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―

(録音では第3節から朗読されている、ただしここに記されていない何回かの脱線ないし補足がある)

「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―

                           2020年10月11日

序 道徳的内破から神の愛へ

 山上の説教はイエスの志の高さと偽りの追求の鋭さとそしてこの地上で生きることの喜びを伝える。ここには聖性と高邁さが満ちておりそして詩人のインスピレーションのもとに力強い推論と構想力が宇宙大に縦横に展開される。神の国と神の義に集中するその教えは生の一切をそこから秩序づけ天と地を繋ぐものであり、宇宙論的な構想が描かれている。これまでモーセ律法の急進化、純粋化において舌鋒鋭いイエスを主に学んできた。言葉の力のみで、われらを神の完全性に倣うよう高みに導こうとする気迫におそれを抱いてしまうそのような姿を描いてきた。山上の説教において彼の純一さと鋭さが前面にでているけれども、他方、イエスは子供達、弱い者たちを愛した優しさ、柔和さを兼ね備えており、そして実はそこから山上の説教も語られている。少しづつ彼のこの側面についても学んでいきたい。

「神の国とその義」を求めるさいにも、あまり現実感がないかもしれない。神は愛であることをイエスの生涯は実践するが、その愛の知らしめの方法が最も先鋭化するのは十字架上の身代わりという様式であった。神の愛を知るには御子の受肉と十字架そして甦りがいかなるものであるかを知ることが求められる。そこにおいて神の愛は最も明白に啓示されているからである。そのことを神の国と世界・地のことがらの秩序づけを媒介するものとして少しづつ学んでいきたい。

2断食を介して見える生活の煩いとその乗り越え

今日のテクストは前回の続きで6章16節から34節である。まず断食の箇所を先週の復習を兼ねて学ぶ。「汝らが断食するとき、陰鬱な偽善者たちのようになるな、というのも彼らは自分たちの顔を醜くするがそれは人々に断食しているように見えるためである。わたしは汝らに言う、彼らは現に報いを受けとっている。しかし汝が断食するさいには香油を汝の頭に塗りそして汝の顔を洗いなさい、それは汝が人々に断食しているように見えずに、隠れの内にいます汝の父に見えるためである。そして汝の父は見ておられ、隠れの内に汝に報いたまうであろう」 (Mat.6:16-18)。

 食事という生存の最も基本的なことがらをめぐって、この説教はその正しい位置づけを教えている。前回の復習をかねながら、生活と最も良きものごとである「神の国」との関連で食べること、飲むこと、着ることなど生活一般を位置づけたい。

「断食する(nēsteuō)」は「食べる(esthiō)」の否定語であるが、生存欲求の最も基本的な食べることを否定する営みはとても禁欲的、宗教的な儀式ないし実践であるという印象を与える。現在、一方では空腹に苦しみ断食どころではない人々が多数おり、他方、断食が語られるとすれば多くは健康上の理由による人々がいる。われらはどれだけのメッセージをこの断食の教えから聴き取ることができるであろうか。

 食は生存の基本的な欲求であり、断食と聞くだけで、嫌悪を感じるそれほどまでに生とその喜びの構成要素である。グルメ番組は賑わい、どこまでも美味を求めての料理の追求は飽くなきものであり、「何を食べるか煩うな」と言われると、もう既にキリストの弟子であろうとすることから脱落してしまう人もいよう。

 ただ、イナゴを常食した洗礼者ヨハネとの対比において、イエスご自身「大食いにして大酒のみ(phagos kai oinopotes)」(Mat.11:19,cf.Luk.22:17,30)という悪評を播かれることもあったようである。これは彼が罪人と呼ばれる人々と親しく交わったという状況のなかで、噂されたことであろう。確かに、彼は断食をしていなかったと報告されている。洗礼者ヨハネの弟子がイエスのもとにきて、「われらとパリサイ人は断食するのに、何故汝の弟子たちは断食しないのか」。それに対するイエスの応答は「新郎の子供たちは新郎が彼らと共にいる限りはまさか悲しむことはできまい。しかし、新郎が彼らから去るとき、そうすればそのとき彼らが断食する日々が来ることであろう。誰も新しい布切れを古い衣につぐことはしない、補った布切れはその衣を破って、綻びは一層甚だしくなるからである。新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は避けそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:14-17)。これは旧約と新約の関係にあてはまる。新しい酒と革袋は福音と福音をいれる神の意志としての信の律法である。旧約である業の律法のもとに福音を入れることはできない。業の律法を破ってしまうであろう。福音は信の律法に入れられる。

 この新郎とのういういしい日々の記述からまず明らかなことは、イエスとその弟子たちは断食をすることはなかったことである。それからイエスは断食を喜びとではなく悲しみと結び合わせていることである。別れが来た時には悲しみの表現として断食するであろうことが預言されている。聖書では断食はおおよそ五つの文脈で報告されている。1)病気の快復や死の嘆き、哀悼の祈り(2Sam.3:35,12:6,Ps.35:13)。2)罪の告白と悔い改めや不信仰の嘆きの祈り(Dan.ch.9,Ezra,1:6,Neh.ch.1,Jon.3:5-7,Joel.2:12-13)。3)危機の到来における祈り(2Chr.20:3,Ezra.8:21,Est.4:16)。4)主の導きを求める祈り(Dan.ch.9-10)。5)宣教活動を始めるさいの祈り。初代教会において、パウロとバルナバが宣教師として任命され、遣わされる前後、教会は断食し、彼らは教会の働きのために断食した(Act.13:2-3,14:23)。(秋田県横手市の斎藤和彦牧師のサイト参照 (https://www.yasuragi-church.org/archives/337))。

 このような通常ではない文脈においては、生理的にも食物が喉を通らないという状況であり、断食という行為は単に宗教的儀式というよりも、寝食を忘れて何かに打ち込むそのような状況において心を刷新するために有用な文脈であると言える。断食が祈りと繋げられることもここから理解できる。事柄そのものへの精神の集中なしには実際の苦境を乗り越えることはできないであろう斎藤先生の研究の最後でジョン・ウェスレーはこう断食の目的を語ったことが引用されている。「第一に、われらの眼差しをただ主にのみ定めて、主に向かって断食をなさしめよ。われらの断食の意図をこのことのみ、すなわち天にましますわれらの父の栄光をあらわすことのみであらせよ」。このように断食はより重要なものにこのような仕方で関連づけられていることが分かる。そうであるとすれば、食べることも主の栄光を顕すこともあろう。花婿と一緒にいる喜ばしいときに断食はふさわしくない。

 他方、イエスは戒めている、「汝ら自ら心せよ、汝らの心は酒宴と酩酊によりそして生活の煩いにより鈍くなり、かの日[終末]は突然汝らのうえに来るであろう」(Luk.21:34)。「かの日」とは古い天地が巻き去られ、新しい天地が出現するその終末のときのことを言う。そのために、いつも心魂が目覚めていることが求められている。断食をしてもしなくとも、常に心を清め、神の御心を尋ねるよう眼差しを天に向けさせる。そこに向かわず、断食が神の国とその義を求めることを妨げ、誇りや偽りにつながるようであれば、断食をしないほうがよい。食べるか食べないかよりも魂のほうがより一層大切である。「わたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝らは何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか」(Mat.6:25) 。

 食物よりも、生命がそれの故に維持される生命原理としての魂のほうが一層大切である。もちろん食物が魂の働きを支えているが、魂という生命原理に基礎づけられる心が例えば美食に向かうか質素な健康食に留まるか、善に向かうか悪に向かうかを定める。この生命原理に支えられて心が自らの生の方向を定める。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。第一に神を求めるその純一さにおいてある心は祝福される。

 註[なお「マタイ福音書」17章の断食の報告についてテクスト上の問題がある。弟子たちは自分たちが悪霊を追い出せなかった理由をイエスに尋ねると、こう言われている「それは汝らの信仰の小ささの故である。わたしはまことに汝らに言う、もし汝らが芥子種ほどの信仰を持つなら、この山に「そこからかしこに動け」と言うなら、そうすればその山は動くであろう。そして汝らには何も不可能なことはないであろう」。そのあとの21節が最新のNestle-Aland27版では削除されている。そこでは「この類のもの[悪霊]は祈りそして断食するのでなければ、出て行かない」とイエスにより語られたと記録されることがあった(Mat.17:20-21)。この問題について議論することはできないが、確かに、信仰の力があれば十分という伝統的な考え方からすれば、断食の力に訴えるそのような仕方で悪例を追い出すことができるとイエスが語られたか疑問の残るところではある。]

3天と地、二人の主人に兼ね仕えることはできない

 衣食住の生活は誰もが求める心身のケアであるが、イエスはそれを人間にとって最も重要なことがらにより秩序づけることを教える。魂そしてその魂に宿る心はこの世の一切のものよりも重要である。その秩序づけは6章において二人の主人に仕えることができないこと、それから生活の煩いを一旦わきに置き、「神の国とその義」とを求めることにより、遂行される。錆や蛆がわく地上に宝を積むのではなく、天に宝を積むように勧められる。また、二人の主人に兼ね仕えることはできず、富ではなく神に仕えるよう勧められる。そのためには精神の眼差しが澄んでよく自己と世界を見ることができるのでなければならない。地上のことに心が奪われているとき、ひとは眼差しを天上に向けること、仰瞻(ぎょうせん、あおぎみる)することができない。仰ぎ瞻(み)るとき、ひとは光をえる。

 「汝らは地上に汝らにとっての宝を積むな、そこでは虫と錆が浸食してしまいそしてそこでは盗人が押し入り盗んでしまう。天に汝らにとっての宝を積め、そこでは虫と錆は浸食せず、そしてそこでは盗人は押し入りもせず盗みもしない。というのも、汝の宝があるところ、そこには汝の心もあるであろうからである。

 身体の灯火は目である。だからもし汝の目が健全であれば、汝の身体全体が輝くであろう。しかし、汝の目が悪しきものであるなら、汝の身体全体が闇となるであろう。かくして汝のうちにある光が暗いものであるなら、暗さはどれほどであろう。

 誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(Mat.6:19-24)。

4心魂(しんこん・こころ)の二つの構成要素―肉と内なる人間―

 しかし、ひとは問う。「神の国とその義」と言われても、何ら実在感覚がなくどこを仰ぎ瞻(み)ればよいのか、なんら手掛かりもなく、見当がつかないと。天の国を受け継ぎ入れていただき、また天において慰められ、報いが大きいと言われても、その天国なるものをどのように理解したらよいのか皆目見当がつかない。確かに聖書ではわずかにしか天国がいかなるものであるかの記述は見られない。ただしヨハネ黙示録においては、黙示と呼ばれる預言、ヴィジョンは神話的にダイナミックに展開されている。

 天については取り付く島もないという主張へのさしあたりの応答は八福を思い出すことである。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清い者たちが神のお好のみなのである、愛しい者を失い悲しむ者とともに。この者たちはこの地上の豊かさに満ち溢れているひとびとと異なり、天に眼差しを向けざるをえないひとびとであり、天父の祝福に与ると言われている。山上の説教は言葉の力による偽りの炙り出し、析出をこととしていた。自己満足にひたっている限り、八福の心的状況になることはない。このことは苦難の内にあるひとびとこそ福音を求めるということであり、良心が鈍く自らの偽りに気付かない限り、神の国とその義を求めることはないであろう。

 しかし、われわれはイエスご自身が八福をそのまま生きた方であったことを学んだ。御子の受肉と生涯を理解することが、「神の国とその義」を実質的に理解させるものである。天と地を媒介するイエス・キリストを介してだけ、ひとは具体的に神の国とその義にアクセスすることができる。キリストを知れば知るほど神の国について理解を深めることができる。

 「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまでご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-9)。この受肉と十字架の死そして高挙の主、この方を介して神の国にアクセスすることができる。このアクセスを可能にする基礎的な生物的事実は、ナザレのイエスの心魂(しんこん・こころ)そして身体はわれわれの心魂そして身体と「型」すなわち生物種において同じものであるに相違ないという前提である。さもなければ、イエスがアクセスできたようにはわれらには神の国とその義にアクセスできないであろうからである(「人間たちの似様性」とあるのは、ご自身は罪を犯さなかったためにこのように表現されている)。

 人間は土から造られており、その土的な生命原理は「肉」と呼ばれる。肉は土的、自然的な組成に基礎づけられている魂に宿る心のことである。イエスが受肉したさい、われらと同じ肉において自然的な生を生きた。他方、その肉的な心の底に「内なる人間」と呼ばれる、神と関わる部位がある(Rom.7:22)。それは「霊」と「叡知」と呼ばれるが、その二番底については今は詳しく述べることはできない。

 肉と内なる人間その二つの生の原理に即して、四種類の人々が聖書に即して分析されうる。(1)その肉によって貧しいひと、(2)その肉によって富んでいるひと、(3)その霊によって貧しいひと、(4)その霊によって富んでいるひとである。神に祝福されるひとは山上の説教によれば誰よりも(3)に属するひとであった。(1)はまず経済的貧困にある人々や病気がちである人々のことであり、(2)は経済的に豊であり、才能に溢れている人々のことである。(3)は神が祝福する心の態勢にある人々であり、この世の何ものによっても満たされず神を求めざるをえないその霊によって貧しい人々である。(4)その霊によって富んでいるひとは神の祝福のなか感謝と賛美に満ちている態勢にある人々である。例えば、イエスは或る時(4)の状況にあったことが記録されている。イエスは70人の伝道派遣が成功裡に終わって報告を聞いたときの状況が(4)に該当する。「主よ、汝の御名により、悪鬼もわれらに従います」と喜び勇んで報告されると彼は「悪魔が稲妻のように天から落ちるのが見えていた。・・そのときイエスは聖霊により喜んだ」と報告されている (Luk.10:17-21)。聖霊は内なる人間という根底から喜びを与える。

 (2)肉によって富んでいる者たちは、霊によって神を求めるそのような(3)霊によって貧しい生を遂行しようとはしないであろう。そのような祝福よりも、この世の美味なるもの、豊かであることに満足を求め、欲望をてらいなく解放したり肯定し、自己が最高と思われるものを追求し続けるであろう。隠れたところで社会を支える「地の塩」そして正義のためにリーダーとなる「世の光」であろうとすることはないであろう。問いは生活がそこにおいて営まれる身体とその生の原理である肉以外に、人生を導く原理が心魂の部位としてあるのかというものである。イエスは心魂の二番底から根底からその霊によって生きることを教えようとして、山上の説教を語りまたそれによって生きそして死んだ。

 道徳的次元をつきつめると、われらは自らの偽りを告白せざるをえない。もし道徳的次元を突き破ったところで二番底に出現する「内なる人間」というるものがなければ、われらは偽りのまま己惚れと自己卑下の繰り返しと他者と自己への審判、裁きの繰り返しのうちに人生を終えてしまうである。二番底から創造主と救済主に栄光と賛美を帰す者とならないものは、どんな苦行も自己栄光化につながる。偽りである。神と自己双方に兼ね仕えることはできないのである。断食が人を躓かせるなら、やめたほうがよいであろう。最後に遺された偽りなき生は一切を正確に知り、正義であり同時に憐み深い創造主にして救済主である存在者に生を任せることである。

 5信による一切の生の営みの秩序づけ

 イエスにおいては断食の実践は「何を食べるか、何を飲むか思い煩うな」という警告のなかで、「まず神の国とその義とを求めよ」に導かれまたそれにより基礎づけられている。そしてその背後には野の百合、空の鳥のように、人間的な煩いとは異なり、誰にも見られずにも咲き誇る花々また飛び回る鳥たちを神が創造されたことに思いを馳せるよう促す。神は本能という機構によってであれ、植物や動物を養ってくださっている(プログラムに従う穴蜂の例)。

「・・汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養ってい給う。汝らは彼らよりも遥かに優ったものであるのではないか。汝らのうち誰が煩うことによって自分の身の丈に一キュービット[50センチ]足し増すことができるのか。また衣服のことで汝らは何を思い煩うのか。野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。かくして、汝らは「われらは何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言って思い煩うな。というのも、これらすべては異邦人が熱心に求めるものである。汝らは、しかし、まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは対人論法によりユダヤ人の異邦人に対するまた他人に対する差別意識や誇りに潜む偽りを摘出したあと、ここでこの世の生命を祝福している。神は野の百合や空の鳥より「遥かに優ったもの」である人間に心をかけてくださる。神は正しい秩序のもとにある者たちに、イエスは食物や衣服など「これらすべては汝らに加えて与えられるであろう」と約束する。この権威ある言葉は信仰により受けとめられる。われらはここでこのナザレのイエスとその言葉を信じるかが問われている。神の国とその義に秩序づけられるとき、ひとは野の百合空の鳥のように神に養ってもらえることを信じるかが問われている。そしてそれは各人のリアルな人生を介して証明される。「木はその実によって知られる」(Mat.7:16)。

 食物よりも、生命がそれの故に維持される生命原理としての魂のほうが一層大切である。もちろん食物が魂の働きを支えているが、魂という生命原理に基礎づけられる心が例えば美食に向かうか質素な健康食に留まるか、善に向かうか悪に向かうかを定める。この生命原理に支えられて心が自らの生の方向を定める。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。第一に神を求めるその純一さにおいてある心は祝福される。その心が宿るところのものが生命原理である魂である。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。心が全世界を自分のものにすることより大切なのは自らがそこに属する自らの魂である、というのもその魂において心が神と関わるからである。そして心が神からそれるとき、自らの魂を失うであろう。そのような意味において魂のほうが食物より「一層大切」である。

 この信が生起する心の部位は道徳的次元の自己破綻に続いて見えてくる、内なる人間の二番底である。二番底に生起する信によりこの世の煩いと道徳的次元が乗り越えられる。

6 キリスト・イエスにおける神の愛が「神の国とその義」へのアクセスを可能にする

 神の思いは道徳的次元で善悪をめぐって同害報復のような正義(Lex talionis)のもとに生きる人の思いと異なる。一人の「迷える羊」を求めて、健全な一万人を野においても救いに来られる方である。健全な99匹の羊を置いて或いは9999匹をおいて一匹の迷える羊を探すことは経済原則即ち肉の法則にあわないであろう。さらには司法的な等しさの分配にも適合しないであろう。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業の律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。

 この愛、憐みは本来的にわれと汝の等しさの相互性のうちに成立するが、この相互性故に、肉に埋没し肉において生きている限りその底にある心魂の部位は育たない。二番底が抜けることなしには、肉は自己の生存と繁栄に第一に関わる自然法則であるために、欲望のカモフラージュの愛はともかく、相互性の愛を経験することはできない。愛されて、憐みをかけられて初めてひとは愛するようになる。

 レビ記の記者は「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないという業の律法を伝えている。そのとき彼は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。人類は愛を永遠との関連においてしか語ってはこなかったのである。

 迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。

 憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運(moral luck)」と呼ばれるひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛されることを経験し自覚することなしにはまた相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような自覚や知識を伴うものである。「愛は神からのものであり・・神は愛だからである」(1John.4:7-8)。主イエスに罪赦されたことの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされるからである。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者は[神]ご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも愛の相互性に基づかない。愛を求めない者には愛は生起しない。「わたしは清い者には清い者となり、僻む者には僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。かくして、ひとは喜んで敵をも愛することであろう。「「もし汝の敵が飢えるなら、手ずから食べさせよ、渇くなら、その者に飲ませよ・・」。悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:20-21)。

 イエスにおいて神は人類への愛を示した。罪なきイエスの身代わりの死は、右の頬を打つ悪行に対し左の頬をも差し出し、すべての者への愛を成就することによる応答であった。「キリストの愛われらに迫れり」(2Cor.5:14)。彼は父の御心として信じた愛の業を信のもとに遂行した。それ故に十字架の現場に「神はキリストのうちにいましたのであって世界をご自身と和解させており」(2Cor.5:19)と報告されている。御子の身代わりは神の愛をわれらに結び付けるものでもあった。「キリストはわれらがまだ罪人であるとき、われらの代わりに(huper hēmōn)死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである」(Rom.5:8)。父なる神はその現場におり罪人との間の籬(まがき)、障壁を取り去るのに十分なものであるとして御子と共にあった。十字架は神ご自身の「現臨の場」(Rom.3:26)であった。

7結論

 かくして神の国とその義とは「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものは何もない」(Rom.8:36)ことの知識を介して身近なものとなっていくだろう。そのことにより天と地は正しく秩序づけられるであろう。従って、煩いのなさの根拠は宇宙のかなたにある神の国であるというよりも、「神の国は汝らの只中にある」(Luk.17:21)と言われたナザレのイエスと共に生きることのうちに見出される。そしてそれは最も負いやすい軛である。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)

 

 

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