「汝ら裁くな」

[本日の聖書講義は録音の操作の誤りにより、音声を掲載できません。申し訳ありません。原稿は以下の通りです]。

「汝ら裁くな」

                                             日曜聖書講義2020年10月18日

1テクスト

「汝ら裁くな、裁かれないためである。というのも、そこにおいて汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれるであろう、そしてそこにおいて汝らが測るその測りにおいて汝らに測り与えられるであろうからである。何故汝は汝のきょうだいの目にある塵を見るのか、しかし汝の目にある丸太に気づかないのか。或いはどうして汝は汝のきょうだいに言うのか、汝の目から塵を取らせてください、と、見よ、汝の目の中に丸太がある。偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう」(Mat.7:1-6)。

2 知性と人格の混乱 ―否定的なパトスが示すもの―

山上の説教もついに七章に到達した。七章はわたしにとってとりわけ忘れられない思い出の章である。これまでの箇所と何度も行きつ戻りつしながら、学んでいきたい。「裁くな」である。ひとを裁くとき、イエスはものごとを明晰に見る知性と心の平静、平安を失い自分は正しいという思い込みの中にあり高ぶっていると言う。

 突然否定的なパトスに襲われることがある。怒りや憎しみや欲情など、心をかき乱すものに襲われることがある。アリストテレスなら、身体の受動的反応であるパトスについて、「パトス(感受態)はへクシス(態勢)のセーメイオン(徴)である」として、どのようなパトスが沸き起こるかによりその各人のそれまで培った心の実力、習慣としての態勢(ヘクシス)がどのようなものであるかが分かると言うであろう。パトスはその実力を示す徴・サインであると言う(Ar.Nic.Eth.II3)。

 ひとは他人が気になり、否定的なパトスを持つことがある。そこに伴うのが裁くという相手の人格についての否定的な判断である。自分の目の中に丸太がはいっており、よく世界が見えていない状況が設定されている。ものごとを正しく見えていない状況での相手の人格に否定的なことを発言することは、自らはそうではなく正しいという暗黙の前提のもとにあり、高ぶりや、偏り、偽りという人格的な混乱を含んでいる。そのような対話はよく見られることであるが、テクストにはこうある。「どうして汝は汝のきょうだいに言うのか、汝の目から塵を取らせてください、と」。このように自己反省もなしに高ぶりの故に他者が気になりつつ、むかつきつつ相手に失礼を働き、相手を変えようとする言葉が発せられるとき、少なくとも相手を愛していないことは確かである。

2「愛」と「喜び」の時間軸における分析

 ひとは隣人を愛そうとするとき、裁きのもとにいない。その意味で「裁き」の対義語は「愛」である。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。裁きの背後には自己中心的な思いが隠されている。愛のうちにある者は否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。

 愛は希望におけるわれと汝の等しさであった。支配からも被支配からも唯一自由な場所において出来事になるわれと汝の等しさが出現することであった。そして愛の感情実質は喜びであった。この喜びのゆえに、即ち喜びは常に時との和解を包摂していることの故に、ひとは愛を永遠との関連においてしか語られてこなかった。

 これは感情を時間軸に即した分析により明らかにされる。愛のひとはいつも朗らかである。そのひとはいつも新しいものに出会っているからである。パスカルは「新しいものとの出会いは謙遜と勤勉をうみだし、古い自我への固執は傲慢と怠惰を生む」と言う(『パンセ』)。いつも新しいものに出会っているひとは、古い自分にしがみつくことなく、心を新鮮に保つことができる。しかし、そのひとは新しいものに出会うために、お金持ちで旅行ばかりしているわけではなく、いつも新しい視点、角度から日常のさまざまなことどもを眺め、受け止め直すことができるので、決して古くならず、新たな発見が今・ここで生起している。

 過去を左に未来を右に描き、時間が左から右に流れるものとして真ん中に現在を置いてみる。怒りや憎しみ後悔そして恐れや不安などの否定的な感情は過去や未来に囚われて現在を生きることのなかに生起する。朗らかな愛のひとは怒りや憎しみ等の過去に囚われてはいない。また不安や恐れそして欲望等の未来にも囚われていない。この今を心をまっさらにして生きているから、新たなものに出会っている。この真ん中にある現在に上から放物線を描いてみよう。確かに憎しみも不安も今感じる感情であるが、最も現在的な感情は「喜び」である。喜んでいるとき、ひとは過去によっても未来によっても捕らえられておらず、今を生きている、つまり時と和解している。過去による後悔もなければ、未来による不安もない。ずっと今が続けばよいと思っている。放物線が接線に触れるように喜んでいるひとは現在のうちで永遠に出会っていると言うことができる。苦難のただなかにあっても愛のうちにあるひとは希望を失わない。希望は現在に宿る肯定的なものの生起だからである。実は人類は永遠との関連においてしか愛を理解してこなかった。愛がなぜ喜びかと言えば、永遠が神の国がそこにあるからである。

 愛のひとは永遠が今・ここに降りてくることを求めて右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、敵が友と友となることを求める。支配からも支配されることからも自由な等しさ、シーソーのバランスが取れている状態、それが愛の一つの描写である。たとえ今バランスが崩れていても、愛のうちにある限りいつかはバランスが取れるという希望が湧きあがっている。夢は抱くものであるが、現実に根差す希望は湧き上がるものである。

3 認知的、人格的偏りから世界の全体のなかでの位置付けへ

 それに比し、裁きは多くの場合、あいつはこんなことをした、言ったと過去に現在を支配させることから生起する。裁きにはこのような否定的な感情が伴った相手の人格に対する否定的な判断である。審判の背後にあるのは否定的なパトスである。そこに自己吟味がなされないため、偽りとなる。偽りはこれまで学んできたように、二心、三つ心により支配されており、心の清さにおいてないことであった。

 一つのことに集中できないとき、ひとは他者との比較、裁きの誘惑に陥る。授業中の教室内で席が左右に座るS君とA君をめぐる一つのジョークがある。「先生S君が余所見(よそみ)をしています」。「ほおA君はどうしてS君が余所見をしているのを知ったのかい、君も余所見していたのではないかね」。ひとの欠点が気になるのは、少なくとも一つの価値基準や感情により形成される一面的な地平における左右の振幅のなかで何らかの規準を自ら選択しているからこそ、長所としてではなく欠点として認識される。まったく別の物差しを使用すれば、全く異なる判断もなされたことであろう。S君は「余所見」というより窓にへばりつくヤモリを夢中で「観察していた」のかもしれない。

 審判における認識は自らの限られた理解の投映以上のものではない。怒りとともに相手のこだわりや無能さらには偏りを責めるとき、何らかの規準のもとに相手を蔑んでいる。裁きにおいては自己吟味を忘れ、自分を棚にあげていること、そして相手を理解しようとする態度も括弧に入れていることが前提とされている。ひとは多くの場合ひとには言えない過去や偏りを背負っており、またひとに知られない身体的制約を抱えていたりしており、その制約のなかで生きている。裁くとき、多くの場合、それらへの顧慮がなされていない。それは単に知らないだけなのかもしれない。一切を正確に知る全知な存在者のみが正確に審判できる所以である。

 或いは、例えば、いつも同じ思いが沸き起こり、相手と同じようなことを言い争う、そのような循環を繰り返すとき、そこでの規準は相手に対す理解において何ら深められていない。その理由は同じパトスがその規準を伴っているからである。これは「トラウマ」と呼ばれる、心の傷が何かの拍子に目覚めさせられることによる繰り返しである。心をこじらせない方法として知恵あるひとたちは何か諍いが起きたときには、憎しみに発展しないようその初期の段階で否定的な芽を摘む努力をしている。だからこそイエスも宮に捧げものを供えに行く途中で、自分に「何か反感を持っているひとに気づいたなら」、引き返して仲直りせよと言っておられた。これは五章で学んだ。

 ストア派のエピクテトスは感情の平静であることを賛美するが、感情の操作、対応術を述べるなかでこう言う。「誰かが君を怒らせるなら、それはただ君自身の観念が君を刺激しているだけなのだ。だから何よりも君の観念によって、事の最初の瞬間に心を奪われないように努力するがよい」。カール・ヒルティはこの教えに同意して言う。「侮辱の瞬間に憎悪を心に入りこませてはならない。時をおけば憎悪を克服することは容易になるものである。ところが憎悪が一度巣食ってしまうと、それを根絶するのに骨が折れる。だいたいいわゆる「敵」は、われらが興奮の刹那にともすれば思い込むほどさほど有害なものではない。・・また彼らの憎悪が君になんら反応を呼び起こさなければ、その意図のほんのわずかの部分しか実現しえないものである」(『幸福論』Ip.59(白水社 1964)。今の人たちなら「スルーする」心のゆとりの大切さを説くであろう。

 心というものはとても傷付きやすいものであり、そのつどケアが求められる。「裁くな」というイエスの言葉は実はひととひととを引き裂き、歴史のなかに否定的なもの破壊的なものを生み出す悪魔的なものの介入をブロックする最前線の防波堤だと言える。デヴィルはいつもひととひとを引き裂き、神に対抗しようとしている。その意味において、ひとが生きることは憎悪や諍いそして争いを介して世界を破滅させようとするデヴィルとの戦いなのである。隣人は誰であれ愛すべき存在なのである。われらの敵は罪であり、「罪の値」である「死」である(Rom.6:23)。敵を見誤るとは愚かなことである。

 翻って、自己吟味を始めたなら、関心は相手に向かわず自分に向かい、またそこでも何らかの規準のもとに自惚れたり、卑下したりする。しかし、規準そのものがどこから来るかを吟味するとき、吟味されざる自らの心の態勢、実力が露わになる。規準そのものが無反省にパトスに引きずられてパトスに癒着しつつ使い古された退屈な規準が再び頭をもたげる。「汝らが測るその測りにおいて汝らに測り与えられる」。自らがこだわる計測規準こそ自らの現在地を明らかにするものである。このように、他人を審判するとき、返す刀で自ら自身を審判している。ブーメランのようにその言葉は自らに戻ってくる。何らかの規準が自らのこだわりをはしなくも明らかにするからである。ひとは優劣や正邪そして善悪を判断して生きていく。それを可能にするのは一つの測りであり、そのもとにあることを自己と相手の「共約性(measure →commensurability)」と言う。例えば、自らにコンプレックスがあるもの、気になるものを相手に投映することが起こる、例えば自らの対極にあるものとして褒めそやしたりして。そこでは、一つの規準のもとに世界が切り取られてしまっており、世界の豊かさ、多様性が無視されている。

 世界の一切がそして人間の内面が明晰によく見えている場合には、何か一つの規準にこだわることはなく、全体の秩序のなかに相対的な位置づけがなされるため、自らがそれに引きずられてしまうそのようなパトスに襲われることはないであろう。冷静に相手の行動や思考を全体のなかに位置付けることができるであろう。そのひとの唯一の規準が自らを救い出してくださった神の栄光を表すことであり、地の塩、世の光になることだけに集中しているとするなら、何か否定的なことが起きても、どうすればその窮境から相手が脱却できるかに集中するであろう。地の塩とは食事に味わいをそえる調味料のことでありまた健康を守るように、そして大地を固めるように、ひとに気づかれずとも隠れたとこころで世界を支えるそのような働きである。他方、世の光は地の塩とペアで理解されるべき態度であるが、常に目覚めており、明晰で全身が明るく光り輝いており、ひとびとを導くリーダーの働きである。すべては神の国の到来に照準があわせられる。ひとは「柔和の霊」(1Cor.4:21)を頂いているとき、侮辱に対しても、暴力に対しても平静に対応できるであろう。いつも「叡知の刷新」により「変身させられよ」即ちキリストに似た者になれとパウロに励まされる所以である(Rom.12:2)。

4 アイロニー(皮肉)とユーモア(朗らかな機知)

 わたしはここで裁くこと・審判することをアイロニー(皮肉)とユーモア(朗らかな機知)の視点から分析したい。裁かないひとは常に肯定的な心のモードにおり、朗らかな笑いのもとにいる。朗らかな笑いは何も変哲もない状況において、また当たり前だと思っている状況において、突然その場にそぐわない日常的ではないことがら、また予想を裏切ることがらが、しかもウイット(機知)によりその場を何か明るいものに変える力、新しい視点が現出するときに起きる。ユーモアあるひとはいつも新しいものに出会っている。いつも新しいものに出会っているひとは、古い自分にしがみつくことなく、心を新鮮に保つことができる。「太陽のもとに新しいものは何もない」(Eccl.1:9)と伝道の書の著者は悲観的であるが、永遠なもの、愛がそこに放物線が接線に触れるようにおりてくれば、すべてが刷新される。

 アイロニー(皮肉)は一つの視点の変化をもたらす。アイロニーは知識を持っている者があたかも知らないかのごとく振る舞い、相手の無知に気づかせ相手を無知の状態から知識の状態に変革する手法である。ときに、無知を暴き出すので、相手を傷つけてしまうことがある。しかし、そこに相手の知性に対する信頼があり、受け手を何らかの仕方で信頼していなければアイロニーは成立しない。相手、受け手を否定的に決め付けることはなく、相手の知性による気づきを促すという点で、単なる破壊的行為とは異なる。アイロニーはしばしば相手が一つのことを真実であると思い込んでいるとき、それを正面からではなく、或る知識を伴い否定し、相手の変革を促す手法である。ひとは何かを思い込み、他のことに考慮がおよばなくなっているとき、第三者の客観的な視点から自らを眺め、捉えることができなくなっている。アイロニーはその主観的な絶対化を知識によって破壊する。

 しかし、アイロニーはユーモア(朗らかな機知)には及ばない。何に関して及ばないかと言えば、現状を変革する力においてである。ユーモアはアイロニーをさらに振幅させてのみ生じる。キルケゴールは「アイロニーの最大の振幅がユーモアである」(日記1837.8.4)と書いている。否定をさらに揺さぶり否定するとき、肯定にいたる。そして、その振幅をどこまでも続けるとき、そこにはもはやアイロニーではなく、ユーモアが成立している。なぜかと言えば、ひとは通常他者とそこまでとことん付き合うということはないからである。アイロニーのひとは手を汚さず、お高いところから、無知なる者をあざ笑うが、ユーモアのひとは相手を理解し、つまり、相手の下に立ち(under-stand)、相手を肯定し、アイロニーの視点を持ちつつ、相手と共に、その思い込みから逃れ、さらに、次の段階に共にゆく。ここには愛がある。

 ユーモアがアイロニーの延長線上にあると言っても、それを振幅させる力を得るのは愛、理解そして共苦である。知識による否定を通じての変革に終始せずに、場の雰囲気にゆるみが起きるとき、朗らかな笑いとともに変革が生じている。例えば、ハエが窓の外にでようとして、窓がそのそばで十センチほど開いているのに、窓に突き当たる光景をよく目にする。ひとはそこに滑稽なものとペーソス(悲哀)を感じることもあるだろう。なぜそのように感じるのだろうか。ハエは主観的にはとても一生懸命なのに、周囲の状況を冷静に把握していないその無知な思い込みにその感情は起因する。アイロニーのひととユーモアのひとは異なる対応を取る。アイロニーのひとはこう言うでもあろう。「ハエ君、精がでるね。君の羽の強度と窓の強度を計算すると、君は見事に十年でこの窓からでられるよ。時に君の寿命は何日だっけ」。アイロニーをもう少し揺らすも、アイロニーに留まるひとはこう言うだろう。「ハエ君、精がでるね。僕も運動しよう」、そう言って窓を開ける。最大限にまで揺するユーモアはそのときどう言い、どうするのであろうか。「ハエ君、今日は暑いね」と言いながら、がらっと、窓を開けてやるだけでよい。タヤスイコトダ、アイスレバヨイ。

 そこでは否定的なパトスを伴う審判は生起しないであろう。自己への顧慮がないため、相手の窮状をそれ自身として受け止め、信のもとにその窮状の脱却に共に歩むであろう。一つの知識に留まらず愛のもとに知識の肯定と否定を積み重ね相手への理解を深めていくように、愛のもとに得られる相手や事柄そのものの知識のもとに、事態の肯定的な変革に向かうことであろう。アイロニーを最大に振幅させるとき、ユーモアに愛のもとにある緩みに到達する。

5共知への探究

 イエスが「そこにおいて汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれるであろう、そしてそこにおいて汝らが測るその計測において汝らに測り与えられるであろう」と言う時、その規準となる審判や計測は決して一つではない。アイロニーの振幅に応じて、規準そのものが変革されていき、最後は神の愛に到達するであろう。ひとは常に探究のもとにある。イエスとその山上の説教とを良心・共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識であったが、それは相手方との共知(con-science)であった。神にとって明らかなことが本人にとっても明らかになること、これが神との共知である。

 パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座である。彼は言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。探究は神との共知にいたるまで続く。そしてそれはアイロニーのもとにではなく神の愛のもとにキリストが共にい給うユーモアのうちに遂行される。

 審判は何らかの一つの規準にこだわることにより陥った心の偽りである。その規準こそ、パウロによれば「業の律法」だったのである。これまで学んできたようにナザレのイエスには偽りはなかった。福音書において報告されるイエスご自身は旧約の伝統のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を遂行していた。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。「業の律法」のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある「信の律法」への立ち返りを促すアイロニーであった(Rom.3:27)。パリサイ人はあまりにおのれの正しさに固執していたため、イエスはまずそれを破壊しなければならなかった。彼らが立っていた道徳観の限界と偽りを暴き出さずにはいられなかった。そしてそれはモーセの業の律法の自己満足的な理解であった。

 パウロは言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。自他に対しこれをするから、これをしないから善くないという主張は盗むと盗まない、貪ると貪らないという二者択一において正義が判別される業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(Rom.3:20)。イエスは信の律法のもとに愛を成就しつつあるそのなかで、自ら気づいていない彼らの「目のなかの塵」を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。

 パウロは言う、「汝が識別することがらにおいて、自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)。「識別すること(dokimazein)」は「審判すること・裁くこと(krinein)」とは異なる。「蛇の如く聡く」(Mat.10:26)と命じられるように、状況を正確に識別することが求められる。イエスは全身が光のように明るい方であり、一切を正確に見抜いておられた。彼はパリサイ人の状況を正確に「蛇の如く聡く」識別していたのであった。

 パウロも或る識別のもとに、不和や分裂をもたらすある種の人々とは接触しないように勧める(1Cor.5:2)。自らの心が愛により清められ、ものがよく見えるようになったとき、相手の状況を神の国との関連において識別することができ、冷静にその現在地を測り、その乗り越えを提示できるであろう。イエスは言う、「偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう」。ひとは「目には目を」の比量的な業のモーセ律法のもとに生きる限り、アイロニーからも、なによりも他者への裁きからも自由になることはないであろう。人類は神に愛されている、御子の生涯のゆえに救いは確かであるという信の律法のもとにあるときだけ、裁き、審判から解放されるであろう。ものがよく見えるようになり、敵が友となり、神の栄光のために最善をその都度選択することができるようになるであろう。

ひとつのことははっきりしている。誰であれひとを裁くことを避けたいと思うひとがいれば、そのひとは業のモーセ律法から離れ信の律法のもとに生きることによってだけ可能になると確かに語ることができる。たとえその信の対象が神の固有名「ヤハウェ」の名前をえないとしても、何か一切を正確に知りまた憐れみ深い存在者がおり正確な審判者のもとでいつの日か正しく審判されるという一般的なものであれ、その信仰のもとにあるとき、ひとはそこにわれらが住むその全体像が次第に明らかになっていき、一つ一つの営みがそのようなスケールのなかに位置付けられることになるであろう。そしてそこでは矮小な審判から自由にされていくであろう。

6結論

 山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスご自身は人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与え、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらす方ではない。誰にも担いえない重荷を課す方ではない。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう」、そう言われる方である。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7,)。

 ナザレのイエスは自らの生命をかけて父なる神に自ら神の子であることの信の従順を貫き、そして神の子であることを証することは彼を十字架に磔た敵である罪人を贖うべく、罪なき者として罪ある者の罪を担い、身代わりの死を遂げることであった。この身代わりの死には罪を赦し「新たな被造物」(2Cor.5:17)を造るほどの愛の力がそなわっていたのである。その言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方である。彼に眼差しを向けている限り、福音が語られ、誰にであれ喜びが届くことであろう。「愛する者たち、互いに愛そう。愛は神からのものであり、そしてすべて愛する者は神から生じそして神を知っている。愛さない者は神を知らない。というのも神は愛だからである」(1John.4:7-8)。

[参考文献 千葉惠「笑いの構造―アイロニーの最大の振幅としてのユーモア―」『笑い力―人文学でワッハッハー』 千葉惠編 (北大出版会 2011)]

 

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