クリスマスメッセージ(2020年4月~12月聖書講義題目付き)
学寮クリスマスメッセージ2020
(2020年4月~12月聖書講義題目付き)
千葉 惠
クリスマスおめでとうございます。御子のご生誕を感謝し賛美します。この一年は人類史的なあるいは黙示録的な一年でした。人類にとってこのいっそう濃くなっていく闇のなかで光が燦然と輝いています。闇が濃ければ濃いほど、天上の導きの星のように輝きを増し、ひとびとの歩むべき道を指し示しています。すでに預言者イザヤが今から約2700年前にこの救い主を預言しています。
「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を読んで霊妙なる議士、大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。
牧場の羊飼いたち、東方からの三人の博士たちは大きな星に導かれベツレヘムの馬小屋において受肉し、自然的な存在者となった神の子に出会い喜び拝しました。天使は高らかに賛美しました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」。彼らは預言通りについに救い主が誕生したことを確認し喜んで帰っていきました。またそのころシメオンという信仰深いひとには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という示しがありました。シメオンはマリアに抱かれエルサレムに昇ってきたイエスを見つけました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです。異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.25-35)。キリストの誕生は長い準備をかけてこのような展開のもとに実現しました。ハレルヤです。登戸学寮はこのようなおとぎ話とも思えるような歴史の展開のうえに築かれています。
2 この一年間登戸学寮に妻とお世話になり、皆さんとの共同生活は何かのご縁でありましたのでしょう。この間大きな事件や、怪我、病気などが学寮において発生しませんでしたことは感謝でした。ただウィルスが蔓延していることもあり、いつも何か緊急事態が発生するのではないかという緊張状態におかれている日々でした。
共同生活ゆえの小さなことは日々生じており、常に心魂の刷新が求められました。わたし的にはそれは聖書に立ち返るといつも心が新たにされますので、困惑することが生じても、喜びが戻り感謝でした。換言すれば、聖書を常に必要とする日々であったということです。
はじめて職務として日曜聖書講義を勤めまして、今年は山上の説教を三十回かけて取り組みましたが、毎回eye revealing目を開かせるものでした。若者的に言えば、人類は世界を救う真のヒーローが誕生するその現場に立ち会うことができました。若者たちはゲームにおいてヒーローになることでしょうが、やはりそれはあくまでも虚構の世界、ヴァーチャルな世界なのであろうと思います。人類は唯一の現実世界を「歴史」として歩んでおります。そしてひとは援け、援けられつつ、また罪を犯し、犯されつつ生きております。聖書はその現実世界における救いを展開しています。遠く離れた二千年前のヒーローを理解するには、ただテクストを正しく理解するしかなく、しかもその理解が進んだとき、より現実感が増します。
聖書はそしてナザレのイエスはユダヤ人や地中海世界の当時の人々が描いたフィクション・虚構に過ぎないという意見は当然ありますが、あらゆる可能世界(every possible world)はこの現実世界(the actual world)との関連においてその距離が確定されます。現実に困難があり、悲惨があるとき、人類は真剣にその克服に努めてきました。今日ではナノスペースから宇宙空間まで解明されつつあり、ルイ十四世が受けることのできなかった医療を受けることができます。現実のあまりの過酷さやつらさに、或いはこの現実への軽蔑や挫折、空虚におそわれるとき、現実感覚が乏しくなります。そのとき、ひとは虚構に向かいまた自らの居心地のよい繭のなかに身を沈め閉じこもります、さらにはこの世界に別れを告げるということまでおきます。
巷はフェイクニュースで満ちており、ひとびとを惑わしています。どんなに偽りであっても、その物語が矛盾律に反しない限り可能世界に分類されるでありましょう。なお、聖書には目の見えないひとが見えるようになり、歩けないひとが歩けるようになり、死者が甦るという「力ある業(dunamenoi)」が報告されています。例えばイエスが湖のうえを歩くというような所謂「奇跡」はD.ヒュームによれば自然法則例えば万有引力の「一時的停止」や「侵害」と記述されますが、人間が自然法則一切を知っているわけではないので十全な規定ではありません。人類のまだ知らないより上位の自然法則を介して神が時空に関与している可能性があり、これらも一概に否定されません。
ともあれ、われらは明確な偽りを真理であると信じることはできません。認知的な偽りそして山上の説教で学んだように二心や三つ心をもった偽りの心の在り方を信じることはできません。これが正しい信仰と偽りの信仰ないしカルト的な信仰を分ける分水嶺です。イエスは道徳的存在者としての人類にとって究極的な在り方を山上の説教で展開し、それを自らが神の子の信仰のもとに十字架の死に至るまで従順の信仰を貫き、自らの言葉を偽ることなく実現したのでした。彼においては一言一句と一挙手一投足が合致していたがゆえにこそ、真実な権威がそなわったのでした。それ故に、何らかの教えによって自らが洗脳させられるのでも、自らを洗脳するのでもなく、心魂のうちがわから納得するということが道理ある信仰には不可欠です。わたしは長く聖書の中心的教えに矛盾があると思い、苦しんできましたが、それは流布版ラテン語訳の誤訳のゆえにであり、その所謂信に基づく正義の理論が無矛盾であることを理解し、心から安堵し納得しています。
この一年正しくテクストを理解することに努めました。難しかったかもしれません。しかし、福音書の言葉を正しく引用している限り何等か伝わるはずだというテクストへの信頼は揺るぎませんでした。皆さんには初めて踏み入る世界であったとしても、イエスご自身におかれては彼の言葉とその言葉に合致した働きが遂行され、それが犯しがたい「権威」を自然に放ち力に溢れ、この二千年間ひとびとに平安と喜びを生み出してきました。その現場にできるだけ接近したかったのですが、私のいたらなさ言行不一致故に、多くのつまずきを与えたかもしれません。
洗礼者ヨハネはイエスの靴の紐をほどくにも相応しくないと自らの認識を伝えましたが、このヨハネの自己認識以上に謙虚さを表現することは難しいです。まず靴の前にかがみ頭を下げねばなりません。そしてヨハネは靴に触ることさえ憚(はばか)られると主張しています。この洗礼者ヨハネの自己認識の前にただ頭を下げます。或いは、病気の子供を抱え治癒を懇願するカナン地方の女性にイエスは「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされてはいない」と言われましたが、そうすると女性の「その通りです。しかし、犬は食卓から落ちるパンを食べることができます」との応答にイエスは深く感動し、その大いなる信仰を嘉みし、癒しました。
このような憐みにすがりつつ。この無益で愚かな僕を憐みくださいと赦しを請いつつ、聖書を取り次いできました。他方、誰もがこの憐みのゆえに信仰を持つことができるという点で誰もが同じ心魂の力能においてあると言うことができます。講義のゴールはナザレのイエスが救い主であるということ、真のヒーローであることを正しく伝えることとにより、そのヒーローとみなさんが出会う準備の何らかの手助けをするということでありました。
皆さんが学業やスポーツそしてゲームなどでヒーローになることを目指しているように、わたしも真のヒーローを正しく理解し、伝えたいという思いの中にあります。ただし、聖書の取次の場合には徹底的に僕にならなければ、真のヒーローを伝えることはできないという相違があります。イエス以外に自らを主張したり他を崇めた場合には偶像崇拝Idolatoryとなります。巷にアイドルは溢れていますが、それに抗して真の英雄を崇拝したいと思います。誰にもその心魂の根源にそれを崇拝する、信じる力能が与えられています。信は心魂の根源に生起する肯定的、創造的な生のみなもとです。
或る方が朝礼拝で、人間は存在しているだけで素晴らしいという話をされましたが、それは聖書的には「内なる人間(ひと)」という神の憐みを受ける部位、二番底が肉という自然的な部位の底に備えられているために、外側の身体は事故などで破れてしまい十分に自己を表現できなくても、内的にいつも新たに豊かでありうるということであると思われます。自ら身体を介して表現する力能を奪われたひとであっても、各人には聖霊の援けをいただく「内なる人間」と呼ばれる部位があり、そこでは第三者に語ることもまた第三者によって確かめることができなくとも、その方と神とのあいだで信と信の関係が結ばれていることでしょう。パウロは言います、「外なる人間は日々滅び衰えるが、内なる人間は日々新たである」(2Cor.4:16)。
この「内なる人間」が生物的な基礎のもとに、それと同時に創造者なる天の父に似せて造られた者として生物次元に還元しきれない部位が力能において与えられているがゆえに、この現実の大嵐のただなかに投げ出されたとしても、この現実世界のなかで希望をもって生きることができます。それ故に、「霊によって貧しい者」、すなわちこの世界ではなにものによっても満たされず、義に飢え渇き、愛しい者を喪失し悲しんでおり、迫害にあい争いに苦しみ平和を造る柔和な者、心の清い者たちが祝福されているのでありましょう。
宇宙万物の創造者の御子がこの地上に受肉されたこと、そしてナザレのイエスがこの唯一の現実世界の救い主であることを、自らの心魂の現実のなかで理解し納得できることは祝福されたことです。ハレルヤです。あらためて、クリスマスおめでとうございます。
二〇二〇年登戸学寮日曜聖書講義一覧(四月五日~十二月二〇日)
山上の説教連続講義 マタイ福音書五章~七章
四月五日 権威ある祝福
四月一二日 初めての聖書
四月一九日 第二福 悲しみの文法
四月二六日 柔和な者たち
五月三日 悲貧柔者の祝福と怨念(ニーチェ)
五月十日 義の渇きと憐み
五月一七日 心の清さ
五月二四日 平和を造る者 One Team, One Health, One Life
五月三一日 平和を造る者その二 ―執り成す者―
六月七日 正義と迫害
六月一四日 正義と迫害(その二) モーセ契約から新約へ
六月二一日 祝福されるひと ―八福の範例・イエスの生涯―
六月二八日 祝福されるひと(その二)
七月五日 祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―
七月一二日 偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―
七月一九日 偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―
七月二六日 「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
八月二日 山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―
八月一六日 桝形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教
八月二三日 枡形夏の聖書講義2 パンデミックと聖書 (その一)―イエスの山上の教え―
九月一三日 桝形夏の聖書講義3 パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―
九月二十日 道徳次元の内破―山上の説教概観―
九月二七日 主の祈り
十月四日「神の国と義」の求めのなかでの「断食」―野の百合空の鳥を見よ―
十月一一日「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―
十月一八日「汝ら裁くな」
十月二五日「豚に真珠」
一一月一日 探求と発見(1)―「探せ、探せば見つかる」―
一一月八日 探求と発見(2)―「探せ、探せば見つかる」―
一一月一五日 探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―
一一月二二日 黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―
一一月二九日 狭き門―「私は道、真理、生命である」―
一二月六日 良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢と恩恵―
一二月一三日 岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる生―
一二月二十日 山上の説教を顧みる