神の力能の顕われ―奇跡物語序論―

神の力能の顕われ―奇跡物語序論―

  新年2021聖書講義 マタイ福音書8章1~17節2021年1月10日

テクスト

 イエスが山からくだられるとき、多くの群衆が彼についてきた。そして見よ、ひとりのレプロス(重い皮膚病者)が彼のもとに進み出てひれ伏して言う、「主よ、もし汝がお望みなら私を清めることができます」。イエスは手を伸ばして彼に触れて言う、「そう望む、清くなれ」。すると直ちに彼のレプラは清められた。イエスは彼に言う、「誰にも言わないように注意せよ、ただ戻って汝自身を祭司に見せそして彼らに対する証としてモーセが定めた捧げものを差し出しなさい」(「レビ記」13章参照)。

 イエスがカペルナウムに入ると、百人隊長が進み出て彼に嘆願して言う、「主よ、わたしの僕が全身麻痺となり、ひどく苦しんでおり、家で臥せっています」。イエスは彼に言う、「わたしが行って彼を癒してあげよう」。百人隊長は答えて言った。「主よ、わたしは汝がわが屋根の下にお入りいただくのに相応しい者ではありません。ただお言葉をください、わが僕は癒されることでありましょう。といいますのも、わたしは権威のもとにある者です、わたしのもとにいる兵士たちを持っており、この者に「行け」と言えば、その者は行きます。別の者に「来い」と言えば、その者は来ます。また私の奴隷に「これを為せ」と言えば、彼はそれをします。イエスはこれを聞いて驚いたそしてついてきた者たちに言った、「まことにわたしは汝らに言う、このような信仰をイスラエルにおいて誰のもとでも見出したことはない。わたしは汝らに言う、大勢の者たちが東からそして西からやって来て、天の国においてアブラハムやイサクそしてヤコブと共に横になり寛ぐことであろう、しかしその国の子供たちは外の闇に追い出されることであろう。かしこでは泣く者と歯噛みをする者がでるであろう」。イエスは百人隊長に言った、「戻りなさい、君が信じた通りに、ことが君に成るように」。そしてその時僕は癒された。

 またイエスがペテロの家に入ると、ペテロの姑が熱を出し臥せっているのを見た。彼が彼女の手に触れると熱は彼女を去った。彼女は起きてそして彼に仕えた。夕方になるとひとびとは彼のもとに多くの悪鬼につかれた者たちを連れてきた。イエスは言葉によって霊どもを追い出したそして悪い状態にあるすべての者たちを癒した。預言者イザヤが語っていることを通じて語られた「ご自身はわれらのもろもろの弱さを担ったそしてもろもろの病を負われた」が満たされるためである」(Mat.8:1-17)。

 1「奇跡」という言葉をめぐる基本的理解

「一切は不思議だ、一人の人間を生みだすことは少なくとも死者から人間を甦らすことと同じだけ偉大な不思議である。畑の中で増殖していくその種はキリストの手において増殖されるパンと同じほど不思議なことだ。奇跡はそれらの日常のそして常に繰り返される過程よりも何か一層偉大な神の力能の発現ではない。そうではなく一つの異なる発現である」(Notes on the Miracles, R.C.Trench p.12(Kegan Paul 1911)

  2021年を迎えました。尋常ならざる日々です。日本でもCovid-19の「感染爆発」が専門家委員会会長から語られ始めています。緊急事態宣言が7日に発令されました。パウロが言うように、「被造物全体が贖われることを求めて呻いている」そのような状況に世界中が包まれています。このようなグロ-バルな苦しみは先の世界大戦以来でありましょう。戦争は端的に人災であり、ウィルスは自然事象であり異なるが、この自然事象への対応において人間の叡知が求められています。長引けば長引くほど天災と人災のあいだの境界があいまいになってくることでしょう。医療従事者の方々は自らを省みず苦しんでいる人々を助けています。またリスクを冒しながら社会の最前線で働いている人々がいます。少しでも彼らの努力に報いることの心がけとしては自ら感染しないことそして感染させないことです。ともかく、自らが既に感染しているかもしれないという前提のもとに、隣人に伝播させないよう留意することは、各人の責任に属します。この最低限このことはできます。

 今日も落ち着いて聖書を学びましょう。聖書を正しく理解するとき、わたしどもは不思議な平安と力を得ることでありましょう。今日から所謂、奇跡物語です。これについて何か心の底から偽りのないものを語ろうとするとき、何を語りうるのか一つの大きな挑戦です。

 「奇跡」と訳される英語miracleはラテン語の動詞miror (being astonished at, marvel)とその不定形mirari(驚く)を語源としてmarvel, marvelous(素晴らしい)などの語にもつながる。福音書やパウロ書簡においては、「力能」、「力の顕現(manifestation of power)」、「力ある業」と訳されるdunamisが用いられる。驚くべきことを為す主体の側の力能、力に関心が注がれ、その力能が生み出す果実が驚くべきものだと言うことができる。

 パウロにおいて「もろもろの徴と不思議の力能において(en dunamei semeion kai teraton)」(Rom.15:18)と言われることがある。「徴と不思議」が当該の「力能」の顕われであると理解することができる。「力能」は待機的なものを含めいつでも発現できるが、或る時点では発現してはいず、待機の状態にあるそのようなものであり、その顕われが「徴」や「不思議」と呼ばれる。「徴(semeion)」は天上のもの、神の今・ここの働きを地上にある別のものを通して指し示すそのようなサイン (徴、代替、象徴)であると言うことができよう。エジプトの魔術師がプァラオに「これは神の指です」(Exod.8:19)とモーセの驚くべき業を形容しているが、出エジプトに至るモーセの働きはひとつの神の力のサインであろう。「不思議(teras)」は尋常ならざる出来事、非凡なもの、不思議(prodigy)を意味表示し、この単語は怪物や奇怪・奇形(monstrosity)につながるものであり、やはり驚異に値するものごとを意味表示する。

 「力・力能」は動詞「実現する、生じる(ginesthai)」を伴う。従来の「力ある業」という顕現をも含めたdunamisの訳語はこの動詞をこみにして、理解のしやすさのために「力のある働き」さらには「奇跡」とという訳語がdunamisの一語にこめられてきた。イエスは「多くの力」「多くの力ある働き・業」を行った町々が悔い改めなかったことを見て叱ることもあった。「イエスはご自身の最も多くの力能[ある業・奇跡](dunameis)がそこにおいて生じた町々が悔い改めなかったことを叱責し始めた。ああ、なんということだ、汝コラジン、ああなんということだ、汝ベッサイダ。汝らに生じた数々の力能[力ある業]がもしツロにおいてそしてシドンにおいて生じていたなら、これらの町々は粗い布をまといそして灰の中でとうの昔に悔い改めたことであろう。そのうえ、わたしは汝らに言う、審判の日には、汝らよりもツロにおいてそしてシドンにおいてより耐えうるものとなるであろう。そして汝カペルナウム、汝は天にまで上げられることにならないのではないのか。ハデス(地獄)に汝は落とされることになるであろう。というのも、汝において生じた数々の力能[力ある業]がソドムにおいて生じたなら、ソドムは今日まで存続していたことであろうからだ。そのうえ、わたしは汝らに言う、審判の日には汝においてよりもソドムの地において、より耐えうるものとなるであろう」(Mat.11:20-24)。

 新約聖書では、このように「力」「力能」という訳語が最もふさわしい言葉dunamisを用いて、一般に「奇跡」と呼ばれるものを表現している。この力能は言葉においてそして働きにおいて発揮される。パウロや福音書記者が所謂「奇跡」について、この「力能」という言葉を選んだのはイエスの言葉に神の力能が宿っており、その不思議な現象よりもそのもとにある神の力能を強調するためであると思われる。百人隊長は権威をもっており、言葉ひとつで部下に命令すると部下はそれを実行に移す。山上の説教において、聴衆はイエスの「権威」(7:29)ある言葉に驚嘆したことが報告されているが、それは彼の言葉が明晰であり偽りがないことを心の底で受け止めることができたからである。そしてイエスは自らの言葉に信実であり、聴衆を裏切ることなく死に至るまで山上の説教を生き抜いたのであった。権威とは言行一致がもたらす偽りなく自ら湧き上がる力のことである。誰かが誰かに会うとき、相手が信実な人であるか、権威を兼ね備えた人であるか、それとも言葉だけの偽り者であるかを判断する。権威は各自の認知的、人格的力能のおのずからなる発現としての立ち居振る舞いから湧き上がるものである。今どきの言葉では所謂「オーラがある」ということに近似であろう。

 そのイエスの権威は神の力能の顕現として自らに備わっていた。これは尋常ならざることである。ひとはそのように信じ彼についていったのである。パウロにおいて、イエス・キリストを介して啓示された「福音」とは「信じる[と神が看做す]すべての者に救いをもたらす神の力能」であった(Rom.1:16)。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。パウロはひとを救い出すその福音に神の力能を見出し、これまでの一切の価値が逆転したと報告している(Phil.3:8)。キリストの信に基づき罪赦されたことから、この人生全体が、新たに、復活の主の生命に与るためのものという位置づけを得る。パウロは「ピリピ書」では信に基づく義がなったことを受けて、「義の果実」(1:11)としての知識を伴う愛の喜びを歌い上げている。

3自然事象に見られそして復活に窮まる「神の力能」

 所謂「奇跡」はキリストの復活においてきわまる。そこにおいて神の力能が十全に発揮されたからである。これを信じることができるなら、五千人の給食も病人の癒しも、ラザロの蘇生も理解することができる。奇跡物語はこのイエスの復活の準備であるとも語ることができる。イエスの生前中の様々な力ある業は彼の甦りを信じることのできるものとなる準備であったのである。それ故にイエスのこれらの尋常ならざるふるまいはすべて神の力能との関係において理解されねば、彼は単なる魔術師のようなものになってしまう。これらの力ある業において神の愛の力能を見出すことができるか、すなわち人格的な関係に置かれるかが問われている。どこまでも神の力能は愛において発揮されるからである。

 冒頭でトレンチの言葉を引用した。不思議を見る視点を逆転させるに十分である。われらは自然事象をあたかも当然のこととして、福音書で報告されるイエスの力ある業、所謂奇跡を驚くべきことと理解しがちである。しかし、神の視点から見るとき、われらが病気になること、それ自体が自然に反したことなのであり、その治癒は神の子にふさわしい権威ある業となる。トレンチは言っていた。「一切は不思議だ、一人の人間を生みだすことは少なくとも死者から人間を甦らすことと同じだけ偉大な不思議である。畑の中で増殖していくその種はキリストの手において増殖されるパンと同じほど不思議なことだ。奇跡はそれらの日常のそして常に繰り返される過程よりも何か一層偉大な神の力能の発現ではない。そうではなく一つの異なる発現である」(Trench p.12)。

 昨年の春ステイホーム期間にトマトを松井君の指導のもとに栽培したが、次々に赤い実がなっていった。これは驚くに値する。小さな苗がこれほどの力能を備えていたのである。イエスは幾つかのパンを増殖させ五千人の空腹を満たしたが、それは今どき可能になった野菜の促成栽培同様に、自然法則に即しつつ短い時間のなかで酵母か何かを膨らませたのであると思われる。われらはかつてルイ14世も受けられなかった医療を受けることができる。ウィルスのマイクロナノメートルという微小な世界の振る舞いまでわかってきている。現代は多くの奇跡的なことが通常のこととなっている時代である。未来は人間の知的な力能がさらに発揮され、かつて奇跡と呼ばれていたことが日常のことになるであろう。いかにわれらの思考様式が固定観念にがんじがらめにされているかがわかる。野の百合、空の鳥がどれほど不思議で素晴らしいmarvelousな自然の業であることであろうか。この宇宙の法則を理解する人類は宇宙の栄光であると言うことができる。

 

2言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)の相補的展開

 奇跡物語を理解する重要な視点は洗礼者ヨハネが獄舎につながれ、弟子を遣わしてイエスがイスラエルにおいて待望されていたメシアであるかを確かめるそのやりとりであるように思われる。旧約から新約への橋渡しを洗礼者ヨハネから学んできたが、新しい革袋と新しい酒を示す力ある業がイエスご自身によって語られている。

 イエスはヨハネの弟子にこう答えている。「行ってヨハネに伝えよ。盲人が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者たちは福音を告げ知らされている。わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:4-6)。

 これまで30回かけて学んできたように、イエスは3年と言われる彼の短い公生涯の始まりに山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その福音が歴史のなかに実現するか否かの途上の状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と業・行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲人が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者たちは福音を告げ知らされている。わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:4-6)。イエスは彼の力ある業が人々の躓きとなるであろうことをご存じである。これは現代のわれわれに対するチャレンジでもある。毎日一緒に生きている自分自身さえよく分かっていない人間に、どれだけ解明されてきた自然法則の背後にいまだ解明されていない自然そして宇宙の法則があるか知ることができない。われらは幼児のように好奇心に溢れた探求者であることができるだけである。盲人の視力が回復し、全身まひが癒される所謂奇跡は神の側から見れば、自然の秩序の回復にすぎず、ご自身の力能の発現以上のものではない。われらが奇跡に躓くのは単によく自己をそして世界を理解していないからにすぎない。

 「貧しい者たちは福音を告げ知らされている」。八福において、「その霊によって貧しい者たちは祝福されている」とあった(Mat.5:3)。この世のいかなるものによっても満たされず、天国を求めて飢え渇くその霊によって貧しい者たちが祝福されていた。相対的には経済的に満たされない者のほうがこの世に頼るものがなく、「神の国とその義」を求めやすいであろうから、より祝福されているとも言えるので、福音を告げ知らされて喜ぶ者がいれば、それはルカの平野の説教で端的に報告されている「貧しい者」(Luk.6:20)であると言うことができた。イエスは目に見えない神の国について言葉により教え、そのただなかで憐みから力ある業をおこなった。それ故に、奇跡物語を学ぶ場合に、福音の宣教という言葉・ロゴスの視点により常に補われねばならない。働きは明確な理(ことわり)をもっているであろうからであり、明晰な理は明確な働きを生み出すだろうからである。

 イエスの福音の宣教と力ある業の双方はこう報告されている。「イエスはすべての町と村を巡回し、シナゴーグで教えそして御国の福音を宣教した、そしてすべての病とすべての病弱とを癒した」(Mat.9:35)。

 4 福音書に奇跡物語がなかったなら―聖霊の力能の理解へ―

 奇跡物語がなかったなら、つきつめればわれらは山上の説教のみを持つ。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。モーセ律法が純化、内化されたこの説教は明確なロゴスをもち、ひとの良心に訴え、道徳的次元を内側から破り「神の国とその義」を求める信仰に導くこともあろう。福音書から奇跡物語を除くと、誕生物語、ヨハネからの洗礼、そして山上の説教、さらに一方で弟子たち、マリアやマルタそしてザアカイとの心満ちる会話があり、他方ユダヤペトロの裏切り、そしてパリサイ人やローマの官憲との生死を賭すやりとりがある。そして十字架の刑死で福音書は閉じられる。ラザロの蘇生もご自身の復活も記録されることはない。憐みからあふれ出る様々な癒しの記録も消え去る。

 或る人は躓きが取り去られたとして信仰を持つにいたるであろう。そのとき神の力能への信仰はナザレのイエスの三日目の復活がないままでのイエスにより語られた永遠の生命への信仰となるであろう。その信仰には抽象性や観念性が強まる傾向になるであろう。他方、別のある人には言葉の宣教だけでは、神の力能への懐疑に陥ることもあろう。

 そこではつまり所謂奇跡が遂行されないところでは、どれだけ神の力能の顕現に与るのであろうか。あの説教の力に相応しい振る舞いはやはり神の力能を十全に発揮し盲人が癒され、足のなえたひとが飛び跳ね、そして五千人の空腹を満たす、そのような力ある働きであると思われる。そのような働きこそナザレのイエスにふさわしい。道徳次元の内的突破により良心の咎めがさり、平安と喜びのうちに信じること、そのことが実際生起していたのである。そこに聖霊の執り成しが働いていたことであろう。山上の説教を語る方が福音の不思議なる力をもち運び、山上の説教を生き抜かれたのである。そこには豊かな聖霊の働きが伴っていたことであろう。聖霊とは自然法則の背後にある神とひとを繋げる「弁護者」、「助け主(ぬし)」である(John.14:25)。

 「ヨハネ福音書」においてイエスの言葉として「もし汝らはもろもろの徴と不思議を見ないなら、信じないのではないか」が報告されている(John.4:48)。ひとはこのような不思議な業を見て信じることもあるであろうし、実際福音書においては彼の力ある業のゆえに、多くの人々が彼につき従う者たちとなった。イエスは「わたしが汝らに語っているものごとはわたしから語っているのではなく、父がわたしのうちに留まっており、ご自身の働きを為しておられる。汝らわたしを信じよ、というのもわたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにいるからである、さもなければ、働きそれら自身の故に汝らは信じよ」と語る(John.14:11)。イエスはそこで自らのうちに父が働いているからこそ自分の言葉を信じるように、この言葉を信じられないとした場合でも、自らを介した父の力ある業のゆえに信じることを勧めている。イエスは言う。「わたしは汝らといたとき、これらのこと[父がわたしにおり、わたしが父のうちにいること]を話した。しかし、弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が汝らにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。わたしは平和を汝らのうちに遺しておく、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世界が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな」(John.14:25-27)。

 ひとが聞くことのできる究極的なものごとが権威をもって語られている。イエスの山上の説教の究極的な語りとこれから学ぶ奇跡物語は双方を離さないで理解するよう促している。ことばと働きは常に支えあうものでなければならないはずだからである。山上の説教だけで十分であると思いつつも、それを語られる方はご自身の言葉にどこまでも忠実であり、それを死に至るまで生き抜いた方であった。その途上で、様々な力ある業、徴そして不思議が遂行されていた。この言葉と働きはやはり車の両輪のようなものであり、山上の説教だけでは、あまりに厳しすぎ「神の国とその義」を求める途上で挫折することであろうし、言葉なき不思議な業だけでは人格的な関係を結びえず、ただ力の崇拝、魔術的なものに陥ることもあろう。そこには二心、三心の隠された力への欲望が醜く現出するであろう。言葉と働きを離さないとき、全体として力ある方でありまた信実と憐みに満ち溢れた方であることが浮き上がってくる。やはり奇跡物語が一切なかったなら、つまりイエスがこの種の力ある業を為さらなかったなら、彼への信は肉の重荷のなかで喘いで身体の贖われることを求めている者たちには観念的なものに留まったことであろう。パウロは言う、「キリストはわれらの義化の故に甦らされた」(Rom.4:25)。われらが信に基づく義をいただくために、神は御子を甦らせたのである。神の愛が所謂奇跡を遂行し、われらが自ら知っていると思っている自然法則へのかたくななこだわりから解放し、信仰に招いたのである。

 5「[神の]知恵の説得的議論」vs.「霊と[神の]力能の論証」

 今日、論じることのできない18世紀のイギリスの哲学者David Humeの奇跡論さらにはトレンチの奇跡と自然の理解を来週以降紹介し、それへの応答を試みるが、今日はここではもう少し言葉(理論・ロゴス)と働き(実践・エルゴン)の相補性を確認しておこう。彼らの議論は少し難しいので、今日のうちに資料を渡しておく。ただ、もう少しテクストの選択や翻訳に改善の余地があることを断っておく。

 パウロは自らが宣教において伝えるキリストの言葉と働きを「[神の]知恵の説得的議論」と「霊と[神の]力能の論証」と呼び、キリストを介した神の知恵と力能を伝達する(1Cor.2:4)。

 パウロは神の前の人間現実と人の前の人間現実を相互に異なる言語網において展開している。前者は神の啓示行為に基づき、福音の宣教においてパウロが「知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」の「知恵ある者」に対応すべく神の知恵の報告である(Rom.1:15)。「わたしは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。ここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」(1Cor.1:30)と言われるところのそのキリストのことである。所謂信に基づく義(信仰義認論)と選び(予定)の教説は「知恵」に訴えて展開される。「深いかな神の知恵と認識の富とは」(Rom.11:33)。信に基づく義の議論(「ローマ書」1:17-4:25)および選びの教説(9:6-11:36)において、この知恵の説得が聖霊に対する一切の言及なしに遂行されている。パウロはこれを「霊と力能の論証」との対照において「知恵の説得的議論」と呼ぶ。そこでは、ひとの心的状態は直接には問題にされずに、神にそう「認定される(看做される)」(Rom.4:9)場合には義人であり、或いは神の怒りの対象とし、悔い改めを迫られているとする議論が一般的に三人称で展開される。彼はこの神の知恵の報告を「わたしは汝らに或る部分において一層大胆に書いた」(Rom.15:15)と述べている。

 この知恵の説得とは別に、神の前と人の前の双方を媒介するものが今・ここにおいて働くキリストないし聖霊であり、それは「霊と[神の]力能の論証」である。「神の愛はわれらに賜った聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」(Rom.5:5)。このパウロの発話はその発話の時点で聖霊が注がれていない場合には偽となる、そのような今・ここの働きのなかでの語りである。聖霊を媒介として神の愛の今・ここの働きはそこからロゴス言語として「もし神の愛が注がれるとするなら、それは心への聖霊の賦与を媒介にする」と一般的な言明を引き出すことのできるものである。

 条件文「もしキリストが汝らのうちにあるなら」(Rom.8:10)においては、キリストや聖霊の執り成しがある場合もない場合もあることを含意している。神が怒りの啓示として各人の裁量に「引き渡して」(Rom.1:26)しまっているときには、聖霊の媒介行為は悔い改めに導く場合にだけ想定される。ただし、人智を超えた神の自由は確保されたままであり、聖霊の執り成しの証しは罪との葛藤さらには平安、愛の生起において確認される。福音書において報告されるイエスの力ある業は聖霊による働きであり「霊と力能の論証」に属する。

 このように聖霊の力能の働きに訴えたエルゴンによる論証ないし議論と、聖霊への言及のない知恵、ロゴスによる説得の双方によって福音が展開されている。 パウロは「ローマ書」においてこれら二つの視点から分節することを許容する仕方で彼の神学議論を体系的に論じた。福音をロゴス次元において神の前のことがらとして分節することが許容されるとして、ひとはその証としてのエルゴンにより、その正しさを確認し、ロゴスの明晰性はそのエルゴンの純化に貢献するであろう。そこには聖霊の執り成しが働いてもいよう。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:17-18)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものであることを誇っている。彼の自覚としてはキリストが彼を介して理論と実践において福音を展開している。また彼のこの自覚とは別に肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの責任において遂行していることをも明確にしている。

 彼は「コリント後書」においても自らに「和解の言葉」が委ねられたと自覚し、使徒としての使命を語る。「神は、世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うた・・。かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ」(2Cor.5:18-20)。

 福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」(Luk.24:19)について語った。具体的には憐れみの発動というエルゴンにおける主のロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」であった彼らを深く憐れんだ。そして彼らに多くのものごとを教え始めた」(Mat.9:35-38,Mac.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであった。これは言葉による宣教である。なお、弟子たちには譬え話とは別に「諸天の国の奥義を知ること」(Mat.13:11)が授けられたと報告されている。パウロが「成熟した者たちには神の知恵を語る」と発言したことと或る平行性があるであろう。「ローマ書」の信に基づく義と選びは神の知恵の一つの報告であった。

 6結論

 彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。「われらの福音は言葉において(en logō)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。福音は一つのロゴスであり、そして各人の証は一つのエルゴンである。このように理解するとき、奇跡とは決して稀なることではなく、人類のなか多くの人々が聖霊の喜びと平安を経験している。所謂二番底が抜けて、聖霊が「内なる人間」の一つの構成要素である各自の霊に触れている。これは不思議なる、驚くべきことであり、それに触れるとき絶えず心魂が刷新され喜びと平安に満ちる。これが神の力能の業である限り、一般には「奇跡」と呼ばれるものである。われらは「奇跡」というような言葉を使わず、神の指の働き、神の力能の働きをただひたすら感謝し、賛美する。なにができなくとも、これを感謝し喜んで生きることはできるであろう。人生とはその挑戦に他ならない。今年一年が皆さんにとって力強い歩みとなりますよう祈ります。

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