山上の説教を顧みる

 

山上の説教を顧みる

                                                                              2020.12.20

1テクスト

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。

2 山上の説教の八福を顧みる

  ここまで30回にわたってマタイ福音書5章から7章の山上の説教を学んできた。この連続講義は黙示録に描かれる人類の存亡がかかっているという意味で人類史的な危機のただなかで遂行された。12月中旬現在、世界の感染者総数は約7300万人、死者は160万人を数えている。100人に一人は感染しており、感染者の約50人に一人は亡くなっていることになる、これはパンデミックと呼ばねばならない。人類には共通の課題があること、そしてそれを知恵により克服することが求められている。若者たちがその柔軟な発想のなかでゲームなどにおいて人類の存亡にかかわる訓練をしているように、聖書はその人類史的な視点で人類を受け止めてきた。そして今日はわたしどものクリスマスのお祝いのときをもっている。闇夜に光が輝いた。人類は大丈夫だ、救い主がこの地上に生まれた。

 山上の説教を顧みるが今回は冒頭の八福を全体のなかで取り上げたい。その心によって清いひと、柔和なひと、平和を造るひとが祝福されているということを学んできた。平和の君がイザヤの預言通りに人類に与えられた。「主はもろもろの国のあいだの争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし槍を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光のなかを歩もう」(Isaiah.2:4-5)。

 3 天の父との関連でその霊によって貧しい者の祝福が語られている

 第一福「その霊によって貧しい者」とはいかなる者か。経済的な困窮者それも自発的に貧しい者なのか、それとも精神的に謙遜な者なのか、とりわけ神との関係において充足的なものではないがしかも神に縋りついているそのような意味での貧しき者を理解すべきなのか、或いは双方のいずれでもあるのか。ルカには端的に「貧しい者」とあるが、そこでは経済的な困窮者をただちに指示しているように見える。このマタイではそれを包摂しつつも天の父なる神との関係においてその貧しさを捉えるそのような限定が付与されている。ここではやはりイエスに即してまた打ちひしがれてしまっており、救いを求めてついてくる群衆の文脈でこの箇所を理解しよう。

 「その霊によって貧しい」の対義語のひとつに「欲望によって貧しい」が考えられる。「箴言」に「欲望はひとに恥をもたらす。貧しい者は欺く者よりも幸い」(Prob.19:22)、「初めに嗣業(ゆずり・遺産)をむさぼっても、後には祝福されない」(Prob.20:21)、「貪欲な者は財産を得ようと焦る。やってくるのが欠乏だとは知らない」(Prob.28:22)とある。「第一テモテ」に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥る。その欲望がひとを滅亡と破滅に陥れる。金銭の欲はすべての悪の根だ。金銭を追い求めるうちに信仰から迷いでて、様々のひどい苦しみに突き刺された者もいる」(1Tim.6:9-10)とある。従って、「欲望によって」貧しい者また欲望によって一時的に富んだ者、その者たちが祝福の対象であることは考えにくい。かくして「その霊によって」貧しい者、つまり神との関係において貧しい者、この世のいかなるものによっても満たされず、救いを求めざるをえない者が祝福されていることは少なくとも語りうることである。

「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(6:24)。金持ちが天国に入ることが難しいのは神にではなく金銭に頼るからである。金持ちであっても神に頼り、信仰のもとに愛の道を歩む者は貪欲な者たちの金の使用とは異なる使用に向かうであろう。この世の富は相対的なものに留まる。愛することは信、希望とともにその命令において心魂の最も基礎的な態勢そしてその方向として普遍化されようが、愛の具体的な形は個々の状況において異なることであろう。

イエスは経済的に自発的に貧しく、そしていつも父なる神の意向を尋ね求め、神の声に聴くという仕方で謙っておりそして或る状況においては「エリエリ」の叫び「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか」(Mat.27:46)のなかで神が御顔を隠したことによって、神を見失いつつも神に訴えかけるという仕方で霊的に貧しい状況であった。そのように「貧しい」者は神と関わり続ける限りにおいて祝福され、天国にいれていただく。山上まで救いを求めてついてきた群衆に彼はその祝福を語っている。欲望によってではなく、その霊によって貧しい者は祝福されている。

 第一の祝福は普遍化されるのであろうか。三人称による呼びかけであり、命令ではなく神の嘉みの対象であるから、一般的に妥当すると言える。とはいえ、これら八福すべてを満たさねば祝福されないというわけではなく、この点においてイエスに似た者になるにつれその祝福は大きいものとなるであろう。神との関係において貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者となるにつれて、イエスに似た者となることであろう。

 4 心の受動的態勢・パトス―悲しみ、憐み―

 第二福は「悲しんでいる者」の祝福である。感情の文法によれば、この感情が生起する文脈は愛しいものを失うというものであった。感情実質は他の何ものによっても満たされない喪失感である。彼らは後の日に慰められる。わたしたちが愛しいものを喪失し悲しんでいるとき、神に慰められることになるから祝福されている。何か代替物により気晴らしするなら、そこに自らを慰めさせる装置、偶像を持ち込むこととなり、神に慰められることはない。ここでも天の父との関係において悲しみを捉えることが求められる。パウロは「神に即した苦しみは救いにいたる後悔なき悔い改めを働く。しかし、世の苦しみは死をもたらす」と言う(2Cor.7:10)。

 感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の実力、構(かまえ)がどのようなものであるかを示すという議論を展開した。感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。認知的とは心魂の知性、知識に関するものであり、人格的とは身体に関わるものであり、知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の完成されたひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪すなわち価値に関わるものが人格である。

人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。恐れは自らを破壊するものにであうという文脈において生起する。その感情実質は身のすくむ思いという類の身体の萎縮感を伴うものである。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者、欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。

また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言っている。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。

 聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は知性と人格を総合するものを求めてきた。

 アリストテレスはそれを「実践知(phronēsis, practical wisdom)」と呼び、イエスやパウロは「信(pistis, faithfulness)」と呼んだ。心魂の根底に信があるとき、知性が磨かれ認知的に有徳な者となり、身体からわきでるパトス(喜怒哀楽)に対し安定的な構えができ、人格的に有徳な者となる。アリストテレスが実践知という人格と知性の融合の成功した視点からとらえたのに対し、聖書は信という肯定的な力ある生をつくる心魂の根源的態勢に集中した。イエスもパウロも信に基づき愛することができる者となるなら、それは人格的に完成されると主張した。パウロは信に基づく義・正義をいただいた者においてその「正義の実」(Phil.1:11)が愛であるとした。木は実によって知られる。信に基づき神との関係がただしくされたひと、即ちよき木は愛というよき実を結ぶ。

 この第二福、悲しんでいる者が祝福されているというこれまた尋常ならざる主張である。愛しいものをもたないひとは悲しみを感じることもないであろう。裏切りなど心に傷をおったひとはパトスの発動が生じないように、一切から距離を置くことになる。パスカルは「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」と言う。「すべて」とは生きることそのものから遠ざかることに他ならない。イエスは終末、世の終わりが近づくと愛が冷え切ってしまうと言った。彼の終末における迫害の預言はこうであった。「そのとき彼らは汝らを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして汝らはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう。そしてそのとき多くのものたちが躓きそして相互に引き渡すであろう、また相互に憎しみあうであろう。そして多くの偽預言者たちが立てられ多くの者たちを惑わすことであろう。無法がはびこることの故に、多くの者たちの愛は冷えてしまうであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:9-14)

 愛する世界がこのようになるなら、実に悲しいことだ。イエスは深く悲しんだことが報告されている。捕縛前ゲッセマネという所において、彼はこう言っている。「「わたしが向こうへ行って祈っているあいだ、ここに座っていなさい」。ペテロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。イザヤ書53章の苦難の僕はイエスの預言であるとされているが、そこでも人類の罪のために悲しみ苦しむ僕が預言されている。

 虚無主義(ニヒリズム)はこの世のあらゆることに何ら差異、違いがないと主張する。善は悪であり、知識は誤謬であり、愛は憎しみである。十人殺せば悪党であり、百万人殺せば英雄である。この世界には何ら確かなものはないという考えがニヒリズムである。そこでは悲しむことも喜ぶことにも何ら差異はなく、たとえばニーチェはすべての感情をも考慮せず、善悪の彼岸にいたろうとする。そのように愛が冷えていくなかで耐え忍んで、少しでも平和を造る者となりたいと思う、そのような思いのひとびとが登戸学寮をつくった。

 第五福は憐み深い者である。これもひとつの身体的受動としてのパトスである。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ」という動詞は「はらわた」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは不当な仕方で或いは相応しくない仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同じ不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。イエスは群衆に「汝らが天の父の子となる」(5:44)と呼びかけるが、神に似せて創造された人類が相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。彼は深い憐みをおぼえたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。

 5 その心によって清い柔和な者が平和を造る

 第三福は柔和な者であった。柔和な者はそのまま第七福の平和を造る者となる。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨うひとびとを招く、彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から誇りが取り除かれ「柔和の霊」(Gal.6:1,)を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Mat.5:9)。

 彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。

 イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

 第六福はこうであった。「祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということが心の清さである。それは心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う。「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27,Handel, Messiah, ‘I know that my Redeemer lives’).

 「心(kardia)」とは聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」が基本的に生命にかかわる原理であるのに対し、「心」は意識などの働ききの主体である。イエスは言われる。「汝の宝のあるところ、そこに汝のもある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。またイエスは生命原理としての魂についてこう言われる。「身体を破壊してもを破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。

 第七福平和を造る者への祝福は第六福心の清い者に続くが、それはこの祝福に相応しい。清くなくてどうし争いをやめさせ、平和を造ることができるであろうか。「自分を勘定にいれずに、よく見聞きし、分かりそして忘れず」(宮沢賢治「雨にも負けず」)と語られるが、心の目が澄んでいて正確にしかも公平にものごとを認識するひとにこそ、平和を造ることができるであろう。心の清い者は良心の咎めなしに心魂が平安な者のことであった。また心の清い者は自他の悲惨の知識に基づき悲惨な状況にある者への愛、憐みのもとにあり、相手の最善を造りだそうとする者である。

 心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は護る者である。護るとは争う者双方をも護る。敵をも愛し、敵のために祈る者たちだからである。平安な者はその良心が聖霊により護られた者である。平和を造る者は執り成す者である。和解のための執り成そうとすることなしに、平和を造ることはできない。和解の執り成しは当事者をWin-Winの関係に導く。彼らは「神の子」と呼ばれることになる。キリストはその「長子」である。平和を造る者は当事者が二人しかいなくとも、即ち自らが争いの一方を担っている者となったとしても、イエスの軛を負う者として、媒介者の役割を担う。責める者と責められる者のあいだに自ら立つ。執成す者或いは執成される者となる。それ以外に平和は地上にこないであろう。

 正義と迫害にかかわる第八福は正義に関わる人々への祝福であった。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さであった。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。「神が完全であるように、汝らも完全であれ」(5:48)と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22)が開かれたとき、認識することのできるものである。その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。聖霊と共に知ることであった。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の発動から免れさせられており、平和を造る者となる。

 平和が実現した一つの実、証とは「ひとつ」ということである。分断や分裂が癒されひとびとは同じ思いに満たされる。それが媒介者イエスのそして聖霊の働きである。パウロは言う。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、魂を共にかよわせることによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮するに至るためである」(ピリピ2:1-2)。パウロとともに「一つのこと」この福音については、それがわれらの外に生じた恩恵であるが故にこそ誰もが同意でき、人類は大丈夫だという思いに満たされ、この根幹から多くの案件についても「同じ思慮」つまり合意に至ることにもなろう。今・ここで慈しみ、援けが生起するなら、一同、同じ思いが分かちあわれたことの喜びに満たされる。One Lifeとは「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:4)に共に与ることである。人間社会にもそのような生命の霊の広がりによる平和が想定されることになろう。

 6 結論

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に一緒に繋がれ歩む。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。

 クリスマス、これは希望の光が人類にさしたことである。ひとびとは争いをやめ、ひとつになる、One Teamになる希望のうちに生きることができるようになった。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(15:13)。皆さんのうえにこの平安と喜びが臨み、希望をもって新たな一年を迎えられるよう心から祈ります。この一年拙い話につきあってくださってありがとう。

 付録

二〇二〇年登戸学寮日曜聖書講義一覧(四月五日~十二月二〇日)

山上の説教連続講義 マタイ福音書五章~七章 

四月五日 権威ある祝福

四月一二日 初めての聖書

四月一九日 第二福 悲しみの文法

四月二六日 柔和な者たち

五月三日 悲貧柔者の祝福と怨念(ニーチェ)

五月十日 義の渇きと憐み

五月一七日 心の清さ                                         

五月二四日 平和を造る者 One Team, One Health, One Life

五月三一日 平和を造る者その二 ―執り成す者―

六月七日 正義と迫害 

六月一四日 正義と迫害(その二) モーセ契約から新約へ

六月二一日 祝福されるひと ―八福の範例・イエスの生涯―

六月二八日 祝福されるひと(その二)

七月五日 祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―   

七月一二日 偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

七月一九日 偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―                                                 

七月二六日 「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」

八月二日 山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―

八月一六日 桝形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教

八月二三日 枡形夏の聖書講義2 パンデミックと聖書 (その一)―イエスの山上の教え―

九月一三日 桝形夏の聖書講義3 パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―

九月二十日 道徳次元の内破―山上の説教概観―

九月二七日 主の祈り

十月四日「神の国と義」の求めのなかでの「断食」―野の百合空の鳥を見よ―

十月一一日「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―

十月一八日「汝ら裁くな」

十月二五日「豚に真珠」

一一月一日 探求と発見(1)―「探せ、探せば見つかる」―

一一月八日 探求と発見(2)―「探せ、探せば見つかる」―

一一月一五日 探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―

一一月二二日 黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―

一一月二九日 狭き門―「私は道、真理、生命である」―

一二月六日 良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢と恩恵―

一二月一三日 岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる生―

 一二月二〇日 山上の説教を顧みる

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岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる賢い生―