日曜聖書講義 2021年10月24日秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(5): ヨブに見られる旧約人の眼差しの方向―此岸の苦悩から彼岸の正義へ―
(録音は「5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答」まで。原稿はフォンラートの「此岸性」による特徴づけよりも適切と思われる「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神との今・ここの交わり」と呼ぶべき議論まで)。
日曜聖書講義 2021年10月24日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(5)
ヨブに見られる旧約人の眼差しの方向―此岸の苦悩から彼岸の正義へ―
[問題の所在:復習をかねて]
旧約聖書においては、まず宇宙の創造者である神により、人類は祝福されている。知性と人格性において神に似せて創造されている。「産めよ、増えよ、地に満てよ」(Gen.2:28)。そのうえで、神による祝福と懲罰は自然的な基盤のもとにある人間の善行と悪行のうえに注がれる。そこでは永遠の生命は約束されない。祝福と懲罰を介して永遠の生命を獲得するでもあろう可能性として旧約人は位置づけられている。旧約人においては神の計画のなかで知らされていることと知らされていないことのあいだのなかで歴史は展開しており、記者たちはそれを正確に記録していった。
同一の人生が懲罰としての生物的死を誰もが等しく受け取ることと、その人生がとりわけ自らの力能を十全に発揮して与えられた長寿の生が祝福されることのあいだに矛盾はない。というのも、その生存のあいだに罰としての生物的生を乗り越えている可能性があるからである。アブラハムもダビデも信仰によって生物的死を克服している。新約聖書においても、モーセ律法が呼び起こされこう語られることがある。「子供たちよ、汝らの両親に従え。というのも、これは正しいことなのだから。「汝の父と母を敬え」、これは約束における第一の戒めである、「それは汝に良いことが起きるためであり、そして汝がその土地で長生きするためである」」(Ephes.6:1,cf. Dt.5:16, Exod.20:12)。生物的死が罰として与えられている中で、長寿が祝福されることがある。
フォンラートは彼岸信仰としての永遠の生命を神に要求することは神の計画に対する不服従であるとして、許されていなかったと主張している。彼はこれを旧約人の「此岸性」、この世性として記述していた。フォンラートは言う。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。・・この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないか、・・あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき」。
旧約人は知らされていることと知らされていないことのあいだで、緊張のうちに置かれていた。ヘブライ書の著者は福音の媒介以前と以後をこう述べる。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。約束のものとは御子の福音である。この福音のゆえに信に基づく神との正しい関係が打ち立てられている。彼らの歴史は現代にいたるまで人類により引き継がれ、終末において始めて完結する。
旧約においては「生命の木」から人類は遠ざけられたが、永生の希望は誰であれ、あからさまにできなくとも、ひそかに抱かれていたものであったに違いない。ヨブはいつの日にか彼を贖う方が顕われることを信じている。彼岸への願望は水面下で大きく蓄積されていったに違いない。ここでヨブにより旧約人が此岸と彼岸という対比のなかで此岸に集中したという見解は必ずしも正確な理解ではないことを示したい。
5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答
今日はこの此岸性への集中という考え方にチャレンジしたい。旧約における神とひとの関わりをもっと正確に表現できると思われる。ひとがひとである限り永遠の生命に対する願望をもっていたことを誰も否定しないであろう。生物的死が一切の終わりではないということは十分に想定可能である。イザヤの召命に見られるように、宇宙の創造者にして聖なる神に直接まみえたなら、穢れた人間に生きていることはできないであろう。イザヤは自らの眼で万軍の主にまみえたことに驚愕しつつ、自分はもはや到底生きることができないと受け止めている。「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇もの者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの眼は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(Isaiah.6:5)。自らの罪穢れと万軍の主の崇高さ、聖性のコントラストはおのれの滅びを確信させるに十分である。神を見ることは想定されていないなかでの、憐みの顕現であった。神の使いが炭火をイザヤの唇に着けて言う、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(6:7)。憐みに触れたのであった。神の隠れを覚悟しているなかでの、顕現であった。この顕現でさえ、神は手加減しておられることは容易に想像できる。
神は隠れのなかで或いは間接的に選びの民と関わっている。比ゆ的に言えば、ビッグバンのあの高熱とあの光のまばゆさに耐えられる者は誰もいない。神は人間的な姿で後悔したり、意見を変えたりしながら選びの民と関わっていると記述されることを許容している。ひとは神との直視に耐ええないものである。ひとは、神の御名をみだりに唱えることを禁じられたように、単に「永遠の生命」を自らのものであるかのごとくに口にすることは憚れたことであろう(Exod.20:7)。神の一つの計画のなかで知らされていることと知らされていないことの途上の歩みのなかではこのような謙りというか畏れのなかでの態度が旧約人に相応しい。ヨブはこの神に自らの正義を訴えた稀なるケースであった。このヨブを介して旧約聖書の方向を確認したい。
旧約における此岸性への集中の理解は一つの含意を持つ。彼岸信仰によって現実から逃避することをブロックする訓練を施している。神は徹底的にこの民に関わり忠誠を要求する。過酷な生であれ信仰により正面から引き受けるとき、肯定的な生、実りをもたらす生が開けてくる。苦難を回避したりシニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥るとき、待望は生起しない。厳しい現実との直面は待望のエネルギーをいやがおうにも蓄積させる。とはいえ、待望は彼岸への待望であり、此岸は彼岸との動的な関わりなしには萎縮し、生命を失っていくであろう。「彼岸」をどう定義しようが、此岸の持つ不十全性の認識は彼岸への眼差しを必然的なものとする。ここではラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という旧約人の特徴づけには異論の余地があり、もっと適切な表現を与えるべきであると論じたい。
ヨブ記はそれを告げる。ヨブの苦難における神義論の展開において人生の真剣さそして待望を確認できる。彼は試練のなかで家族や雇人、財産そして健康等一切が奪われる苦難を蒙り、彼は死を願いつつ友人たちに訴える。「わたしの生まれた日は消え失せよ。・・暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(Job.3:3-5)。ヨブは自ら不正を語らず、欺きを言わず、隣人の妻に心奪われ、城門で待ち伏せしたこともなく、奴隷や雇人の言い分をよく聞き、孤児を助け、貧しい者の父となり盲目者の眼となったと、「一日たりとも心に恥じることはない」と自己弁明する(Job.27:4-6,29:12,16,31:9,13,17)。
ヨブは正義の神が最後に贖ってくださると訴える、「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。・・愛していた者たちにも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。・・どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(Job 19:8-27)。
旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa.45:15,Deut.29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべていかに空しいものとして創造されたかを。生命ある人間で、死を見ない者があるでしょうか。陰府の手から魂を救いだせるものがひとりでもあるでしょうか」(Ps.89:47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job.9:33,33:23,Isa.43:13, 47:4,49:7,54:5)。神は最も明白な仕方で沈黙から喜びの訪れに移行したからである。
ヨブは神に訴える。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答にならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷であり御手の力をもってわたしに怒りを顕される。わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりのなかで翻弄なさる。わたしは知っている。あなたは私を死の国へすべて生命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ」(30:20-23)。
このような訴えの連続のなかで、圧倒的な力によってつむじ風の中から神はヨブに顕現し語りかける。神はこの壮大な宇宙の栄光をヨブに見せ、語りかける。「お前にすばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか、時がくれば銀河を繰り出し大熊と小熊と共に導きだすことができるか」を問う(38:31-32)。ヨブには何であれこの顕現だけで十分であった。無上の光栄であった。自らの小さな義を主張することなどどうでもよくなった。ヨブは応答する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退けて、悔い改めます」(Job 42:2-6)。力強い神の顕現、それ以外にひとは他に何もいらない。ただ、ひれ伏し神を賛美する。ヨブの心魂はこのように造りかえられている。ヨブが自死してしまっていたなら、この逆転を経験する可能性を自ら排除してしまう。御子の派遣において福音が啓示された限りにおいて、神の経綸は最も明白な仕方で知らされており、ひとはこの神の顕現の栄光に浴したヨブと同じ状況にいる。
5.3旧約と新約の異なりと連続的展開
旧約と新約の異なりと連続的展開の確認は神の経綸(計画)を知るうえで重要である。ラートは旧約人における「永生への希望の明白な欠如」を指摘していた。しかしながら、旧約においても人々は自らの生の延長線上に何らかの希望を抱いていたことも指摘されるべきである。ヨブはいつの日か正しい神が塵の上に立ち贖ってくださることを神に訴える仕方で待ち望んだ。ヨブのように苦難を受けた多くの無名の義人たちも公平な審判の下される日を待ち望んだことであろう(cf.Gen.18:25,Ps.1:1-2,11:5,103:5,140:12-13,146:8,Isa.45:24,Jer.12:1)。(樋口進「旧約における正義」(『神戸教育短期大学研究紀要』第1号pp.24-35,2020)。また「永遠(オーラーム)」という概念は旧約においても何度か語られている(Hos.2:21,Jer.32:40,Ezek.43:7,Isa.60:21)。ホセアは神の言葉を取り次ぐ、「その日には・・わたしは汝と永遠の契約を結ぶ。わたしはあなたと契約を結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」(Hos.2:21)。イザヤは古き天地が巻き去られ新天新地を待ち望む。「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように、汝らの子孫と汝らの名も永く続く」(Isa.66:22)。
旧約の基本的な流れは神の御名をむやみに唱えず、神の沈黙に耐えることの覚悟であった。とはいえ、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、聖書記者たちは神との今・ここのやり取りを記録することに傾注したと言うべきであろう。旧約人はヨブやイザヤのように幸いな体験を与えられることを望んでいたに相違ない、ひそかにであれ待ち望んでいるものがあったに相違ない。
しかし、それが神の隠れ或いは神から知らされていないことからくる抑圧であるとするなら、彼らに蓄積された待望のエネルギーはどれほどのものであったかが伺い知れる。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、生命を墓から贖いだしてくださる」(Ps.103:3-4)。「死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ苦しみと嘆きを前にして主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(Ps.116:3-4)。その意味において、御子の受肉と受難と復活は彼らが憐みを求め、罪の赦しの救いを求めてきた真剣な人生の時が満ちたことを伝えていると捉えることができる。
かくして、「此岸性」を別の言葉で言えば、或いはこの言葉で捉えきれない旧約聖書における神とひとの関わりを表現するものがあるとすれば、それは神の前とひとの前を分けない「今・ここの働き」、「具体性」或いはこれらを一括して「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神との今・ここの交わり」と表現し直すことができよう。ひとは各自の責任において神の意志である律法を遵守する。神はそれに対し祝福と懲罰を与える。神は憐みにより時に罰を思いとどまったり、軽くすることもある。この双方の働きのやり取りをこの語は表現している。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりと言うこともできよう。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。聖書記者たちはこの具体的な交わりを記録している。
旧約聖書におけるこれらの特徴は此岸と彼岸を分けない神の擬人化されたそれ故に人間的に理解されうる働きとひとの働きの交渉という捉え方のほうがより適切であると思われる。知らされていない制約のなかで、単にこの世の生を義しく保つだけではなく、罪の贖いを求めて神に呼びかけて生きていたことは明らかだからである。この書においては、ひとの待望のもとでの呼びかけとともに、創造者にして一切を統帥しつつも隠されたところのある神がひとの一挙手一投足に関与したことがらについて集中的に報告されている。その意味において旧約に登場する神は譲歩された擬人化された神であると言うこともできよう。
5.4 神の前とひとの前の理論上の分節を可能にするもの
神の前とひとの前を理論上分けて考察することは、神の子でありまた同時に人の子である「イエス・キリスト」という媒介者の故に可能になることであり、説得的な神の学はこの関係をめぐって構築されよう。神話的、物語的表現はおとぎ話という虚構ではなく、神についての十全な理論的な把握のできない人類の成長段階のうえのこととして捉えるべきである。この媒介者が生まれる前は神への背きから立ち返り、神に向かう一挙手一投足の働きが正しい関わりと言える。福音の啓示に基づく神の前とひとの前を分節して論じる手法、これを「ロゴス(理論)主導」と呼ぶが、それは旧約においては十全には展開されない。旧約人における今・ここの働きにおける神とひとの交わりを「エルゴン主導」と呼ぶことができる。
とはいえ、明確なロゴス(理)が受肉したことを受けて、ロゴスとエルゴンの相補性は新約聖書において十全に展開される。人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた。例えば、一オクターブの調和音は1:2の弦の比(ロゴス・形相)と空気(質料)の合成体である。これは一般的な定義としては比と空気はロゴス上分節されるが、今・ここで奏でられる一オクターブは働き上分離されてはおらず、空気が比によって秩序づけられている。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけるが、その塩基配列を秩序づける可視的な遺伝子を構成する情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。
新約聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。イエスはご自身が「ロゴス」であると報告されるが、羊飼いのいない羊のように彷徨う群衆を「深く憐み」、神の国について言葉で「多くを教え始めた」(John.1;1,Mat.9:36,Mak.6:34)。彼は自らの山上の説教それ自身を信の従順により生ききることにより、自らの言葉に偽りがないことを証したため、彼の言葉には「権威」が宿った(Mat.7:29)。これは新約聖書に特徴的なことがらである。旧約の預言者たちはこれほどの権威をもって神の国を語ることはできず、先見者として具体的な歴史的状況について神の意志を取次いだ。旧約聖書においては神についてエルゴン(働き)の報告はあっても、ロゴス(理論)の展開は十全には見られえない。
ロゴス(理論・言葉)とエルゴン(実践・働き)は常に一方が他方の正しさを保証するそのような相補的な関係においてある。ロゴスとエルゴンの相補性は、例えば遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏、ルールとそのもとでのパフォーマンス等、何であれ被造物である限りあらゆるものに適用されよう。1時間に4キロ歩くと2時間で何キロになるかという算数の問いに、聡明な少女が答えられず「だって疲れちゃう」と言う応答は肉の弱さへの考慮によるロゴスとエルゴンの緊張を伝えている。エルゴンは本来的にロゴスを証するものとしての働きであるが、8キロ常に歩くとは限らない。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と言い、肉の弱さに譲歩し、肉としての自然的組成についての理論を展開し人間中心的に語る。旧約聖書においても登場人物は誰であれ神の意志を正しく遂行するかしないかを問われる責任ある行為主体である。さもなければ、祝福も懲罰も与えられることはないであろう。神とひとの今・ここのエルゴンの報告が旧約聖書を満たしていると言える。
新約聖書はナザレのイエスの生涯とイエス・キリストの福音の出来事に集中しており、そこから人間の営み一切が捉え直されている。旧約においては、交わりの蓄積そのものが福音に向かっており、そこに至る神と人との具体的なやり取りが報告されている。詩人は言う、「わたしは黙し続けて絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重くわたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。あなたの慈しみに生きる者は皆あなたを見出だしうる間にあなたに祈ります」(Ps.32:3-6)。旧約聖書に親しむということは、神の前と人の前を分けずに、その都度自らの歩みを神の祝福と懲罰のなかで生死を思考する習慣を身に着けることである。
神についての学問はそのエヴィデンスの蓄積の上でのものとなるが、とりわけ明確な媒介者を必要とする。此岸性や今・ここのエルゴン主導ののもとでのユダヤ教の歴史はその展開にとって媒介者を必要としている。業の律法のもとでの恩恵と懲罰の賦与という神理解から一歩進み、媒介者による神の恩恵の実現に向かう。その意味であのエルゴン主導の歴史はそこに至る必然的な過程であったと言えよう。