秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(6)―「生命の木」からの追放下のもとでの信仰と背きに対する祝福と懲罰の蓄積の具体的な記録―

  秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(6)―「生命の木」からの追放下のもとでの信仰と背きに対する祝福と懲罰の蓄積の具体的な記録―

  (録音は自由に語られており、5.3.2までであるが、原稿としては5.3.3まで掲載する)

日曜聖書講義2021年10月31日

 

聖書朗読 「ヘブライ人への手紙」11章1~40節 (省略箇所あり 私訳)

 

「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古’(いにし)への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る。

信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを承認することによって、その信仰を介して正しい者であることが証された。アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。「信仰によって、エノクは死を見ることなく[天に]移された、そして神が彼を移した故に彼は見つけられなかった。移される前に、彼が神に嘉みされていたことが証されていたからである。信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るように天幕(テント)で生活し、約束の地に滞在した。というのも彼は神がその設計者であり建設者でありたまう基礎を持つ都を待ち望んだからである。信仰によって不妊のサラも彼女自身、年齢上好機を過ぎていたが、懐妊に至る力能を獲得した、というのも彼女は約束した方が信実であると信じたからである。それ故にひとりの人しかも[老齢故に繁殖上]死んでしまった者から、天の星ほどのまた海辺の数えきれない砂ほどの多くの子孫が生まれた。この者たちはみな、自分たちは約束のものを受け取らなかったが、はるか遠くからそれらを眺めつつ(idontes)また歓迎しつつ、自分たちが地上にあって異邦人であり寄留人であることに同意しつつ、信仰に即して死んだ。(14~20省略・・)

信仰によってヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちのそれぞれを祝福し、杖の頭越(あたまご)しに神に礼拝した。信仰によって、ヨセフは自らの人生の終わりに、イスラエルの子らの脱出について語り、自らの埋葬について指示を与えた。信仰によってモーセは、彼が生まれたとき、彼の両親によって三か月間隠された、というのも彼らはその子が美しいことを見た[即ち、神に選ばれたことを知った]からであり、そして王の命令を恐れなかった。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されることを選び、キリストのために受ける嘲りをエジプトの財宝よりまさる富と考えた、[正当な]報いに目を向けていたからである。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として 忍耐したからである。(28-38節省略・・・・)

 この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらに優(まさ)ったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:1-40)。

 

5.3 旧約人の伝承のなかでの神との交わりと救いの待望

5.3.1 はじめに

 人類は一回限りの歴史を刻んでいる。近年は情報革命が1995年頃始まったと言われる。その年の確定はWindows95の発売に象徴される。環境革命が今求められている。「持続可能sustainable」という言葉が使われ始めたのは2010年であったと言われる。太陽電池や人工光合成の技術化によりCO2の削減や食料増産など、人類はそのつど課題の克服につとめている。科学技術の最先端にいるひとびとはこのような使命感のもとに日々をすごしている。テクスト読みは人類が最も読んできた書物を正しく理解するとき、人類の問題を解決しうるという希望のもとにテクストに埋もれている。「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」というルターの言葉が導きとなる。聖書を正しく理解できるなら、神と出会うことができるかもしれないという希望のもとに今日まで歩みを進めてきたが、辞書引き引きの毎日で日暮れて道遠しである。

 

5.3.2 楽園追放の制約のなかでモーセ律法を規範に神の祝福を求める旧約人

 アダムとエヴァは「神の如くになる」という蛇の誘惑にまけ、善悪を自ら判断する自律的行為主体となることにより神に背いた。彼らは楽園を追放されたが、それは「生命の木」の実をも食べて神のように永遠に生きる者となることを阻むためであった。塵から造られた者が塵に帰ることは自然なことであると思われようが、生物的な死は自然的なことであると同時に神への背きに対する懲罰であった。従って、罰としての生物的死は始めから乗り越えられるべきものという特徴をもっており、人類の歴史は神への背きとしての罪とその罪に基づく生物的死の乗り越えに向かう。

 最初の人類において背くことがなければ、自然的な死は単に一時的な眠りと捉えられたことであろう。エデンの園の神話の含意として、誘惑を介して、悪は人類に偶然入り込んだのであり、それは克服できるというものとなる。追放下にあっても生命の木の実を食する力能はそなわったままであり、何らか楽園に戻り永遠の生命を得る力能はそのまま保持されている。追放下においても信仰によって神との正しい関係を回復した者たちは生存中に懲罰としての死を乗り越え、「眠り」により「先祖の列に加えられた」と記録されている(Gen.25:8,15:15)。「ダビデは先祖と共に眠りについた(ekoimēthē Dauid meta tōn paterōn autū)」(1Ki.2:10  koimaomai fall asleep)。この表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。モーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も義とされた者たちにとって、死は生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。旧約世界にあっては、生物的な死を罰として受けつつも、長寿によりそれは何らか乗り越えられているないしやわらげられていると受け止めることができる。

 ただし、長寿の祝福に続くはずの永遠の生命への言及はブロックされたままであった。神の計画においては「生命の木」を食することは御子の受肉と受難そして復活によって始めて赦されるものであった。ナザレイエスによる信の従順の生なしに、永遠の生命への信を明確に持つことはできなかった。「彼ら[旧約人]は約束を受け取らなかった」(Heb.11:39)のである。

このまことに人の子にして神の子である執成し手なしには、ひとは自らの一挙手一投足に直接神の祝福と嘉みそして怒りと罰を受け止めるしかなかった。旧約聖書は彼らのリアルタイムの神との交わり、賛美、さらには沈黙する神への嘆願、嘆きと祈りの記録として約一千年かけて書き留められていった。「詩篇」には敵への執り成しの祈りは見られない。想像してほしい、先人たちの祝福と罰の伝承だけが自分たちの導きの教えであった者たちの現実を。ユダヤ人は先祖の教えを守って祝福と憐みを直接求める以外に生きる術をもたなかった民族であった。

 その後モーセ律法が神の意志としてひとびとの行動の規範となり、それに基づく神の祝福と罰が記録されていく。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:6)。福音を知ることなくリアルタイムに生きている詩人たちは、モーセ律法に基づき自らの生を構築しつつ、直接神に嘆願し、憐みを乞い、敵からの解放を求めている。詩人たちの祈りには族長たちの引用以外では、執り成しの祈りを見出すことはできない。媒介者がいなかったのである。神に訴える以外に罪と死に打ち勝つ方法をもたなかったからである。

 この伝統のなかでパウロによる業の律法の遵守についての認識はこう語られている。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。パウロによればひとは神に対する背き、罪に対する罰としての生物的死を免れる者はいなかった。「死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」(Rom.5:14)。

 旧約人は福音において永遠の生命による乗り越え、勝利が示されるまで概して業の律法そしてそれ故に罪のもとに閉じ込められていたと言うことができる。パウロは罪と義、業の律法と信の律法(福音)の関係をこうまとめている、「もし生命を造りうるものである律法が与えられていたなら、義はまことに律法に基づいていたことであろう。しかしながら、聖書はすべての者を罪のもとに閉じ込めた、それは約束がイエス・キリストの信に基づき信じる者たちに与えられるためである。その信が到来する以前には、われらは将に来たりつつある信が啓示されるべく閉じ込められながらも、律法のもとに保護されていた。かくして、律法はキリストに至るわれらの教育係となった、それはわれらが信に基づき義とされるためである」(Gal.3:21-24)。

 旧約人はモーセ律法に従って罪のもとに閉じ込められていたが、神の憐みも記録されているそのような祝福と罰の積み重ねのもとに暗中模索のなか福音の到来を待望していた。義人シメオンはは赤子のイエスを抱き上げ賛美した。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。この民は神により死後のことを明確には知らしめられなかったからこそ、この此岸の生を正面から引き受けつつ福音の訪れを待望していたのである。

 罪への閉じ込めから解放されたということは、神の前では歴史に即して語るならモーセの業の律法が信の律法により凌駕され、信の律法により秩序づけられるにいたったことを含意する。個々人にはいずれのもとに審判されるかは知らされてはいないが、その信の根源性に立ち戻る限り、信の律法のもとに審判されることを期待することができるようにされた。古い人間が死ななければ、信の律法のもとに福音に与り新たな生を営むことはできない。

 そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。ここで死は生命によって凌駕されるものとして捉えられている。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担いたまうたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担っていたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。受肉はどこまでもわれらへの憐みである。

 

5.3.3 旧約人における信仰による義に基づく生物的死の罰の克服

 旧約においても信に基づく義人たちが報告されている。彼らは生物的死を克服したひとたちである。冒頭に引用した「へブライ人への手紙」の著者、所謂第二パウロは信仰によって「諸時代が統一される」神の計画について議論を展開している。信仰は見えない神の意志についての何らかの可視化の基礎であると主張されている。そこでエノクのことがこう語られている。「信仰によって、エノクは死を見ることなく[天に]移された、そして神が彼を移した故に彼は見つけられなかった。移される前に、彼が神に嘉みされていたことが証されていたからである」(Heb.11:5)。このように旧約の義人たちは信仰により罪とその帰結である生物的死を克服る義人たちはこの著者によりこう報告されている。

 この信仰による時代の統一は当然今日まで継承されている。その者たちは目に見える「証人」とされている。不可視なものが不可視なものに留まることに対する最大の「論駁」は御言葉の受肉に他ならない。福音はイエスにおいて可視化された。受肉は明確に信仰を介した知識の対象である。「われらはキリストの叡知を持つ」(1Cor.2:16)。なお、アダムの背きから御子の受肉に至る中間時間そして準備期間として位置付けられる旧約人たちは彼ら自身において神との関係が「完結されることがない」ものとして記述されている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:39-40)。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。彼らの歴史は御子の受肉、受難と復活故にその信に生きる者たちを介して始めて完結する。このことは歴史がそこに向かうゴールとしての完結への言及なしに、旧約は正しく理解されないことを含意する。福音の啓示は再臨から見れば途上であるが、旧約は福音への途上である。

 旧約の特徴は神とひとを媒介する者が不在であり、神との交わりは直接的なもの、直截なものとなる。神の啓示であるモーセ律法を基準にした種々の事象を介した祝福と罰が解釈される。祝福と罰は目に見えるもので確かめられる即物的なものとなる。かくして、個々人の外に明白な救いが立ってはおらず、神とひとの不安定な関係におかれる。詩人たちの嘆きと敵への憎悪が記録されることになる。イエスの復活は罪とその報酬である生物的死に対する勝利として記録されることになる。「この朽ちぬものが朽ちないものを死ぬものが不死を着せさせられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲み込まれてしまった。死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の(Rom.7:23)]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:54-57)。

 かくして、アダムの背き以降御子の復活にいたるまで彼らに直接永遠の生への願望は心の底に蓄積されていった。神への嘆願や敵への呪いなど直接的な今・ここの交わりを追求した。先週学んだヨブのように神への訴えに対し、顕現を介した応答を得る者たちも記録されている。新約聖書においては、媒介者イエス・キリストにおいて神の働きが聖霊を介して伝達され、ひとの働きは聖霊を介して神に嘉みされるものとしてきよめられる。

 憐みと祝福は個々人の生にその都度与えられたが、異邦人をも照らす光として万人に妥当する福音の準備以上のものではなかった。復活に基づく永遠の生命が明確に言葉において伝えられることはなかった。それがフォンラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という表現に繋がっているのであろう。ユダヤ人も異邦人もそれぞれの律法に閉じ込められていた。それ故に罪に閉じ込められていた。生物的な死を介して、その神の罰をも経験していた。そのなかで彼らに永生への希望がなかったわけではない。ヨブは自らの贖い主が生きており、いつの日か自らがこの窮境から贖いだされることを信じている。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。詩人たちも永生を求めていることが記録されている。旧約人は楽園追放の制約のなかで祝福と罰を蓄積していったのである。そしてその歴史は御子の受肉への待望の日々であった。

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