秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(4)―旧約人の此岸性
[録音はテクストの朗読を基本としつつも自由に話しています。テクスト上は5.1「此岸性」途中までです。連続講義では繋がりをつけながら展開していきます]。。
日曜聖書講義 2021年10月17日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(4)
旧約人の此岸性
[復習]
旧約聖書における生と死を学んできた。なにごとにも準備期間を必要とする。彼らは神の子ナザレのイエスの誕生に向かう準備期間にある人々と位置づけられる。旧約聖書は当然新約聖書より以前に書かれたものであったが、新約から旧約を見るとき、生死をめぐる当時の人々の考えがよく理解できるようになる。彼らはイエスの復活により示された永遠の生命を神に求めることができない者たちであった。救い主の預言は与えられていたが、旧約人は直接的に神に憐みと祝福を求めて神の意志として知らしめられたモーセの十戒の遵守に生命を懸けていた。神に背くとき、具体的に懲罰を与えられていたことが報告されている。直接的な神とひととのやり取りが描かれている。そこには喜び、感謝、賛美があり、苦しみ、嘆き、訴えがある。一回限りの歴史を歩む人類は神の隠れを経験することも多く、救い主の待望のエネルギーが蓄積されていった。
4.6旧約における死後の世界の思弁をブロックするもの
死は神の領域であり、聖書では一様に霊媒や口寄せ等死者と交流する者たちは汚れであり、理にかなわないものとして軽蔑される。「あなた方のあいだに、自分の子女に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(Deut.18:11、同様にLev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4参照)。死後の世界との交流を遮断したこの理性的な対処にこの民族の特徴を見出す。この民族が魔術や偶像をさらには恐怖などの過剰なパトスに由来する迷信を排し、生きた神との現実感の中で生きた交わりを結ぶことにこそ生の中心を置いていたことが確認される。
ダビデ王はバテシェバとの子供が病気で死ぬまでは断食し、塵灰を被り生還を祈り続けたが、死を知らされると気持ちを切り替えている。「子が生きている間は主がわたしを憐み、生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった、断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか」(2Sam.12:23)。彼らは死後については神の事柄として禁欲しつつ、この人生の導きを祈り求めている。詩人は言う、「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps.16:10)。このリアリズム(現実主義)は信仰からくる。一挙手一投足が神との関わりのなかにあり、神の認可においてないときは、一回しかない現実の歴史においては可能世界に耽溺することなく祝福を求めて次に進むしかないのである。
詩人にとって生きることは神に賛美を帰す機会であると捉えられている。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps.30:10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps.88:11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に賛美を捧げることができる。そのなかで祝福を頂くことができる。
紀元前千年頃ダビデそしてソロモンとイスラエルは版図を広げ強さを誇る時代をも経験した。その後北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)に分かれるがバビロニア帝国による捕囚(598,587,582年)にいたるまで、ユダ王国は500年近い歴史を刻んだ。その間アモスやホセアに始まり、イザヤやエレミヤ、エゼキエルという預言者たちが王のブレーンとしてまた対峙する抵抗者として唯一神ヤハウェの意志を国家存亡の運命を握る判断、政策の選択において関与した。預言者たちはこの世俗権力としての国家と超越的な唯一神ヤハウェとのあいだに立って、歴史の帰趨を見究める者たちであった。彼らは多くの場合厳しい審判の言葉を告げることを強いられた。
ユダの王ゼデキアはじめ高官たちは紀元前6世紀に70年間にわたりバビロンに拘束された(Jer.25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたしはエルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」(Jer.9:6-10)。審判の預言は至るところに見いだされる(eg. Hosea 7:13-8:14, Isa.30:12-14, Jer.5:14-17)。旧約人はこの人生のただなかで万軍の主でありすべてを統治する神に憐みを乞い、人生の祝福を祈った。もちろんそこでは信仰の純化が求められようが、現実的な憐みを直接求めた。
ペルシャ王キュロスによるバビロンによる捕囚からの解放の後もユダヤ人は苦難の歴史を刻んだ。彼らはアレクサンダー大王以後ヘレニズム化の波に襲われ、ローマによりエルサレムが焼かれ(CE70)、その後離散(ディアスポラ)の民として、20世紀のホロコーストの被害者として苦難の歴史を歩んでいる。
5旧約聖書における「此岸性」の主張は生身の人間と譲歩した神のやり取りの展開のなかに位置付けられる。
5:1フォンラートによる死後の世界を要求しない旧約人の「此岸性」という特徴づけ
この21世紀メシアの到来を信じないユダヤ人たちは未だに神の沈黙のなかで救済を待ち望んでいる。ナザレのイエスのあの生涯の後パウロやペテロなどはかの預言者たちに預言された救い主がナザレのイエスにおいて到来したと告げ、新たな宗教として旧約からの連続性のなかで生まれ、世界宗教となった。あの神の言葉の受肉と受難そして復活はまことに特異なこととして歴史のなかで生起した。それまでの旧約の民には知らされていることと知らされていないことがあり、その限界のなかで旧約人は自らの死生観を作り上げていった。各人の心魂の根底にある神に対する信仰とそのもとでの正しい人生の構築こそ彼らの精神性を特徴づける。見えない神と日々関わって生きることそれが彼らを独自の民族としている。彼らの独自性が救い主イエス・キリストを生み出すこととなる。他の民族も神の導きの歴史におかれていたが、ユダヤ民族から全人類の救い主が生まれたのである。旧約人はそこに至る準備期間、待望期間に置かれていたのである。
このような旧約人の態度をフォンラートは「此岸性」と呼ぶ。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。・・この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないか、・・あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき」であるとする(『ナチ時代に旧約聖書を読む フォンラート講演集』荒井章三編訳pp.67-8 (教文館 2021)
神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。この旧約人の此岸性という特徴の理由はいくつか考えられる。第一に、神は人類の救済の計画において、旧約人に、今・ここの自らの圧倒的な介在、現在を知らしめ神への背きを懲らしめ神の意志としてのモーセ律法の遵守を迫っている。そこでは死は神の律法に対する忠誠違反に対する懲罰であると特徴づけられており、この生における罪との格闘に焦点を結んでいる。パウロによれば、後に考察するように、すべての口が塞がれ、世界が神に服すべくこの律法が与えられた(Rom.3:19-20)。
或いは、第二に、旧約聖書の編集者が来世への思弁を展開する文書をブロックしたことが想定される。紀元前3世紀から約200年かけてプトレマイオス朝アレクサンドリアにおいて、旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された。実は「七十人訳」と呼ばれるこのギリシャ語訳が現存している最古の旧約聖書である。ヘブライ語を理解できなくなった異国のユダヤ人たちは当時の公用語であるギリシャ語により自らの民族のルーツについて読むことができるようになった。その編集段階において、エジプトのピラミッドや王たちのミイラに見られるように人類の普遍的願望である永遠の生命についての思弁の記録は除かれたのかもしれない。また、紀元70年におけるローマによるエルサレム陥落のあとユダヤ教学者はヤムニアに集まりユダヤ教の正典となる(旧約)聖書を確定していった。その編集段階において、神の直接的な関わりへの記録を集中的に蒐集したのかもしれない。つまり、来世への希望や幻そして思弁が描かれていないのは旧約聖書の編集の意図が反映しているという理解である。
第三に、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、ひとが永生を何らか望むことを否定できないであろう。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。しかし、旧約人においては、モーセ律法を介した神とその代弁者である指導者、預言者たちとの関わりのなかで神の意志と摂理の知識を蓄積しつつ、死後の世界についていかなるものか神により明確に知らされていないその制約が働いていた。イザヤによれば預言者は「先を見る者」であり、歴史を予見し現実の政治社会の歴史の動向を予告する(Isa.30:10,44:24-26)。そしてその特徴と制約のなかで旧約聖書の素材が編集蓄積された。
旧約人には死を乗り越える永遠の生命への明確な信仰と知識はブロックされていたのだと思われる。神への服従の訓練が施されていた。死後の思弁への禁欲は彼らのこの生における神の祝福と呪いを求めさせ、神との関わりのなかで生きながらえることそれ自体が祝福であった。
この第三の考えは神の人類救済の計画の準備期間の正確な記述という第一の理解と聖書の編集段階における取捨選択という理解と矛盾するものではなく、旧約聖書は現在伝えられているように、主に神とユダヤ人の具体的な関わりの事実の記録として編集され報告されたと言えよう。
そして、もしアブラハムに対し、彼の子孫の繁栄というよりも彼自身の永遠の生命を神が直ちに約束したとしたなら、民族としての特殊性はなくなるであろう。異教の神々に囲まれている状況にあって、一民族に忠誠を求め道徳的鍛錬を通じて祝福と懲罰を与えるという歴史を経なかった場合、その永遠の生命の約束は罪に対する勝利という位置づけを決して得ることはなかったであろう。「すべて信仰に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)というその神の信実とそれへの応答としてのひとの信仰を見出すことはできなかったであろう。棚ぼた式の救いの提示は恩恵として理解されることもないであろう。
ひとつの民族の祝福を介して、祝福が全人類にゆきわたるそのような計画を神はいだいた。一弱小民族を選び鍛え、背きと立ち返りのなかで罪の給金が生物的死であることを知らしめ、時が満ちて御子を派遣し、罪とその値である死に勝利することは苦難なしに待ち望まれることもなかったことであろう。詩人は言う、「主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は援けを求めて叫び、夜も御前におります。わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。わたしの魂は苦難を味わい尽くし、生命は陰府(よみ)にのぞんでいます。・・愛する者も友もあなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(Ps.88:1-19)。
神の沈黙を思わせる待望の歴史のなかで、罪とその値である死に対する勝利として永遠の生命が与えられるとすれば、それはアダムの創造に見られるように全人類に向けられるものであろう。歴史は時の満ち足りを必要としていたのである。アブラハムと彼の子孫だけに永遠の生命が与えられるとするなら、御子の信の従順の生涯は差別と分断を生むだけであったろう。
もし受肉はもとより何の歴史的交流なしにUFOのようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらない神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み)の両立を知ることはなかったであろう。即ち、信に基づく正義を介して自らの罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(パウロ))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのなかで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」)が御子の受肉と信の従順の生涯により福音として啓示されている。
新約の視点からへブル書記者は旧約の人々をこう特徴づけている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生が何であったかが初めて明確にされ、完結されるものであった。忍耐のなかそれほどの待望のエネルギーが蓄積されていたのであった。
憐みを待望む民にとっては各自における一つの生のただなかで神との今・ここの取り組みへの集中は相応しいことのように思える。その制約のなかで義人シメオンはマリアから幼子イエスを抱き上げ言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。この民は神により死後のことを明確には知らしめられなかったからこそ、この此岸の生を正面から引き受けつつ福音の訪れを待望していたのである。
5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答
この此岸性は一つの含意を持つ。彼岸信仰によって現実から逃避することをブロックする訓練を施している。神は徹底的にこの民に関わり忠誠を要求する。過酷な生であれ信仰により正面から引き受けるとき、肯定的な生、実りをもたらす生が開けてくる。苦難を回避したりシニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥るとき、待望は生起しない。厳しい現実との直面は待望のエネルギーをいやがおうにも蓄積させる。とはいえ、待望は彼岸への待望であり、此岸は彼岸との動的な関わりなしには萎縮し、生命を失っていくであろう。ここではラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という旧約人の特徴づけには異論の余地があり、もっと適切な表現を与えるべきであると論じたい。
ヨブ記はそれを告げる。ヨブの苦難における神義論の展開において人生の真剣さそして待望を確認できる。彼は試練のなかで家族や雇人、財産そして健康等一切が奪われる苦難を蒙り、彼は死を願いつつ友人たちに訴える。「わたしの生まれた日は消え失せよ。・・暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(Job.3:3-5)。ヨブは自ら不正を語らず、欺きを言わず、隣人の妻に心奪われ、城門で待ち伏せしたこともなく、奴隷や雇人の言い分をよく聞き、孤児を助け、貧しい者の父となり盲目者の眼となったと、「一日たりとも心に恥じることはない」と自己弁明する(Job.27:4-6,29:12,16,31:9,13,17)。ヨブは正義の神が最後に贖ってくださると訴える、「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。・・愛していた者たちにも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。・・どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(Job 19:8-27)。
旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa.45:15,Deut.29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべていかに空しいものとして創造されたかを。生命ある人間で、死を見ない者があるでしょうか。陰府の手から魂を救いだせるものがひとりでもあるでしょうか」(Ps.89:47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job.9:33,33:23,Isa.43:13,47:4,49:7,54:5)。
ヨブは神に訴える。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答にならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷であり御手の力をもってわたしに怒りを顕される。わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりのなかで翻弄なさる。わたしは知っている。あなたは私を死の国へすべて生命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ」(30:20-23)。
このような訴えの連続のなかで、圧倒的な力によってつむじ風の中から神はヨブに顕現し語りかける。神はこの壮大な宇宙の栄光をヨブに見せ、語りかける。「お前にすばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか、時がくれば銀河を繰り出し大熊と小熊と共に導きだすことができるか」を問う(38:31-32)。ヨブには何であれこの顕現だけで十分であった。無上の光栄であった。自らの小さな義を主張することなどどうでもよくなった。ヨブは応答する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退けて、悔い改めます」(Job 42:2-6)。力強い神の顕現、それ以外にひとは他に何もいらない。ただ、ひれ伏し神を賛美する。ヨブの心魂はこのように造りかえられている。ヨブが自死してしまっていたなら、この逆転を経験する可能性を自ら排除してしまう。御子の派遣において福音が啓示された限りにおいて、神の経綸は最も明白な仕方で知らされており、ひとはこの神の顕現の栄光に浴したヨブと同じ状況にいる。