日曜聖書講義 2021年10月3日 秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(2)神義論―自然災害と懲罰としての生物的な死―

日曜聖書講義 2021年10月3日

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(2)

神義論―自然災害と懲罰としての生物的な死―

 

[先週の復習を兼ねた部分]

2.2 懲罰としての生物的死と永遠の生命

 聖書の死生観の最大の特徴そして躓きは、死とは神への背きに対する懲罰という理解である。パウロは言う、「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。

 神に背く者の懲罰は擬人化される罪への、勝手にせよと、「引き渡し」という仕方で遂行される(Rom.1:18-32)。パウロは旧約聖書に基づき罪の懲罰としての死を罪への隷属に対する罪からの「給金(報酬)」という理解を提示し、神に仕えることの果実としての「永遠の生命」を対抗させる。「永遠」についてここでは語りえないが、北極星をめぐる星々や掛け時計等の規準運動に基づきより先とより後の今を個々人が数えることにより時間の経過を認識するが、もしそのような運動の前後を心が測らなければ、幅のある今を生きることになる(千葉惠「時間とは何か―クロノス(運動の数)とカイロス(永遠の徴)―」『時を編む人間』田山忠行編 pp.217-247北大出版会2015、『信の哲学』上巻p.412(北大出版会2018))。

 パウロは神の前の出来事つまり神による人間認識の啓示を括弧にいれて、「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という自然的な肉の弱さへの譲歩のもとに人間中心的に語ることがある。「肉」とは「土」と呼ばれる根源物質から構成される身体を持つ自然的な存在者の自然的な生の原理のことを言う。そこではパウロは「義の奴隷」か「罪の奴隷」かいずれかに属しうる責任を担う自律的中立的な存在者として人間を捉え、その隷属の帰結は死か永遠の生命かであると提示することにより義の奴隷となるよう励ます。

 「汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。

 ここでの課題は、神への背きを介して罪の奴隷となることにより、生物的な死は懲罰として与えられるという主張を正しく理解することである。罪の側から言えば、生物的死は擬人化される罪が自らの奴隷に対する給金、報酬であり、「よくやった、神に逆らった褒美をやる」というものであるとされる。それは単に生物的に息を止めるということではなく、「給金」はこの生物的死を介してお前を愛したでもあろう神に対し永遠の滅びを宣告させること、神にダメージを与えることに対する報酬を含意するであろう。神への背きである罪の勢力を増させること、それは神による懲罰としての生物的死を契機にして、神に反抗することに他ならない。「彼らは誰であれこのようなこと[前節で列挙された17種の悪行]を行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の思考内容を知らないわけではない」と言う(2Cor.2:11)。

 この死を神の側から言えば、御子の派遣により罪に勝利したのであり、パウロはその啓示の知識を前提に責任ある自由のもとにある人間にサタンの計略にはまるな、罪を乗り越え永遠の生命を獲得せよと命じることができる。聖書は死をこのような神への反抗の帰結として理解し、恩恵に基づきその克服を展開している。

 はじめに旧約聖書における死生観を確認し、この死の二重性と生の動的な関わりを明らかにしたい。死の二重性は道理あるものであるのか。死生観にいかなる変遷ないし強調点の展開が見られるのか。聖書の旧および新約聖書が展開する人類の歴史は神の計画のもとに一貫したものとして理解できるか、これらを明らかにしたい。

 

[今週の議論]

3自然災害や理不尽な死は神の懲罰であるか

3.1 神義論序説―神は本当に正しいのか―

 自然災害や疫病による死や理不尽な死さらに幼児の死も神の怒りや懲罰であるのかが問われてきた。隕石や洪水のような自然災害であれ病気であれ、その死は罪の奴隷になったことの懲罰なのであろうか(e.g.,Exod.5:3,2Sam.24:15,Ps,106;29)。親に捨てられ亡くなる幼児の死にさえひとはそれを主張するのであろうか。これは死の二重性理解の大きな躓きとなっている。

 人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引き起こしたと報告されている。また紀元前1650年頃死海近辺のヨルダン川東岸にあったと思われるソドムとゴモラの町がその悪に対する神の怒りのもと硫黄の火により滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究により隕石の落下であることが明らかになってきている。神は人々の不法に怒り隕石を落とし、洪水を引き起こすことがある、と聖書記者により報告されている。

 神はノアの家族を生き延びるように箱舟の建造を命じるが、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(Gen.6:13)。またソドムについて神は三人の使いを介してアブラハムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大きい」(Gen.18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼすのかとソドムの都のために執成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しかし、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。

 ダビデの時代にイスラエルにおいて北の端であるダンから南の端であるベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている(2Sam.24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、「もう十分だ、その手を下ろせ」」(24:16)。この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化されており、意見を変え得るものとしてあたかも人間であるかのごとくに描かれている。旧約においては、永遠の現在にいまし、一切を知り全能の神の理論的な議論は展開されることはない。当時の神は神の民ユダヤ人との交わりの歴史の展開において自らを譲歩により柔軟な神として描くことを許容している。人間化された神とまさに肉の弱さにおいてある人間のやり取りのなかで、歴史物語はこのように懲罰と憐みの神を報告する。ここに神は厳格というよりも恣意的なのではないのか、罹患させる者とエルサレムに住むそうでない者のあいだに依怙贔屓があるのではないかと問われよう。これらが神の義をめぐる神義論を要求する。生死の問題は神は本当に正しい方なのかという問いを引き起こしている。

 

3.2 福音の啓示に基づき懲罰としての死を理解する

 自然災害や幼児の死がいかに位置付けられるかは、神はそもそも正しい神であるのかをめぐる神義論として論じられている。もし神が公平であり正義でありさらに憐み深くあるなら、当事者即ち此岸性の視点からは理不尽に思える災害や苦難そして死も何らか明確に理解されうるものとなるに相違ない。神義論は理不尽な歴史的事象のみならず、パウロの所謂信仰義認論をめぐっても論争が繰り返されている。パウロにとって神が義・正義であることを確立することは重要な論証課題となっている。ここでは最初に旧約における神の義と人類の死をめぐる理解を提示し、パウロの神義論の基本的な理解の方向を続いて紹介する。

 聖書の報告によれば、旧約から新約の歴史はユダヤ民族にその都度必要とされるものが神により知らしめられており、神の意図の十全な展開は時が満ちて御子の受肉と受難そして復活において最も明白に知らしめられている。この民族の歴史は前史を持ち創造、人類の始祖の背きと懲罰としての楽園追放、その制約のもとでのアブラハムの召命に始まる。族長時代を経てモーセへの律法授与、背き、悔い改めの連続のなかで時が満ちて御子の受肉が生起しており、神の意志の民族におけるまた民族を介した世界への知らしめとして持続的かつ発展的にしかも一直線上に展開している。それは新約の出来事が常に旧約の律法や預言の成就として位置付けられることに確認される。理不尽な死も福音の啓示に向かう一つの捨て石或いは構成要素であったことが理解される。

 ここでは旧約において報告されている擬人化された神と個々人との関わりは一つのことであり、他方神による世界に対する自らの認識や意志の知らしめは別のことであることを基本的なこととしておさえておこう。神は自然災害を用いて何らか関わるであろうが、その神による懲罰はあくまで個々人の責任ある生に対して向けられている。アブラハムによるソドムの義人の値切りの話は、恐らく一人の義人のみでも、神は町を滅ぼすことはなかったであろう。その値切りにおいて義人が罪人の罪を贖うことは直接には語られないが、少なくとも義人への神による嘉み、憐みを含意しており、それは罪人への罰を神に思い留まらせる一要素であることを伝えている。個々人が自然災害や理不尽な死に対して神にどうかかわるかが残されている。

 こう語ることができるのは、神の意志は御子の受肉と受難そして復活において最も明白に知らされているからである。神が福音において知らせたことはどんな災害においても、どんな不運においてもそれを乗り越えることのできる普遍的な救済であった。個々人の災難と神の力能における普遍的な救済、この対比は常に念頭に置かれねばならない。パウロは言う、「福音は聖なる書にご自身の預言者たちを介してはるか以前に約束されたものであり、肉に即してダビデの子孫から生まれた、聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかの甦りに基づき神の御子と定められた御子ご自身、われらの主イエス・キリストについてのものである」(Rom.1:2-4)。「わたしは福音を恥としない。なぜなら、[御子の]福音はまずユダヤ人にそしてギリシャ人にもすべて信じる者に救いをもたらす神の力能だからである」(1:16)。

 人類にとってこの神の力能が顕現され、救いが出来事になった限りにおいて、ここの災いは乗り越えられるものとして位置づけられる。イエスは永遠の生命を約束する。「わたしは一人ではない、父が共にいるからである。これらを汝らに語ったのは、汝らがわたしのうちに平安を持つためである。汝らはこの世界にあって苦しみを持つ。雄々しかれ、わたしは既に世界に勝っている」(John16:32-33)。

 このことは人類の死生観の理解においてもとりわけ重要なことがらである。一般的に幼児に高等数学を教えることがふさわしくないように、神による人類の歴史そしてユダヤ民族との関わりの歴史のなかで、適切な時に適切な介入がなされていると想定することなしに、不可視な神に対する道理ある理解は望めない。この神の歴史への道理ある介入を恩恵と懲罰による人類に対する鍛錬として確認していく。

 この展開なしにユダヤ教に母体をもつキリスト教が世界宗教に発展していくことはなかったであろう。パウロにおいてはひとつの神学として神の人間認識が展開されるが、旧約聖書においては歴史物語として展開される

 

 4 旧約聖書の死生観

4.1 生命の横溢

 コンコルダンス(字句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれぞれ約数百回見出すことができる(『 コルコルダンス 新共同訳聖書、聖書語句辞典』(木田、和田監修 キリスト新聞社 1997)。二千頁の一つの書物において均せば二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていることになる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、「ひとの生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及はアダムの末の誰もが語るであろう一般的な理解である(Prov.11:19,Lev.10:9,Ps.103:15,Job.14:1)。

 同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うしたが、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(Gen.25:8,15:15)。エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。

 生殖を介した民族の繁栄への祝福とリーダーとして民の安寧と繁栄をもたらし、導くべく知力と気力と体力の限りを尽くした人生をまっとうするとき、その生は祝福されたものである。マキアベリは運により君主になった者たちと自らの力量で君主になった者たちの実例をあげつつ、モーセを「運ではなく、自らの力量によって君主になった人々」の一人に挙げている。バビロニアからユダヤ人を解放したペルシャ帝国の王キュロスやローマ建国の祖ロムルス等「卓越している者」、「立派な君主」であるとするが、モーセについては「神に命じられたことがらをただたんに実行しただけなので、彼を論議の対象にすべきではないかもしらない。しかし、彼はひとえに神の恵みにより、神と語るにふさわしい人に選ばれたのであるから、それだけでも賞賛に値するであろう」と特徴づける。マキアベリは彼らの台頭の歴史的状況、好機を挙げつつも「このように、それぞれのよい機会がこの人たちを成功させたわけであり、また一方、彼らの抜群の力量が機会をもたらしたのであった。こうして彼らの祖国は一段と立派になり、繁栄するようになった」(N.マキアベリ『君主論』p.63-4池田廉訳(『マキアベリ』世界の名著16中央公論社1966)。

 このように自然的な生命の儚さとそのなかにあってのリーダーとしての成功と長寿の祝福はいずれの民族にあっても共有されるものであろう。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(Gen.1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然のままに祝福されたものであったであろう。

 

4.2 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素

 人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことによりひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵でひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息を吹きこんだ。そして人間は生きる魂となった」(Gen,2:7)。G. von Ratは言う「用いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまったく無媒介的な吹きこみによって「生きもの(Lebewesen)」になった。この七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定義を含んでいる」。G.v.Rhad,Theologie des Alten Testaments 7 Auflage Bd I,S.163 (Kaiser Verlag München 1978).

 人間は地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されていることは最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。そのことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(『信の哲学』第二章一節四参照)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象とする人間と聖書の伝統のなかでパウロがナザレのイエスの生涯に基づき解明しようとする人間は少なくとも同一の質料的な基礎を持つということである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor.15:45)と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後のアダムとしてのキリストをさらなる新たな生命の原理となる「霊」として提示している。

 人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が生命原理として最も基礎的なものとして位置づけられる。そのうえに「心(kardia)」に内属する意識等の心的事象さらには「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する。パウロにおいては「人間」は「最初の人間」とその生物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ(1Cor.15:44)。第一の人間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった(1Cor.15:45)。第二の人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor.15:47-48)。

 この事態は神話的には鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、現代科学がまだ解明できていないことがらを或いは異なる仕方で表現していることがらをパウロはすでに把握している可能性を否定しない。パウロは「霊」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約聖書は帰結主義をとっており、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認されるとき、その証があると主張される(Luk.7:44,Gal.5:22)。

 アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるのか。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実質的には霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであり、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受ける部位として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるものが内在していると理解すべきであろう。

 実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け取らない。というのも彼には愚かでありそして知ることができないからである、といのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor.2:14)。霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握した者であり、人間は肉の魂的な生命に還元されないことを知っている。生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について即ち聖書が展開する心身論についてはここで十全に議論することはできない(『信の哲学』第四章パウロの心身論)。

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