秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)―聖書の死生観における死の二重性序論―

2021年度秋学期最初の講義原稿をアップします。録音は脱線しつつ自由に話しています。聖書の死生観についてクリスマス頃まで連続で講義予定です。なお、改定日10月3日には先週の録音の文章より改善しています。録音は変えられないため、文章により改善することにより、連続講義に対応させていきます(9/26改定日10/3)。

日曜聖書講義 2021年9月26日

秋の連続聖書講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)

―聖書の死生観における死の二重性序論―

                       千葉 惠

「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう、主の御名は褒むべきかな」(Job.1:20)

「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(Luk.24:2-6)。

 

1序―死生観のありうる立場のなかでの聖書の特徴―

 1.1 生と死の動的な関わりの探求

 2021年夏、疫病の蔓延で適切な医療を受けられず、感染することさえ許されない状況がわが国においても出来し、死は何か身近なものとしてひとびとを不安と恐れに陥れている。日常生活に訃報の報せが日々飛びかい、ひとの意識活動は感染防止の生活、日々の糧の摂取即ち延命処置に費やされている。よく生きるために働いているはずなのに、身体及び精神活動の制約のなかで死の影に怯えつつ死に向かって生きている。医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人生崩壊の兆しさえこの国に広がっている。

 それでも心はかつて疫病や過酷な歴史に苦しんできた歴史上の人々と変わらない。死の不安や恐怖は身体の衰えとともにこの生命が途中で燃え尽きてしまうことに対する未練とともに湧き上がろう、或いは死後まったく無に帰するのかそれとも厳粛な法則のもと人生に対する公平な審判が遂行されるのか、神に対する畏れがこれまでの生に対する後悔や感謝、さらには賛美と共に湧き上がろう。

 孔子は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうして死について知っているだろうか」と応えたと言う(『論語』11-11)。われらの生はその始まりと終わりにより囲まれているが、知らないもの即ち「出生前」と「死後」に囲まれている。この当たり前の事実が人生の醍醐味を伝える。われらが生まれる時、肉の父母を選択できない、さらにはその諸条件や環境を選択できない。この不平等さに面して、或る者は自らの誕生を呪うであろうし、或る者はその境遇を感謝することであろう。しかし、この事実は例外なしにすべてのひとに適用されることに直に気づく。この意味において、ひとは等しい者として造られている。個々人の差異はその唯一性を形作っている。

 われらはわれらの人生の出発位置における差異がもたらすであろう或る意味における不平等な帰結を否定できないけれども、それぞれの個々人の唯一性はわれら個々人にとって貴重なものと捉えられうる。もしわれらが、そのもとに皆が正確にして公平に考慮されうる平等主義的規準を何らか打ち立てることができるなら、われらの人生はまったくわれら個々人の責任に帰せられることになる。人類の歴史において人々は秩序ある社会を維持すべく、象徴的には「朕は国家なり」という行政、律法、司法一切をわが物にする動きに対抗して、この平等主義的な観点を宗教においてまた社会契約説等の政治制度、社会活動においてそして心魂の在りようの哲学的また科学的考察を通じて打ち立てようとしてきた。

 死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事であるが、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。対立する二つの立場を突き詰めると、一切を正確に知り公平な審判を遂行する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論がある。他方、個々人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論がある。双方とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてはひとは知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見える。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後神の前に立ち何らかの審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択するという生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めない限り、事実上、無神論に吸収される。

 無神論に基づく死生観はここで展開する有神論の論述の否定として理解される。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというものであり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。ひとは、一方で過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切の消滅であり生が持つ過酷さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでないかもしれない。

 他方、確かに生は常に死に向かっているが、その死が一刻一刻迫っているという事実が、生に意味を与え死に飲み込まれない肯定的な生の構築に向かわせる。その意味で死の何らかの理解が生を構成している。生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断を免れることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求める。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。神は人類の歴史においてそのような機能を担ってきたのであり、懐疑においてであれ有神論を真剣に考慮する或いは信じることのみが生死を真剣に受け止めることを可能にさせる。換言すれば、神を相手にするのでなければ、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験のフィードバック(送り返し)を介して全体としての自己理解を形成深化させることである。その経験とは例えば「「わが足滑りぬ」と叫んだとき、主よ、汝の憐みわれを支えり」という類のものである(Ps.94:18)。ひとはそれぞれ個人史を持つ。

 

1.2 一神教の歴史のなかでの確立

 今理性のみによる神の存在証明を遂行できないが、ここでは有神論しかも唯一神との関わりにおいてひとの生死を位置づけている聖書の死生観を考察したい。一人の神のみを拝するということが聖書の民族の最大の特徴である。「わたしはヤハウェである。わたしの他に神はない、一人もない。・・わたしは光を造りまた闇を造る、平和をもたらし、災いを造る」(Isa.45:5-7)。旧約聖書には一人の神の働き即ち啓示行為の報告で満ちているが、一神教という教義が理論として展開されてはいるわけではない。「神は一人である」(Rom.3:30)。一人の神しかいないということは神の統一的な働きに対する個々人の歴史を介しての認識と承認のなかで確立されていったと思われる。アブラハム、イサク、ヤコブそしてヨセフという個々人においてもその集積である民族においても、人生の流れの中で一人の神を相手にしているという認識が与えられてきたのだと思われる。個人のまた民族の歴史が或る一つの流れをもっており、そこに常に同一の神が関与していることの報告が聖書において蓄積されている。

 ここではそれを待望と成就という一直線の歴史の展開において確認する。それがいかなる準備のもとに神の子の啓示を待望したのか、そしてみ言葉の受肉と受難に続く復活がどのような生と死の理解を人類にもたらしたのかその解明の道筋をつかみたい。神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導きたまう。ユダヤ人の歴史は御子の派遣に向かっており、その後は新天新地の創造における御子の再臨に向かっている。浅野順一は言う、「聖書の宗教は歴史に根差す宗教であり、その啓示は歴史的である。歴史を離れて啓示の観念は成立しない」(浅野順一『イスラエル預言者の神学』p.3(創文社1955)。ここでは数回にわたり、世界宗教となる契機の事件となったキリストの復活、甦りに至る、聖書に報告されている人類およびユダヤ民族の歩みを考察する。

 

2 聖書の生死の基本的理解と躓き

2.1 神に導かれる歴史と個々人の責任―死の二重性―

 聖書の死生観は神が歴史に関わるその経過の中で形成されており、人類そしてユダヤ民族の歴史とともにその死生観も変遷、成長しうるものである。紀元前1700年頃からのアブラハム以来の歴史の展開において民族の苦難や立ち帰りを通じて救済の福音への収斂を確認できる。旧約聖書において、神は個々人の責任における神への畏れと律法の遵守をめぐって祝福と懲罰において関わっていることが縷々報告されている。そこには一貫してモーセ律法に見られる神の意志の遂行が問題とされており、それは唯一の神による自らの民への関わり方が或る統一的な計画のもとに遂行され展開されていることを含意する。御子の福音の啓示にすべてが向かうものとして秩序づけられるとき、理不尽に思われる個々人の死も理解されうるものとなる。神と個々人の関わりとその理解は個々人の責任に帰せられるが、福音の啓示は全人類に向けられており、神の意志がそこにおいて最も明白なものとして知らされている。「神は独り子を賜うほどこの世界を愛した、それは彼を信じる者がすべて滅びることなく永遠の生命を獲得するためである」(John.3:16)。ひとはこの福音によって自らの生死を理解するよう促されている。

 生物的な死は自然的なものである。それは自然科学によって解明されうるものであるが、聖書の報告によれば、生と死は「産めよ、増えよ、地に満てよ」という生の祝福のもと長寿を全うするそのような自然的な理解とともに、生の困難とその帰結である死は神への背きとしての罪に対する懲罰であると理解される。われらが土から生まれ土に帰り、それで終わりであることを自然的であると理解していても、福音において明らかにされたように永遠の生命こそ人間の本来性であるという理解を持つ神にとっては自然的な死即無という理解は残念なことであり奮起を期待しての懲らしめ、懲罰を意味することになる。これを「死の二重性(duality of death)」と呼ぶ。

 他方、罪から自由にされた義人の生物的な死は眠りとなる。死を懲罰として捉えることは、その罪が赦される限り、その死を乗り越えることができるものであり、自然的な死は人類にとって、最後的なものではないことを含意する。罪赦された者は「新しい被造物」として新しい生を生きる(2Cor.5:17)。そして罪赦されたことの証は隣人を愛しうることであるとされる(Luk.7:47)。

 この意味において死は生を変革する力を持ち、人生は罪の値としての死を乗り越え、永遠の生命を獲得することが目標となる。イエスは端的に言う、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えることになるのか」(Mat.16:26)。彼はまた言う、「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。

 聖書は生と死を分断することなく、双方を全知であり全能である創造者にして救済者である神との関わりにおいて捉える。預言者エゼキエルはバビロン捕囚のただなかで神の言葉を取次ぐ、「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァルの侵攻を預言し神の言葉を取次ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer.21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl.3:1-2)。

 個々人の一切が神の経綸のもとにある。死への恐怖は怒る神への恐怖であったのである。「[業の]律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)。「信の律法」に基づく神との和解は死を乗り越えさせ平安を得るに至るものとなる(Rom.3:27)。聖書にはひとびとがその死を見ない平安な退去としての死が報告されている(Gen.5:24)。死が複層的に受け止められるとき、「一つの夜[死]が万人を待つ(omnes una manet nox)」(Horatius)という、そして、後がない一回限りの生を燃焼させ歴史に名を残す「千載青史に列するを得ん」(頼山陽)という単純なものではなくなる。個々人の生と死が一つの計画、一つの経綸のもとに置かれるとき、いかなる生の努力も風化し無に帰するという空しきものとはならなくなる。生きた証として、永遠の相のもとにあるこの美しい地球とその歴史にただ真実なもの、善きもの、美しいものだけを遺していきたいという思いに清められることであろう。

 なお、もし一切が予め定められロボットのように神の計画に組み込まれるだけの人生であるなら、それはまた空しいのではないかという懐疑が提示されよう。それに対しては肉の弱さに譲歩して人間中心的に語る限り、ひとは選択において自由な行為主体であることを確保でき、また個々人の救いをめぐる神の認識は福音の啓示においてほどには誰にも明確に知らされてはいないということにより応答できる。そこでは「畏れと慄きをもって救いを全うせよ」と命じられうる(Phil.2:12)。ひとの人生は各自の責任においてある。

 

2.2 懲罰としての生物的死と永遠の生命

 聖書の死生観の最大の特徴そして躓きは、死とは神への背きに対する懲罰という理解である。「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。

 神に背く者の懲罰は擬人化される罪への、勝手にせよと、「引き渡し」という仕方で遂行される(Rom.1:18-32)。パウロは旧約聖書に基づき罪の懲罰としての死を罪への隷属に対する罪からの「給金(報酬)」という理解を提示し、神に仕えることの果実としての「永遠の生命」を対抗させる。「永遠」についてここでは語りえないが、北極星をめぐる星々や掛け時計等の規準運動に基づきより先とより後の今を個々人が数えることにより時間の経過を認識するが、もしそのような運動の前後を心が測らなければ、幅のある今を生きることになる(千葉惠「時間とは何か―クロノス(運動の数)とカイロス(永遠の徴)―」『時を編む人間』田山忠行編 pp.217-247北大出版会2015、『信の哲学』上巻p.412(北大出版会2018))。

 パウロは神の前の出来事つまり神による人間認識の啓示を括弧にいれて、「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という自然的な肉の弱さへの譲歩のもとに人間中心的に語ることがある。「肉」とは「土」と呼ばれる根源物質から構成される身体を持つ自然的な存在者の自然的な生の原理のことを言う。そこではパウロは「義の奴隷」か「罪の奴隷」かいずれかに属しうる責任を担う自律的中立的な存在者として人間を捉え、その隷属の帰結は死か永遠の生命かであると提示することにより義の奴隷となるよう励ます。

 「汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。

 ここでの課題は、神への背きを介して罪の奴隷となることにより、生物的な死は懲罰として与えられるという主張を正しく理解することである。罪の側から言えば、生物的死は擬人化される罪が自らの奴隷に対する給金、報酬であり、「よくやった、神に逆らった褒美をやる」というものであるとされる。それは単に生物的に息を止めるということではなく、「給金」はこの生物的死を介してお前を愛したでもあろう神に対し永遠の滅びを宣告させること、神にダメージを与えることに対する報酬を含意するであろう。神への背きである罪の勢力を増させること、それは神による懲罰としての生物的死を契機にして、神に反抗することに他ならない。「彼らは誰であれこのようなこと[前節で列挙された17種の悪行]を行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の思考内容を知らないわけではない」と言う(2Cor.2:11)。

 この死を神の側から言えば、御子の派遣により罪に勝利したのであり、パウロはその啓示の知識を前提に責任ある自由のもとにある人間にサタンの計略にはまるな、罪を乗り越え永遠の生命を獲得せよと命じることができる。聖書は死をこのような神への反抗の帰結として理解し、恩恵に基づきその克服を展開している。

 はじめに旧約聖書における死生観を確認し、この死の二重性と生の動的な関わりを明らかにしたい。死の二重性は道理あるものであるのか。死生観にいかなる変遷ないし強調点の展開が見られるのか。聖書の旧および新約聖書が展開する人類の歴史は神の計画のもとに一貫したものとして理解できるか、これらを明らかにしたい。

 

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