秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(3)―アダムにおける永遠の生命の力能―
日曜聖書講義 2021年10月10日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(3)
アダムにおける永遠の生命の力能
[復習]
死の二重性
聖書の死生観は神が歴史に関わるその経過の中で形成されており、人類そしてイスラエル民族の歴史とともにその死生観も変遷、成長しうるものである。紀元前1700年頃からのアブラハム以来の歴史の展開において民族の苦難や立ち帰りを通じて救済の福音への収斂を確認できる。旧約聖書において、神は個々人の責任における神への畏れと律法の遵守をめぐって祝福と呪い、祝福と懲罰において関わっていることが縷々報告されている。そこには一貫してモーセ律法に見られる神の意志の遂行が問題とされており、それは唯一の神による自らの民への関わり方が或る統一的な計画のもとに遂行され展開されていることを含意する。御子の福音の啓示にすべてが向かうものとして秩序づけられるとき、理不尽に思われる個々人の死も理解されうるものとなる。神と個々人の関わりとその理解は個々人の責任に帰せられるが、福音の啓示は全人類に向けられており、神の意志がそこにおいて最も明白なものとして知らされている。「神は独り子を賜うほどこの世界を愛した、それは彼を信じる者がすべて滅びることなく永遠の生命を獲得するためである」(John.3:16)。ひとはこの福音によって自らの生死を理解するよう促されている。
生物的な生と死は自然的なものであり、それは自然科学によって解明されうるものである。人類の歴史は死者の数そしてその死因を基本的に計測可能、判別可能なものとして展開している。この同一の歴史が神の関与の歴史なのである。聖書の報告によれば、生と死は、一方で、「産めよ、増えよ、地に満てよ」という励ましのなか長寿を全うするそのような自然的な生命の発露として祝福されたものである。
他方で、生は様々な困難にとらわれるものであり、その帰結である死は神への背きとしての罪に対する懲罰であると理解される。われらが土から生まれ土に帰り、それで終わりであることを自然的であると理解していても、福音において明らかにされたように永遠の生命こそ人間の本来性であるという理解を持つ神にとっては自然的な死即無ないし生態系への解消という理解は非本来的、残念なことであり死を乗り越えるべく奮起を期待しての懲らしめ、懲罰を意味することになる。福音の出来事から死を見る限り、それ以外の理解はできない。福音のもと生物的死への眼差しによって生を構成しつつ、罪と死を乗り越えるよう励まされている。
一方で、生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的なもののうえに注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen.1:31)。自然的なものは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自然であり本来的である。
神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせており、ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能をその創造において所有していた。少なくともそれらの実を食し消化するする力能を備えていた。さもなければ、神に彼らが食する可能性を想定されることはなかったであろう。ただし、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木を食することが許されていたかもしれないが、人類の始まりの段階では許されたものではなかった。エデンの園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼らは園を追放されたのであるから、彼らが食する力能を失ったわけではない。
カトリックとプロテスタントにおいて最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論争がある(『信の哲学』第八章、九章第二節一)。カトリック教会は4世紀ヒエロニムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされたVulgata版を1970年のNova Vulgataにおいてアダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している(新しい翻訳5:12-14は直ぐ下で提示している)。罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達されるという類の議論はなされえない(『信の哲学』第四章二節六)。祝福と懲罰は自然的な基盤のうえに築かれる人生のうえに神との関わりにおいて与えられる。それ故に、自らの職務等を通じて力能を十全に発揮し、長寿を全うすることがあるとするなら、それ自身創造者である神からの祝福を得たものとなり、自然的なものとしても祝福された死であると言うことができる。興味深いことに旧約聖書においては祝福された死は語られてもまた民族の発展は語られても、その者たちに永遠の生命は約束されてはいない。
他方、神は罪を犯す者たちに対して洪水や隕石等の自然的な事象を介して、さらには戦争等を介して死を懲罰として与える。旧約聖書においては、これは個々の具体的な事例を介してこの懲罰としての死が記録されているが、パウロにおいては罪から救済された者をも含め、それは普遍化され、理論的に把握されている。福音の視点から見れば、福音はすべての者の罪とそれ故の死から救済する神の力能である以上、どれほど軽微な罪であれ誰もが罰としての死を免れなかったとされる。救済を必要としないひとはいないからである。パウロは言う、「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したが故にすべての者に死が貫き通されたと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。
人類にこの一方祝福された自然的な死があると同様に誰もが懲罰としての死を免れることはなかったことを、「死の二重性(duality of death)」と呼ぶ。ただし、罪から自由にされた義人の生物的な死はしばしの「眠り」となり、「死」の意味は異なる。死の二重性において「死」は同様に息を止めることであり、ムクロとなることであるが、その自然的死を介して或る者は眠り他の或る者は滅びに定められ得るその可能性において捉えられる。かくして、死を懲罰として捉えることは、その罪が赦される限り、その死を乗り越えることができるものであり、自然的な死は人類にとって、最後的なものではないことを含意する。罪赦された者は「新しい被造物」として新しい生を生きる(2Cor.5:17)。そして罪赦されたことの証は隣人を愛しうることであるとされる(Luk.7:47)。
同一の死が二重に理解されるとするなら、同一の生も死に向かう生と死を希望において既に乗り越えた生として二重に理解される。パウロは言う、「われらをキリストにおいて常に勝利の行進を歩ませたまうそしてあらゆる場においてわれらを介してキリストご自身の認識の馨を明らかにしたまう神に感謝あれ。われらは救われる者たちにおけるまた滅びゆく者たちにおける香ばしい匂いであり、かたや滅びる者たちには[生物的]死から[神の前の滅びの]死に至る匂いであり、他方、救われる者たちには[生物的]生命から[永遠の]生命に至る匂いである」(2Cor.2:14-16)。キリストにある者はキリストを受け入れない者にとって滅びの匂いとなる者であり、受け入れる者には永遠の生命の匂いとなる者たちである。ひとの生が死に対する勝利の生と死への滅びの生に二分されている。自然的な人生が懲罰としての死を正面から引き受け、その罪を赦すキリストを受け入れるとき、生命の行路に入る。
4.3 楽園追放に続く労苦による生命維持と土への帰還
最初の人間アダムとエヴァは神への従順ではなく倫理的な行為主体となるべく「善悪を知る」木の実を食べて楽園を追放されている。その追放の理由は彼らがさらに「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」となる恐れがあったからであるとされる(Gen.3:23)。これは創造者である神のように永遠に生きる者となることを含意するが、歴史の展開のなかで御子の派遣による福音の啓示を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。
彼らは神に背いたあと、まず懲罰として生存のための労働と死がアダムに与えられている。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(Gen.3:17-19)。エヴァに対してはこう罰が与えられる。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」(3:16)。
人類は生存のための額に汗する労働と出産に伴う苦しみさらに生物的死を懲罰として受け止めることになるが、それは塵が塵に返るという自然的な法則のもとに置かれたということであり、神との親密な交わりに人間の本来性を見出す霊的なものからの追放である。ひとはその後そのような制約を自然なもの、当然なものと受け止めるが、それこそ楽園を追放された者にとっての現実的認識である。本来は霊的な交わりを享受する者として造られた人間がその構成要素である土に帰ることが懲罰であると言える。
ただ、最初の人間は善悪を知る木と生命の木の果実を食することができ、消化することができるそのような力能を持っていたとされている。つまり、永遠の生命を受動する何らかの力能を予め持っていたことが含意されている。楽園追放後もその力能においては変化がなかったと看做すべきである。そのことは一つの民族の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の受肉と受難と復活が生起したことから確認される。楽園において罪を犯さずにも彼らは塵に返ったでもあろうが、それは眠りであり、時がくれば永遠の生命を授けられることもあろう、そのようなものである。この後人類の歴史は自然的制約というこの与件のもとで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。
もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれたとえ生物として土に返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられることになる(Mat.27:52、1Cor.15:6,18,20,51)。旧約聖書においても「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki.2:10)という表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。この表現はエデンの園における「生命の木」に暗示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚醒の可能性を示唆していると言うことができる。「眠りについた」というこの表現は新約における義人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測される。
ここでは生と死は神への忠誠と背きとの関連に置かれることになったことを確認するにとどめよう。神の民は個々の人生を介して祝福と呪い、恩恵と怒りのもとに置かれる。この人類の始祖の神話物語の流れの中でまたその基礎のもとにアブラハムが神の召命を受け、約束の民族を形成していく。
4.4アブラハムの召命に続く民族の展開
アブラハムに始まるこの民族は唯一神ヤハウェが彼にカナンの土地を与え、子孫は夜空の星のように浜辺の砂のように繫栄するという神の約束を信じ、神との交わりのなかで生と死、祝福と呪いのなかでその民族の歴史を刻んでいる(Gen.12:2、17:7、22:17)。アブラハムは神の約束の言葉を信じて、カルデヤのウルを出立した。見えない神を相手に生の一切を位置づけることは信仰による。「アブラハムは主を信じた。主はその信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。信仰・信というものを心魂の根底におくとき、ひとはそれが正しい信仰である限りにおいて、心魂の卓越性(有徳性)がそこにおいて発揮される知識をめぐる認知的な力能、態勢と正義や愛等をめぐる人格的な力能、態勢を成長させる。最終的には賢者と聖者となる。理性の逸脱である狂信からそして恐怖等のパトスの異常である迷信からも自由にされる。彼らは一神教のただなかで、その心魂の態勢を信仰のもとに成長させた民族であったことを確認したい。もし正しい信仰を持つなら生の実りは各自に与えられる与件は「善き地」であるという信のもとにその力能を100倍、60倍にこの人生のただなかで実らすと約束されていた(Mat.13:18-23)。
神はイサクに続きヤコブを祝福して言う、「私は全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや、多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。私は、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える」(Gen.35:11-12)。人間が「土」という根源物質から形成されていること、生殖を通じての生命とその理想的な死としての長寿という生命の謳歌は自然的なことがらとして、それをめぐる道徳や生活環境さらには生命の儚さとともにすべてのひとに共通する反応や理解をこの民族にも見出すことができる。この民族にとってはひととしての共通素材である「土」のもとに、生命原理としての「魂」や意識事象を司る「心」を備えるそのような組成のもとに生と死を経験することにおいて、他の民族となんらかわらない。エジプトやアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャやローマ等列強支配の圧力のもと、また過酷な自然環境のなかで長く生きうることそれ自体が祝福であったという理解は今日にも妥当する死生観であろう。ただし、これは霊と呼ばれる「内なる人間」に対する言及がなされない場合に限られる。聖書においては、その神との霊的な交わりのなかで自然的な長寿の生命が祝福されているのである。
ヤコブ(十二部族の祖)は神の使いと一晩祝福を願い相撲を取ったことにちなみ「神と闘う」という意味の「イスラエル」と名付けられる(Gen.32)。この民族は歴史の変化とともに自らまた周辺国の呼び名で「ヘブライ人」、「ユダヤ人」と呼ばれることもある。ユダヤ民族の神との交わりの集中度は尋常ならざるものであった。現在まで宗教上特異な地位を占める民族として、また思想史、科学史、経済史上等特異な地位を占める民族である。この民族においては、唯一神ヤハウェに対する関わりのなかで、生と死は捉えられる。懲罰としてであれそうでないものとしてであれ、生あるものは土に返るという自然的な死生観と共通項をもちつつも、神とひとを媒介するものは「霊」と呼ばれる。神は生きて働いており、他の神々を拝することは忌避される。祝福と呪いのなかで生と死が置かれる。滅びることは懲罰として捉えられるとき、この生への真剣度はいやがおうにもまし、神に祝福と憐みを求めて生きることとなる。或いはそれをひとびとは狂信や迷信として拒絶する。
モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:4-5)。
生命と死は神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし(モーセ)は今日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。・・汝の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増える。・・もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるなら、・・汝らは必ず滅びる」(Deut.30:15-18)。モーセの十戒に見られる偶像崇拝や偽りや姦淫、貪りは厳しく戒められた。(Exod.ch.20)。モーセが神の山に滞在している間、麓で金の子牛を鋳て偶像を拝した民は一日で三千人が処刑された。「主もモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者は誰でも私の書から消し去る。・・わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに懲罰する」(32:28,33-34)。
4.5 神義論
これらの記述において少なくとも誰にも同意できることは、これらの歴史物語の著者が自然災害の理解に関わっていることである。ひとり或いは複数の聖書記者が神から啓示を受け、歴史的事象、事件についてその神の理解を報告していることである。これは新約聖書のパウロや福音書記者たちにおいても変わらない。
ここに記者が神の理解と看做すことがらと実際神がそう看做すことがらのあいだに緊張が生じる。これらの歴史物語においては、神の認識と記者による神の認識の理解のあいだ双方に齟齬がないものとして報告されている。記者は忠実に神の認識と意志を報告していると自覚しているが、善良な被災者は自らの落ち度を見出し得ないと主張するかもしれない。しかし、聖書に親しむことにより神はそう看做してはいないということに習熟することが求められる。ただし、読者は神の言い分に道理のあることを求めるであろう。被災者のなかには軽微な罪を犯したと神に看做されている者たちも含まれようが、誰に対しても神は一切を正確に知っており、しかも憐み深く、終わりの日に正確な審判を下す、そのような神であることを求めることは道理ある。というのも、神により創造された人類は理性をもった存在者だからである。心魂の一部を構成する理性を納得させることのできない神は神ではないであろう。
宇宙の創造者であり万物を支配、統治している神は、その定義上、現代科学により解明されている自然法則を用いて人類の歴史に関与することができることは明らかである。当時の記者たちはプレートテクトニクスも天文学や宇宙物理も知らない。彼らの認知的制約のなかで歴史物語として神と人類の関わりを描かざるをえなかったことも理解されよう。そして当時の記録者を含め人々は一つの自然事象を神の懲罰として受け止めたことも明らかなこととして同意されよう。これらの受けとめを為してきた者たちの記録をも含め人類の歴史はその報告とともに、即ち後代の人々の認知的理解に影響を与えつつ展開していく。
その後の時代にも自然的災害は頻発し、また理不尽に思える幼児の死など到底承認できない死が頻発して今日に至る。現代のわれらは地球の歴史に終わりがくることを確かなものとして知っている。そのとき生存者がいたとして、生きている者はすべて自然災害により死に至ることも知っている(ただし、人為的災害により終わってしまうかもしれないが、それも何らかの自然的な力能の利用による一切の死である)。科学的説明ができる現代においても、神の関与の何らかの意味付けが探索されよう。そしてそれは個々人の良心に委ねられている。神は自然事象を介して何らかの意志を知らせることができるからである。
まず確認すべきことは疫病で苦しむひとは具体的な個々人である。明らかなことは自然災害が生じたとき、被害者である個々人と神の関係において彼らは自らの責任において、神の懲罰であるのか、或いはただの偶然であり不運によるものか、それともはたまた何であれ人類の歴史は理不尽なもので満たされているとするのか、いずれかのものとして解釈する。聖書記者たちは神の罰として伝えたが、そこに神の憐みをも見ていた。個々の出来事を介して聖書記者が受け止めた限りの神の具体的な介入を報告しており、神の理論化は試みられてはいない。明確な神学の形成を可能にするのは自己完結的な神が明らかにされた限りにおいてである。神話や歴史物語においては神は後悔したり、意見を変えたりする人間的な姿で描かれることを許容している。神の怒りや憐みはそのような具体的なやりとりのなかでしか表現できなかったからである。神は人格的な自己完結性においてご自身の人類に対する認識そして愛を御子の派遣において十全に知らしめている。神についての理論化はまことの人にしてまことの神の子の媒介者においてのみ展開されうる。
旧約聖書が伝える祝福と懲罰の積み重ねの歴史の展開によれば、これらの解釈の選択肢のうち神の意図にかなっていると看做されるのは、何らか福音との関係において肯定的に人生を捉え直す限りにおいてのことである。旧約聖書の登場人物たちは少なくとも自らの自然的、人的災難を懲罰として受けとめたのであり、自ら悔い改め立ち返り、さらには預言者として同胞にそう呼びかけている。彼らの自覚として神が懲罰から恩恵にいたるよう関与したことは確かなことである。これは後にヨブの分析を介して確認する。
神の意志としてもっとも明白に知らされたことがらは神自身の専決行為である御子の派遣を介した歴史的展開である。これはそれまでの個々人の神との関わりによって報告された自然的事象を媒介にした出来事よりも神の意志を明確なものとして伝える。ノアの洪水やソドムの隕石による滅びという一つの自然的な出来事が神の意志の顕れであるかどうかは、神自身による御子の派遣という神の専決行為ほどには明確ではない。或いはより適切には自然災害などの苦難を神の懲罰として受け止めるかの正しい理解は福音の啓示との関連におかれる限りにおいてのことである。神の憐みに触れる限りにおいて、懲罰は正しく理解される。
聖書の読者は問われている、個々人についての神の認識については十全には知らされてはいないそのような神と関わっていくかという仕方で。人類はその認知的不十全性を信仰により突破してきたのである。歴史は災いによる死者たちとそれを生き延びた者たちにより信仰において不信仰において構成されていく。全体として一方向に秩序ある仕方で歴史が進行している限り、そこに神の意志の実現の道理ある過程を見て取ることはできる。
最も明白に知らされた御子の派遣という神の専決行為は人類の罪を贖うために遂行されたものである以上、この知らしめに立つ限り、それまでの歴史にも神の訓育、祝福と懲罰による導きを理解することは道理あるものとなる。かくして、死の二重性をめぐる問いはすべてイエス・キリストの問いに収斂することが明確となる。ひとは問われている、福音の啓示はわれら個々人ひいては人類の罪を贖い、罪の給金としての死に打ち勝ち、復活の主と共に新たな生を生きるものであることを信じるかと。福音による救いの経験は前史における神の関与とその報告も道理あるものとして理解されるに至る。旧約聖書は新約聖書において報告される神の決定的な歴史への関与からして理解されるべきことを確かなこととして確認できる。
旧約聖書の登場人物はその意味において手探りに歴史の導きを試行錯誤のうちに模索していたことになる。知らされていない救いを求め待望のエネルギーは蓄積されていったに相違ない。彼らは現実の生を神の約束に頼りつつ、その代弁者である預言者たちに頼りつつ、展開していく。死後についてもほとんど告げ知らされてはいないなかで、彼らは今・ここにおける神の憐みを求めて生きていた。
4.6旧約における死後の世界の思弁をブロックするもの
死は神の領域であり、聖書では一様に霊媒や口寄せ等死者と交流する者たちは汚れであり、理にかなわないものとして軽蔑される。「あなた方のあいだに、自分の子女に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(Deut.18:11、同様にLev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4参照)。死後の世界との交流を遮断したこの理性的な対処にこの民族の特徴を見出す。この民族が魔術や偶像をさらには恐怖などの過剰なパトスに由来する迷信を排し、生きた神との現実感の中で生きた交わりを結ぶことにこそ生の中心を置いていたことが確認される。
ダビデ王はバテシェバとの子供が病気で死ぬまでは断食し、塵灰を被り生還を祈り続けたが、死を知らされると気持ちを切り替えている。「子が生きている間は主がわたしを憐み、生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった、断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか」(2Sam.12:23)。彼らは死後については神の事柄として禁欲しつつ、この人生の導きを祈り求めている。詩人は言う、「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps.16:10)。このリアリズム(現実主義)は信仰からくる。一挙手一投足が神との関わりのなかにあり、神の認可においてないときは、一回しかない現実の歴史においては、ありえた世界の夢想に耽溺することなく祝福を求めて次に進むしかないのである。
詩人にとって生きることは神に賛美を帰す機会であると捉えられている。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps.30:10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps.88:11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に賛美を捧げることができる。そのなかで祝福を頂くことができる。