山上の説教八福「その霊によって貧しく、悲しむ者」

日曜聖書講義

                      2022年1月9日(録音は二節まで)

                       

山上の説教~八福を生き抜いたナザレのイエス~  

その霊によって貧しく、悲しむ者 

                            千葉 惠

                   

テクスト

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。

 

 はじめに

 マタイ福音書五章から七章の山上の説教のまとめとしてわたしどもはここで八福を再び学ぶ。その八福を生きた方はまさにイエスそのひとであることを確認したい。

 

一、経済的な貧富に拘わらず、この世界のいかなるものによっても満たされず神を求める者の幸い

 第一福「その霊によって貧しい者」とはいかなる者か。経済的な困窮者それも自発的に貧しい者なのか、それとも精神的に謙遜な者なのか、とりわけ神との関係において充足的なものではないがしかも神に縋りついているそのような意味での貧しき者を理解すべきなのか、或いは双方のいずれでもあるのか。ルカには端的に「貧しい者」(Luk.6:20)とあるが、そこでは経済的な困窮者をただちに指示しているように見える。このマタイではそれを包摂しつつも天の父なる神との関係においてその貧困を捉えるそのような限定が付与されている。ここではやはりイエスに即してまた打ちひしがれてついてくる群衆の文脈でこの箇所を理解しよう。

「霊によって貧しい」の対義語のひとつに「欲望によって貧しい」が考えられる。「箴言」に「欲望はひとに恥をもたらす。貧しい者は欺く者よりも幸い」(Prob.19:22)、「初めに嗣業(ゆずり・遺産)をむさぼっても、後には祝福されない」(Prob.20:21)、「貪欲な者は財産を得ようと焦る。やってくるのが欠乏だとは知らない」(Prob.28:22)とある。「第一テモテ」に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥る。その欲望がひとを滅亡と破滅に陥れる。金銭の欲はすべての悪の根だ。金銭を追い求めるうちに信仰から迷いでて、様々のひどい苦しみに突き刺された者もいる」(1Tim.6:9-10)とある。従って、「欲望によって」貧しい者また欲望によって一時的に富んだ者、金銭への執着によって富んだり貧しかったりする者たちが祝福の対象であることは考えにくい。

 かくして「その霊によって」貧しい者、つまり神との関係において貧しい者、富みであれ名声であれこの世のいかなるものによっても満たされず、神との正しい関係を求め飢え渇き、救いを求めざるをえない者が祝福されている。このことは少なくとも語りうる確かなことである。

 「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(6:24)。金持ちが天国に入ることが難しいのは神にではなく金銭に頼るからである。金持ちであっても神に頼り、信仰のもとに愛の道を歩む者は貪欲な者たちの金の使用とは異なる使用に向かうであろう。この世の富は相対的なものに留まる。愛することは信、希望とともに心魂の最も基礎的な態勢、在り方を定めるものであり、イエスに従う者はもとより誰にも妥当するものとして普遍化されるであろうが、愛の具体的な形は個々の状況において異なることであろう。施しが求められる場合もあり、何か学寮のような施設を造ることが適切な場合もあるであろう。

 ナザレのイエスは父なる神の意向をその都度聴くという仕方で謙っており、天の父との豊かな、富んだ交わりのもとに福音を宣教した。その意味において彼は豊かであった。他方、彼は恒常的に経済的に自発的に貧しくあった。さらに、或る特別な状況において一時的に神が御顔を隠したことによって、彼は「エリ、エリ」の叫び「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか」(Mat.27:46)という呻きのなかで、神を見失いつつも神に訴えかけるという仕方で霊的に貧しい状況に陥った。そのとき聖霊が呻きをもって、苦しむ彼に神の意向を執成し、励ましていたことであろう。そのように経済的に貧しい者も神と関わり続ける限りにおいて、即ち困窮のただなかでまたいかなる状況にあってもその霊によって「貧しい者」である限りにおいて祝福され、天国にいれていただく。山上まで救いを求めてついてきた群衆に彼はその祝福を語っている。欲望によってではなく、その霊によって貧しい者は祝福されている。

 第一の祝福は普遍化されるのであろうか。「その霊によって貧しい者たち」という三人称による呼びかけであり、命令ではなく神の嘉みの対象であるから、一般的に妥当すると言える。とはいえ、これら八福すべてを満たさねば祝福されないというわけではなく、この点においてイエスに似た者になるにつれその祝福は大きいものとなるであろう。神との関係において貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者となるにつれて、イエスに似た者となることであろう。

 

二、パトス(感情)は心魂の態勢の指標である~信の根源性に基づく生の秩序づけ~

 第二福は「悲しんでいる者」の祝福である。感情の文法によれば、この感情が生起する文脈は愛しいものを失うというものであった。感情実質は他の何ものによっても満たされない喪失感である。彼らは後の日に慰められる。わたしたちが愛しいものを喪失し悲しんでいるとき、神に慰められることになるから祝福されている。何か代替物により気晴らしするなら、そこに自らを慰めさせる装置、偶像を持ち込むこととなり、神に慰められることはない。ここでも天の父との関係において悲しみを捉えることが求められる。パウロは「神に即した苦しみは救いにいたる後悔なき悔い改めを働く。しかし、世の苦しみは死をもたらす」と言う(2Cor.7:10)。

 感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと身体的な受動を介して心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴(しるし)である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の態勢、実力、構(かまえ)がどのようなものであるかを示すという議論を展開した。感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。

 認知的とはものごとの真偽に関わる心魂の知性、知識に関するものである。人格的とは外界からの刺激に対する身体的な受動の善悪に関わるものである。人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。

 怒りが正義と関わるパトスであるのに対し、恐れは勇気と関わる。恐れは自らを破壊するものに出会うという文脈において生起する。その感情実質は身のすくむ思いという類の身体の萎縮感を伴うものである。正しいひとはその感情に打ち勝ち公平な選択をすることの出来る者である。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者、欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。正義と関わる怒りが過剰なものである場合には、それは悪い心魂の態勢における身体的反応、噴出であり、パトスが心魂の態勢の指標となる。知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の成熟したひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪すなわち価値に関わるものが人格である。

 また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言っている。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることがある。しかし、より一般的に、きちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができ、そのうえで行為を形成することのできるひとが一家の主人に比せられるべきひとである。そのようなひとの生は心魂の根底が信仰のもとにあり、他の一切がそこから秩序づけられて認知的、人格的に卓越した者となる。

 聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の卓越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は知性と人格を総合するものを求めてきた。

 アリストテレスはそれを「実践知(phronēsis, practical wisdom)」と呼び、イエスやパウロは「信(pistis, faithfulness)」と呼んだ。心魂の根底に信があるとき、知性が磨かれ認知的に有徳な者となり、身体からわきでるパトスに対し安定的な構えができ、人格的に有徳な者となる。

 アリストテレスは「いかに生きるべきか(pōs biōteon;)」という問いのもとに歴史の最前線において個々人に与えられた与件のなかで最善の行為を選択する認知的卓越性を「実践知」と名付けた。アリストテレスが人格と知性の融合の成功した視点からとらえたのに対し、聖書は信という肯定的な力ある生をつくる心魂の根源的態勢に集中した。イエスもパウロも信に基づき愛することができる者となるなら、それは人格的に完成されると主張した。パウロは信に基づき神との正しい関係(義・正義)に置かれた者はその「正義の果実」(Phil.1:11)、即ち正しい信の証が愛であるとした。木は実によって知られる(Mat.7:15)。信に基づき神との関係がただしくされたひと、即ちよき木は愛というよき実を結ぶ。

 正しい信と対立する狂信は理性の逸脱であり、迷信はパトスの逸脱である。理性の吟味にかなわないような信仰、例えば3+5=10だから信じる即ち「不条理なるがゆえにわれ信ず」という類の信仰は狂気にひとしく、当然排除される。身体の反応であるパトスの逸脱である迷信は、例えば、恐怖の過剰が信仰を抱かせるべく追いやるそのような信仰は迷信であり、排除される。正しい信は心魂の一切を秩序づけるとともに、生の果実により送り返され、その信仰の正しさが吟味される。 

 常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら「神の子の信」(Gal.2:20)のもとに生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは信に基づく義とその義の果実としての愛を秩序づけることができた。そして愛は「律法の充足」である(Rom.13:10)。

 まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の伝統的理解のもとにある律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。

 福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに即ち彼の一挙手一投足のエルゴン(働き)において神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかったかもしれない、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。そして八福の祝福は彼自身の生にこそ告げられるべき、そのような心魂の態勢におかれており、神に祝された方であった。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。

 

三、悲しみのパトスが憐みを生む

 この第二福、悲しんでいる者が祝福されているとは、これまた尋常ならざる主張である。しかし、悲しんでいる者が祝福されると言われているからと言って、常に悲しむことが求められているわけではない。愛しい者や大切にしているものを失っているその状況にある人々に向けて語られている。愛しいものをもたないひとは悲しみを感じることもないであろう。裏切りなど心に傷をおったひとはパトスの発動が生じないように、一切から距離を置くことになる。パスカルは「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」と言う。「すべて」とは生きることそのものから遠ざかることに他ならない。

 イエスは終末、世の終わりが近づくと愛が冷え切ってしまうと言った。彼の終末における迫害の預言はこうであった。「そのとき彼らは汝らを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして汝らはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう。そしてそのとき多くのものたちが躓きそして相互に引き渡すであろう、また相互に憎しみあうであろう。そして多くの偽預言者たちが立てられ多くの者たちを惑わすことであろう。無法がはびこることの故に、多くの者たちの愛は冷えてしまうであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:9-14)

 愛する世界がこのようになるなら、実に悲しいことだ。イエスは深く悲しんだことが報告されている。捕縛前ゲッセマネという場所で、彼はこう言っている。「「わたしが向こうへ行って祈っているあいだ、ここに座っていなさい」。ペテロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。イザヤ書五三章の苦難の僕はイエスの預言であるとされているが、そこでも人類の罪のために悲しみ苦しむ僕が預言されている。

 虚無主義(ニヒリズム)はこの世のあらゆることに何ら差異、違いがないと主張する。善は悪であり、知識は誤謬であり、愛は憎しみである。十人殺せば悪党であり、百万人殺せば英雄である。この世界には何ら確かなものはないという考えがニヒリズムである。そこでは悲しむことも喜ぶことにも何ら差異はなく、たとえばニーチェはすべての感情をも考慮せず、善悪の彼岸にいたろうとする。そのように愛が冷えていくなかで耐え忍んで、少しでも平和を造る者となりたいと思う、そのような思いのひとびとが登戸学寮をつくった。

 第五福は「憐み深い者」である。これもひとつの身体的受動としてのパトスである。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ」という動詞は「はらわた」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは不当な仕方で或いは相応しくない仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同じ不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。イエスは群衆に「汝らが天の父の子となる」(5:44)と呼びかけるが、神に似せて創造された人類が相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。彼は深い憐みをおぼえたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。

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