山上の説教八福「天国とは」(第三回)
日曜聖書講義
2022年1月23日
山上の説教―「天国とは」(第三回)―
千葉 惠
テクスト
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。
1人生全体は天国により秩序づけられる
イエスは山上まで彼についてくる群衆に八つの幸い即ち神から祝福されている心の在り方について語った。その祝福は神の国、諸々の天の統治との関連において語られる。天国というこの不可視なものごとの理解については、自然科学のように感覚を介した観察、観測は適用されない。かくして、この人生全体を天国への関連付けのなかで理解するには言葉(ロゴス)による理解がアクセスの鍵を握る。イエスの言葉による教えを十全に理解することが求められる。そしてその言葉を語られるイエスご自身を理解することが天国の理解の鍵を握る。
ご自身が祝福されるべき八福の心的態勢にあった。「その霊によって貧しい者」とはこの世のいかなるものごとによっても満たされないそのような態勢にある者のことである。他方、イエスは70人の派遣による伝道が成功したとき、「聖霊によって喜びに溢れた」(Luk.10:21)。これは、その霊によって富んでいる、そのような状態であり、当然これも祝福されている。霊によって貧しい者は天国を求めざるをえず、霊によって富んでいる者は天国の証を得ており、双方とも天国と関係づけられる限りにおいて、「天国は彼らのものだからである」と祝福される。ゲッセマネおよび十字架上のイエスの苦闘はあまりの心身の苦悩により天国を一時的に見失ったが、その霊によって貧しい状態のなかで「わが神、わが神」と呼び求めている限りにおいて祝福されていたに相違ない。
イエスは様々な場面で悲しむ方であり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清い方であり、平和を造る方であり、それ故に義の故に迫害された方である。このような態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思う。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。
天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派の人々は復活を否定していた(Mat22:23)。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。
人類は不可視的であるがゆえにそう語らざるを得ない「御言葉」の受肉により、ようやく神の国すなわち天国にアクセスを得るに至った。だからこそ、山上の説教においてはとりたてて宗教言語が用いられないのであると思われる。野の百合、空の鳥にみられる被造物全体に対する「天の父」によるケアが語られる。自然の親が自然の子に対して自然な愛情を感じるように、天の父は親のごとき愛情深い方であることが語られる。
「まず神の国とご自身の義を求めよ」。この恵み深い父に対する信頼のもとに、この地上の生活の一切を秩序づけることが求められている。神学的には神の前とひとの前を分けない生活が説かれている。
2モーセ律法の純粋化、内面化
山上の説教のもう一つの柱はモーセ律法の純粋化、内面化である。ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安、宥めと疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任のもと歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァル(人肉食)の部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいた。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。
「良心」とは、最終的には、神において明らかなことが聖霊の証を伴い自分たちにも明らかになるその心の働きである。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1、第11条)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
3.八福とモーセ律法の純化の結びつき
かくして八福とモーセ律法の純化、内面化は結びつく。偽りのない生活はただ「天の父の子となる」その道によってしか実現されないことが明らかにされている。神との正しい関係を確立する信仰によって、愛に収斂するモーセ律法が満たされる。パウロによれば、神の意志は「信の律法」ないし「キリストの律法」と呼ばれるものと、「業の律法」ないし「モーセ律法」と呼ばれるものの二種類であるが、それらは「神の義」の二種類である(Rom.3:27,1:17,Gal.6:2,1Cor.9:9)。イエスは「律法の一点一画とも廃棄されない」(Mat.5:18)というモーセ律法への尊敬のなかで、その極性化された律法の成就に向かう道を山上の説教で示した。これは言葉による説教であるが、その「権威」(7:29)は彼自身の一挙手一投足においてその言葉に偽りのないことが示されているところからおのずと湧き上がったものである。ひとびとは「このひとの知恵と力能はどこから来たのか」(Mat.13:54)といぶかしがったのである。イエスは神との正しい関係を信仰により持つことを通じて、モーセ律法を成就した。神の義の二種類はイエスにより媒介総合された。福音と律法この二種類は常に緊張のなかにあるが、この地上に生きたひとりの人により実現された以上、われらにも希望が湧いてくる。