山上の説教八福(第四回)「神の国の現在性」
山上の説教八福(第四回)「神の国の現在性」
2022年1月30日
テクスト
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。
1.神の国の現在性
天国はこの人生が終わってから入る時間的に後続するものという理解と天国を構成する人々は掛け替えのない個性を持ちつつ、八福に見られるイエスに似たひとにより構成されていることに基づき、この個々人の歴史のただなかで目標としまた実現することのできるもの、という二つの視点から語られることを確認してきた。実際イエスは、「二人または三人がわが名のもとに集まるところ、そこにわたしは彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)と言う。イエスを呼び求める者たちが集まるところ、そこに彼が共にいたまう。これは神の御子にふさわしい。また、「ルカ福音書」にはこうある、「パリサイ人にいつ神の国は到来するのかを尋ねられて、イエスは応えて言った、「神の国はまなざしを向け続けているとやって来るものではない、また「見よ、ここで或いはあそこで」と人々が語ることによって、到来するものでもない。というのも、見よ、神の国は汝らのただなかにあるからである」(Luk.17:20-21)。
これら二つの発言において、共通することがら、さらにはこの二箇所に基づき神の国について語りうることがらを考察したい。福音書において「それら諸々の天の国 (basileia tōn ouranōn)」という複数形による「諸天界」を意味する自然的な用語を用いて天国を表現することが24回見られる。他方、「神の国(basileia tou theou)」という神学的語彙を用いての表現は福音書では25回、パウロに3回見られる(他に「汝の国」(Mat.6:10)が主の祈りに見られる)。二つの表現により同一の国が指示されており、互換的に用いられているが、「神の国」のほうが神による支配や統治が遂行される国という意味においてより神学的であり、「天国」はより素朴であるという印象を与える。「マタイ」では種や麦等の自然物そして畑や真珠そして魚網などの人間の生活との類比において説明されるときは「天国」が用いられるが、マルコでは「神の国」が同じ自然物や営みに関して用いられており、いずれの使用が適切と判断するかは福音書記者の裁量に委ねられている(Mat.13:1-52,Mac.4:26-32)。山上の説教において「天国」のほうがより多く用いられるのは、ひとつには「汝らの天の父(ho patēr humōn ho ouranios)」という表現に見られるように聴衆にとってより理解されやすい語句が選択されたことが想定される(Mat.5:16,48,ch.5-7)。イエスは山上の説教において天の父を肉の自然的父との類比において議論を展開しており、この文脈において地上と大空を眺めつつ人生と神の国の関係がいかなるものであるかを教えている。
次に、イエスのこれら二つの発言から語りうることとして、「二、三人」や「汝ら」複数人の集まりとの関係に成立するものとして「神の国」が特徴づけられている。天涯孤独の一人のなかに神の国がある可能性は否定されないであろうが、基本的にイエスの「名前において」共に集まるところに、キリストが共にいたまい、神の国が現在すると語られている。その意味で、彼の名において集まるこのような集会はキリストの臨在をいただく好機なのである。そしてこれらの仲間のあいだで約束された聖霊を分かち合うとき、後の日に死後知ることのできる神の国がどのようなものであるかを、この時空のただなかで知ることができる。ひとりのところにも神は憐みを注ぎ給うであろうが、神の国は聖霊の媒介のもとでの、平和と喜びの世界である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.14:17)。
洗礼者ヨハネやイエスが「天国は近づいた」(Mat.3:2,4:17)、「神の国は近づいた」(Mac.1:15,Luk.10:9,11,21:31)と天国ないし神の国に招くとき、神の右の座にいたまうイエスご自身がわれらの歴史に突入したことにより、彼と共にいるところ、そこに神の国があると語りうるそのような状況が出来したことを伝えている。「辛子種」や「パン種」に似たものとして、「神の国」はこの世界で成長していくという譬えも用いられている(Mat.13:18-20)。
神の国とこの現実世界を理論においてまた実践において分断してしまうとき、人間は自らの本来性を失ってしまう。神の前と人の前をわけずに共に主の名において集まっているとき、今この過ぎ去りつつある歴史のなかで、われらの肉の弱さの制約のなかではあるが、永遠の相においてある神の国を何らか受け止めることはできるであろう。カルヴァンは「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。理論上双方を分節して語ることができる、そのような理性の分析に適う仕方でイエスはこの地上で神の国を持ち運んだが、彼の働き・一挙投一投足において彼は神の国を持ち運んでいたのである。歴史的には神の国を実現しつつあったと進行形において語ることも許容されよう。復活の主とともにある限り、この悲惨な地上の世界に何らか「キリストの馨」がわれらを包むであろう。
パウロは言う、「われらをキリストにおいて常に勝利の行進を歩ませたまうそしてあらゆる場においてわれらを介してキリストご自身の認識の馨を明らかにしたまう神に感謝あれ。われらは救われる者たちにおけるまた滅びゆく者たちにおける香ばしい匂いであり、かたや滅びる者たちには[生物的]死から[神の前の滅びの]死に至る匂いであり、他方、救われる者たちには[生物的]生命から[永遠の]生命に至る匂いである」(2Cor.2:14-16)。キリストにある者はキリストを受け入れない者にとって滅びの匂いとなる者であり、受け入れる者には永遠の生命の匂いとなる者たちである。ひとの生が死に対する勝利の生と死への滅びの生に二分されている。自然的な人生が懲罰としての死を正面から引き受け、その罪を赦すキリストを受け入れるとき、生命の行路に入る。
2.柔和な者はイエスの低さに合わせられる
この天国、神の国との関係において、ひとは祝福の対象である。第三福は「柔和な者」であった。柔和な者はそのまま第七福の平和を造る者となる。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。
イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、栄光を捨てひととなった低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和さが次第に伝わってくる。パウロは言う、「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛とは自らが神の子であるとの信仰であり、その荷とは彼から伝わる柔和と謙遜であるが、キリストの低さと共にあることによりこの世から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが比較から自由にされた生に力を与える。
イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂いた者は不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。「平和を造る者」は第七福であった。イエスは平和を造る君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。
彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。イエスは信仰に招く。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。
3.その心によって清い者はその純一さにおいて平和を造る
第六福はこうであった。「祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということが心の清さである。それは心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火を灯(とも)して、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う。「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」とは聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」が基本的に生命にかかわる原理であるのに対し、「心」は意識などの働きの主体である。イエスは言われる。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。またイエスは生命原理としての魂についてこう言われる。「身体を破壊しても魂を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。
第七福の平和を造る者への祝福は第六福の心の清い者に続くが、それはこの祝福に相応しい。清くなくてどうして争いをやめさせ、平和を造ることができるであろうか。平和の君がイザヤの預言通りに人類に与えられた。「主はもろもろの国のあいだの争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし槍を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光のなかを歩もう」(Isaiah.2:4-5)。
イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬(ろば)の子にのってやってくる平和の君であった。預言者ゼカリヤはその平和の君を讃えた。ゼカリヤは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
心の目が澄んでいて正確にしかも公平にものごとを認識するひとにこそ、平和を造ることができるであろう。イエスがその心の清い方であった。心の清い者は良心の咎めなしに心魂が平安な者のことであった。また心の清い者は自他の悲惨の知識に基づき悲惨な状況にある者への愛、憐みのもとにあり、相手の最善を造りだそうとする者である。
心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は執り成す者である。和解のための執り成そうとすることなしに、平和を造ることはできない。和解の執り成しは当事者をWin-Winの関係に導く。平和を造る者は護る者である。護るとは争う者双方をも護る。敵をも愛し、敵のために祈る者たちだからである。平安な者はその良心が聖霊により護られた者である。
彼らは「神の子」と呼ばれることになる。キリストはその「長子」である。平和を造る者は当事者が二人しかいなくとも、即ち自らが争いの一方を担っている者となったとしても、イエスの軛を負う者として、媒介者の役割を担う。責める者と責められる者のあいだに自ら立つ。執成す者或いは執成される者となる。それ以外に平和は地上にこないであろう。
4. 結論、最も低いところにいますイエスのもとに憩う
正義と迫害にかかわる第五福、第八福は正義に関わる人々への祝福であった。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さであった。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。「神が完全であるように、汝らも完全であれ」(5:48)と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22,2Cor.4:16)が開かれたとき、認識することのできるものである。その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。聖霊と共に知ることであった。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の咎め(神の不興)の発動から免れさせられており、平和を造る者となる。
イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。
イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に一緒に繋がれ歩む。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。
イエスはひとの肉の弱さに衷心からの憐みを示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れている者たち、重荷を負う者たち、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう」(Mat.11:28)。