平和への道(3)―魂の医者とかわす新しい契約—
日曜聖書講義 2023年1月29日 (本稿については録音はありません)
平和への道(3)―魂の医者とかわす新しい契約—
聖書
「イエスはそこをたち、とおりがかりに、マタイという人が酒税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。パリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」といった。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしは憐みを欲し、犠牲を欲しない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人々を招くためではなく、罪人たちを招くためである。
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」といった。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時がくる。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、敗れはいっそうひどくなるからだ。人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:9-17)
1医者を必要とする者は病人である。
わたしはかつて魂の医者を必要としていた。そして良い医者にであって、相当快復した。しかし、肉の弱さを抱えているため、その医者の処方に常に従ってきたわけではなく、教えに背き再び病状が悪化することがある。その病気は直接には目に見えない魂の病であるが、魂を癒す医者にはその病状は良く見えている。その医者にかからなければ、病を病として認識できない。魂の病はその医者との関係において、定まる病である。とはいえ、自らを顧みるとき、全体としては明確に快復傾向にある。かつての自らの病状を思い返すことにより、それは明確に認識できる。かつてあれさえなかったらと思っていたことが、あれがあったからこそと思えるようになる。負の歴史が正の歴史に変換される。
魂とは身体がそれによって生きるところの生命の原理また意識活動の原理であるので、身体にその症状が現れ、多くの場合他の人々にも明らかとなる。様々な症状が考えられるが、端的に言えば、ひとびととの良好ならざる関係においてその症状は顕著になる。ひとびとを傷つけ、人生の運命を悪い方向に変えてしまうことは最も顕著な症例である。そしてそれは罰としての死に至る。パウロは言う、「一九われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。二〇というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。二一では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。二二しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。二三なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。
平和への道は罪の赦しに基づくしかないと個人的には確信している。わたしはかつて「いかなる果実を得たのであろうか」。思い出すのもおぞましい死の臭いのただよう腐敗であった。ひとびとをそれにより不幸にしてきた。「堅くたって、二度と罪の奴隷の軛につながれるな」(Gal.5;1)と言われる。魂の医者はわたしにはキリストである。キリストのもとにその都度立ち帰り、その癒しを受けて、ひとびとと新たな思いで接する。その都度悔い改めて、良きサマリア人のように隣人となるように心がける。かつての腐臭放つ果実を思い出し、二度と奴隷の軛に繋がれたくないと心を改める。悔い改めとは業の律法から信の律法に方向を転換することである。信の律法に立ち帰り、もはや隣人をも自己をも審判しない。十字架上で罪が赦されてしまっていることをその都度信じる。
ホセア書にあるように、神ご自身は人々から犠牲を欲することはなく、憐みを欲している(Hosea 6:6)。イエスはこの意味を考えるように促している。旧約律法の遵守としてアザゼルの山羊のように自らの罪の贖いのために、山羊の背に石をくくりつけ荒野に放ち野垂れ死にさせる、そのような犠牲は求められていない(「贖罪の献げもの」については例えば「レビ記」16章参照)。所謂スケープゴート(身代わりの山羊)である。神ご自身が被造物から憐みを受けることではなく、被造物同士で憐みを掛け合うことを神は欲し求めている。羊飼いのいない羊のように彷徨っているわれらにイエスは腸(はらわた)から「深く憐れんだ」ことそして彼は神の国について「多くを教えた」と報告されている。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」 (Mat.9:36,cf.Mak.1:41、6:34)。神はわれらの罪の現実を憐れんでくださる。
2新しい革袋と古い革袋
「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)。イエスはユダヤ教の伝統のなかで「新しい葡萄酒」と呼ばれる福音を持ち運んだ。「新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。神は、一方、古い旧約律法の革袋のもとに生きる者には「業の律法」を適用する。そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。モーセ律法においては「貪る」か「貪らない」かにより、「盗む」か「盗まない」かにより義と罪が定まる。
他方、「信の律法」のもとに生き「神の善性」に留まろうとする者への審判規準は「イエスの信に基づく者を義とする」神に対し幼子の信を抱くか否かである(Rom.11:22,3:26)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(9:13)。「滅びにふさわしい怒りの器を大いなる寛容のうちに忍耐したのなら・・[どうであろうか]」(9:22)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は目が曇らされ神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全(adokimēn noun)に引き渡した」(1:28)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。 まさに神は「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。
3新しい契約—数百の律法は愛の律法に変換される―
福音は「新しい契約」の革袋にいれられる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(Jer.31:33)。
この約束への神の信実に基づく正義は、御子を派遣しその信の生涯により確立された「福音」と呼ばれる神の愛において確認される。御子は「神の子の信」の従順の生を貫き神の義の啓示の媒介となった。イエスは、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人の罪を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
それによりモーセ十戒の古い契約に基づく「業の律法」はイエスを介して十字架において成就した神の意志「信の律法」に秩序づけられ、包摂されるに至った。数百ある業の律法は信の律法のもとで愛に変換された。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。業の律法は愛を介して信の律法に変換された。愛は神に愛されていることの信に基づき発動し、律法は満たされうる。というのも「愛を介して働いている信が力強い」からである(Gal.5:6)。こうして、律法の一切は「神の信」に基礎づけられる(Rom.3:3)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)。
かくして、モーセ律法のように「貪る」か「貪らない」かではなく、「信じる」かそれとも「裏切る」かにより神の前で義と罪は定まる。自らの涙と髪で主イエスの御足を清める女性についてイエスは言った。「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。自ら罪赦されたことの証が愛しうることであるなら、ひとは歯を食いしばって悪人に手向かわず右の頬を打たれ、左をも向ける。一切を神の愛への信のもとに愛において応答する。平和はこの信の根源性によってのみつくられる。
4 契約と誓い
学寮に赴任したさいに「寮生活が不適の場合には退寮することに同意します」という「誓約書」を見て、驚いた。罪はもちろん「霊的」で「聖」なる神の意志に歯向かうことはできないが、モーセが刻み直した文字としての律法には寄生できる(Rom.7:12-14)。「文字は殺し、霊は生かす」(2Cor.3:6)。「この伝家の宝刀をゆめゆめ(努々)抜いては・・・」という一文は新たにひとを縛る文字となり、さらに、罪に負かされてしまうであろう。
山上の説教における「誓うな」の戒めが迫る。イエスは言う、「また汝ら昔の人々にこう語られたのを聞いている。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」。しかし、わたしは言う、一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、汝の頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、白くも黒くもできないからである。汝らは、「然り、然り」、「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者からくる」(Mat.5:33-37)。
確かにわれわれは自然上髪の毛の色を変えることはできない。自然法則に基づいて、生きざるをえないように、神の前の法則を正しく知る必要がある。神の前では誓いは無用である。人々はこれにより司法制度が成り立たないと考えたが、肉の弱さへの譲歩としての人間中心的な政治や経済そして司法の諸制度は許容されている。山上の説教は「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」と、神との関係において律法そして道徳を極性化、純化している(Mat.5:48)。神の前には一切が明らかであるので、誓う必要もない。信の律法に立ち帰りそのつど、その通りであるものには「その通りです」と言い、或いはその通りでないものには「いえそうではありません」と語れば十分である。神の前に誓えると思うのは自惚れにすぎず、おのれを知らない自己欺瞞である。信の律法を与えられたことに、つまりわれらは神の前に罪人であり、信に立ち帰ることにより義とされるということに、「その通りです」と語るだけでよい。文字としての律法をたてにとり、誓ったのだから守れと言ってもそれは罪に負かされるだけである。
文字として律法を受けとめる限り、それは罪の寄生の巣となる。だからこそ、神の義は「律法を離れて」(Rom.3:21)福音において新たに啓示されたのである。パウロは言う、「もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」。神の山で十戒を与えられたモーセの顔の輝きはつかのまであり、彼は輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:7,13)。彼は死に仕える務めを引き受けたのである。より少なく根源的な神の意志である律法は、かくして、悔い改めを介してキリストに導くものとして新たに位置づけられる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。業の律法の新しい機能は罪を知らしめることである。パウロは言う、「われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である」(Rom.7:7-12)。
モーセ律法は正しく福音に秩序づけられねばならない。業の律法が神の意志である限り、「天地が過ぎ去るまで律法から一点一画たりとも過ぎ去らない」とイエスご自身はモーセ律法の純化のなかで業の律法への尊敬を貫いた。イエスは「律法を廃棄するためではなく、成就するために」来られたのであり、死に至るまで信の従順を貫くことにより成就した(Mat.5:17-18)。
結論 契約に基づく信頼関係
契約は或る種の均しさにおける対等な者同士の信、相互信頼に基づく約束である。その背後に寮生各位はキリストにおいて神に愛されているという当方の信がある。そこでは数百ある業の律法は信の律法のもとにおける愛の律法に変換されている。寮長はこの信に基づく「義の果実」として喜ばしい「愛」の職務を担う(Phil.1:11)。それは寮生各位の安全と健康をまもり、学業成就に向けて支援し、立派に社会に送り出すことにある。そのことをことあるごとに肝に銘じる。最後までそれを成し遂げ得たなら、それは義とされた者の良き果実であると言える。もはや「律法のもとにではなく、恩恵のもとに」生きている(Rom.6:15)。他方、寮生諸君にとって、この契約への信の果実は如何?今言えることは、契約の信頼関係に戻ろうと言うことである。