良い木は良い実を結ぶ(その一)―「良心」即「共知」の含意―
良い木は良い実を結ぶ(その一)―「良心」即「共知」の含意―
日曜聖書講義2022.11.13
聖書
「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良い木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
1 山上の説教が展開する人間理解
この箇所における良い木と良い実の話が山上の説教のなかで実質的には最後の教えである。それに続く「これらのわが言葉を聞きそして行う限りの者は皆」においては、これまでの教えのまとめがなされている。説教を聞いても行いを伴わない者たちは地獄の火に投げ込まれるという警告を聞いてきた。「生命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(7:14)。永遠の生命にあずかる者の数は「少ない」とは厳しい言葉である。さらに、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」と断絶の言葉を聞かされる。そこでは生命に至る狭い道と狭い門と滅びに至る広い道と広い門の識別が真の預言者と偽預言者との対比において展開されていた。「汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう」と語られ、真の預言者と偽の預言者はその人生が生み出すものにより峻別される。良い行いと悪い行いを判別する心の在り方は、本年強調してきたことによれば、信のもとに証を立てようとするつまり、この「よこしまで神に背いた時代」にあって自らの日々の生活を通じて神が存在すること、さらに神は愛であることを証明しようとするのか、それとも神に徴(しるし)、証明を求めるのかにより判別される(Mat.12:38-42)。信が自らの積極的な生の根源として働いているのか、「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)と言われる、信から愛に向かう生を通じて、神に栄光を帰すかが問われている。
2心の在り方とその働きは神の前で必要十分の関係においてある
この議論を支えるものとして木と実の譬えが用いられる。「良い木は悪しき果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良き果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。偽預言者が良き結果を生むことができないということは理解できるように思われるが、天候不順で良き木が悪しき実りをもたらすことなどは考慮にいれられていない。だが、良き実を結ぶ必要条件の一つとしては、これは理にかなった当然の主張であると言える。さらに、個々の生育条件を括弧にいれるなら、理論上のことがらとして木と果実の関係は必要十分関係として展開される。心とその働き一般のことがこの比喩により語られている。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、双方善と悪は交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されており、そう主張されているように見える。
ここでの問いはこの比喩は人間の実際の生活にどこまで適用されるのかというものである。ひとの努力の余地は残されていないのであろうか。生まれから善きものは最後まで善く、そうでない者はそうでないとはいかにも不条理に見える。一つの可能な応答は経験ある優れた果樹医師は木を見てその果実の良しあしを予見できるであろうように、ここでの善悪、「良い」と「悪い」という語句の意味は神ご自身の認識を伝えているというものである。ひとには見えないが時空をはじめ宇宙を一切統べ治めておられる神はそのように認識しておられること、それをイエスは教えている。神の前で、神に良い木と看做されているものは良い実を生む。われらにはいずれの木であるかは御子の受肉と信の生涯を通じた神の意志の啓示ほどには、個々人の誰にも明白には知らされていないが、それをわれらは信により突破する。われらは選ばれていること、良き地に蒔かれた種であることを信じて、そのつど自らの個々の行為の選択を通じてその導きを確認しつつ、証を立てることがその人生となる。
福音は喜びであったはずである。神の意志はイエス・キリストにおいて最も明確に知らされていた。闇の中に光が輝いたのである。闇は光にうち勝たなかったのである。われらはこの闇と光の輝きのなかで責任ある自由のもとに自らの人生を構築している。
3預言から福音へ
今ここではその福音の前に旧約の厳しい試練のときを必要としていたことを思いおこそう。やはりここでもナザレのイエスは旧約の伝統に則りつつそれを急進化、純化そして内面化しつつ、厳しさを際立たせたうえで、しかも、信によって旧約の限界を内側から破る闘いのなかでこれが語られたことに思いおこそう。広い道は「偽預言者」に重ねられており、イザヤやエレミヤら真の預言者たちが神からの言葉として預かり、証言していたメシア(救世主)こそ狭いまっすぐな道を歩みぬいたナザレのイエスであり給うた。山上の説教のまとめとして、道徳的次元と宗教的次元即ち信仰の次元についてどのように理解すべきかを複数回この一文をめぐる諸説を検討しながら考察したい。包括的全体的人間像が心情倫理と責任倫理の統一を求めることをめぐって、山上の説教に限定したさいにどれだけのことが語れるかを見究めたい。
狭き門と広き門は偽預言者と真の預言者を判別する文脈で提示されていた。エレミヤは偽預言者をこう記述している。「主はわたし[エレミヤ]に言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって汝らに預言している。・・彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる」」(Jer.14:14-16)。
偽預言者たちは、自己欺瞞の中で楽観的な預言をする。エレミヤは主の言葉として報告する。「預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和」「平和」と言う」(Jer.6:13-14)。現代も欺きと偽りの先導者たちを巷に見出すことは容易である。
4出会いが良心を育てる
自らが自らを欺くということがおこる。自らが自らを正しく認識しないということがおこる。今様の表現では様々な認知的バイアスに支配されているとき、自らの認識や判断が誤った前提のもとに遂行されていることに気づかないことがある。自己認識はどこまでも深まりうるそのようなものである。時に自らが、穢れと悪しき思いに満たされた偽り者であることに気づくことがある。この気づきは良心の発動であり、それが眠らされているとき、自己満足のうちに或いは自己卑下のうちに沈む。
良心の発動と宥めはその語義からして、誰かとの共知(sun-eidēsis,con-science)のことであり、人生のなかでの人々との交わりが良心の現場を形成する。「万引き家族」の一員として育った者は家族との共知があるため、良心の咎めなしに窃盗することができる。誰かが誰かに「あなたには良心がないのか」と難詰することがある。しかし、その非難に反応しない者はそれまでの人生において難詰者のような人々との交わりを持たなかったことが想定される。
ひとは出会いの重要さを語ることがある。その出会いにより、新たな豊かな人生が開かれた経験をすることもあれば、悪しき実を結ぶことにもなる。パウロは言う、「惑わされるな、「悪しき交わりは良い態勢をだいなしにする」。汝ら正しく目覚めおれ、罪を犯すな。というのも、或る者たちは神について知らない態勢にあるからであり、わたしは畏怖に向けて汝らに語るからである」(1Cor.15:33-34)。人生において人々はそして思想は交錯していく、あのような出会いさえなければと思う事があり、生涯共に生きていこうと決断することもある。そして交わりの究極のものは神との共知である。
詩人は言う、「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道に留まらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむひと。そのひとは流れのほとりに植えられた木、ときが巡りくれば実を結び 葉もしおれることがない。そのひとのすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻 神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従うひとの集いに堪えない。 神に従うひとの道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(Ps.1:1-6)。
5「良心」は神の認識に与る神との共知にまで至る
かくして、ひとは神と共なる共知としての「良心(sun-eidēsis)」の発動に習熟する必要がある。その共知は育てられた家族との共なる知識等から始まり神との共知に至る。良心とは神に明らかなことがひとにも明らかなものとなる神との共同の知識が成立する心の認知的座ないし力能である。「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。
神により個々人の一切は正確に知られている。定義上神はそのような方である。先日詩篇139篇に学んだ、「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(139:1)。自己が自己と共に知るその個々人の良心において、神による認識が明らかになることをパウロは望む。パウロは神についてひとは知りうると主張する。
パウロは福音における神の義の啓示のゆえに、道理あることとして人生を明確な知識のもとに神に捧げることを勧めることができる。「かくして、きょうだいたち、神の憐れみによりわたしは汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う礼拝である。汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。「神の意志が何であるか」は「善」、「喜ばれること」そして「まったきこと」と共に知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう。その叡知の刷新により「ご自身の子の形姿に合致した形姿」(Rom.8:29)に次第に変身させられることもあろう。換言すれば、罪とは山上の説教を生き抜いたナザレのイエスのようでありえないことに他ならない。そこでは神についての正しい認識は得られない。「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。かくして、神についての知識は「(信に基づく)義の果実である」と言うことができる(Phil.1:11)。
パウロは神をめぐる知識について一方でそれがいかに困難であるかということ、他方でそのアクセスの方法について語る。一方で、「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに窮めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか」」と言われる(Rom.11:33-34)。確かに主の叡知、主の全知は窮めがたいが、他方で、われらは「誰か主の叡知を知っていたのか、誰かご自身に教えるのか、しかし、われらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)、即ちキリストが知っていることがらについてそして彼の知識を介して神に対し明確なアクセスを得ていると言われる。
パウロは言う、「われらは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る、だがそれはこの世界の知恵ではなく、またこの世界の空しきものとなる支配者たちの知恵でもなく、神が諸々の世界の前にわれらの栄光へと定めたまうた奥義のうちに隠されてきている神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。もちろんここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」と言われるところのそのキリストのことである(1Cor.1:30)。ナザレのイエスは「聖書と神の力能を知って」(Mat.22:29)おられたからこそ、神に嘉みされる信の従順を貫くことができた。このようにわれらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受難と復活のキリストである。ナザレのイエスご自身肉の弱さを担っていたために断末魔の苦しみのなかで一時的に叡知が実働しないことがあったとしても、人間としてそれは自然的なことであり、神は「わが神」の叫びのなかでの信の従順の貫きを嘉みしたまうた。
復活の主とあいまみえる十全な認識は終末に得られる。「われらは、今は、鏡を通じて不鮮明に見ているが、かのときには、顔と顔をあわせてみる。わたしは、今は、部分的に知っているが、かのときには、わたしが知られているその仕方で知るに至るであろう」。(1Cor.13:12)。