天の父の完全性と悔い改めの力
天の父の完全性と悔い改めの力
日曜聖書講義 2022年11月6日
聖書
「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことにあろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となりなさい」(Mat.5:43-48)。
1はじめに
今日は山上の説教で展開される神の完全性について考えてみたい。イエスは彼に追随してくる群衆たちにたいし彼らに馴染みのモーセ律法を手掛かりにして道徳的次元で聴衆の良心に訴えた。イエスは山上の説教においては対人論法を展開し信仰にも奇跡にも訴えることなしに、道徳的次元において議論を良心の発動の限界点にまで導いている。彼は彼らの指導者たちの気づかない二心、三つ心の癒着を指摘し心の清さのありかを教える。「汝の宝のあるところ、汝の心もまたそこにあるであろう」(Mat.6:21)。
最も大切な宝とは何なのであろうか。道徳的にも、社会的にも宗教的にも成功することであろうか。この世もあの世もという欲張りはその心の清い者さらに憐れみ深い者と呼ばれることもないであろう。その霊によって貧しい者たちこそ神に祝福される者たちであった。この世のものによって満たされている者たち、その肉によって満足している者たちは自らの霊の渇きに気付かないであろう。言い換えれば、この世の何ものによっても満たされない者たち、この人間社会のただなかで善と悪に、真理と偽り等のあいだに何も確かなものを見出すことのできない者たちが天の父を求める。また人間と社会への失望や絶望から人間の可能性に対し諦め、この闇の世の力に圧倒され、疲れてしまった者たちが憐れみ深い羊飼いをもとめる、或いは正義に飢え渇いている者たちが正しい審判者を求める。一切を知り正義にして同時に憐れみ深い神と出会うとき、地の塩、世の光となる新たな力を得る。偽りなくつまり二心なく神を求める者、「神の信」(Rom.3:3)に対し信によって応答しようとする者たちが心の清い者たちであり、後の日に神を見る者たちであった。
この情報のうずに巻き込まれている現代、さして関心のない或いは心を乱す情報さえスマホの構造的な特徴故に目にはいってくる。いつのまにか、魂が新鮮さと力を失いこの世に隷属してしまう。知らず知らずのうちに、現代の情報社会の罠にはまり込み、眼差しは小さなディスプレイに注がれる。天を仰ぎ見よう。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)というあのイエスの集中の勧めを思い返そう。ときに断食が必要なように、この世界への関心の遮断が必要である。悔い改めよう、しかし、悔い改めてどこに向かうのか。真の神に立ち帰る。
2神の聖性と悔い改め
神ご自身は聖なる方である。この聖性は栄光に輝く光に喩えられる。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。誰がこの聖性に耐えられるであろうか。イザヤは言う、「ああ、何ということだ、わたしは破滅だ、というのもわたしは穢れた唇の者、穢れた唇の民のなかに住む者だからだ。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見たからだ」(6:5)。しかし、この聖性が人となり、救いの光となった。「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を呼んで霊妙なる議士、大能の神、永遠(とこしへ)の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのち永遠(とこしへ)に公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。柔和なイエスの正義にして憐れみ深い聖性に照らされて、ひとは新たに歩みだす。「汝の道を主にまかせよ。汝の正しさを光のように、汝のための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(Ps.37:6)。
モーセは賛美する、「主よ、神々のなかに、汝のような方が誰かあるでしょうか。誰か、汝のように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか」(Ex.15:11)。主のほむべき御業、くすしき御業とは御子を介してのわれらの新しい人間の創造である。「もし誰かキリストにあるなら、そのひとは新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものである。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができた。復活は聖なる神の力能ある人類への憐みの顕われであった。このところ強調しているように、パウロは聖霊の執り成しを過去形で表現していた。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」(Rom.6:6)。「キリストの者たちはその肉をもろもろの情と欲とともに磔てしまた」(Gal.5:24)。
聖霊は過去の出来事を今・ここで現在のことがらとして確証し、伝達する。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている」というパウロの知識主張は、ゴルゴタの丘の過去の出来事と現在を媒介する聖霊の働きなしには有意味なものとはならない。聖霊は永遠の現在にいます神のゴルゴタ上の身代わりの死が今生きている「われらの古きひと」の死であると認識していたまうことを、心の奥底で呻きをもって伝達、執り成ししていたまう。他の過去表現も同様である。例えば、こう言われている。「今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう」(Rom.5:9)。「われらはその方を介して今や和解を得たそのわれらの主イエス・キリスト」(5:11)。「われらがそこに閉じ込められてあるもののうちに死にその律法から解放された」(7:6)そして「われらは希望により救われた」(8:24)。これらはキリストの出来事と同化させる聖霊の「エルゴン(今・ここの働き)言語」と呼ぶことができる。パウロはこれを「霊と[神の]力能の論証」と呼ぶ(1Cor.2:4)。
風のように自由に時空を行き来する聖霊は今・ここで2000年前のキリストの出来事がわれらの古き人間の死であったという神の認識を「神に即して」(8:27)執成していたまう。「われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜなら、われらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むなら、忍耐をもって待ち望む。しかし、御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して(kata theon )執り成していたまうからである」(8:23-28)。
悔い改めとは常に十字架に帰ることであり、そこに聖霊の働きのもとにあることを信じることである。山上の説教においてはこの十字架の道を歩みたまうその途上が描かれている。この究極の言葉をイエスは身をもって生き抜かれた。
3「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
イエスは怒り即殺人、情欲視即姦淫、愛敵即無抵抗というモーセ律法の急進的理解を良心に訴えて説き勧める。最終的には彼は神が完全であるように、完全であれと命じる。人類に課される要求でこれ以上の強度の、大きな要求を想定することはできない。完全性によっていかなるものごとを理解すべきであろうか。その命令が導入される文脈は偽り、二心の拒否である。古への先人たちから「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたが、その命令に心の中にざわめきを感じ取るひとは少なくないであろう。そこではこう言われている。「汝らは「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と語られたのを聞いた。しかし、わたしは汝らに言う、「汝らの敵たちを愛せよ、そして汝らを迫害する者たちのために祈れ、それは汝らが天における汝らの父の子となるためである。天の父は悪しき者たちにも善き者たちのうえにも太陽を昇らせまた正しき者たちにも不正な者たちのうえに雨を降らせる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにどんな報いがあろうか。[ローマ帝国の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」(Mat.5:43-48)。
敵は隣人となることもあろう。さらには敵が友となることもあろう。善人も悪人にも神は憐みを示している、そのことがひとの二心を摘出させ、偽りとの決別へ、完全性への命令に結実する。われらは自らのうちにひとを分け隔てする二心があることに気付くのは、例えば、敵がひどい目にあうとそこにひそやかな喜びを感じてしまう時である、たとえそのような自己をすぐに恥じるとしても。友にさえ同じような感情をいだくこともあろう。どこまでもおのれを中心にしてしか世界を受けとめることができないその自己に落胆する。完全性からほど遠い、救いから漏れている自己を見出す。それが良心の咎めである。ひとはどこで分裂が癒され、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく生きることができるのであろうか。
イエスは最後の審判の座において、端的に、右手で為す善行を左手に知らせることのなかった清く、憐み深く、良心の咎めなき祝福された者と良心の発動が促される呪われた者たちを判別する。イエスは言う、「[イエス]「わが父に祝福された者たち(hoi eulogēmenoi)、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・正しい者たちは応えるであろう、「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したのは、わたしに為したことである」。・・[イエス]「呪われた者たち(hoi katēramenoi)、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」(Mat.25:34-45)。
自らの胸に手を当て、吟味反省する時、おのれの高ぶりに気付く。山上の説教はブーメランのようであり、何か否定的な思いがわきあがるところ、そこに戻ってくる。貪りの思いが起こると、「その心によって清い者は祝福されている」が響き、怒り「愚か者」と言うなら、「火の地獄に投げ込まれるであろう」と言われ、誰かの人格を否定するなら、「裁くな」と言われ、良心の痛みが発動する(5:8,23,7:1)。イエスは畳みかけるように、人間が想定しうる究極と言える、神の完全性に倣うように命じる。神は宇宙の外側で永遠の現在のうちにいたまい、言わばタイムマシンに乗っており、宇宙の法則から歴史に至るまで一切を知っていたまう認知的に十全な方であり、人格的に恣意的な依怙贔屓することのない公正で正しい方でありしかも同時に憐み深い人格的に十全な方であった。神の意志はイエス・キリストを介してほど、個々人の誰にも知らされていないため、たとえ永遠の昔から救いに選ばれ予定されていたとしても、各人にとっては自らが神に選ばれキリストにより愛されていることを信じることは常に実質的である。
イエスは呼びかけて言う。「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。そこでは何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する心の内奥の「内なる人間」(Rom.7:22)から生きるとき、同じ軛に繋がれた主が肉の生全体を一なるものとして秩序づけてくださる。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むことであり、そこではイエスの弟子でありうることが無常の光栄となる。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはないからである。このように神の完全性にはナザレのイエスを介して近づくことができる。
4神の認知的十全性
詩人は神の全知をこう語り賛美する。「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられます。座るをまた立つをも知り、汝は遠くからわが思いを悟っておられます。歩くのもまた伏すのも見分け、またわたしの道にことごとく通じておられます。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、しかし、見よ、主よ、汝はすべてをご存知にいます。汝は前からも後ろからもわたしを囲み、わたしのうえにその御手を置いてくださる。その驚くべき知識はわたしにはあまりに素晴らしいものであり、それは高くて、わたしはそれに到達できません。どこへ行けばわたしは汝の霊から離れることができましょうか、またはどこに逃れれば、汝の御顔を避けることができましょうか。天に登ろうとも、汝はそこにいます。陰府(よみ)に床を設けても、視よ、汝はそこにいます。曙の翼を駆って海のはてに住むとも、そこにおいてさえ、汝の御手はわたしを導き、そして汝の右の手はわたしを捉えてくださる」(Ps.139.1-10)。
宇宙万物の創造主にして救済主である神の如くに完全になる、認知的に十全な者となるということは、ひと各人を構成している諸層、諸次元に通暁して、正しく認識し判断できるようになることである。ひとは誰であれ何をしていても道徳的存在者として善悪を判断して生きており、ひとは何をしていても社会的存在者として経済、政治、法律などのもとで判断しつつ生活しており、ひとは何をしていても生物的存在者として栄養摂取、代謝、生殖のもとにあり生物としての自己を自己に宿るウィルスの本性にいたるまで知ることが求められ、ひとは何をしていても物理的存在者として光や重力の法則等のもとに運動しており、また形而上学的存在者として、「ある」と「あらぬ」と「成り去りゆく」世界において存在と消滅にかかわっている。宮沢賢治はこの形而上学的存在者についてこう問う。「われやがて死なん、今日または明日、あらためてわれとは何ぞやと考える。われは幾十かの原子と分子の結合なりせば、畢竟するところ真空と異なるところあらず、われは死して後、真空に帰するや、それともあらためてわれと感じるや」(「疾中」)。
パウロは死後の世界について、もし死者の復活がなければ、「飲めや歌えや、明日は死ぬ身だ」と主張する者たちの認識を伝える。パウロはそのような見解に「汝ら欺かれるな」と励ます(1Cor.15:32-33)。彼はイエス同様、ひとは死して真空に帰すのではなく、神の前に立たされると主張する。この尋常ならざる主張はひとつには人文、社会諸科学から生物学そして宇宙にいたるまであらゆる学問の通暁を介して、正しく吟味されることであるのかもしれない。しかし、これらすべての層が神の前に「在る」ものとして秩序づけられるとき、様々な分裂は癒され、一なる者として希望の生を生きる。ひとびとはその十全な全体の知識を持たずにも信により秩序を得、乗り越えてきたのである。信のもとにキリストの弟子でありうることを最も光栄なこととして、「艱難をも喜ぶ」(Rom.5:4)そのような秩序ある生が生み出されてきた。
その秩序は「内なる人間」を構成する「叡知」と「霊」によって基礎づけられ、ひとびとは不思議な平安を経験してきたのである。「叡知」については「汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知(ヌース)の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)と励まされる。神の意志に叡知がヒットすることもあろう。パウロはまた言う、「わたしは汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。彼は自ら書く生死をめぐる形而上学的なことがらを読者が「読んで理解できる」はずだと主張する(cf.2Cor.1:13)。
われらは神の如き全知に向かう。ただし、自ら知恵ある者と誇る者がいたなら、こう警告される。「知識はひとを高ぶらせる、しかし愛は築く。もし誰かが何かを知ってしまっていると思うなら、未だ知るべき仕方で(kathōs dei gnōnai)知らなかったのである」 (1Cor.8:1 2 )。知るべき仕方とは何か。人間は神に造られた者として自然というテクストをまた人間というテクストを探求するその仕方である。この信のもとにひとは正しく知識を持つにいたる。われらはこの己の認知的不十全性のなかで、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく喜んで、平和を造る者となることを望んでいる。その希望はナザレのイエスの信の従順の生涯に基礎づけられている。
5「いっさい誓うな」の基礎づけ
イエスが群衆に「誓うな」とモーセ律法を急進化させるとき、その根拠はひとびとの誓いや約束など言葉の具現化力能、実行力の不十全性を指摘することによってである。ひとは己を正しい仕方で知らないからこそ、誓いを行うとイエスによって看做されている。彼は言う、「また汝らは古へのひとびとにより、「汝は偽って誓うな、汝の誓いを主に果たせ」と語られたことを聞いている(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)。しかし、わたしは汝らに言う、いっさい誓うな、天にかけても、というのも神の座であるから、また地にかけても、ご自身の足台であるから、さらにはエルサレムに向けても、大きな国の街であるから、汝の頭にかけても、というのも一本の髪の毛を白く或いは黒くすることもできないからである。汝らの言葉は「然り、然り、否、否」であれ、それ以上は悪しきものからでてくる」(Mat.5:31-37)。
この誓いの禁止は十戒の第二戒「汝は汝の神ヤハヴェの御名をみだりに唱えてはならない」(Ex.20:7)と関連づけられる。「主よ、主よと言う者が皆天の国に入れていただけるわけではない、天にいますわが父の御意(みこころ)を為す者が入れていただけるであろう」(Mat.7:21)。前文の偽りの誓いで引用した当該箇所(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)においても、神への誓い、訴えのおざなりな言葉への警戒が語られていたが、一旦誓ったならそれを守るようにという実践の戒めに移行させられてきた。主の御名を唱えることによって免責されるわけではない。イエスはそれを急進化させ、一切誓うことのないように命じる。というのも、一方で天から地まで一切が神の支配のもとにあり神の御意が実現されるが、他方、人間が自らに頼るには神の力能との関連においてあまりに微力であることの認識が働いているからである。ひとは自分の身長を伸ばすことも髪の毛を自然に即して白くも黒くもできない。
ひとは神との関係においておのれを知るとき、「然り、然り、否、否」しか誠実さをもって応答することができないところまで追いつめられる。それが自然に思えるとき、神とひとの関係が生きたものとして形成されているときである。自然が語り出すこと、テクストが語り出すことに耳を澄ますだけで、「その通りだ、然り(本当)だ(ita est verum est)」と心の内側からの同意が偽りなくなされることであろう。内側からの納得は双方が等しいものとなり、支配のもとでのいかなる種類の洗脳とはまったく異なる。
6結論 神とひとを媒介するイエス
永遠の神と不十全な人間、この彼我の差は媒介者によってだけ橋掛けられ、近づくことが許容されるであろう。主の軛を主と共に担ぐとき、主の歩みからその柔和と謙りを受け取り、ひとは造り変えられていくことであろう。誓うなと語られるイエスご自身が共に軛を担う者に御意をなす力をそのつど与えてくださることであろう。神は善人にも悪人にも等しく雨を降らせ、太陽を昇らせたまう。敵もイエスがそのひとのために受肉し、死んだまさにそのひとのことである。「キリストがその者のために死んだそのかの者を汝の食物によって滅ぼしてはならない」(Rom.15:15)。われらが神に敵対していたときに、神は愛を示したとパウロは言う。「かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:9-10)。キリストに倣い迫害する者を祝福して呪わないとき、ひとは神に一歩近づくことになるであろう。