探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―

探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―

                       日曜聖書講義 2020.11.15

 

1テクスト

  請い求めよ、そうすればそれは汝らに与えられるであろう。探せ、そうすれば汝らはそれを見つけるであろう。叩け、そうすれば汝らに戸は開かれるであろう。というのも、請い求めているすべての者は受け取り、そして探しているすべての者は見出しそして叩いているすべての者には開かれるであろうからである。或いは、誰か汝らのうち、自分の子がパンを請い求めているのに、まさか石を与える者はいないのではないか、或いは、魚をも請い求めているのに、その子にまさか蛇を与える者はいないのではないか。かくして、汝らは悪い者であるが、汝らの子供たちには善きものを与えることを知っているなら、天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう (Mat.7:7-11)。

 2聖霊の探求と道筋

 探求と発見の第三回目である。「探せ探せば見つかる」「求めよさらば与えられん」の文脈において回心についてさらには聖霊の注ぎについて論じてきた。前回はパスカルの回心を考察したが、パウロやアウグスティヌス、ルター、ウエスレイまた内村鑑三や黒崎先生などにおいては、神は単に宇宙万物を秩序正しいものとして創造した超数学者や超物理学者ということではなく、旧約聖書以来の伝統のもとで生きた人格であるイエス・キリストの福音に触れることにより彼らの回心が生起し、人格的な神と出会うそのような方である。「回心」はこちらの側の用意としては神の前に「悔い改め」ることが求められるが、それは神の導きであり、それにより神と出会い、これまでの生の方向が転換されることである。前進と自分で思われていたことが、後退となる。パウロは言う、「わたしは何であれわたしに得であったものごとをキリストの故に損失と看做している。わたしは彼の故に一切を失ったが、わが主キリスト・イエスの知識の卓越故にわたしはあらゆることを塵芥と看做す」(Phil.3:7-8)。「前へ進め、前へ進め、だけど前ってどっちだろう」という子供の歌があるが、回心とは人生に前と後ろのあることがはっきり分かることである。

 山上の説教のこの箇所では神は善人にも悪人にとって「天の父」であり、「天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう」と言われる。神は父親に比せられる人格的な存在者である。人格的な存在者との出会いは人格的にしか、即ち信に対しては信によってしか、出会うことはないであろう。これは道理ある。誰か神の存在を疑っているひとがいたとするなら、その心の基底の枠組みのなかでは、ちょうど人間関係においても信用していない人に対しては常に否定的な認識がもたれがちであるように、神に出会うことはないであろう。解のある問いを美しく提示しながら、一歩一歩探求対象への信のもとでの喜ばしい探求を続ける。そのなかでひとは探しているものを見出すであろう。そしてそれは「キリストに似た者になる」その道行を歩む喜ばしい探求途上の生となる。「探せ探せば見つかる」。

 わたしに先人たちの回心の記録が道理あるものであると思える一つの理由は、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)に触れることによって、平安と喜びが心魂の奥底から溢れてくることに連綿と経験者たちが同意してきたことである。パスカルは「喜び、歓喜、喜び、歓喜の涙」と火の体験を生涯大切にしていた。もう一つの理由は、一般的に神と人間を媒介する理論、神の働きとひとの働きを媒介する働きとして新約聖書において記されまた展開されている媒介者、イエス・キリストと聖霊についての報告以上に道理あるものを(個人的には)見出すことはできないことである。超越者と死すべき有限な存在である人間、聖なる者と汚れた者、永遠と時間的な存在者、そしてなによりも人格的なものと人格的なもののあいだのの媒介と媒介者について最も道理ある理論が展開されていると思えることである。

 媒介者のないところでは例えば「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)という類の矛盾律を侵害する主張がなされたり、或いは非人格的な触媒の比喩による媒介が語られたりする。問いかけを赦されるなら、誰であれ不思議な平安と新しい生命に溢れる経験をしたとして、それに無矛盾で明確な言葉を与えてくれるものを聖書以外に見出すことはできないのではないかという問いである。一例にすぎないが、或る日本の新進の宗教で自分たちの教理を造ろうとしており、キリスト教を学ぶべく信徒がヨーロッパに派遣されている。その方としばらくのあいだ意見を交わしたことがあるが、彼らは自分たちの体験を理論化するうえで神学の長い伝統を持つ宗教に学んでいる。

 3 発見に伴う平安、喜び

 ここでは第一の理由として挙げた探求から発見にいたる過程が一定であり、存在の発見には不思議な平安や喜びそして生命感の躍動が伴うことについてもう少し考察したい。パウロは言う。文語訳では「すべての人の思いにすぐる神の平安が汝らの心と思いをキリスト・イエスによりて守らん」(Phil.4:7)とあるが、この不思議な平安や喜びが聖霊の自体的な属性として聖霊すなわち「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)がもたらす新たな生命に伴う。回心は「新しい被造物」(2Cor.5:17)となることであり、その平安はこの世のものではない生命に何等か触れることからくる。何かの存在の発見に伴う属性の程度に応じてその本質の探究に進展する道筋が定まる。

 アリストテレスは探求のプロセスについてこう言う。「われらは事実[S is P]を把握して、理拠(何故か)[Why S is P]を探究する。時にはそれらは同時に明らかになることもあるが、少なくとも事実よりも先に理拠を知ることはできない。ちょうどそのように、存在[の把握][S exists]なしに、本質[What S is]を知ることはできないことは明らかである。というのも、存在するかどうかを知らずに、何であるかを知ることは不可能だからである。しかし、われらは存在するかどうかを、時には付帯的に把握し、時には事物そのものの何ものかを、例えば、「雷」について「雲間の或る種の音響」を、・・把握することにより、把握する。こうして、われらが存在を付帯的に知る限りのものどもに関しては、いかなる意味においてもその「何であるか」に向かう状態にないことは必定である。なぜなら、われらはそれが存在することを知っていないからである。存在を把握せずに、「何であるか」を探究することは、何も探究しないことに等しい。何ものかを把握しているものどもに関しては、[探究は]容易である。かくして、われらが存在を把握する程度に応じて、われらはそのように「何であるか(本質)」に向かう状態にある」(An.Post.II8.93a17-28)。

 「聖霊」の本質理解にはまず「神の愛」が必須な構成要素である。聖霊は神と人の間を「神に即して」つまり神の憐みの意図に即してわれらの心の奥底で「呻き」を伴いつつ「執り成す」からである。「御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して執り成していたまうからである。他方、われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:26-28)。

 聖霊の本質を明らかにする定義は例えば、「聖霊は神の愛をその嘉みする者の心に注ぎ新たな生命を与えることにより執り成す助け主である」という類のものとなろう。「神の愛はわれらに賜わった聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。そしてその「聖霊の果実」ならびに「聖霊の力能」の働きについても定義にいれるなら、聖霊を十全に定義することになろう。パウロは言う「霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、真実、柔和、節制である」(Gal.5:22)。彼はさらに言う。「希望の神が、汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らを信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。

 3心魂の構成 ―肉と内なる人間―

 心魂の組成として、人類は聖霊を受領する力能を持っているものでなければならない。最初の人間(アダム)については、土という組成に神からその鼻に「生命の息」を吹き入れられることにより「ひとは生きる魂となった」(Gen.2:7)と報告されている。キリストは死と復活を介して「新しい被造物」(2Cor.5:17)を、すなわち「生命を造る霊となった」と報告されている(1Cor.15:45)。この新たな生命の躍動が喜びと平安を与える。ひとは聖霊に触れて生物から生物+「内なる人間」と呼ばれる常に刷新を必要とする「霊」と「叡知」から構成される新たな被造物となる。

 ここで心身論と呼ばれる、心と身体ならびに霊などの組成について聖書がどう語っているかを簡単に確認する。ここでは「心魂」を「こころ」と読ますが、一方「魂(phsuchē)」は生命原理を意味し、「心(kardia)」は意識の座を意味し、生命原理である「魂」の基礎のもとに「心」が働く。心は身体をも含め意識活動を統一し、今見たように聖霊が注がれる座である。イエスは言う、「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。魂はその心の生命を担うものとして位置付けられる。イエスは言う。「そのことの故にわたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝らは何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか」(Mat.6:25,cf.10:28)。魂は食物がそれのためにあるところのその目的であり、身体は衣服がそれのためにあるところのものである。目的或いはものごとの本質なしには、何ものであれその手段や道具やそれを栄養上維持するものなどの規定や位置づけをえることはない。魂なしにはこの世の一切のものは無規定のままなのである。またイエスは心と魂と世界についてこう言う。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。

 魂は生物的な生命の基礎であるが、生物的な生命と霊的な生命の連続性をめぐって、魂体(sōma phschukikon)に対比されるものとして「霊的身体(sōma pneumatikon)」があり、それは一人の人間にとって連続的であるとパウロは主張している。「コリント前書」15章においてパウロは言う、「もし魂的身体があるなら、霊的な身体もあるであろう。こう書かれてもいる、「最初の人間アダムは生きる魂となった」、最後のアダムは生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初の人間は土からのものであるが、第二の人間は天からのものである。土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにある。そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちもそのようにある。ちょうどわれらが土製のものの形姿を担ったように、天上のものの形姿をもまた担うであろう[未来形]」(15:49)。ここで二つの形姿はそれぞれ土製の身体と天上製の身体を持つことにより、或る断絶を経験しつつも、「魂的なもの」から「霊的なもの」への連続性においてある。それらは。未来形が用いられるのは土製のものが「神の形姿であるキリスト」(2Cor.4:4)と、将来「(ご自身の子の形姿と)同じ形姿の者」(8:29)となるでもあろうからである、もし神に予めそのような者として定められているなら。

 パウロは各人の心魂の根底に発動する「霊」を心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。そしてその霊は土的な人間においては肉に回収されるため、「霊の新しさ」(Rom.7:6)をつまり、常にその生命の泉に立ち返ることが求められる。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神に祝福される者である。

 そしてその者のこの渇き、請い求めは喜びと賛美に代わる。詩人は自らの回心をこう語る。文語訳ではこうである。「その咎を赦され、その罪覆われし者はさいわいなり。主がその罪を数えざる者はさいわいなり。その心に偽りなき者はさいわいなり。われいひあらはさざりしときは終日(ひねもす)かなしみ叫びたるが故にわが骨ふるびおとろへたり、汝のみ手は夜も昼もわがうへにありて重し、わが身の潤沢(うるおい)はかはりて夏の旱(ひでり)のととくなれり。かくてわれ汝のみ前にわが罪をあらはしわが不義を覆わざりき。われいへらくわが咎を主にいひあらわさんと。かかるときしも汝わがつみの邪曲(よこしま)をゆるしたまへり」(Ps.32.1-5)。個人的なことではあるが、自らの回心の経験のあと、この詩篇32篇に出会って以来これは私の詩(うた)となった。この詩篇32篇を読むたびに心魂が刷新される。詩人は賛美する。「主をほめたたへよ、もろもろの天より主をほめたたへよ、もろもろの高所(たかどころ)にて主をほめたたへよ、その天使(みつかい)よみな主をほめたたへよ、その万軍よみな主をほめたたへよ、日よ月よみな主をほめたたへよ・・」(Ps.148:1-3)。喜びと平安と賛美、これらが記録されている旧約聖書も新約聖書も同じ霊に導かれて書かれていることの一つの証となるであろう。

 旧約と新約即ち聖書全体をめぐり一つの神学的主張がなされてきた。「聖書」は神の言葉であり、一字一句神の霊感により書かれているという逐語霊感説という主張である。これは、聖書の編集の段階でも霊感により、聖典と外典が判別されたことを含意するとても強い主張である。聖書記者は神の霊により書かれた聖書の一字一句をただインクに移すペンや管のようなものであったと言われることがある。そうであるかもしれない。はっきりしていることは、聖書一切が神の霊により書かれたという見解は神の意志としてはイエス・キリストの福音においてほどには明確には知らされていないということである。われらは聖書の中心をイエス・キリストにおいてそのもとで聖書全体を理解するが、そのなかで聖書記者に注がれた聖霊の濃度とでもいうべき遠近が定められていくのかもしれない。明確なことは逐語霊感説は福音ほど明確には知らされてはいないということである。

 4ひとは神の意志を知ることができる―「ヌース(叡知)」とは―

 不思議な平安が訪れることはひとみな経験することでもあろうが、それがいかなるものであるかは聖書の学びを必要とすることをわれらは学んできた。それほど聖書の証言はその後の歴史において多くの人々により確認されてきたと言うことができる。風のように自由に吹く聖霊も明確な理(ロゴス)を持っていたのである。「思いにすぐる神の平安」が長く持続するとき、聖霊の働きであると人々は理解してきた。

 旧約聖書において「霊(rūah)」は人格的な心の態勢に伴う平安や喜びのパトスを表現するとともに、神の意志を知る認知的な働きも担っていた(eg.2King.6:12,7:1)。パウロは紀元前3世紀からプトレマイオス朝時代にアレクサンドリアでギリシャ語に翻訳された70人訳を参照し用いている。そこでは「霊(rūah)」にはpneumaがあてられるが、訳者たちは当時のギリシャ哲学の用語「ヌース(叡知)」をrūahの訳語として一か所「誰か主の叡知(nūn kuriū)を知っていたのか」(Isaiah.40:13)にあてている(1Cor.2:13-16)。神の認知的な態勢にかかわるものだからである。パウロはギリシャ哲学の「叡知」を積極的に取り入れ、「内なる人間」を構成するものとして心の二番底に「霊」と「叡知」を挙げて、人格的な部位と認知的な部位を分節して語っている(Rom.7:22-23)。さきの従来の「思いにすぐる神の平安」の箇所は「あらゆる叡知(panta nūn)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(想念内容)を守るであろう」(Phil.4:7)と訳すことができる。神の不思議な平安はわれらの認知機能を超えて、すなわち認知的に自覚はできないがわれらを包み守ることがあるとされる。

 ここで「叡知」とはパウロが旧約以来の「霊」の認知的働きにギリシャ哲学の伝統に即し霊の人格的働きと判別すべく授けた尊称(honorific title)である。ギリシャ哲学の伝統においては「ヌース」は時空を占める大きさを持たない神的な魂ないしその部位と看做されてきた(De Anima,I3)。例えばアナクサゴラスは「万物を秩序づけ、万物の根拠であるものはヌースである」と語り、ソクラテスを惹きつけたとプラトンにより報告されている(Phaedo.97c)。

 アリストテレスもこの伝統のなかに属する。叡知が叡知対象(noēton)にヒットしている状況は「叡知していること(noein)」と動詞形で表現される(Met.IX10.1051b32)。アリストテレスは目に見えることのできない存在者に触れたときにこの言葉を使う。合成や分離することにより真理を求める思考(dianoia)における真偽は事物のうちに存在せず、思考のうちに存在する。叡知により得た不可分で未分節認知的態勢について思考が文として結合や分離を企てる段階においては誤りの可能性があるが、感覚同様にヒットしているということがらにおいて誤りや偽の可能性は排除されている。叡知対象に触れ発動する「ノエイン(叡知すること)」は単純なものごととの合致において「何か一つのことが生起すること」として規定される(Met.IV.1027b20-29)。ヌースが発動することはものごとの側における一つの出来事として、しかもヌースとノエートン(叡知対象)の間に分離はなく同時に捉えられる。

 この認知機能は推論的な(discursive)理性の機能と異なり、叡知対象に「ヒットする(触れる)(tigein)]ときだけ発動する、そして「知らないことは触れていないこと」(Met.1052b23)と言われるそのような認知機能である。対象にヒットするかヒットしないか、即ち知か無知であって、偽(いつわり)の可能性がない認知機能はわれわれに馴染みなものである。彼はコンピューターの検索機能を既に予言していたのである。彼は言う、「かたや叡知の運動が叡知作用(ノエーシス)であり,他方それは円の回転である」(De An.I3.407a20)。叡知作用は円環的な或るシステム内部で瞬時に検索するため、そこにあればヒットする。パウロにおいても同様であり、内なる人間において発動するヌースは肉に回収されるため、常に神ご自身の前にある恩恵に触れ「叡知の刷新」(Rom.12:2)が求められるそのようなものである。

 アリストテレスはこの接触知について感覚との類比を語る。一方、感覚の対象「アイステートン」は時空のなかで感覚器官を触発するあらゆるものであるが、他方「ノエートン」とはヌースを触発するものつまり端的に言って感覚の対象ではないが単純なもの、不可分のロゴス・比のことである。そして理(ロゴス)は感官を触発するあらゆるものを構成するものとして存在するがゆえに、ヌースは感官の触発を通じて発動する。感覚も一種のロゴス・比であり、ロゴスの成立していない度を越した感覚対象、例えば強すぎる音や光は感覚器官を傷つけてしまう(De An.III2.426a29, III4.429a31-b3)。パウロは光に照らされ一時視力を失ったが、そのような媒介によりキリストの声を聞いたことが報告されている(Act.9:8)。ヒットすることは「何か一つのことが生起すること」即ち出来事である。

 ナザレのイエスは神について知識を持つことができると主張する。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている。というのも、復活においては、人々は娶りも嫁ぎもしない、そうではなく天においては天使のようにあるからである。しかし死者たちの復活をめぐって、神が語ることによって、汝らに語られているものを読まなかったのか、「われはアブラハムの神である、またイサクの神そしてヤコブの神である」と。神は死者たちのではなく、生きている者たちの神である」(Mat.22:29-32)。パウロはこう語るナザレのイエスこそ聖書において預言されたメシア(救世主)であると宣教する。この宣教を聞いたペレアにいるユダヤ人たちについて第二回伝道旅行同行者ルカはこう報告している。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に[彼の]諸議論を受け止め、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を吟味した。そこで、そのうちの多くの人が信じた」(Act.17:11)。

パウロもわれらは神の意志を知ることができると主張する。神の意志の知らしめである「啓示」は「ローマ書」において三度だけその動詞形により用いられる。その一つは福音における「神の義」の知らしめ(1:17)であり、第二は神の義の一つの顕れである「神の怒り」(1:18)、そして第三は終末における「われらに啓示されるべく来たりつつある栄光」(8:18)である。神の御心を知るに至る力能であるわれらの「内なる人間」の認知機能である「叡知(ヌース)」は、「われらはキリストの叡知を持っている」ことによってキリストを媒介にして神の意志を知るに至る(1Cor.2:16)。

 パウロは福音における神の義の啓示のゆえに、明晰かつ道理あることとして人生を神についての明確な知識のもとに神に捧げることを勧めることができる。「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわたしは汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う礼拝である。汝らこの世界に同調するなら、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新((i) anakaionōsei tū noos)により変身させられよ」(Rom. 12:1-2)。「神の意志が何であるか」は「善」「喜ばれること」そして「まったきこと」と共に知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」 (Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう。

 パウロは神をめぐる知識について一方でそれがいかに困難であるかということ、他方でそのアクセスの方法について語る。一方で、こう言われる。「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに窮めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33-34)。確かに主の叡知即ち主の全知は窮めがたいが、他方で、「われらは誰か主の叡知を知っていたのか、誰かご自身を教えるのか、しかし、われらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)、即ちキリストが知っていることがらについてそして彼の知識を介して神に明確なアクセスを得ていると言われる。「われらは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る、だがそれはこの世界の知恵ではなく、またこの世界の空しきものとなる支配者たちの知恵でもなく、神が諸々の世界の前にわれらの栄光へと定め給うた奥義のうちに隠されてきている神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)。もちろんここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」と言われるそのキリストのことである(1Cor.1:30)。先に見たように、キリストは「聖書と神の力能を知って」おられたからこそ、彷徨うことなく信の従順を貫くことができた。このように神をめぐるわれらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受難と復活のキリストである。

 これはこれまで神との出会いを経験した報告とも歩調のあうものである。彼らはキリストを媒介にして神と出会っている。わたしが先人たちの回心の記録が道理あるものであると思う先に挙げた二つ理由のうち、二番目のものは一般的に神と人間を媒介する理論、神の働きとひとの働きを媒介する働きとして新約聖書において記されまた展開されている媒介者、イエス・キリストと聖霊についての報告以上に道理あるものを見出すことはできないのではないかというものであった。ともあれ、ひとは超越者の何らかの促しを感じながら、探求の生を送っている。

 自らの回心に触れたばっかりに、このところわたしの探求の歩みを振り返ることになってしまった。証は個々人の神との交わりであるがゆえに、決して普遍化されてはならない。かつてアメリカの青年がアフリカの子供たちとすごし、瀕死の子を数日抱え続け、回復した証を読んだ。これはその青年の背景的生い立ちのなかでの神様の栄光のあらわしであって、その青年同様個々人にはかけがえのない個人的な神との交わりがあるため、一般化や偶像化は戒められねばならない。1984年の回心後1985年春に紹介状一枚をもって鞄一つで知る人ひとりなくオックスフォード大学に向かった。国に拒絶され不法滞在者になりそうなところからはじめ、認定学生(recognized student)、仮修士課程(probational M.Litt)、本修士(Full MLitt)、そして博士課程(D.Phil)と四度も身分を変えながら、1990年2月に哲学博士号を取得するにいたったた。その記録「オックスフォード便り」(現地から家族などに送った手紙)から二回目を紹介することをお許しいただきたい。

5探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記―

5:1 エルスフィールド[読了済み(2020.11.1)]

5:2チュートリアル―協働の探求[記載済み(2020.11.8)]―

 

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