探求と発見(2)―「探せ探せば見つかる」―
探求と発見(2)―「探せ、探せば見つかる」―
日曜聖書講義 2020.11.8
(録音ではIテクストと5:2チュートリアル―協働の探求―割愛されています。時間のマネジメントをゆっくり話すすことをも含め改善したいと思います。悪しからず)。
1テクスト
請い求めよ、そうすればそれは汝らに与えられるであろう。探せ、そうすれば汝らはそれを見つけるであろう。叩け、そうすれば汝らに戸は開かれるであろう。というのも、請い求めているすべての者は受け取り、そして探しているすべての者は見出しそして叩いているすべての者には開かれるであろうからである。或いは、誰か汝らのうち、自分の子がパンを請い求めているのに、まさか石を与える者はいないのではないか、或いは、魚をも請い求めているのに、その子にまさか蛇を与える者はいないのではないか。かくして、汝らは悪い者であるが、汝らの子供たちには善きものを与えることを知っているなら、天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう (Mat.7:7-11)。
2聖霊の探求と道筋
前回、探求と発見という文脈において回心について触れた。アリストテレスの探求論によれば何か存在を発見するとき、「~がある」例えば「聖霊がある」ということだけを発見するのではなく、「ものごとそのものの何ものか(ti autu tu pragmatos)」と呼ばれる自体的すなわち必然的な属性或いは付帯的すなわち偶然的属性を伴って見出される(An.Post.II8)。聖霊体験には喜びや平安を自体的に伴うということが連綿と報告されてきた。そしてどのような属性の発見を伴うかに応じて、存在の発見の確実性とそれに基づくそのものごとの本質の発見に向かう態勢が定まるとされる。
例えば、パスカルが「喜び、歓喜、喜び、歓喜の涙(joie,joie,joie la pleur de joie)」と記した「火の体験」と呼ばれる回心の時発見した神は単に神があるという哲学者の神ではなく、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であった。これは神は単に宇宙の盲目の必然のメカニスムという類のものではなく、人格的な存在者であることを含意する。彼の死後、常に身にまとっていた上着裏に縫い付けられていた文書が発見された。31歳の回心のときから死ぬまで8年間縫い付けられたまま着ていたと思われる。そこにこう書いてあった。「1645年11月23日月曜日、・・夜10時半頃から12時頃まで。
火
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。<わが神すなわち汝らの神>。汝の神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。神は福音に示された道によりてのみ見いださる。人の魂の偉大さ。正しき父よ、まことに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。われ神より離れおりぬ。<生ける水の源なるわれを捨てり>。わが神、われを見捨てたもうや。願わくはわれ永久に神より離れざらんことを。永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝のつかわしたまえるイエス・キリストを知るにあり。イエス・キリスト。イエス・キリスト。われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せらる。全くこころよき自己放棄。イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。<われは汝の御言葉を忘れることなからん>アーメン」(前田陽一、由木康訳)。
この珠玉の覚書で分かることは彼はこの経験により「確実さ」、確かさを喜びを伴いつつ発見したことである。御子を介して「唯一のまことの神」を「知る」に至ったことである。それは心地のよい自己放棄の感覚であると言う。パスカルは探求から発見への過程のなかで見出したのは「イエス・キリストの神」の発見である。聖書に示されたアブラハム以来の信仰により継承された神との出会いである。彼はそこに確かさを見出している。もし、聖書という言語空間における語彙や文の連関を学習していなければ、彼の回心はこのような言葉を発することはなく、喜びを伝える何ものかによる、心の変化として捉えられただけであろう
パスカルのあの確かさの感覚はやはり伝統と歴史に基礎づけられたものであることが分かる。われらの単なる心的変化とは異なる確かなものが歴史のなかに打ち立てられていたからこそ、発見にいたったのだと思われる。聖霊に触れたときに帰属する平安や喜びは単なる偶然的に付帯するそのような属性ではなく、ほとんど自体的なつまり聖霊のあるところ必然的に伴うそのような属性であると言える。そのことから聖霊は心の最も深いところに注がれるそのようなものであることが確認できる。人類の多くの人々が聖霊の経験を報告している。パウロは言う、「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。聖霊はわれらの心に神から注ぎこまれるものであり、しかもそれは神の愛として注ぎこまれるものである。聖霊と神の愛は切り離せない自体的関係においてある。聖霊の本質は神に即してひとを支え、神に向かうよう執成すことと語られよう。
パウロは言う、「御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して執り成していたまうからである。他方、われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:26-28)。
パスカルにおいて「神は福音に示された道によりてのみ見いださる」という強い主張がなされている。ひとによっては広大な宇宙を明確に秩序づけているロゴス(理)の発見により、神にアクセスする人もいよう。これは伝統的に理神論(Deism)と呼ばれてきた。それは知的な感動であり、神との共知において成り立つというよりも、神の創造の業の賛美に留まりがちであろう。神ご自身の意志がそこにおいて啓示された媒介者イエス・キリストに到達することはないかもしれない。人格的な神は福音においてのみ知られる。
このパスカルの確かさの主張は聖書の伝統に即していると同時に、回心が人生には一回しか生起しないという一回性と関わると思われる。福音を介して神に何等か触れたひとは、常に福音に立ち返り、神に出会う。ひとは回心の体験において、肉(身体を持つ自然的な存在者の生の原理)の底が抜けて二番底すなわち神の何らかの呼びかけに反応する「内なる人間」(Rom.7:22)と呼ばれる部位が開かれる。「たとえ外なる人間は衰えていくとも、われらの内なる人間(ひと)は日々新たである」(2Cor.4:16)。霊的な交わりは肉の弱さのゆえにこの地上の生においては肉に回収されてしまうため、「叡知の刷新」(Rom.12:2)が必要とされる。ここで「肉の底」という表現から類推されるように、良心が肉と内なる人間を媒介する役割を持つ。良心は共知であり、家族や部族との肉的な共知から神との共知にいたるまで相対的であった。心の底が抜け、霊に触れることによって、比喩的に言うことが許されるとするなら、心に穴が開く。そしてその穴は肉の弱さの故にすぐ塞がれてしまう。肉の底がこの世の思いで塞がれても、一度開いた底は何らか再び抜けるという、そのような比喩で回心の一回性は語られよう。開いた痕跡は残るため、私の場合は鳩尾の当たりであるが、そこにその都度立ち返ると同じ平安をいただくことがある。
パスカルはこの回心の一回性を「神は福音に示された道によりてのみ見いださる」と言っているのだと思われる。「新たな被造物(kaine ktisis)」(2Cor.5:17)の出現はとても客観的な歴史的事件である。心の探求もとても客観的なものであり、誰もが生物的に同じ組成を持つ者である限り、二番底ないし「内なる人間」に対応する部位、入口が肉のどこかに備わっているに相違ない。デカルトはそれを大脳視床下部の「松果体」に求めた。これは生理学が進歩するにつれて、将来的には聖霊が「注賦される(ekkekutai)」とき、聖霊の本質を開示はできないが、生理的な反応として、「これこれの生理的な変化があるときには常に聖霊が注がれている」という類の聖霊の注ぎの十分条件を特徴づけることができるようになると思われる。即ち、回心が生起するさいの身体側の生理的働きとして回心の十分条件の特徴づけという仕方で一般的な理論を構築できると思われる。同じひとが何度も聖霊を体験することがあったとしても、種において同じ清らかな平安と喜びが伴う限り、生理的事象は常に同じ理論のもとに基礎づけられるという意味でとても客観的な心魂の出来事であると言うことができる。もちろん、そこでは神の自由が侵害されることはない。
その良心(神との共知)の発動としての回心は聖霊による肉の弱さを支えつつの罪の赦しの伝達である。それは聖書に明確に知らされているものであり、自然科学による神の秩序に対する数式の美しさの持つ感動とは異なり、どこまでも個人的な神との人格的な交わりの始まりとして二番底の開示の経験である。イエスは自ら去っていくが、そのあとに「助け主」としての聖霊の派遣を約束している。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7)。聖霊とは神の前とひとの前を媒介し、ひとを助けるものである。神の意志を知ることをめぐってパウロが「叡知」という認知機能についていかに論じているかは来週確認したい。
われらは少なくとも目に見えない聖霊の体験を記述するさいには、このような先行事例を必要とする。それは「聖霊」をめぐる周辺的な言語空間の学習を必要とする。その語句の意味の理解においては、「聖霊」が指示する働きにおいてある聖霊の存在の理解をさらにはその本質の理解を要求しない。これは意味論的に浅い「文字的意味」の理解に留まる。言語次元において思考を前進させる美しいアポリアの提示とは、例えば「「在る」は多くの仕方で語られる」というアリストテレスの常套句に見られるように、当該語句がどれだけの仕方で語られるかを枚挙することが肝要である。そのさいその問いの応答となりうるあらゆる可能な応答を網羅することしかも相互に排他的な仕方で枚挙することが肝要である。即ち、或る問いに対する可能な応答をすべて枚挙できるとするなら、そこにおいて答えを見出す枠が設定されたことになる。このように言語次元における語句の意味理解をめぐる分類や枚挙は存在と本質の探求の基礎作業となる。
聖霊について「今・ここ」で体験することは神と人双方の働きに属する。これを「エルゴン(今・ここの働き)」と呼ぶ。理論(ロゴス)は実践・働き(エルゴン)によって確認される。これについては「探せ、探せば見つかる」としか言うことができない。超越的な神の国へのアクセスはナザレのイエスの言行の探求を通じて遂行されるということは、パスカルが証言するように、また身近では黒崎先生が証言するように、多くの人々の経験してきたことである。黒崎先生はドイツ語で回心記を書き恩師カール・ハイムに贈った。資料室でご子息による邦語訳を読むことができる。
これをひとは単なる神話として拒絶するのであろうか。先週報告した回心における聖霊体験のあと、確かにわたしは「新しい被造物」(2Cor.5:17)になったと思う。しかし、聖書に報告されている様々な聖霊についての記述とその理解なしには私は単に神経系の一時的な陶酔、錯乱として処理してしまっていたかもしれない。長く聖書を読んできて、「聖霊」という語の使用に関しては習熟していたことが私の不可視なものとの遭遇の理解を助けたことは否定できない。探求と発見には明確なプロセスがある。アリストテレスは言う、「「定義は「何であるか[本質]」の説明言表であると語られるので、名前や名前のような他の説明言表が「何を意味表示するか」の(x)或る説明言表(tis logos)が定義となるであろう(estai[未来形は語句の意味理解が発見的探求の最初の段階を示す])こと明らかである[「或る」により非存在の定義可能性は否定される]。例えば、「三角形」が(x)「何を意味表示するか」は、それが三角形である限りにおいて、(X)「何であるか」である。まさにそのもの[「三角形」により意味表示されるもの]が(Ex)存在することを把握することによって、われらはそれが(X)何ゆえにそれであるかを探求する[「何であるか」と「何故か」の探求は中項の探求として同定(X)される]。その存在をわれらが知らないものごとに関して、それ[当該の名前が意味表示するもの]をこの仕方で[「何であるか」の説明言表として]容認することは困難である。困難さの理由は既に[92b19-25]語られたが、われらは在るか在らぬかを付帯的[偶然]にという仕方以外においてしか知らないからである」(93b29-35)(labein (容認する)については「幾何学者は「三角形」が何を意味表示するかを容認し、それが存在することを証明する」参照(92b15-17,cf.76a33,76b7,71a12))。
発見の前段階として文字的意味(sensus literalis)の意味理解が不可欠となる。これが神に出会いたいと思う者はイエス・キリストをめぐる福音の学習が必要な所以である。しかし、わたしはパウロの「ローマ書」の中心箇所がVulgata版で誤訳されて以来、正しく理解されていなかったため、福音の正しい理解が妨げられてきたと考える。ルターは「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」と言う。この言葉を導きとして、聖書を正しく理解したいと思い今日にいたった。
正しい理解のもとでの福音書そしてパウロ書簡などにより神発見の準備はなされうる。福音書はパウロによるナザレのイエスが何者であったかという神学的理解なしに書かれることはなかったと思われる。この神学的事実がナザレのイエスの伝記と言える福音書が世にあらわれるには彼の死後少なくとも30年を必要としていたのである。パスカルによる「福音に示された道」のみによって神は知られるという強い主張にわたしの経験は同意しており、またパスカルも福音書の記者にまでさかのぼることのできる先人たちの経験に即したのだと思われる。
ともあれ、聖書に習熟することが少なくとも「イエス・キリストの神、<わが神すなわち汝らの神>」との出会いを備える。探せ、探せば見つかる。神は愛である。神の愛の先行性こそ、隣人愛の相互性を支える。神がイエス・キリストにあって信義であったとき、われらに残された応答は信じることである。信に対しては信による応答がふさわしい。ここでは信に対し応答しないことは裏切ることである。
「探せ、探せば見つかる」の励ましのもとでの福音の探求において、今起こる問いは、あれほど恩恵を受けたのに、私は或いはより一般的に語ることが許されるならひとはその愛をどうしてすぐに忘れてしまうのであろうか、である。パスカルにおいて、死後発見された「火の体験」の記録は上着に縫い付けられていたものであった。回心から死まで8年間彼は肌身離さずその言葉とともにあり、どれだけこの恩恵の確かさを確認したことであろうか。パスカルは天国に心を向けた直後に地獄を考えるそのようなrestless mindの持ち主だったと言われることがある。ひとは時の流れに流されて恩恵さえ忘れてしまう。彼はそれを胸に手を当て続け、保持したのだと思われる。わたしにも心が弱るとき、あれは一種の神経系の変調だったのではないかと思うことがある。ただ、懐疑に襲われることがあっても、そのなかでも胸に手をあてて冷静になるとき、最後のところ「裏切るわけにはいかない」という思いは偽りのないものだと思う。そして回心により懐疑が喜ばしき探求となり、その後その延長線上に多くの恩恵を与えられたことを思い返すとき、新たに立ち上がる。私には回心とは懐疑が喜ばしい探求に変換されることであった。
なぜすぐ恩恵から脱落するかは、端的に言えば、肉の弱さの故にこの世の煩いにより恩恵が曇らされてしまうからである。聖書は絶えず、モーセの出エジプトのさいに示された神の愛と導きを思い返すことを命じている。ユダヤ人とユダヤ教徒はこの三千年の間出エジプトの恩恵を忘れまいとして仮庵の祭りや過ぎ越しの祭りを祝っている。われらは一度受けた恩恵に日々立ち返ることが求められている。忘恩の心の傾き、高ぶりに負けず、詩人は主の戒めと恩恵を感謝する。「悪しき者の謀略(はかりごと)に歩まず、罪びとの道に立たず、嘲るものの座に座らぬ者はさいはひなり。かかる人は主の法(のり)をよろこびて昼も夜もこれをおもふ。かかる人はながれのほとりに植えし樹の期(とき)いたりて実を結び、葉もまた凋まざるごとくその作(な)すところ皆さかえん」(Ps.1:1-3)。
イエスご自身励まし給う。「明日のことを思い煩うな。というのも明日は自らを煩うであろうからである。一日の悪しきことは一日で十分である」(Mat.6:34)。思い煩うことなく今を喜び感謝することは、感情(パトス)の時間論的分析で見たように、天来の清らかな息吹がその愛が放物線の接線に触れるように注がれ、最も現在的な感情実質である愛の喜び、即ち時との和解に留まることによって実現されていた。時との和解があるところ、そこには焦りも後悔もない。不安や恐れという未来により現在が支配されることも、後悔や怒りという過去により現在が支配されることもない。明日や過去の煩いが今日にのしかかってくるなら、その都度仰ぎ見よう、ゴルゴタの丘の十字架を。昼も夜も十字架において顕された神の愛を喜ぼう。懐疑により揺らぐとき、或いは何であれ苦しいことがあり呻くとき、御霊が心の奥底で「言葉に表現できない呻きをもって執り成したまう」(Rom.8:26)。苦悩のどん底においてこそ主は聖霊として共にい給う。イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。
5探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記―
ここで改めて個人的な経験を振り返り、恩恵を確認することをお許しいただきたい。ここでは先週報告した1984年の回心に続いた、5年間の留学生活について簡単に振り返ることをお許しいただきたい。山上の説教の学びでえた、なんとも簡潔でけれんみのない戒め、ただ地の塩、世の光でありたいという思いだけがこの回顧を導きますように。
1985年春から90年早春まで5年間イギリスに留学した。当時、私はギリシャ哲学を研究し、非常勤講師として哲学やギリシャ語を教えていたが、哲学研究に関し閉息感と無力感に悩まされていた。本場に行き、よいものに触れれば何か道が開けるのではないかという淡い期待をもって、アリストテレス研究の伝統あるオックスフォードに、そこには誰一人知る人もいず、ただJ.Barnes先生からの一枚のsemi officialな手紙を手に鞄一つで、武者修業に飛び立った。ドラマはヒースロー空港到着直後にはじまった。入国審査でお前なんかこの国にいれないという類のことを言われ、ロンドンの場末のユースホステルに潜伏した。正確には二か月のみの旅行者滞在許可であったため途方に暮れた。そのときもらった紙に移民局の住所があり、イースター開けを待ってクロイドンにある移民局にカラフルな人々と列をつくり、ようやく或る条件のもと更新の可能性を得た。そのようなゼロからの英国生活の始まりであった。以下、「オックスフォード便り」という日本の家族や友人に送っていた公開書簡等から探求に関わる所を当時の未熟なままの文章の引用により探求の歩みを振り返りたい(当時のものをそのまま引用し、便宜上繋ぎ合わせるが、今回の説明は[・・]により補足)。
5:1 エルスフィールドの丘
・・[1985年]8月20日の夜9時頃、本[ギリシャ語でルカ福音書]を読んでいると、下宿の呼び鈴がなり、誰かに取りつかれ二階にあがって来られる人がいて、私の名が告げられていました。間もなくノックの音がして「誰だろう」といぶかしがりながら戸を開けると、そこににこやかに立っておられたのは[前便]「夏の陣」でおなじみの長身のディヴィッド・チャールズ先生でした。お顔を見た瞬間に、てっきり先生は議論に来られたのだと思いました。と言いますのも、数日前に7月16日の最後の読書会のご親切なご指導に対する感謝とこの夏取りかかっている『分析論後書』の探究論について、或るインスピレーションを与えられ、この書が従来とは違って新たに矛盾なくそれも従来のアポリアを解決しながら読みうるということを書いて、手紙をさしあげたところだったからです。握手をし、狭い部屋にお通しし、向かいあって席についておもむろに切り出されたその晩のご用件は思いがけないことでした。8月の初めにも訪ねてくださったのだそうですが、不在だったらしく、その後は故郷のウエールズで過ごされ、今日お母様とご一緒に帰って来られたのだそうです。おっしゃるには、アメリカに一年出かけるのでエルスフィールドにある先生の家に住まないかというお誘いでした。この流浪(さすらい)の徒にはこのようなご親切をお断わりする理由はもちろん何ひとつありませんでした。
「今から来ないか」ということで夜の街頭に照らしだされるカレッジの石の変幻な色彩とドライブを楽しみながら、町の中心から東に数マイル離れた丘の上にある数十人の人口の村エルスフィールドに向かいました。車中でこちらで何もお伺しないのに、先生は「僕の父は神学者だった」とおっしゃいました。お父様はマンスフィールド・カレッジを卒業され炭鉱地の組合教会を牧し、またノッティンガムの神学校の校長をしておられましたが、先生が16才の時なくなられたのだそうです。かなり長い坂道をあがりきると、木々につつまれた丘の上にある村エルスフィールドに着きました。この周辺の土地は先生の家を含めすべてクライストチャーチ・カレッジの所有物ということでした。車を降りながら「こんな田舎に住むのは初めてです」と申し上げると「田舎の香もするよ」と返され、そういえばどこからともなく田舎の香水が漂い、兎が飛び出すそんなのどかな村でした。その晩は暗くて解りませんでしたが、数十センチの厚さの傾斜の急な茅葺きの屋根と土色のレンガ壁の二世帯用の長い古風な家でした。腰丈ほどの木柵の門を開けると、ぶどう色のレンガのアプローチが石の外壁をぐるりとめぐり玄関に続いていました。玄関の右手には少し高い場所に芝生と哲学者によって栽培されている野菜畑の庭があります。庭の奥にはイタリア風瓦の少し傾いた物置兼塀があります。
「ハロー、ハロー、マム、恵を連れてきたよ」と大きな朗らかな声で戸を開けられ、白髪の上品なお顔に眼鏡の奥に親しみ深い優しい目をされた老婦人に「恵はルーク(ルカ伝)を読んでいたよKei was reading Luke.」と紹介されたものですから、旧約学者ロビンソン教授に教えをうけ、父と夫を牧師に持つ高校の宗教教育の先生をしておられたお母様ともすぐに心通うものがありました[またスワンジーにあるHallと呼ばれる大学生寄宿舎の舎監、寮長を数年なさいました]。Mrs. チャールズは国の「婦人の会」のウエールズ地方の議長をされ、最近もソ連やドイツに招かれたり、招いたり若々しく活動しておられます。愉快な方で魂の底にすっと入ってこられます。それは常に生にとってもっとも大切なものだけに集中しておられるからでありましょう。
代々神学者、牧師の家系でご先祖はマダガスカル島に宣教に行かれ、『聖書』を現地語に翻訳された時の冒険談などに、何か教科書で学んだだけの歴史が生き生きと立ち現われてくる感を持ちます。「マム」と少し甘えられるディヴィッド先生と「ダーリン」と言って一人息子を誇りにし、息子の働きすぎを気遣う母一人子一人の家庭の暖かさのなかに包まれて、イギリスにまいりまして初めてホームの香を味わい心満たされる思いでした。
翌日もひょっこり6時頃先生があらわれて、アリストテレスの話しをひとしきりしたあとで、再び夕食に招いて下さりました。明るいうちに散歩をしました。近くの16世紀の古めかしい教会はステンドグラスだけが光輝いてひっそり静まりかえっていました。・・それから先生のランニングコースに行きました。先生は22才の時からクライストチャーチで教鞭を取られたとのことですが、学生時代はラグビーの選手で峻足ウイングでいらしたそうです。小麦畑の広がる丘の頂上までは家から1、2分でしたが、そこは360度のパノラマの眺望でした。西の平地には幾多の尖塔が天をさし、町全体をぐいと引き上げているような感じをさせるオックスフォードの緑濃い街並みが見えます。そしてはるかに緑の牧草地と森、畑につつまれた丘のレインジがこのエルスフィールドを中心にして円を描いたようにめぐらされていました。また隣村の散歩コースにも案内されました。先生の昨年夏の存在論と倫理学がひとつとなった著書はこの大地と広やかな光景から生まれたとのことでした。その晩もロゴスと母上の手料理の響宴にあずかりました。・・先生の書斎は石畳のテラスに通じています。[ギリシャ人の友人]パンタジースに「オックスフォードに学者は多いが、哲学者は少ない。ディヴィッドはその数少ない哲学者の一人だ」と言われる37才の若き哲学者ディヴィッド・チャールズの書斎で勉強すれば、ミネルヴァの女神の霊気が残っていて、鈍い頭脳も冴えるようになるのでしょうか。・・この地の人々は惜しみなく教え、与え心にとめられません。先生はこの風来坊に住まいさえ提供してくださいます。私は例えば東南アジアからの学生に何かこのような配慮をしたことがあるかを自省する時、忸怩たるものがあります。人の暖かさにふれて、はじめて自分もそのような人間でありたいという思いが湧くもののようです。・・
・・家庭を持たない私には友情以上に大切で励みになるものはありません。或る時の日記にこうあります。「11月23日(月)友情の一番の慰めは同士の感覚の共有だと思う。同じか似た志を持った者が、その志ゆえに多くの苦悩を味あわざるをえないが、その苦悩や困難に対する理解は、志を同じくするが故におのずと深まり、共に励まし慰めを見い出す時に、この志を持たずには味あうことのできないものであるだけに、その志を持ちえたことを友情の成立の故に感謝する。例えば、哲学、例えば、信仰。この二つが僕の志だ。このふたつの故に、人間的に言えば僕は多くを諦めている。しかし、それと同時にこのふたつの志の故に、同士との友情を楽しんでいる。このふたつの志なしには僕の生は空しいものと化すことを知っている。これらなしには、尊敬すべき人々との出会いもなかったであろう。なぜ友情が励ましかと言えば、同じように戦っている友の姿に力をえるからだ。彼や彼女も僕のこの苦しみを味わっているに違いない。そして戦い、打ち勝っているに違いない。その事実はあまりにも不確かなものに充ちているこの世界のなかで希望の光となる。僕は僕の生をフーフー言いながら引っぱってきた。そして友情において、その労苦が報われているのを感じる。僕はこの友情のために志を捨てまい。時にサタンの激しい攻撃に会う。そんな時に戒めが与えられていることをそのまま感謝する。さもなくば、落ち葉のように僕の生は生の証をもとめ狂奔していたであろう。戒めはそこに生命が充ち充ちているものだ。心の清い者は幸いだ。心の中心を己の欲望や乱れた思いで塞ぐことなく、ぽっかり穴を開けておくこと。その時のみ、イエスが生の中心に据えられる。真の交わりが始まる。友情は心の清い人、心にぽっかり穴の空いている人に与えられる恵みだ。シモーヌ・ヴェイユは言う「友情を求めてはならない。・・友情は、芸術や人生が与える喜びと同じように、たまものとして与えられる喜びでなければならない。・・友情は美と同じく一つの奇蹟である。そしてこの奇蹟は、ただ友情が存在するということにある」。・・
5:2チュートリアル―協働の探求―
・・ 1986年7月の末にディヴィッド・チャールズ先生がアメリカから帰国されました。彼は若々しくなって帰って来ました。懐かしい書斎に入った時、机の上に10数センチの厚さのアメリカで書きためられた『分析論後書』に関する彼の今度の著作の原稿が目に飛び込んできました。ふるえる手でめくると、アリストテレスの本質論、意味論、必然性などを現代哲学の成果を踏まえて論じ、アリストテレスの側から現代哲学者の問題点を指摘する野心的で実に細かな論述に心踊ました。直観的にこの書は今後数年私の研究の水先案内となるであろうことを確信しました。
・・・・ ディヴィッドとのチュートリアルも頻繁にもたれています。ある日の日記にこうあります。「(1987年)10月30日(金)昨日はまたディヴィッドと素晴しいチュートリアル。こんな幸いな日々はない。プロ意識というか、仕事というものがこんなに楽しいということほど素晴しいことはない。云々」。確かあの日は、秋の日没は早くすでに暗くなっていた5時頃から私の新しい説の吟味にとりかかりました。哲学的センスが磨かれるというのは、何か平凡に見える事柄やテクストのなかに、普遍的な問題を見つけうる能力を身につけることと言ってよく、ディヴィッドの忍耐強い指導のもとに彼の目のつけどころを吸収していくにつれ、自分でも次から次へと問いを見つけることができるようになりました。かつてはテクストの不整合その他で行き詰まると困りはてましたが、今はそれを単に文献学的な問いとしてではなく、有益な哲学の問題としてより普遍的に興味深く捕えることができるようになり、問題を見つけるとかえって喜ぶようになりました。世界は問いで充ち充ちています。
その日は7時になっても決着がつかずに、夕食をはさんでその続きをすることにしました。ガウンを引っ提げてディヴィッドはハイテーブルへ、私はローテーブルへと向かいました。私は黙々と次戦の作戦をねりながら食べたので味がほとんどわかりませんでした。ふと目をあげると、ハイテーブルのろうそくの背後にデイヴィッドの謹厳な顔が陰影のなかに浮かんでいました。目があい、お互いに無言のうちに頷きあいました。彼は恰も「恵、腹ごしらえができたら、今度こそ最前線を突破するからな」と目くばせしているようで、武者振いが走りました。その日は結局10時半までかかりました。その後議論に関わるボルトンの論文をコピーすべくコピー室に行きました。彼のところには誰が今何に取り組んでいて、ここがネックになっているだとか、多くの情報とともに、手稿の段階で多くの論文が送られてきます。すると、独身でカレッジにお住まいのブラウン牧師が賛美歌かなにかのコピーにあらわれ、「あれ、ハードワーカーが二人いる」と言いながら入ってきました。ディヴィッドが「先にするかい」と聞けば、彼は辞退されるので、今度は私が「私たちのは地にかかわることで、あなたのは天にかかわることですから」と誘うと、ディヴィッドが「そう、より大事なことだから」と受けられ、和やかな笑いが夜のカレッジにこだましました。