黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―

黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―

                  登戸学寮日曜聖書講義 2020年11月22日

 

 1テクスト

「かくして、もし汝らは、人々が自分たちに為してくれるよう欲する場合には、何であれそのすべてのものごとを、汝らもまたそのように彼らに為さねばならない。というのも、これが律法そして預言者たちだからである(Mat.7:12)。

 

2 この命令の諸前提―自律と相互性―

 この箇所は伝統的に「黄金律 (Golden Law)」と呼ばれてきた。旧約聖書全体がそこに集約されているとイエスご自身が看做していることを、ご自身の言葉で表した戒めである。聖書の教えにおいて愛にその律法の頂点のあることがここからもわかる。この訳は従来の翻訳と少し異なる。この命令は条件文で提示されているが、従来の例えば「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(新共同訳)という翻訳より、行為の要請の規準に限定が与えられている。一見「何であれすべて」はとても厳しい戒めである。自分のことなど何一つ構っていられないように思えるほどである。しかし、条件文を適切に読む限り、それには或る歯止めがかけられている。条件文「もし~あれば[場合には]」は前件の否定「もし汝らは、人々が自分たちに為してくれるよう欲しない場合には」、当然自らわざわざひとに為すべしは導出されることはないであろう。もしひとにしてもらいたいと思わないならば、為さねばならないという命令文は語られることがない。さらには他者にしてもらいたいと思わないことがらのなか、自らできることとできなことがあるであろうが、もし自分でできることで欲するならば、それは自分で遂行すべきであり、他に頼ることではないという限定である。従来の翻訳でもそれを読み取ることはできるが、条件文をそのまま訳することにより、より明瞭になる。

 従って、まず自律が前提されており、他者に何かを欲することがなければ、欲されることを為す義務はない。少なくともこの前件のもとでの帰結としての命令文は導出されない、端的に愛せよとあれば、別であるが。ここでは「汝」と「人々」のあいだの相互性、同等性が「そのように」により表現されている。汝が欲するその仕方で、相手に為すべきであることが命じられている。二つ明らかなことがある。一つは欲する仕方と欲される仕方は平行的で相互的な関係にあること。そしてもう一つは双方とも可能なことがらについて欲し欲されるということ。できないことがらは問題とされていない。無理な要求をすることもされることもないことが前提にされている。

 ひとは自律と相互性その双方のなかで生きている。まず自律ということ、これは所謂現政府が勧める、共助、公助の前に自助努力が為されるべきであるということに繋がるであろう。自らの精神的、経済的、生活上の自律や独立は、聖書が各人の生の責任を問う限りにおいて、自らの責任ある自由として当然認められている。ひとは恩恵を受けることも拒否することも可能な自由な存在者であるという視点が「肉の弱さの故に」(Rom.6:19)譲歩として認められている。つまりすべての人間は宇宙を創造し時間と空間のそとに永遠の現在にいます神に造られた存在者であり、ひとは自らのその弱い認知的、人格的存在者として神の前にいるということが判明ではないことから、自律的で責任ある生が営まれている。時間と空間の創造者である神ご自身にとって、一切のことは既に明らかである。ひとは個々人には神の認識が知らされてはいないために、神の意志が最も明白に知らされた福音即ちイエス・キリストに帰属した神の信義を信じることは常に実質的である。信が問題になるところ、そこではひとの責任ある自由が問われている。ひとは自らの責任において生を構築していく責任ある自律的存在者である。

自律と独立は黒崎先生や彼の師内村鑑三に共通である。内村はいかなる教会組織にも帰属せず、また宣教師や宣教団体からの寄付や世話にならずに、『聖書の研究』誌を毎月三千人に郵送するという筆一本で生活を賄い、経済的に独立した。黒崎先生も月刊誌『永遠の生命』を1926年(大正15年)に発刊したが、七百人の申し込みがあった。これがやがて二千人の購読者となり400号を超えるものとなった。彼らは独立伝道者であった。内村は或る詩人にならい「寂しさ(loneliness)」と「独孤(solitude)」を判別し、独り神の前に立って、独立を貫いた。彼が昭和5年に何ら恩給もなしに死去したが、その後静夫人は戦後亡くなられるまで経済的独立を維持されたと言う。このことは夫婦が一つの単位として、最後まで自律を貫いた一例である。とはいえ、彼らも社会のなかで生かされていたのである。社会のなかで共に生きることなしに、自律は絵にかいた餅である。ロビンソン・クルーソーでさえ、一人の生活でも時計を刻み社会的な生活を送ろうとした。

 現在、われらは国家、地方自治体そして学寮のような共同体そして家族などに帰属し、支え支えられつつ生活している。当たり前のことであるが、われらは海から山から畑から工場から多くの方々の営みのもとで、今の生活があることに思いをいたしたい。名も知らない多くの方々の汗と涙と労苦のうえに、われらの生活があることをまず肝に銘じたい。例えば、今感染拡大の一途の中で、医療従事者の方々は文字通り生命をかけて、弱ったひとびとを助けている。われわれがまず自助努力としてできることは、感染しないこと感染させないことである。例えば会食など三回の機会があるなら、一度にしよう、そのようなことがらである。

 今日のテクストはこのような日常的なところまで浸透している。というのはわれらは社会のなかで欲し、欲されて生きているからである。この春から毎朝礼拝で旧約聖書を読んでいるが、イエスはその全体をこの黄金律に収斂させている。この黄金律はひとの心に強く残り影響を与えるようであり、最近朝の礼拝で二人のひとがこの箇所に触れて、自分の生活の範にしていると言っていたことは印象的である。

 

3黄金律は愛の戒め

もう一度テクストに戻ろう。「もし汝らは、人々が自分たちに為してくれるよう欲する場合には、何であれそのすべてのものごとを、汝らもまたそのように彼らに為さねばならない。というのも、これが律法でありまた預言者たちだからである」(Mat.7:12)。正面から引き受けようとすると、他の山上の説教の言葉と同様に厳しい要求であることがわかる。

 まず自助努力が前提である。自分が他人にしてもらいたいと思わなければ、ひとにしてやらなくともよいのである。これが条件文の含意である。ただわれらは社会のなかで生きている以上、完全な自給自足は非現実的である。

この自助努力の限定のもとで、自分で為しうることは為したうえで、われらはどのような事情によりひとに何かをしてもらいたいと思っているであろうか。そしてそういうものがあれば、何であれ、すべて、まずその人にわれらの方から為すべきであると言われる。為してもらいたいと「欲すること」と「為せ」という命令のあいだにはこのような秩序の前後関係が成立する。欲することを相手にさせる前に、われらは相手に自らが欲する仕方で為さねばならないのである。そうすると何か具体的なことというよりも、心魂の在り方、具体的な願望事項は何であれ欲する仕方が問われていることがわかる。この条件文のなかでの命令により、その行為主体の心魂の内側が問われている。われらは何を他者に欲しているのであろうか。胸に手を当てて考えよう。そしてその欲していることをいかなる仕方で実現してもらいたいと思っているのであろう。胸に手を当てて考えよう。

まず、「何であれすべて」のなかに自分にできないことは排除されていることをこの条件文の限定が示している。能力のことは問われてはいない。隣人にできないことを要求することも排除されていることは、「汝らもまたそのように彼らに為さねばならない」の当為に含意されている。この当為は為しうることを、そしてお互いに欲求し欲求されていることを前提にしている。

自らできることのなかで、何らかの事情でひとにしてもらいたいことがあれば、それをその人にするよう命じられている。そうすると何か無理難題な欲求が問題とされているわけではなく、地に足のついたことが問題になっていることが分かる、その都度の隣人に対する態度が問われていることが分かる。地の塩、世の光たれという山上の説教の中心の教えの具体化である。ここでは、隣人に自らのほうから先手を打ってそうしてやれと言われている。或る欲求がわいたら、自分から隣人も同じような欲求のもとにあるという前提のもとに自ら動き出せと言われている。この前提には他の多くの人々も自分と同じようなことを同じようにしてもらいたいと思っていることが含意されている。そうすると、自分ができ、他の人々も同じように願っていることといったら、愛することが残されていることが分かる。イエスは愛することはそれぞれの仕方で誰にもできることであり、そして誰もが愛を求めているという認識をもっておられることが分かる。

 

4隣人愛

この黄金律は「汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛せよ」と同じ趣旨であることが分かる。イエスもパウロも業の律法には軽重があり、愛が成就されるとき、一切の律法が満たされるとモーセ律法を急進的に理解している。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに告ぐ、天地が過ぎ去るまで、律法から一点一画も廃れない」 (Mat.5:17-18)。

一切の業の律法は愛に収斂する。「汝ら、互いに愛することのほか、誰にも何も負うてはならない。というのも、愛する者は他の律法を満たしているからである。なぜなら、「汝姦淫するな」、「汝殺すな」、「汝盗むな」、「汝貪るな」、そしてたとえ何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身をのごとくに愛せよ」により包摂されているからである。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8-10)。愛が業の律法の冠である。

愛を満たすことは「正義の果実」(Phil.1:11)であり、愛している者たちは信に基づく義・正義であると神に看做された者である。愛が罪の赦しに基づく正義を前提にしていることはルカ七章に罪赦されたことの「証」「徴」として愛が描かれていることに見られる(Luk.7:36-49)。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。愛しうることが罪赦されたことの証である。ひとは自らの罪が赦されたか否かの証をどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされるとされる。かくして「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。その都度の隣人がたとえ敵であったとしても、その敵とは「キリストがその者のために死んだそのかの者」である(Rom.14:15)。ここに福音の健全性がある。すなわち信に基づく正義が先行しその果実として愛が生まれる。これは信の心魂における根源性を示している。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)

 

4神の愛の先行性と隣人愛の相互性

 黄金律が表現において「律法の一切」がそれに依拠する愛の戒めと異なることがあるとすれば、ひとの「欲求」をそのまま肯定しそして前提にしていることである。一方で確かに「愛せよ」という言い方は一般的であるのに対し、ここでは黄金律はその欲求が日常生活の具体的な状況に浸透するなかでの等しさの生起が求められていることである。

 誰もが具体的な状況において愛を欲しており、愛されることを求めている。誰かこれを否定しうる者はいるだろうか。ヘルマンヘッセの『アウグストゥス』において愛することと愛されることのいずれかを選択することが許された主人公は愛されることを選択し、何をしてもひとから赦されてしまう。そうこうして自ら空虚となっていく。翻って愛することを選択するとそれまでの悪行に被害を被った人々の反撃にあうが、それを喜んで忍ぶそのような物語が展開されている。愛は放恣のまま赦されることによる他者の支配ではない。償いとしての愛は、今度は、屈辱を被るが本来的な支配でも支配されることでもない等しさに向かう運動となる。

『レビ記』の記者は先の第二の戒め、隣人愛の戒めを報告するとき愛が等しさであることを既に知っていた(Lev.19:18)。神とひととのあいだ、ひととひととのあいだ、そこに父と子、友と友の等しさのことである。この世界に等しさを見出すことは難しい。しかし、シーソーのバランスを取るべく、敵が友となる向かう過程も愛である。バランスの崩れに生じた真空はいつの日にか友と友となる希望のうちに満たされることを学んできた。

実はひとは多くの場合「愛」の名において等しさを求めず、隣人を支配や操作の対象としている。イエスはそれをパリサイ主義の「偽善」と呼んでいた。われらも自己を吟味することが求められている。他方、愛が等しさであることを知るとき、愛は自己を捨て捧げつくすことだという類の律法主義から解放される。「わたしはあなたにこんなに尽くしたのに、どうして何もしてくれないのか」という類の支配欲から解放される。支配することからも、支配されることからも唯一自由な場所で出来事になる我と汝の等しさが生起するとき、ひとは実は最も安堵し喜ぶ。そこでひとは永遠とかかわっているからである。人類は愛を「永遠」との関連においてしか語ってこなかった。放物線が接戦に触れるように、永遠と関わる。即ち、愛においては神の愛の先行性がひととひととの愛の相互性を支えているのである。永遠的なものなしにひとは等しさを生きることはできない。

神の愛が先行していることはイエス・キリストにおいてのみ知られる。数学者や物理学者としての宇宙の創造者である神は数式により解明されよう。しかし、神が愛であること、即ち人格的な存在者であることは受肉しひととなったナザレのイエスを介してのみ知ることができる。また我と汝の人格的な交わりが生起する。「キリスト・イエスにある生命の霊」がわれらに注がれるとき、われらは新たな被造物として神の愛を喜び感謝し、隣人に向かう。

憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、家庭において親の愛を受けて育つように、そこで愛されることを何等か学んでいく。もし運にめぐまれず、薄幸の家庭にそだつとき、モデルケースをもたないため愛することはより困難な課題とまる。それはちょうど「良心・共知」の発動が、「道徳的運(moral luck)」と呼ばれるところのひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛されることを経験し自覚することなしにはまた相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような自覚や知識を伴うものである。

ひとは高ぶるとき、憐みをかけられていることを認識していない。自分は一自律した知者であると自己認識を持つかもしれないが、それは知るべき仕方で自己と世界を知ってはいないことを示している。パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。

ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。受動の強さが能動の高さと深さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な場所が心に生起することへの希望によって支えられるわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望の錘(おもり)によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。

経験としてその等しさが生起しているとき、時との和解がある。永遠が今に宿り、過去が現在を支配する後悔や怒りも、未来が現在を支配する焦りや不安もない。喜びという最も現在的な感情のうちに過ごす。復活の主がその二人のあいだに立ってい給うからである。ひとは支配すること、操作することから自由になり、シーソーの均衡だけを求めるとき、もうすでに希望において均衡がとれており、何の力みもいらず楽である。愛が最も楽であるのは、おのれのこだわりから解放されているからである。おのれの小さな正義を主張するとき、相手の納得を求めているのではなく、支配を試みている。もしこの均衡点が人類に一切存在しないとすれば、この世界はただ勝者と敗者、抑圧者と屈従者、強者と弱者、欺く者と騙される者だけにより構成され、そして争いだけが支配することになる。われらは心を持つ者である限り、良心が共同の知識である限り、誰かが山上の説教を語らざるをえなかったように、山上の説教を生きるものがでてくるそのような存在者であるに相違ない。

黙示録に新しい天と新しい地が出現することを預言していう。「見よ、神の住まいは人々と共にあり、そして彼らとともに住まい給う。そして彼らは神の民となるであろう、そして神ご自身が彼らとともにい給うことであろう。神は彼らの目から涙をことごとく拭いさり給うことであろう。そして死はもはやなく、嘆き悲しみも叫びもないであろう、また痛みももはやないであろう。というのも、先のものどもは過ぎ去ったからである」(Rev.21:3-4)。

 

5愛は自己犠牲、自己否定を必然的に伴うか?

愛が希望における等しさの生起であるとして、その途上は自己愛を捨て去る自己犠牲なしにそこにはたどり着かないのではないか。ひとつの反論は愛は自己犠牲であり、自己愛は放棄されるべきではないかというものである。キリストは自己を犠牲にして自らを十字架に磔る敵を愛したではないか。やはり等しさに向かう過程としての愛はとても苦しいものなのではないのか。愛は自己犠牲であるという問いをめぐって、神の愛の先行性と隣人愛の相互性の秩序を維持する限り、乗り越えることができると思われる。バランスの崩れにおける苦しみは必然ではないが、肉に死に霊に生きるという意味において古い自己との別れは不可欠であり、そこに痛みは何らか伴うであろうそのようなものである。

キルケゴ ―ルの隣人愛の理解はこの律法主義的な愛の理解に親近なものである。とはいえそこに何らかの清められた仕方での自己を愛することが生起する理論を展開している。彼は、「汝なすべし」という義務のなかに、自然的な衝動や情熱からなる異教にも存在する詩人の愛と異なる「全き永遠の革新」を見る。愛は義務となることによって永遠を自らのうちに受け入れる。愛すべきであるが故にひたすら愛する永遠の義務となる愛は、どんな変化にもなれてしまうひとをその習慣化から救いだし、愛の幸いな独立自存性において永遠に自由である。それに対し、直接的な愛はひとを自由にするが、しかも次の瞬間には依存的にする。彼はうつろう自然な愛に対し、愛が義務であることのなかに、愛が独立自存し永遠に守られ保証されるのを見いだし、第一の神への愛と第二の隣人への愛の戒めのなかに絶望と不安からひとを救う自由を発見する。

キルケゴールは第二の戒めに対し、神の前でのあらゆる人間の平等を基礎に弁証法的な解釈をほどこす。この戒めにはすべてのひとが自分自身を愛するものだという前提が含まれている。しかしキリスト教は自己愛の弁護者ではなく、まさにその反対に、私たち人聞から自己愛を剥奪すると彼は主張する。そこでは、まず自分を愛するようにという戒めのもとで、隣人は「自己の二重化」として存在していることが理解され、自己といわば等距離に置くことを余儀なくされる。「汝自身をのように」という自己の二重化を引き起こす永遠の緊張力をもった容易な表現が「人聞が自分自身を愛する最も内奥の隠れ家のなかへ、審きながら入り込む」。自己愛が自己に肉薄するほど近いものであるとするならば、隣人も能う限り身近に接近しており、誰もこの戒めから逃れることはできない。「ひとは君が君自身に対するのと全く同じほど君に近い人なのである」。それ故、自己を愛する者は、この言葉を相手に戦おうとすると、自己愛は自分より強い者と取り組んでいることに気づき、「自己愛は粉砕されるであろう」。即ち、自己を自然的に愛する限り、隣人を自己と同じ程度に愛することの困難さに導かれ、他ならぬ自分自身に自己の二重化が要求されていることに耐えられずに、自己愛が止揚される。この戒めに生きる者は、こうして自己愛をもぎ取る時に、止揚された自分自身を真に愛することを学ぶのである。彼のこの戒め理解を愛の力動的な弁証法的展開論と呼ぶことができる[拙論「エロースとアガペー:ヘレニズムとヘブライズムの絆」参照。https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33658]。

「自己愛」により自然的な生まれながらの自己中心的な愛のことを理解する限り、弁証法的展開論における自己愛の止揚と真の愛の生起は動的な愛の把握として同意できるものである。何等かバランスが崩れている限り、忍耐や寛容は不可避となる。イエスは自らを死に引き渡した。ただそれは信の従順の帰結であり、モーセの業の律法における行為の選択ではない。「汝、自己を隣人のために捨てよ、そうすれば真の愛を得る」は業のモーセ律法のもとでの愛の遂行である。福音は言うであろう。主の十字架と復活を仰ぎ見よ、そこに汝の古き自己はキリストと共に磔られておりまたそこに「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)が汝に注がれている。神は愛であるという信に基づく義の故にこの永遠の生命が生起している限り、汝は「義の果実」(Phil.1:11)として我と汝の等しさに至るまで忍耐と寛容の実りを得るであろう。

ひとは心の状態としては自己犠牲や放棄をめぐる苦悩を双方ともに経験するかもしれない。しかし、これは信仰の本性からして、肉を人生の根源的要素とせず、霊を根源的要素としようとする者には肉から霊への道行は避けえないプロセスである。「悔い改め」とは生の方向転換であり、自己の自然的な肉を生の中心にするのではなく、神の愛を中心に生きなおすことである。天動説から地動説への転換である。やはり自然的には苦しみが伴うであろう。しかし、人間の心魂が肉と霊から構成されている限り、自己犠牲も自己放棄もほとんど不可避な苦しみであると言える。重要なことはこの苦しみは希望や意味のない苦しみではないということである。

「それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与るべく、共に苦難に与っているのなら。・・・・・なぜなら、われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っているからである。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む。しかし、御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである」(Rom.8:12-17,22-26)。

このように神の前に生きようとする者たちが被っているあらゆる種類の苦しみは神の栄光に与るべくそしてその苦しみを通じて神に栄光をあらわすべく不可避なものである。しかし、イザヤは神の言葉を取りつぎ励ます。「恐れるなかれわれ汝とともにあり、 驚くなかれわれ汝の神なり。 われ汝をを強くせんまことに汝を助けんまことにわが正しき右手汝を支えん」(Isaiah.41:10)。ひとは勝者か敗者しかいない、抑圧者と屈従者しかいない世界に住んでいるわけではないということ、そのことに思いを馳せるとき、ひとは自らの内奥からの励ましと何らかの促しを感じることでもあろう。良心が発動しだすであろう。これが前回まで学んできた回心の経験者たちの告白である。今後もことあるごとに、ひとびとの回心の告白を紹介していきたい。

 

6結論

神はどこまでもわれらの自己否定や弁証法的な展開の前に働いてい給う。神の愛の先行性こそ、信の対象であり、そこに固着する限り、自己否定も相互性の等しさを実現する過程において要求されることもあろう。神が愛であることを信じることに基づき罪赦され義とされていることの喜びがわれらをいかようにでも隣人愛に向けるであろう。この順序、秩序はどこまでも不可逆的である。これがわれらにおける信の根源性である。愛は信に基づく「義の果実」である。

 

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