福音と剣
福音と剣
日曜聖書講義(ロシアによるウクライナ侵攻のときに) 2022年3月6日
聖書朗読
「さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、
「 ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
今き たる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた」(Mac.11:1-11)。
ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
1戦時に平和の君を静かに思う
馬ではなく驢馬は平和の象徴となる。イエスはゼカリヤの預言通りにろばの子に乗ってエルサレムに入場した。「ホサナ」即ち「どうか救ってください」というヘブライ語が歓呼の呼び声として用いられている。英国国歌の名称God save the Queen.もホサナからとられたのであろう。救い主のエルサレム入場を祝福し、「万歳」とでも訳すべき仕方で群衆は「ホサナ」と叫んで出迎えた。ゼカリヤの預言がここで成就した。
わたしどもは今狂気を目の当たりにしている。ゼレンスキー大統領は「プーチンよ、何を恐れている、私と直接交渉せよ。私は君の隣人だ」と和平を呼びかけている。双方に言い分はあるにせよ、人々はロシア兵士と国民の良心に望みを抱いている。争い、これは家庭でも学寮でも地域社会でも国同士でもどこにでも起こる、この残念な事象。為すすべもなく、ただこのなかに巻き込まれていくのか。人類にこれを克服する道は残されていないのか。わたしにはそんなとき、決まって平和の君イエスを思い出す。彼に一縷の望みを抱く。静かに彼の教えに耳を傾けたい。心を騒がせずに、救い主に眼差しを注ぎたい。
わたしどもが絶望や苦悩等のパトスにからめとられる時、良心は一時的に麻痺される。良心は共知であり、知識は感情や情念にひきずられているとき、働かないからである。良心は育った家族や世間との共同の知識から、「われらはキリストの叡知を持つ」(1Cor.2:16)という仕方でのキリストを介した神との共知に至るまでに変異があり、良心の呵責や平安として発動する。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1)。
神との良心が発動するためにも、心静かにしておくことが求められている。イザヤは伝言する、「汝ら立ち帰りて静かにせば救いをえ、平穏(おだやか)にして依頼(よりたの)まば力をうべし」(Isa.30:15)。詩人は賛美する。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である」(Ps.46:1-11)。
私どもは停戦を祈りつつ心を落ち着け、人類の平和を希求していきたい。イエスは言われる。「わたしは汝らに平和を遺し、わたしの平和を与える。わたしがこれを与えるのは、世が与えるその仕方においてではない。汝らの心をして騒がせしめるな、怯えさせるな」(John.14:27)。まず世が与える平和とは異なるキリストの平和に預かりたい。
2 相対的自律性
わたしどもはいつも聖書の教える平和と現実世界を支配しているパワーポリティックスにおける抑止力による平和などのあいだに緊張を強いられている。もちろんこの大きな問題に本格的に取り組むことはできない。議論のたたき台として方向を示唆したい。現在ウクライナで起きている惨状を前にして、現実的な判断を迫られるとき、今学んだろばの子に乗ってやってきて、無抵抗のうちに信の従順をその死にいたるまで貫かれたイエスといかなる仕方で関連づけることができるかを学びたい。
イエスは弟子を伝道に派遣するとき、二つの異なる命令を与えている。
(1)「さあ行け。・・財布も袋も持っていくな。誰にもあいさつするな」(Lk.10:3-4)。
(2)「今は、財布のあるものは持っていけ。袋も同様に持っていけ。また、剣のない者は、自分の上着を売れ、そして剣を買え」(Lk.22:36)。
[「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。(2)「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた」(Luk.22:35-38)。]
(1)(2)は命令が語られる文脈を考慮しなければならないことを告げている。主の命令はあらゆる文脈において妥当するわけではない。それはあらゆる歴史的状況、文脈で杓子定規に適用されねばならないわけではない。そのように取られたなら、ナザレのイエスご自身が迷惑に思われるであろう。金持ちの青年に対する次の命令も同様である。
(3)「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやれ。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従え」(Lk.18:22)。
誰もがこの発話の文脈を無視し、普遍化するなら、一定の富の総量と閉じられた小さな社会において、貧者が富者になった瞬間、この命令(3)により貧者となる、そのような際限なき貧者と富者の循環する社会が成立するでもあろう。イエスは反対のことを命じることもあり、歴史状況、文脈を参照して、命令を解さなければならないことを告げている。これを「状況依存テーゼ」と呼ぶことにする。
(2)はいよいよイエスが受難の時を迎えての発話である。生命を賭すその文脈で、弟子たちは主の受難により逃亡離散するが、自衛のために戦うこともある文脈を想定している。そして捕縛のとき、弟子が官憲の耳を切り落とすと、イエスは手をおいて癒した。この行為は憐みの中で遂行された。敵をも愛する憐みのなかで、剣の購入が命じられた。それは生存を計る弟子たちの何らか配慮である。イエスご自身は神の子の信の従順を死に至るまで無抵抗により貫いた。神はこの信の従順を嘉みし、死者たちから甦らせた。この事実は平和を考察するとき、最後まで常に心に留めることが求められている。神の義の啓示の媒介としてこの信は用いられ、人類はこれにより永遠の生命の在り処を明確に知らしめられた。この永遠の生命がもたらす平和こそ、この世界が与えるものとは異なるものである。
この啓示の前提のもとに、われわれは相対的自律性のもとで、神に従うことも従わないこともできる中立的な存在者として位置付けられ、この中間時を生きている。パウロは「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と、神の前のことがらに鈍い肉の弱さに譲歩して人間中心的に語ることがある。イエスもモーセ律法の離婚のさいの離縁状について、「君たちの心が頑(かたく)ななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(Mat.19:8,cf.5:31)と語り、肉の弱さに対し譲歩している。イエスは相対的に自律したものとして人間社会を受け止め、裁判制度や戦争の現実をさらには弟子が剣を持つことを否定してはいない(Mat.5:25,Luk.22:37)。もちろん、ひとはどこまでその譲歩に甘えるのかが問われている。山上の説教を文字通りに受け止めるひとびとは肉の弱さへの譲歩を乗り越えた人々である。命令形に象徴的にみられるように、命令に従うことも背くことができる責任ある自由のもとに生きていることが前提にされている。
納税義務をめぐってイエスを罠にかけようとしたパリサイ人にイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に納めよ」と応えている(Mat.22:21)。一時的に委託された「カエサルのもの」は畢竟万物の統帥者である「神のもの」であるように、ひとの責任ある自由は相対的自律性に留まり、常に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の事柄を自らの事柄と受け止めるよう励まされている。
3神とこの世の権力の関係
パウロも、権力に対する服従を相対的な次元で捉えている。「すべての魂は優越する諸権威に服従せよ。なぜなら、神によるのでなければ権威は存在しないからであり、現存するものどもは神により任命されているからである。かくして、権威に反抗する者は神の定めに抵抗しているのであり、抵抗している者たちは自らに裁きを招くであろう。なぜなら、支配者たちは善行に対して恐れであるのではなく、悪行に対してだからである。汝は権威を恐れないことを欲している。善を為せ、そうすることにより汝は権威自身から称賛を受けるであろう。なぜなら、それは汝にとって善きことへの神の補佐だからである。しかし、もし汝が悪を為すなら、恐れよ。なぜなら、それはいたずらに剣を帯びているのではないからである。というのも、神の補佐は悪を為す者に怒りのうちに罰を与えるからである。それ故に、単に怒りの故にだけではなく、良心の故にも服従する必然性がある。六実際、その故に汝らは税をも納めているからである。なぜなら、彼らがまさにこのことに献身している限り、神の従僕だからである」(Rom.13:1-6)。
ここで為政者は端的に自律したものとしては捉えられていない。権力は歴史に善を生み出す限りにおいて「神の補佐」として位置付けられる。神の権威のもとで剣を帯びること、つまり強制力をもって秩序の維持を担うことが委託されている。そして権威を恐れないことを望むなら善を為せと命じられている。これには誰もが同意できるであろう。他方、権力を持つ為政者について「彼らがまさにこのこと[善を生み出すこと]に献身している限り、神の従僕だからである」と言われ、もし良き秩序に仕えない権力者がいるとするなら、もはや神の従僕とは看做されていない。この過ぎ去りつつある中間時にあっては、権力者に抵抗しなければならない時が来ることが分かる。為政者は自らを端的自律性のもとにあるとみなし国と国民の平和と幸福追求の名のもとに罪に魂を引き渡しがちである(偶像化の危機)。そのときは状況に応じて抵抗の仕方が一様ではないことは先に確認した。剣を携行したとして、「剣によって立つ者は剣によって滅びる」(Mat.26:52)という、少なくとも、警告のもとにある。捕縛の前彼は弟子に切られた官憲の耳を癒し、敵をも愛した。イエスご自身は信の従順を貫き無抵抗のまま死に至り神の前の救いを確立した。それ故に、われらの外に神の救いの意志は明確に確立された。
個々人の与件や立場は異なる。為政者は国と国民の平和を造り維持する義務を担う。個々人の立場の異なりにより状況判断と実践は異なるが、誰もがわれらの外に明確に立てられた福音については同意できる。その同意内容はこの世のものではなく、復活と永遠の生命の在り処をめぐるものであり、信の対象である。
信じる者は神の前のことがらとの関連で現実を受け止めるよう命じられている。われらの一挙手一投足はこの神の前の救いとの関連で選択される。「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。ひとは自らの責任ある自由のもとで信じるが、その内容は神がイエス・キリストの信においてわれらの信を理解していたまうということを信じる。イエスが持った「幼子」の信仰にイエスご自身により招かれている。
肉の弱さへの譲歩に胡坐をかくことなく目覚めつつ、「残りの者」として心魂を刷新しつつ恐れず、喜んで細い真っすぐな道を歩みたい。「雄々しかれ、われ既に世に勝てり」(John.16:33)。
4イエスの柔和こそ平和を造る
憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせる。
イエスは弟子たちによる伝道がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。
福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの 確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。この世にすがるべきいかなる者も持たない者、この世のいかなるものによっても満たされない者、そういう者たちが神を求める。
福音はこの神への眼差し求めがイエスにおいて成就されたと告げ知らせる。イエスは「天の父の子」にふさわしいはずの平安と喜びそして愛がこの地上にはなく、羊飼いのいない羊のように彷徨っている群衆に深い憐みを感じた。そして、天国について教え始めた。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。イエスの憐みは天の父の子がいかなるものであるかの知識と、それとの対比、コントラストにおいて、何も知らずに彷徨っている人々を見たことのギャップから自然に湧き出てくるものであった。
彼のこの憐みのパトスと平和と柔和な心持こそ、ひとびとのあいだの争い、諍いそして憎悪さらには国内での分派、分裂、さらには国家同士の戦争のうちに時を過ごす人々の悲惨な現状を克服したいという意志が彼の公生涯を特徴づけた。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者(いとたかきもの)の住みたまふ聖所をよろこばしむ。神そのなかにいませば都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国はうごきたり、神その声をいだしたまへば、地はやがてとけぬ。万軍の主はわれらとともなり、ヤコブの神はわれらのたかき櫓(やぐら)なり。きたりて主の御業をみよ、主はおほくのおそるべきことを地に為したまへり。主は地のはてまで戦いをやめしめ弓をおをり、矛(ほこ)をたち戦車(いくさぐるま)を火にてやきたまふ。汝ら静まりてわれの神たるを知れ」(Ps.46:4-10)。
神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣された。平和の君は驢馬(ロバ)の子に乗ってくる。イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は山上の説教の第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。この神の御子の故に人類は平和への希望を持つことができる。
イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Luk.11:28)。
5 キリストにある一つの体の形成
イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。
キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。イエスはご自身を葡萄の木にわれらをその枝になぞらえている (John.15:1-5)。イエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。
われらはキリストにつらなる体の各部位である(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。
神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。各人の能力や才能を神との関わりで見るがゆえに、直接的な関係において生じる嫉妬や羨望とは無縁であり、いかにそれぞれの能力が協力しあって、良き実を結ぶに至るかに集中する。「汝らはキリストの体であり、諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:27)。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。
この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。
人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。
6 党派心の根にある誘惑への身の引き渡し
弟子たちの間でなされた誰が偉いかという議論はただちに党派主義(sectarianism)に通じる。「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、というのも、われらと一緒に[あなたに]彼はついてこないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。
一番偉い者は子分を従え、二番目に偉い者はその子分よりの下の子分を従えることになり、権力、覇権を争うことになるであろう。権腐10年、権力は10年で腐敗すると言う。その一例が、ヨハネの応答にはしなくも顕れている。或る者がイエスの名前に言及することにより、悪霊を追い出していた。ここで悪霊とは、イエスの癒しの事例によれば、暴れまわる凶暴さを示すそのような手に負えない乱暴狼藉を働く一種の心の病である。それを或るひとがイエスの名によって癒したと報告されている。
イエスが非ユダヤ人の土地であるガダラ地方に着くと、悪霊に憑りつかれた者は不浄とされる墓場からでてきたと報告されている。ルカによれば、「ゲラサ」と呼ばれる土地の「墓地に住んでいた」裸の男が悪霊につかれていたが、イエスは悪霊を豚に乗り移らせたことにより正気に戻った男の話が報告されている(Luk.8:27)。ガダラにおいては、イエスは憑りついた悪霊を追い出し豚のなかに追いやると、豚の群れは下の湖になだれ込み死んだ。彼らが正気に戻ったかは報告されていないが、憑りつきから解放された以上、ゲラサの墓堀人と同様癒されたのであろう。
他方、豚飼いたちは豚を死なされたことからくる経済的損失を蒙ったために、イエスを村から追い出した。地上の宝に心を奪われている者はたとえ神の働きを目にしても自らの利益にとらわれ、人が癒されたことで神を賛美することはなかった。まさに「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)である。われらも悪霊に憑依されることを何らか経験している。心の平衡を失い平安が去ってしまい心がささくれ立ち、悪しき思いに満たされることを経験する。もちろんそこに程度はあるが、何か自らのうちにないものに心魂を引き渡してしまっているそのような感覚を持つこともあろう。ふとしたことで平安を取り戻したときなど、正気を失っていたと気づくことがある。二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。
一旦、自らの心魂を引き渡してしまうとどこまでもそれはエスカレートしてしまう。「穢れた霊は、ひとから出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出てきたわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、でかけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(Mat.12:43-45)。ひとは自らの心に生の方向を失うとき、空虚となり、誘惑にかられやすい。一度、何らかの憐みにより悪しき思いから解放されたとしても、聖なるものに守られないとき、もっと悪い思いがひとを虜にすることがある。これはわれらも何らか経験していることである。
イエスの聖性に気が付くとき、自らの穢れの深刻さ、尋常ではなかったことに気づかされ身震いする。眠らされていたのである。悪霊に憑りつかれるこれらの話は、過去のおとぎ話ではない。聖なるものとの対比においてのみ、われらの悪しき思いは聖性に対抗する穢れや悪の仕業であることを知るに至る。
パウロと共に心を新たにする。「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの器官を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの器官を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。われらは罪の奴隷であったとき、それが自らに破滅をもたらすものに魂を売りわたしていることに気が付かない。そのコントラストを、即ち聖なるものを知ることによってのみ、それがいかに醜悪なものかを知るにいたるかるである。
醜悪なものとは、或る場合には、自分たちは特別であると他者や他のグループと差別化をはかる党派的な思考、党派主義である。これもコントラストを知ることなしには、いかに醜悪な思考であるかに気付くことはない。党派心は人間の自然であって、誰かに従属することにより保護を受けつつ、敵対する者に対しては蹴落とし、破滅させようとし居丈高になる。弟子ヨハネもその一人であった。権力や数を支配する者が偉い者である。イエスはその考えと戦う。
問題は、ひとは自覚せずにもいつのまにか信じることにおいて教祖とともに自己を絶対化しがちであるということである。人格が高潔であればあるほど、誘惑は大きくなるであろう。サタンは多くの者たちから賞賛を得ているその者を堕落させるなら、罪と死の支配を広げることができるため、さまざまな党派主義への誘惑をしかけてくることであろう。そしてそれがキリスト教の分派の歴史であった。人生は朽ちる栄冠を獲得する競争ではなく、朽ちぬ栄冠をいただくべき罪と悪との戦いなのである。
7 イエスの信とわれらの信・信仰―「信」の二相の判別による乗り越え―
「信仰・信」の二相を判別することにより、イエスご自身における信の在り方はわれらの信・信仰の在り方の目標であり続ける。「神はイエスの信仰・信に基づく者を義とする」(Rom.3:25-6)。またパウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。常にイエス・キリストにおいて生起した神の信義を自らのこととするよう勧められている。他方、われらはその啓示の媒介となった「イエス・キリストの信」とは異なり相対的な世界で生きている。「6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、[賜物を用いよ]」(Rom.12:6)。
われらは肉の弱さのゆえに、信仰においても程度の世界に生きている。この自覚がないとき、イエスを崇めているつもりでいつの間にか自己をイエスに同化させ、他のグループから自らを特権化してしまう。イエスには偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。イエスはご自身を神に至る唯一の道であること、彼自身が真理であり、生命であることを主張せざるをえない。自ら神の子であるという信のもとに生き抜いた者が他の者たちに他の道を勧めるということは信義の問題として、すなわち裏切りの問題としてあり得ないことである。イエスは山上の説教において究極の道徳を語った方であり、それを実現すべく信の従順を貫いた方である。
端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。
ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。
隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。イエスの聖性とわれらの穢れ、このコントラストこそ正面から引き受けねばならない。さもないとき、福音を知ることはできない。この聖なる方が共にいたまうと約束しおられる。
山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。
天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った(Mat.6:25-34)。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。
他方、ひとは「肉の弱さ」において生きており、信仰の強い者もいれば弱い者もいる(Rom.6:19,14:1)。この相対的な世界において、神にとって信が根源的であるなら、ひとにとっても信は根源的であり、信に対して信により応答することがふさわしい。神との関係は信により心魂の根源からのものであることが求められている。神はご自身が「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)を介して人類に信実であったとき、ひとは信じるのか、それとも裏切るのかが問われているからである。われらはその啓示の故に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられる。イエス・キリストにおける神の前の信をそのつど自らのものと信じるよう招かれている。ここに信の二相がある限り、われらは決してイエスを祭り上げることを通じて自己を祭り上げる党派根性はブロックされている。信は根源的なものである以上、神との関係においては他の道は拒絶されているが、ひととの関係においては個々人の心的態勢は強い弱いが帰属する相対的なものである限りにおいて、自らの信仰も啓示の媒介となったイエスの信のようなものではありえない以上、他者に対して寛容となる。われらはあくまでその都度自らの業を誇り、自己を栄光化する業の律法のもとに生きることから悔い改めを介して信の律法に立ち返るのである。そこに党派主義に陥る余地は構造上残されてはいない。
8 結論
ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。この信の根源性という究極のソフトパワーにより剣というハードパワーは秩序づけられることが求められる。さもなければ、軍拡競争に歯止めがかからないであろう。人類に絶望だけが残されるであろう。