福音と剣―Soft Powerによるhard powerの秩序付け―
福音と剣―Soft Powerによるhard powerの秩序付け―
「私は汝らに平安を送る、世が与えるのではない仕方で平安を与える。心を騒がせるな、怯えるな」(ヨハ14:27)。
この春、剝き出しの暴力を目の当たりにして、その対極にある平和の君イエスを仰ぎ見る。彼は強い者には仕えることを促し、柔和と謙りの究極のsoft powerを纏い驢馬の子に乗り入城する。「娘シオンよ、踊れ歓呼の声をあげよ。視よ、汝の王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた、高ぶることなく、驢馬の子に乗ってくる。エフライムから戦車と軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国民に平和が告げられる」(ゼカ9:9)。
福音と剣の関係はいかに?無差別な殺戮に極まる理不尽を為しうる人間とは何者か?この問いは人間の理性の明晰性、受動の深さに宿る感性、聖霊に反応する霊性その最先鋭地点における魂の総合的な力の結集を要求する。柔和力が力の政治を秩序づけうるのかが試されている。「愛を介して働いている信が力強い」(ガラ5:6)。
双方に言い分はあろうが、「プーチンよ、何を恐れる私と直接交渉せよ隣人だ」と呼びかけ最前線で同胞を鼓舞し続ける者の潔さと宮廷で国営航空美女に囲まれ空しい言葉を弄する者の放つ偽りの腐臭、両大統領の魂の著しい対比は人類の光と闇を象徴する。一時委託された「カエサルのもの」は畢竟万物の統帥者「神のもの」であるように、ひとの責任ある自由は相対的自律に留まる(マタ22:15)。為政者が自ら端的自律と錯誤する時、「神の怒り」は罪への「引き渡し」のなか欲望に任せることがある(ロマ1:18)。イエスは命令に従背可能な中立的で自律的な人間社会を引き受け、裁判制度や戦争の現実から目を背けず、しかも「先ず神の国とその義を求めよ」と信仰に招き、福音のもとに律法と社会を秩序づける信の根源性を生き抜いた(6:33,5:25, ルカ22:37)。
「汝らの肉の弱さ故に」身体の限界を自己の限界と捉える「人間中心的な語」りがあり、「汝らの心の頑なさ故に」モーセは離縁を許したと主は語り、肉への譲歩は弱さと頑なさ故になされる(ロマ6:19,マタ19:8)。ひとはどこまでその譲歩に甘えるのか。山上の説教を正面から引き受けた人々は肉の弱さを乗り越え、その霊によって貧しくその心清く「天の父の子」として神との正しい関係においてのみ満たされる心を持つ。
SNSの時代、戦場にsoft powerが際立つ。別れに母に抱かれ父の兜を叩き続ける幼児、侵入敵兵を胆力で追い返す老夫婦、柔い歌声で避難所を慰めで満たす少女。この独一無比の魂をもつ無辜の民を守るべく、不屈の精神でhard powerにより死を賭して抵抗する兵士、この状況でそれ以外に為す術はあるのか。
イエスは弟子の伝道派遣時においてそしてもはや支援なく自助以外に術がない時、異なる命令を与える。「さあ行け、財布も袋も持っていくな」、「今は、財布ある者は持っていけ、袋も。剣のない者は、上着を売って剣を買え」(ルカ10:3,22:36)。主の命令は愛を介する信の普遍妥当する命令のもとに一切が秩序づけられるが、イエスは状況、文脈に応じて柔軟に命じる(「状況依存テーゼ」)。愛する者を守るべく生命を賭す不可避の状況がある。捕縛のとき、イエスは弟子にその耳が切り落とされた官憲を憐み癒した。愛敵の憐みのなかで、剣購入を命じ弟子に主を守る機会を与えたが、彼らは皆逃亡した。イエスご自身は苦難の僕の預言に呼応して無抵抗を貫いた。「静まりて私の神たるを知れ」(詩46:10)。「汝ら立ち帰りて静かにせば救いをえ、平穏にして依り頼まば力をうべし」(イザ30:15)。苦悩のパトスに沈む時、理性や良心は麻痺される。冷静に事態を見究め、心魂の根源的態勢である信に立ち帰るとき、憐みと公正、愛と正義が力強く動き出す。
各人の与件や立場により判断や実践は異なるが、誰もがPutin的なもの、救い難きわが身を抱えている。今こそ文字の律法ではなく、今・ここで働いている柔和力の究極の主を仰ぎ、悔い改め、われらの外に明確に立つ福音に立ち帰ろう。イエスご自身は神の子の信の従順を貫き磔られ、神の前の救いを確立した。神はイエスの信の従順を嘉みし、死者たちから甦らせた。人類はこれにより永遠の生命の在り処を明確に知らしめられた。
常に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(ロマ14:22)と自らの責任ある自由を神の前の事柄に結び付けるよう命じられている。その事柄は贖罪と永遠の生命であり、信の対象である。神の前と人の前の今・ここの人格的な働き(エルゴン)上の分節は「キリストを引き裂くことだ」と宗教改革者は拒否し聖霊の執成しを常に求めた。この永遠の生命がもたらす平安はこの世界が与えるものと異なる。肉の弱さへの譲歩に胡坐をかくことなく目覚めおり、その都度神の子の幼子の信の根源性に立ち帰り柔和と謙遜の主の軛に繋がれ真直な道を共に歩もう。「雄々しかれ、われ既に世に勝てり」(ヨハ16:33)千葉惠(3月15日記)。