福音と律法の緊張―心を清め愛する力を与える―
日曜聖書講義 2022年2月6日
福音と律法の緊張―心を清め愛する力を与える―
千葉惠
1 はじめに
本年度最後の日曜聖書講義です。35回目になります。今日は福音と律法の緊張について学びたいと思います。ひとは自らの偽り、醜悪さ、罪深さに慄き、なんとか清められてイエスのようになりたいと思うとき、キリストに従いついて行こうと決心するのです。そしてその果実、その御褒美は神と隣人を愛することができるようになることです。
信仰生活は単純であると言えます。この二年間学寮や学寮の支援者の方々の中にたびたび信仰の熱心に触れることがありました。その方々は一様にこのような動機付けで神への熱心のうちに日々を過ごしておられました。昨年HCDの学寮誕生物語のヒロイン小町勝美さんは「私が初代キリスト教の時代に生まれていたら、ただただ使徒パウロのあとについていって、伝道のお手伝いをしていたことでしょう」という印象的な言葉を遺しています。この情熱をもって学生のために、この登戸の土地を黒崎先生に寄贈したのでした。他にも純粋な思いでキリストに捧げて生きてきた人々を思い出すことは大きな励ましです。ここでは「愛を媒介にして働いている信仰が力強い」(Gal.5:6)というこの信仰と愛を聖書はどうとらえているかを学びたいと思います。愛に生きる信仰の力がどこから与えられるか探求したいと思います。
2 福音と律法
それは伝統的に福音と律法の関係として探求されてきました。「福音」は「信じるすべての者に救いをもたらす神の力能」であり、「愛」は「律法を充足するもの」「律法の冠」です(Rom.1:16,13:9-10)。ルターは「聖書を正しく理解するところそこに聖霊が宿る」と言いましたが、この福音と律法の関係を正しく理解するとき、即ち双方の緊張と秩序付けを正しく理解するとき、ひとは清められ喜びいさんでひとを愛することができるようになると思われます。聖書の研究は生きる力を与えます。イエスと交流のあった人々は「このひとの知恵と力能はどこから来たのか」(Mat.13:54)と不思議に思ったのです。イエスは神との正しい関係を信仰により持つことを通じて、山上の説教において純化されたモーセ律法を成就しました。「信の律法」即ち福音と「業の律法」即ちモーセ律法は二種類に神の義ですが、これら二つの神の正しい意志はイエスにより媒介総合され成就されたのです。福音と律法この二種類は常に緊張のなかにありますが、この地上に生きたひとりの人により実現された以上、われらにも希望が湧いてくるのです。
3 旧約から新約へ、律法の時代から福音の時代へ
イエスには先触れがいました。メシヤ(救い主)の到来を預言した洗礼者ヨハネはユダヤの宗教指導者たちに対し「蝮の子らよ、差し迫っている怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「われらはアブラハムを父に持つ」とうぬぼれるな。わたしは汝らに言う、神はこれらの石からアブラハムの子孫を呼び起こすことができる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(Mat.3:7-10)。これが伝統的に預言者たちが宣べ伝えてきた神の怒りと審判の告知です。ヨハネは最後の預言者として偽りの生活への悔い改めとふさわしい実を結ぶよう律法を突き付けています。イエスはヨハネとの連続性において「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と新しい福音の時代の到来を宣べ伝えました。
律法の時代から福音の時代へ、これが人類の歴史のダイナミズム、力の源泉なのです。イエスご自身がご自身の言葉と働きにおいて福音を持ち運んでいました。先週お話した神の国の現在性との関連で言うなら、一挙手一投足において神の国を実現しつつあったと言うことができます。「福音」はパウロによればひとが持つ信仰に応答する救い出す「神の力能」(Rom.1:16)です。律法の時代のあとに、時が満ちて福音の時代が到来したのです。神の救いの力が歴史のなかにイエスにおいて顕されたのです。「福音(euaggelion)」とは文字通りには「良きこと(eu)」を伝える「天使・伝令のメッセージ(aggelion)」即ち「喜びの訪れ」です。ひとは御子の受肉とあの信の従順の生涯を神からの良き音信として喜び感謝して受入れてきたのです。
ここでの一つの問がおきます。それではユダヤ人を鍛え、彼らの誇りであったモーセを介して与えられた律法はどこに行ってしまったのか。律法は神がご自身で選ばれた民族ユダヤ人にモーセを介して与えた、神に嘉みされる正しい人生の規範、規準です。これが永遠の現在にいます神の意志である限り、福音により廃棄されるということは考えられない。何らか新しい福音に秩序づけられるはずです。この関係を正しく理解するとき、ひとはエレミヤが糾弾した偽預言者たちが説いたような偽りの「平和」、「平安」に陥ることなく、またユダヤの宗教指導者たちが陥った生命なき律法主義、形式主義に陥ることなく、正しい信仰とその果実として自分自身から自由にされ、愛を結ぶようになると思われます。この力を正しく理解したいものです(Jer.6:14,28:15)。
4 山上の説教
イエスは山上の説教において律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言います。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。
イエスは神への愛と隣人への愛「これら二つに律法の全体と預言者たちが依拠している」と言い、パウロも「愛する者は他の律法を満たしてしまっている」として業の律法が愛に収斂されると伝統的なトーラー(律法)を急進化により理解しています(Mat.22:34-40,Rom.13:8)。ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味しています。そしてモーセ律法は愛に収斂されます。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言います、「敵をも愛せよ」。山上の説教における憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではありません。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心即ちイエスとの共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分です(5:22,5:28,5:39)。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきました。
山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かによって語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われます。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、説教それ自身は神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきました。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解です。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張されます。この解決案によれば律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められます。しかし、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されません。それはイエスを自らの心の内奥に迎え入れ、彼の良き軛を共に担い常に彼のことに思いを馳せ、共に歩む生活なしに、この純化された律法を全うすることは到底できないということです。
5 律法成就のエルゴン(働き)
これは今・ここのエルゴン次元における聖霊の媒介による信から愛に向かう力を獲得する手続きです。聖霊は二千年前のキリストの出来事を今・ここにいる者の出来事とする媒介の働きです。例えば聖霊はイエスの十字架上の処刑死を今・ここで信じる者において自らの過去の出来事として働いています。パウロは言います。「わたしは[信の]律法を介して、[業の]律法に死んだ、それはわたしが神によって生きるためである。わたしはキリストと共に磔られてしまった。もはやわたしが生きているのではない、キリストがわたしのうちにあって生きている。・・わたしは神の恩恵を空しいものにしない。というのも、義が律法を介するなら、そのときキリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:20)。また彼は「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)と言います。これは今・ここの一挙手一投足の生活の力として彼と共に古い自己に死に、新たに復活の主と共に信の律法のもとに生きることに他なりません。これは個々人の歴史のエルゴン(働き)次元における今・ここの生の指針であり、各人の責任に委ねられています。
6 福音と律法の緊張のロゴス(理論)
他方、理論的にロゴス次元において普遍的な仕方で福音と律法の緊張を正しく捉えることも求められます。福音と律法、恩恵と業績、信仰と業の関係はパウロをめぐる神学論争の中心的な主題であると言って過言ではありません。ここでは福音と律法、信仰と愛との緊張関係を正しく理解し、愛に至る力強い信仰の理論を明確に理解する必要があります。
近年の聖書学の傾向として、例えばE.Sandersによりパウロがその出身であるパレスチナユダヤ教と福音の乖離と緊張を最小限のものとする理解が提示されています(『信の哲学』上p.170-175)。パウロが反対した律法主義はユダヤ人を他民族から差異化し社会的境界を特徴づけ特権化するそのような食事規定や清めなどの儀式についてであって、福音と律法は恩恵のもとに理解され矛盾緊張関係にあるものではないという理解が提示されています。恩恵への応答としての律法遵守と功績的な業とは経験的にも神学的にも判別されえないものであるとされ、それは「非ルター的パウロ」とも呼ばれます。Sandersによればパウロは律法による義の必然性の主張に対抗しており、信と業の対立を形式的な次元において捉えていると論じ、義をめぐりパウロ自身がその伝統のもとにあったラビ的ユダヤ教との親近性を主張しています。
「もし律法を遵守することが神の約束を相続すべく必要にして十分な条件であるなら、キリストは無駄に死にそして信仰も無駄である。二つの議論―異邦人の包摂とキリストの死―はわれらがRom.3:21-26に見るように、共に立つ。しかし、他のいかなるものよりも、これらの理由により明らかに、パウロは律法を遵守する要求を拒絶している。これが意味するのは、メシアが到来したときには律法が妥当であることを止めるであろうという前もって抱かれた理論の故に(Schwizer)、また、律法を守る努力は人間をして真なる自己から導きそらすが故に(Bultmann)、彼は律法を遵守する必然性を拒絶したのではなかった。これらの解決双方とも救済(・・)は(・)ただ(・・)キリスト(・・・・)を(・)介して(・・・)得られるという彼の確信とは異なる要素により決定されうるパウロの律法についての見解を要求する」(『信の哲学』上p.172)。
はたしてSandersのこのパウロ理解は正しいのでしょうか。律法を矮小化しているように見えます。「救済はただキリストからくる」ことにはSchweizerもBultmannも理由付けはどうであれ、同意するでしょう。問題は律法が救済に貢献するというパウロの業の律法理解、主張を見過ごしているところにあります。パウロは言います。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法のもとに生きる者は神の前で義とされないとパウロは主張します。かくしてこの律法成就のためには信の律法のもとに生きるしかないというのが彼の主張であって、「パウロは律法を遵守する要求を拒絶している」のではないのです。律法の一点一画たりとも廃れないのです、愛において。
ここで、K.Barthのもう一つの律法の矮小化の理解を紹介します。Barthは神学的に「キリスト論的集中」の名のもとに福音一元論を説きます。律法はそこでは「同じ一つの啓示」であるキリストの出来事の否定的側面として福音に寄生するものと理解されます。
「キリストにある神の義の啓示(1:17,3:21)の真の意味を取り出すべく、パウロは「ローマ書」1:18-3:20において心に留めさせているのは同一の啓示(dieselbe eine Offenbarung)が神の怒りの啓示であること、即ち、われらに到来した恩恵について語られているように、われらはわれら自身の審判における棄却を認めそして信じなければならないということである。・・・かくして、ちょうどその啓示を前提にしている陳述がひとつのキリスト教的陳述であるように、パウロが罪の知識は律法により来る(Rom.3:20)とユダヤ人との関連において言うとき、それもまた神とひととのあいだにキリストにおいて生じた出来事の前提のもとに語られている」。(K.Barth, Die Kirchliche Dogmatik I/2,Die Lehre vom Wort Gottes, ∬17,S.334-5 (EBZ 1938).千葉惠「 『信の哲学』に至る半世紀の問いと解―福音と律法」『哲学』第54号 p.127)。
それに対し、ルターは福音と律法の緊張関係を維持します。「「律法の真の仕事(officium)と主要で固有な使用はひとに彼の罪、盲目性、惨めさ、邪悪さ、神についての無知、憎しみそして軽蔑、死、地獄、審判そして相応の神の怒りを啓示することである。・・律法は善であり有用であるが、その固有の使用とは第一には公民の逸脱を防止することであり、第二に霊的な逸脱を啓示することである。それ故に律法は光でありそしてそれが照明しそして示すのは神の恩恵や義そして生命をではなく、神の怒り、罪、死そして神の前におけるわれらの破滅そして地獄(iram Dei Peccatum, mortem,condemnationem nostril apud Deum et inferos)である」(p.124)。
ルターによれば律法はこのように罪を暴き立て、福音に追いやる機能を持っており、こういう仕方で救いに貢献している。「その機能を伴って律法は義認に貢献する、しかし、それが義化するということの故にではなく、ひとをして恩恵の約束に追いやりそしてそれを甘美にして望ましいものにすることの故にである。・・それはわれらをキリストに追いやる最も有益な僕(utilissima ministra urgens ad Christum)であろう」(p.125)。
イエスはこの緊張をたとえ話で伝えます。遊び暮らしている金持ちがいました。ラザロという乞食が金持ちの家から零れ落ちるものでしのごうとして門前に横たわっています。犬がきてラザロのできものを嘗めます。やがてラザロは死に天使によってアブラハムの側につれていかれ宴席にあずかります。金持ちも死んで葬られましたが、ハデス(黄泉)でさいなまされます。はるかにラザロを見て、父アブラハムに憐みを乞います。双方に渕があり、渡れないと告げられると、金持ちはラザロを遣わして家族に「こんな苦しい所に来ることがない様に言い聞かせる」よう伝言を頼みます。アブラハムはこたえます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(Luk.16:19-31)。イエスはモーセ律法の遵守こそ、天国への一つの道であると言います。わたしどもは死後、一切を正確に知りまったく公平にして正しくそして憐み深い神の前に立つのです。
7 神の公平な審判
神には二つの律法即ち「業の律法」と「信の律法」の適用において偏りがありません(Rom.3:27)。「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Rom.2:6)からです。しかし、そこでは神の前に義とされることはないでありましょう、「律法を介した[神による]罪の認識がある」からです(Rom.3:20)。
神の偏りのなさのもう一つの理由は、神は信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22,)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからです。神が信の律法のもとに生きていると看做すことは、それが福音において啓示された限りにおいて、イエスの信においてその者たちの信を理解していることを含意しています。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからです、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていません(cf.Heb.12:17)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(Rom.11;22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできません。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の叡知内容(noēmata)を知らないわけではない」と言います(2Cor.2:11)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるでありましょう(Rom.11:22,2:4)。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」です(Ps.18:26)。
8 神の意志と判断は個々人には福音においてほど明確には知らされていない
個々人には誰にも福音においてほど明確には神の意志は知らされていませんので、「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の出来事を自らのことがらとするよう命じられます。パウロはまた「怖れと慄きをもって汝の救いを全うせよ」と命じます(Phil.2:12)。個々人にはいずれの律法が適用されるかは、神の意志がキリストにおいて明白において知らされているほど知らされていないという、この緊張こそが、ひとを福音の信に常に追いやります。そうしてのみ、ひとは救いを全うすることができます。
福音と律法の緊張を解消するバルトにおいては、あまりに勝利が語られすぎるということが問題とされます。H.Thielickeは『神学的倫理学』「一定の組み合わせとしての律法と福音」においてヘーゲルやK.バルトのように精神の自己展開であれ、無時間的な永遠性のもとにおいてであれ律法を福音に吸収、解消してしまう一元的理解を批判している。ティーリケはルター主義者として福音と律法を「緊張」においてあるものとして捉えています。
「もし聖性と愛、審判と恩恵のあいだのこの緊張が神学的省察において適切に表現されなければ、まことに、もしそれが最も僅かの度合いにおいてさえ弱められてしまうなら、愛は神の自然本性であると立ち現れることになるであろう。しかし、これはただちに楽観的なキリスト者の世界観を生じせしめることになる、そこにおいては至上の価値は「善き主」、神的善性であるところのものである。ここからハインリッヒ・ハイネの皮肉な観察に至るにはただもう一歩となる、即ち赦すこと、われらに善くあること、そしてそこからわれらをしてわれらの罪の繁茂を相対的な無関心を伴い楽しむこと、それが神の機能、即ち「それが神の仕事である!」」(p.128)。
(H.Thielicke,Theological Ethics, Vol.1Foundation, pp.94-125(Adan&Charles Black London 1968).E.P.サンダース等による非ルター主義的な解釈即ち福音と律法の対立緊張を最小のものにしようとする動きがNPP(New Perspective on Paul)という名称のもとに展開されている。パウロが反対したのはユダヤ人を特権的なものにする食事既定等であるとする律法の矮小化理解とそれに対応して信仰義認の非中心化、非ルター化がパウロに帰せられる。「法廷的・代理的贖罪論(義認論)」と呼ばれる伝統的な信仰義認論が衰退し、それに代わる「神秘的・参与的救済論」が台頭している。これら二つの名称は信の哲学が「ローマ書」1:17-4:25の信に基づく義の神の前の(A)言語は神の知恵を報告しており聖霊に対する言及がなく、それに対し五―八章が神の前とひとの前を媒介する聖霊への言及(D)言語により展開されているという理解にほぼ対応している)。
このような福音のひいきの引き倒しとでもいうべき事態はただちに頽落形態を生み出します。孫悟空がどんなに飛び回ってもお釈迦様の掌から零れ落ちることはない。つまり慈悲のなかに包まれています。ひとは恩恵の循環の内に繭のなかの居心地の良さを感じるでもありましょう。信じることは神の恵みであり、信じせしめられることである。さらにまたそのことを信じるが、それも恩恵によると無限ループを繰り返します。この背後に究極の解釈学的循環が控えています。真の聖書の著者は聖霊であり、真の読者は聖霊である。聖霊の一人芝居に信仰も聖書研究も巻き込まれてしまいます。
9 解釈学的循環を回避する著者と読者の切断―言語的意味の理解―
著者と読者の間の癒着と循環を断つものは言語的な意味の理解は記号と記号とのあいだに成立するものであって、その記号が指示するでもあろう実在、ものごとの存在を要求しないそのような意味論の構築が求められます。文字や語られたことは言語共同体の約定によりものごと(実在)の「象徴・代理(シンボルsumbolon)」となる「記号(semeion)」です。言語はものごとを指示しコミュニケーションを成立させますが、その手前でものごとの存在や本質を括弧にいれ、記号と記号の関係として整合性を規範にして理解することができるのです。文字的意味(sensus literalis)の理解はものごとを知ることなしにも可能なことがらなのです。聖書の意味論的分析とは、解釈学の方法である著者の生活の座、先行理解を括弧にいれて、このように書かれたものをそれ自身として受け止め、語句の連関において整合的な意味理解につとめます。これは実在論的意味論(ものごとを最もよく知っている人が語句の意味を最もよく知り確定する)と両立的な意味論的に浅い立場であり、「いかに語るべきか」という規範的な仕方で語句の意味を理解する「ロギケー意味論」と呼んでいます。
解釈学的循環のなかで、或いは信仰の循環のなかで憩う者は蛇が自らの尻尾を食べて回り続けるの自己食尽に陥ることもありましょう。そこには何ら新しいものとの出会いもなく、生気を失っていくことでしょう。神様あなたの仕事は私どもの罪を赦すことです、と。そのような安逸を貪る信仰は容易に懐疑と自暴自棄或いは自己欺瞞の信仰となってしまうことでしょう。理論(ロゴス)上福音と律法の緊張がいかに維持されるかが説明されたこととしましょう。
10結論
なぜこれほどの混乱があったかと言えば、「ローマ書」3:19-31が正しく翻訳されなかったからです。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかです。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることです。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのでした。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われます。新しい翻訳を挙げます。
「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」です。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきました。
実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示しています。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのです。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行されました。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離 れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのです。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことでしょう。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的です。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意されます。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されています。信の律法のもとに業の律法が満たされるのです。少なくとも人類はナザレのイエスにおいてそれが成就されたのです。