岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる賢い生―
岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる賢い生―
日曜聖書講義2020.12.13
1テクスト
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:24-29)。
2岩上の家とはイエスの言葉と働きの上に遂行される生である
ここまで一貫したものとして山上の説教(マタイ5-7章)を読むことができたことを感謝する。山上の説教についてはいくつかの理解が提示されてきた。律法主義的に理解し文字通り生きようとしてトルストイのように駅で野垂れ死にするか、教えを希釈し心情倫理と責任を分けるなどして希釈し個人倫理と社会倫理を分けて何等か現実との折り合いをつけようとしてきた。さらにはルター主義によれば説教は審判の言葉であり、福音に追いやるために語られた。このような理解のなか、イエスは今・ここの途上の生において言葉と働きを分離させることなく、「権威ある者」として人類の罪を贖うために文字通り死に至るまで信の従順を貫いたが、まことのひととしてこの山上の説教はひとりのひとにより満たされた。途上で語られたことと完遂されたあと使徒により語られたことのあいだに、例えば狭き門から天国に入る者は「わずか」であるかをめぐって若干の緊張は残るが、福音は人類すべてに向けられた神の意志であることが十字架と復活により明らかになったことを確かなこととして語ることができる。ここではいくつかの理解を提示しそれを乗り越える見解を次週に続けて提示していきたい。
今日30回かけて山上の説教の最後の教えに到達した。「かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである」。
どのように建てるかは問題とされていない。どこに建てるか、どこに住むかが問われている。ひとがそのうえに自らの人生を築く唯一の土台が問われている。「これらの言葉」がその唯一の土台である。イエスは福音をリアルタイムに実現しつつある、そのなかで語られた言葉である。「福音」とは神がその信仰を嘉みするすべての者に救いをもたらす「神の力能」である(Rom.1:16)。われらはこれまで彼の新たなモーセ律法の理解を聞いてきた。戦慄するほどの厳しさであり、またひとが抱きうる根底の良心(共知 con-science)においてその言葉の偽りのなさに同意せざるをえない「権威ある者」としての語りであった。ここで「権威」とは、イエスの言葉とその働きは、福音書全体において証されるように、彼において二心や分裂がみじんも見られず、一なる全体として生命の輝きと迸りにおいて遂行されたところのその力強さ、この世のものならざる聖性から輝きだすところのものである。かくして、イエスの言葉と行いのうえに自らの生を建てる者は盤石の岩の上に自らの人生を遂行することである。
ナザレのイエスは彼の発話と行い、一言一句、一挙手一投足において福音を実現しつつあった。十字架の死に至るまでまったきひととして神の御心を実現していった。彼は二つのもののあいだの選択において中立的な立場で悩んだことは報告されていないが、御心と信じる者もあまりの苦痛と嘆きと疲労のため、そのまま苦しみなしに受け取ることができない局面もあった(e.g.Mat.26:36-46)。それほど彼の一挙手一投足に福音の実現、神の国の実現がかかっていた。山上の説教において彼はユダヤ教の伝統のもとに自ら身を置いた。群衆に彼の新しい教えを理解してもらうべく、伝統的な教えの延長線上に伝統的な教えを突き破るべく、モーセ律法の急進化、内面化を遂行した。道徳的次元に屹立しつつ、その内側から彼らの道徳的理解の不徹底や自己矛盾を突き、そこに留まることのできないものとした。ひとはそれを「信仰の招き」と呼ぶであろう。しかし、それは明確な仕方ではなされなかった。奇跡の遂行もなければ、聖霊の注ぎも報告されてはいない。「信仰」そして「罪」という語句をそのままでは見出すことができない。
イエスは山上の説教における対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。その説教においては「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いへの信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。イエスは父なる神の意志、律法を実現すべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとに、「御子の福音」を自らの言葉と働きにより実現する(Gal.2:20,Rom.1:2)。
預言者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mac.1:3)と言う預言者イザヤの言葉に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。彼は水による悔い改めの洗礼を授けたが、火の試練と聖霊による洗礼の時代が来る。ヨハネは最後の預言者として位置付けられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。預言のときは過ぎ、今や福音のときが到来したと宣言されている。「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mac.1:15)。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、こう報告されている。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると声が天から生起した。「汝はわが愛する子、わたしは汝を嘉みした」」(Mac.1:10-11)。預言者と律法は古い革袋であり、それは生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。そこでは「われは知る律法は霊的なものであると」(Rom.7:14)と語られるようになる。
マタイは最後の預言者の働きをこう報告していた。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-11)。
預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置付けられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを、福音をめがけ、証言し指差していた。モーセ律法を急進化、内面化そして純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。
重要なことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて究極の律法を実現しつつあるただ中で語られたことである。もし彼が十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一挙手一投足が遂行されていたのである。パウロも福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。当のイエスご自身は苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらは人として想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂されることとなったのである。少なくとも人類にひとりはそれを成就したからである。
3 言葉と行いの分裂のなさ―心魂の態勢とは―
前回、偽預言者と真の預言者を判別するものとして木とその果実の譬えが用いられていることを学んだ。「良き木は悪しき果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良き果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。偽預言者が良き結果を生むことができないということは理解できるように思われるが、天候不順で良き木が悪しき実りをもたらすことなどは考慮にいれられていない。木と果実の関係は必要十分関係として展開される。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、双方交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されており、そう主張されているように見える。
それに対する応答はちょうど樹医が良い木と腐った木を判別できるように、永遠の現在にいます神には一切が明らかであり、この「~できない」という様相表現は神の前の現実、神による認識をまず表していることであった。神の前においては一切が明らかであるということを含意しよう。或いは成功した地点から語られており、良き実を結ばない木は結果として悪しきものであることが分かるため、人生の終わりに人間的にもほぼ理解できるということであろう、ただし、良き果実とは「地の塩、世の光」としての生涯のことに他ならない。
われらは人生の途上にいる。今・ここでこの岩上に家を建てる賢い者となるかが問われている。それともこれまでと同様に愚かな者にとどまるのかが問われている。日本では百人に一人しかこの盤石な基盤のうえに生を建てようとはしていないと報告されている。盤石な基盤に建てる人とは「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者皆」のことである。イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。これまで繰り返して語ってきたように、神の意志はイエス・キリストにおいて最も明白に知らされており、われら個々人には彼においてほどは明確には知らされてはいない。それゆえに、神に選ばれ愛されていると信じることはわれらには実質的であるということを確認してきた。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と語るように、ひとは人間中心的には即ちひとの前では「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在として理解することが神により許容されていた。ひとは神の前の現実を肉の弱さの故に明確に知ることができないからである。山上の説教が語られる文脈もこの人間的な責任が問われるところで、つまりモーセ律法の延長線上で展開されている。
前回から吟味している注解者たちに問題とされてきたことは、木と比較され、譬えられるひとの心魂の態勢についてどう理解すべきかということであった。良い木は良い実を結ぶ、逆も真である。木と果実の関係が必要十分な関係であるとして、果実即ち行為の側から述べたのが山上の説教だと言われることがある。心の側からも行為の側からもどちらから述べることもできる必要にして十分な関係であるとする。記号化が理解の助けになることを望むが、必要十分な条件を表す文が真である場合を記号化すると(P→Q)&(Q→P)と記される(Pは善き心・意志であるとし、Qを善き行為、良きき果実であるとする)。対偶を取れば(¬Q→¬P)&(¬P→¬Q)となり、QでなければPでなく、PでなければQでない、それぞれがそれぞれに必要条件でもあることを示している。良き木でなければ、良き実をもたず、良き実をもたなければ良き木ではない。
勢い、PとQを一体としてそこでは人間の全体が問われていると理解することになる。ルターは「全体的な人間」として聖霊の働きのもとで統一された人間を理解すべきだと言う。ルターは「信仰のみ」により信の根源性を捉えており、そこ即ち根や木のほうから果実としての愛の善き行為が生まれるとする。彼は「ガラテア書」の「愛を媒介にして実働している信仰が力強い」(Gal.5:6)を引用して、ここでは愛が単独で力強いとは語られてはおらず、愛を介して働いている信仰、即ち愛を生み出す信仰が力強いと語られているとする。そして彼にとっては、信仰は恩恵として神の業であり、信じることは信じせしめられることである。したがって、善き心は常に聖霊込みである。この「込み」を連言+で表現すれば、P+Hとなる。善行Qとの関係は必要十分な関係として捉えられる。((P+H)→Q)&(Q→(P+H))。
また、先週U.ルツの見解を提示した。彼によればキリストによる助けや恩恵の付与がひとの側から語られていた。「キリストは義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの果実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。
この文章の一つの理解はひとの心の態勢としての心の善き在り方がそれ自身としてつまり自らの力能により良き果実の十分条件を与えるものではないという主張である。彼が「キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える」と結果の側から記述するとき、善き心情があったとしても、それは必ずしも善き果実を生み出すことはないと主張されているように見える。P(良き木)が真でQ(良き実)が偽である場合があると主張されている。たとえ自分では誠実な「心情倫理」のもとにあると思っても、「義を行う者」ではないことが指摘されている。木と果実のあいだに因果関係はもとより、安定した関係が存在しないという主張と取ることができる。さらに形式的に律法遵守の行為が遂行されるとき聖霊が助けると理解することもできるが、これらの理解は明らかにイエスの主張とは異なるため、ルツがこれを意図しているはずがない。
もう一つの理解は木と果実を結果、行為の側から考察するさいの、暗黙の前提として双方が分離できないものとして見ることである。そこではひとには習慣づけられた心魂の態勢、構としての実力があり、それは行為に対して待機的な関係、即ち心魂は外的な妨げがなければ、常にその当該の行為を遂行することができる待ち受け状態にあるという主張を含意している。太極拳を習得したひとは、構るとき、そのままその運動が遂行されるそのようないつでも動きに移すことのできる構、態勢にあり、それは「待機的」と呼ぶことができる。
ルツは帰結の側からだけこの事態を述べているが、彼が暗黙のうちに前提していることは、良き果実を生み出す者でなければ、善き心を持たないと看做されており、良き果実は良き木の必要条件となるが、同時に良き果実は常に良き木であったことを証していると読むことができる。木が善き実をもたらす待機的な力能のうちにあり、その実りに常に移行するという理解である。換言すれば、ルツは聖霊による援けが与えられるのは、QがPに対して十分な関係にある場合、良き実は良き木を含意しているとする。これは常にPとQが分離されない関係であると理解できる。それを+で表現すると、((Q+P)→H)と表記できる、ただしHは聖霊の援けを表している。全体が良き果実と良き木であるなら、聖霊を受けると読むことができる。対偶を取り、ルツは聖霊を受けなければ、良き木と果実ではないという主張を認めると思われるが、聖霊は心魂の態勢として立派であり立派な善き行為を行う者に注がれると主張されている。少なくとも山上の説教はそのようなものであると理解されている。
ルターのように常に聖霊による心Pに対する執り成しを要求する場合には、(P+H)ならばQは常に成立する、そして逆も真でありQならば(P+H)が成立していと看做されている。聖霊の媒介があるからである。ルツは人間の心の態勢としての心情をここで問うている。ここでの問いは「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理」という陳述における「備え」は自らの責任ある自由のなかでの訓練により習慣化された心魂の態勢のことであると主張されている。ルターなら、その心の「備え」そのものが恩恵によりなされると主張するであろう。
ルツの主張をわれらのように理解できるなら、すなわち結果の側から原因を分離なきものとして見るなら、((Q+P)→H)&(H→(Q+P))と表記することができる。ルター((P+H)→Q)&(Q→(P+H))とルツは相互に同意できると思われる。双方の違いは聖霊の援けがどの段階で働いているかの差異とも理解できるが、山上の律法をなんとか真剣に遂行しようとしているそのところに聖霊の呻きによる執り成しがあることは十分に想定できる。ただし、ルツは人間中心的にしかも帰結の側から語っており、心の在り方を果実と込みにして、良き果実の場合は心の在り方が善き行為をうみだす待機的な状態にあり、そこに聖霊をいただき援けのもとにあったということが分かると主張していると思われる。
それではイエスご自身はひとの行為を導く心魂の態勢をどのようなものとして理解していたかそしてパウロはどうであったかを哲学的次元で、人間中心的な仕方で分析してみることにする。
4イエスが語る心魂の「倉」
ここではイエスご自身またパウロも、人間の責任ある自由の根拠としての心魂の独立性を前提にして議論していることを確認したい。イエスご自身が聴衆の分かりやすさのために天国のことを譬えにより語られるとき、彼は人間中心的に語っていると言うことができる。例えば、天国は農夫が借地の畑で宝をみつけたら、持ち物をすべて売って地主から畑を買うそのようなものに譬えられる(Mat.13:44)。人間的なことがらから神の国を類推することがなされる。そこでは当然、人間的な心の働きが前提にされており、たとえ聖霊の媒介があったとしても自然的な次元で理解される。
パウロも「ローマ書」において所謂信仰義認論と予定論を「神の知恵」として展開するときは、一切聖霊への言及なしに、神の前と人の前を理論上分節したうえで神の前のことがら即ち神ご自身による人間認識として報告している。「ローマ書」において、パウロは読者の知性を信じる、「わたしは自ら汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。そのもとに「ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」(Rom.1:15)として、彼は哲学における「知恵(sophia)」による析出を可能にする神学理論(ロゴス)とそれに相補的なものとして聖霊の媒介行為(エルゴン)への言及により福音の宣教を遂行した。信に基づく正義の議論は1:17-4:25においてそして予定論は9:6-11:32において聖霊への言及なしに神の知恵として展開される。他方5:1-8:36においては神の前とひとの前を媒介する聖霊への言及のなかで和解論や救済論を展開する。これはパウロの言葉によれば、「[神の]知恵の説得的議論」と「[神の]霊と力能の論証」と判別されているものである(1Cor.2:4)。「ローマ書」の所謂信仰義認論と和解論は通常聖書学者により「法廷的・代理的贖罪論」と「神秘的・参与的救済論」と判別的に語られている。
イエスもパウロも理論上神の前と人の前を判別して語ることを許容しており、働き(エルゴン)上神は聖霊を介して今・ここで働いてい給うと信じている。哲学者たちが展開する人間中心的な理解をパウロは肉の弱さへの譲歩として自ら展開している (6:19-20)。ひとは自らの責任ある自由のなかで生きている。
アリストテレスのようなギリシャ哲学者たちの倫理学はイエスやパウロの倫理と少なくとも相当程度両立的であると思われるが、聖書を知らず聖霊についての理論をそれとしてもたない哲学者が自ら聖霊の注ぎを受けながら自ら聖霊をそれとして自覚することなしに倫理学を展開しているということはありうることである。聖書以前のひとびとは聖書のロゴスを知らない以上、自ら体験したことをその光のもとで記述することはできないからである。これは数週前の講義「探求と発見」のなかで聖霊の発見においても、発見的探求論のもとに語ることができ、「存在」は常に自体的または付帯的属性を伴い発見されることを論じた。「聖霊」にふれたひとは「生命」や「平安」などの自体的ないし必然的な属性を伴いその存在が発見されている。そして聖霊を聖霊として理解できるのは、それまで聖書に親しんできたからである。超越的なものとの人格的な交わりは自然諸科学によっては決して理解できず、聖書の言葉に習熟することが求められる。
アリストテレスは怒りや欲望や嫉妬、憐み等の感情や情念などの自ら選ぶことなしに発動するパトスはその背後にそれを感受する潜在力、態勢が前提にされており、その力能が宿る心魂の実力としての習慣づけられた態勢があると主張する(Nic.Eth.III)。そして培われた待機的な態勢は外界からの妨げがなければ、その実力どおりの行為が遂行される。人格的には感受態(パトス)に対し良い状態、悪い状態と言いうるそのような態勢があり、それが何らかの感受力能を形成し、それに応じて生起する感受態にも差異が生じ、その基礎に感受力能を構成する習慣づけ、態勢(hexis, habitus)が貢献している。人格的に有徳な人間とはその態勢がパトスに対して「良い態勢」にある者のことだと言う。正義なひとは怒らないのではなく、怒るべきときに怒るべき仕方で怒りが湧いてきて、等しさを分配することのできる心魂の態勢にあるひとのことである。
イエスはアリストテレスの有徳性の分析、即ち態勢と感受態の分析に賛同するであろうことをここで簡単に確認する。イエスは彼の力ある業を見てついてくる群衆が、「飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て深く憐れんだ」と報告されている(Mat.9.35f )。彼に憐れみという感受態が発動したのは、それを感受するその力能が涵養されており、憐み深さとしての力能が彼の心魂に宿っていたからである。それは彼の態勢が神と隣人への愛という状態にあったからこそ生じた。その愛のもとにはひとは神の子となるべきものであるにもかかわらず、闇の中を彷徨っているという認識が憐みの発動を助けている。そこに常に聖霊の注ぎがあったとしても、少なくとも人間的にそのように語ること、分析することは許容されよう。イエスは敵をも愛する態勢にあったからこそ、迫害する者を祝福して呪わず、 「喜びそして喜べ、天における汝らの報いが大きいからである」と言うことができたのであろう(Mat.5:12)。
アリストテレスにおいては有徳な者はいかなる犠牲を払おうとも心から有徳な行為を遂行することを喜ぶ者のことであった。恐れや周囲の空気の察知からなされる外面的な有徳的な行為はそのようなものとは看做されなかった。心の内側をこそ問う。イエスは神の言葉「われは憐れみを欲し(eleos thelō) 、犠牲を欲さぬ」(Mat.9:13, 12:7, Hosea6:6, 1Sam.15:22, Prv.16:7)に立脚し、ユダヤ教の改革者として律法をラディカルに解釈し、律法遵守を神への愛と隣人への愛という二つの戒めの遵守に収斂させる(Mat.22:36 )。そして、それは、外面的な行為、例えば施しをしたか否かとは異なり、愛したか愛さないかに関しては、直ちにはひとの目には明らかではないのである。それを動機づける心魂の実質こそ、つまり神と隣人への愛があるか、その態勢においてあるかということが問題にされている。外見上同様の有徳な行為に見えても、その動機が帰属する心魂の態勢が有徳でない限り、それは有徳な行為ではない。心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。
そしてイエスはその心には「倉」と呼ばれる習慣づけられた態勢のあることを指摘する。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとせよ。木の良し悪しは結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、汝らは悪しき人間であるのに、どうして善いことが言えようか。ひとの口からは、心にあふれていることが出てくる善いひとは、善いものを入れた倉から善いものを取り出し、悪いひとは、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(Mat.12:33-35)。
ここで「倉」とはここでは培われた心魂にしまわれている態勢以外のことではない。イエスのこの考えはアリストテレスの節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている有徳な人物と平行的である。その行為の美しさ、立派さ、適切さそれ自体に基づき、正しく、勇気のある、そして節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている(Nic.Eth .III11.1116a10 15, b30 )。
なお、イエスの譬えによる神の国の告知に続くまとめの発言はアリストテレスの「実践知、賢慮(phronesis)」に対して親和性を持つ。 「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」 (Mat.13:52 )。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づける、即ち行為することができる一家の主人に似ていると、この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。アリストテレスの実践知者は生全体の目的構造との関連において、個々の文脈において或る有徳な行為を最善と認識し選択する心魂の力能ある態勢である。そこでは彼は個々の現場でそれ自身として喜びを伴い選択する者のことである。
山上の説教が聖霊に対する言及なしに、良心に訴える言葉の力のみによって展開されていたことを思い起こそう。彼は背後に神の子としての明確な自覚のもとにあったが、対人論法により各人の良心に訴えた。彼はその語りのなかに「権威ある者のように」、言葉だけではなく、心に偽ることなく行為を伴うそのような信頼感を醸成する者として語った。イエスは道徳的次元に留まり聖霊への言及なしにひとの心魂の態勢として良き木について、真の預言者について理解されると看做したに相違ない。
以上のように、イエスの言動はこの一般分析において説明されるであろう。彼は、哲学者のように人間類型の分析をするのではなく、恐れや自らの保身と利益にしか目のゆかない者に、「健康な者は医者を要せず。ただ病いある者これを要す。わたしは正しき者を招くためにではなく、罪人を招きて悔い改めさせるべく来た」(Luk.5:31 )と呼びかける。このイエスの言動において明らかなこととして、神の子であるはずの同胞のユダヤ人そして人間がこんなに悲惨であるはずがないという認識のもとに、彼は罪人の心魂を癒し、義人、思慮ある者、喜ぶ者を生みだすべく、罪人への憐れみの発動が恒常的であったことである。
5結論
このような聖霊に訴えることのない人間的なまた自然的な分析を、これまでの彼の言葉の引用の数々が保証するように、イエスご自身否定されることはないであろう。イエスは人々の日常の労苦、悲しみそして喜びをご存じである。山上の説教はそのただなかでユダヤ人の現実に身をおきつつ語りかけられ、ご自身が生命をかけて実現された。われらは少なくとも一つの事例を持っている。その彼が「一日の悪はその日で十分である」として、明日を煩わないように天を仰ぐように招かれたのである。わたしどもはここまで聞いて、再び立ち上がり、歩みだす。狭い門とそれに通じる狭い道というのは信仰の道であり門であったのである。イエスご自身が「生命であり道」であり給う。われらは山上の説教のうえに生命の迸りのなかで真理の道を歩みぬかれたその主と共に、その主の岩盤のうえに生を築くよう招かれている。