新しい生命―敵の罪を担うキリストを仰ぐ―
日曜聖書講義2022年10月23日
新しい生命―敵の罪を担うキリストを仰ぐ―
聖書
「求めよ、さらば与えられん、探せ、探せば見つかる。戸を叩け、開けてもらえる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、戸を叩く者には開かれる。汝らの誰かが、パンを欲しがるおのが子に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、汝らは悪い者でありながらも、自らの子供には良いものを与えることを知っている。まして、汝らの天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、汝らも人に為せ。これこそ律法と預言者である」(Mat.7:7-12)。
「主の御手が短くして救いえざるにあらず、その耳が鈍くして聞こえざるにあらず。ただ汝らのよこしまなる業、汝らと汝らの神とのあいだをへだてたり、また汝らの罪そのみ顔を覆いて聞こえざらしめたり。そは汝らの手は血にて穢れ、汝らの指はよこしまにて穢れ、汝らのくちびるは偽りをかたり、汝らの舌は悪をささやき、その一人だに正義をもて訴え真実をもって論じるものなし」(Isaiah.59:1-4)。
1はじめに
求めること、これはわれらの側からの天国へのアクセスである。神の側からすれば、既に天国の門は開いている、「戸を叩け」とガリラヤ湖畔で仰るキリストご自身がその後ゴルゴタで戸を開けたが故に。ひとは神との和解にキリストを介して参入する。われらは既に開けられた戸を叩くのである。キリストは罪と死に勝利する福音を歴史のなかに打ち立てられた。
律法ではなく福音を聴いていたい。これは心地の良いものに包まれていたい、たとえ外界がどのようなものであっても、という単に自分にとって心地よければそれでよいという身勝手、自己中に過ぎないのではないのか。過酷な現実、不都合な真実を正面から見据えるそのような心の強度をもたない者が陥る自己欺瞞なのではないか。ひとは信仰の招きにそのような懐疑を提示することであろう。しかし、この懐疑は、信は願望にすぎないという前提のもとに遂行される。この前提こそ疑われてよい。そのように信を捉えるとき、自家中毒となり蛇の自己食尽に陥るであろう。
2われらの外に歴史のなかに打ち立てられた福音
福音は御子においてわれらの心の外に打ち立てられたわれらの救いである。「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。それは信によってのみ接近でき、受入れることのできるものである。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。信じることによってしか福音には接近できない。その内容はあのまことの人間ナザレのイエスはまことに神の子キリストであるということの信である。神の子が受肉しその言葉に偽りがなくその言葉と働きが完全に合致していた唯一の完全な人間が歴史上出現した。
「ことばは肉となった」(John.1:14)。神の前の真理すなわち言葉で表現されうる神による創造に伴う人間への認識と意志が歴史のなかに実際に働きとして打ち立てられた。「肉」とは身体をもった自然的存在者の生の原理のことを言う。生物学が解明できるそのような心身のことである。この自然性は生命を育(はぐく)む地球の構成物からなっている。素材はこの惑星から得られている。この地上のものがそうであるように誕生と成長があり、衰退と死滅がある。
イエスは彼自身がそうであるように、誰もがこの自然性の与件のもとで「天の父の子となる」ことができると言う。「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。敵をも愛することを介して、天の父の子となることができるという。天の父は太陽を昇らせ雨を降らせすべての人々を育んでいる。山上の説教は野の百合、空の鳥を養う自然の父の比喩により、聴衆にこの自然性のもとにある人間はすべて敵を愛することにより天の父の子となることができるという。イエスはそれを「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信仰に招くことにより、敵をも愛することができるようになると教える。
人間にとって最も困難なことであると思われる敵をも愛することをイエスは言葉で教え、ご自身の生涯を通して実現された。イエスは十字架上でその生を完遂された。「既に昼の十二時ころであった。全知は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よわたしの霊を御手に委ねます」。こう言って息をひきとられた」(Luk.23:44-46)。彼はこの死により敵をも愛することを介して人類の救済の道を示された。ヨハネ福音書でこう報告されている「神はその独り子をお与えになったほどに、世界を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。神が御子を遣わされたのは、世界を裁くためではなく、御子によって世界が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世界に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるためである」(John.3:16-21)。
敵、闇、悪に対してひとが取りうる態度は自らが闇と悪に取り込まれていたことを認め悔い改め、光を求め世界を救うべくひととなったイエスを信じることであるとイエスは言われる。自らが闇のなかにおり、敵を憎むなどの悪しき行いに身を任せている限り、悪から逃れることはできず、御子と共に生きることもできない。神は誰一人闇の中に滅びることのないように世界を救うべく御子をまったき人として自然性の肉において遣わされた。そのナザレのイエスの教えと行いによって、ひとに救いの道が示された。
ひとはイエスを救い主と信じることにより闇と悪から逃れられると教えられる。この信じることが第一に「真理を行うこと」である。神の意志を行うこと、それは信じることである。ヨハネにこのように報告されている。「イエスは答えて言われた、「まことにまことに私は汝らに言う。汝らが私を探しているのは、徴をみたからではなく、パンを食べ満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の生命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子が汝らに与える食べ物である。父である神が、人の子を定められたからである」。そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは彼らに答えて言われた。「神がお遣わしになったそのひとを信じること、まさにこれが神の業である」」(John.6:26-29)。神と関わる唯一の道はイエスを救い主と信じることである。そして信じるとき、その信じることそのことが「神に導かれてなされた」と語られる。信じることは信じせしめられること、即ち神の業・働きでもある。信じるということはそのように神の光のなかでその光のなかにいることを受け取ること以上のことではない。これは循環に見えようけれども、この地球も宇宙の一切も神の創造の業である限り、神の創造と導きから逃れることはできない。そしてその神がわれらを愛されたのである。預言者ヨナが神の御前を逃れてタルシシ即ち世界のはてまで行こうとしたが、くじらに飲み込まれて吐き出されたように、創造者と救済者の働きから逃れることはできないのである。信じることは自らの人生がこの栄光の主神によって導かれていることを信じることから始めるしかないのである。
3新しい生命
そこで冒頭の問いに戻る。信じることは心地よい繭のなかに身を隠して安心していることなのではないか。それは見たいものだけ見ている自己満足、自己欺瞞なのではないか。ひとはアドヴァイスするであろう、「現実を見よ、自ら力をつけ頼らず生きよ」、と。信仰は弱い者たちの隠れ家であっても、人類の歴史は生物の世界がそうであるように弱肉強食の自然の力のもとに服しているのではないのか。力関係により弱い者にとっては自らを滅ぼそうとする強い者が敵なのであり、自ら強くなる以外に滅ぼされてしまうのではないか。
確かに自然法則は相対的自律性をもって歴史を導いている。しかし、自然も神の創造の業である。イエス・キリストにおいて顕された神の福音、信じる者に救いをもたらす神の力能はその自然性よりも根底にある神の霊即ち神との愛の交わりのなかでの新しい生により希望のうちに光のなかを歩みだす。ヨハネは言う、「その光は、まことの光で、世界に来てすべての人を照らすのである。ことばは世界にあった。世界はことばによって成ったが、世界はことばを認めなかった。ことばは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、ことばは、自分を受入れたひと、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は世界によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(John.1:9-13)。
ひとは自然性にその都度死に、信じることを介して新たに神によって生まれること、そこに新しい生がある。これは常住坐臥のことであるが、一度自らが闇のなかにいることを認め、そこに死に、闇に打ち勝つ光があることを認めることにより、光のなかを歩みだす。そのとき、すべてが変わって認識される。これまで自らを滅ぼそうとしていた敵が隣人となる。神により愛されているひとであったことを知る。光によって目が見開かされるのである。
われらは自らの信仰が神の促しによるものであることを信じる。しかし、それは導かれていることへの願望のなかでの信仰ではない。循環を断ち切るものが「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)である。神はご自身の義をイエス・キリストの信を媒介にして信じると神が看做す者たちに知らしめ、そしてイエスの信に基づく者を義としていたまう(Rom.3:22-26)。信に基づく義が新しい人間のその都度の刷新である。
4聖霊の執り成し
パウロは言う、「キリストに属する者たちは自らの肉を情と欲とともに磔てしまった」(Gal.5:24)。「私にはわれらの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものがあってはならない。この十字架によって世界はわたしに、私は世界に対して磔られてしまった」(Gal.6:14)。これらの過去形は十字架上の出来事において神が今・ここに生きるわれらの古き人間の死を理解していたまうということを、時空を風のように自由に飛び越える聖霊がわれらの心のうちにあって、呻きつつ執り成し、伝達していることを示している。聖霊の媒介なしに、キリストの出来事における神の認識はわれらに適用されていると受け止めることはできない。
パウロは言う、「われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っている。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む。
しかし、御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して(kata theon )執り成していたまうからである」 (Rom.8:22-27)。パウロは結論する、「どんな被造物もわれらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないと確信する」 (Rom.8:39)。
結論
パウロはこの途上の生を永遠の生命のなかに位置づける。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。ここでも生命から死が位置付けられている。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担いたまうたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに永遠の生命を担っていたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。受肉はどこまでもわれらへの憐みである。
新たな生命には死が必要であること、これは罪の贖いにとって不可欠のプロセスである。そして新しい被造物はキリストの生命を着て、死すべき身体が生命に飲み込まれることによって成就される。父なる神はその現場におり罪人との間の籬(まがき)、障壁を取り去るのに十分なものであるとして御子と共にあった。それはちょうど光が強ければ強いほど闇を消し去るように、聖であればあるほど穢れを清めるように、善の極においてある比較を絶した福音は人類すべてを罪悪から贖いだす力能を持つ。
贖われた者は自らがキリストにより愛されたことのこの証を立てる。彼がそうしたように、迫害する敵をも愛する。もうすでにこの世界にあって、信仰と希望においてこの世にない者たちであることを証明する。
われらも右の頬を打たれたら左を向け、隣人の罪を自らの十字架として身代わりに担って歩むが、それはキリストが身代わりにわが罪を担われたからである。われらは喜んでそのキリストに軛を繋がれての新たな被造物として共に歩む。