狭き門―「わたしは道であり、真理であり、生命である」―
狭き門―「わたしは道であり、真理であり、生命である」―
日曜聖書講義2020.11.29
1テクスト
「汝らは狭い門を通って入れ。実際、滅びに導く門は広くそしてその道は広々としている、そしてその門を通って入り込む者たちは多い。生命に導く門は何と狭くそしてその道は狭くなっていることか、そしてその門を見出す者たちはわずかである。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良き木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。(Mat.7:13-23)。
2滅びということ
ひとはここで初めて山上の説教のなかで「滅びに導く門」そしてそこを通る者たちの人数のことを聞く。「天国における最小の者」(5:19)や「燃えるゲヘナに投げ込まれる」(5:22)という表現はこれまでも見られたが、心魂が滅びにいたることそしてここでは「その門を通って入り込む者たちは多い」と語られている。前の表現はこれまで警告として捉えることができたが、この「多い」という量化表現は警告以上の事実が告げられているとしか読むことはできないように思われる。イエスは偽りを言う方ではないはずである。ひとは今日までこの言葉をどれだけ真剣に受け止めてきたのであろうか。「わずか」や「少ない」の数として、例えば、三十人出席するはずの会合で、十人や数人かの出席者をそう理解するのであろうか。なにかアブラハムによる神に対するソドムの執り成しを想起させる。彼は神からソドムに義人が五十人いれば滅ぼさないという言葉を引き出し、十人まで値切っていく。それほどの義人もおらず、ソドムは焼き尽くされてしまった(Gen.18)。それとは逆に救われる「わずか」により、五人を十人にという理解をお願いしたとき神が聞いてくださることはあるのであろうか。
福音書では他にも、終わりの日に「羊の門」を通る者と「山羊の門」を通る者とに分けられるとも報告されている(Mat.25:31-46)。「永遠の刑罰」(25:46)を受ける者たちは自ら光を避けるように山羊の門に向かうのでもあろう。山上の説教の狭き門においては人類のうち滅びる者たちが救われる「わずか」な者たちよりも多いという明確な主張がなされている。明確に救われる者と滅びる者が量化により対比されている。「わずか(oligoi)」な者だけが救われるという。これは人間の聞くことのできる最も厳しい現実認識の言葉の一つであると言える。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。イエスはモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。これまでわれわれは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。その説教において乗り越えが企てられている。
山上の聴衆のなかにはここまでは納得しつつ彼の教えにアーメンを語っていた人々がいたことであろう。しかし、この狭き門の箇所で躓き、これ以上ついていけないと思うひともいたであろう。そして今日もいるであろう。救いと滅びがあり、滅びの門を入る者たちが多いと語られている。この厳しい言葉を突き付けられ、もはや天国と地獄を支配する神などいないと開き直ってしまう者もいたことであろう。Narrow and straight roadを歩きぬく健脚にしか、救いは訪れないのではないか。道徳的に強い者たちだけが、或いはこの説教に含意され、指し示されている意志堅固な信仰の勇者だけがこの狭き門から天国に入れるのではないであろうか。弱者には到底難しい歩みなのではないだろう。
3広い滅びの道への幾つかの応答
福音は喜びであったはずである。しかし、その前に旧約の厳しい試練のときを必要としていたことを思いおこそう。やはりここでもナザレのイエスは旧約の伝統に則りつつも、しかし、それを内側から破る闘いのなかでこれが語られたことに思いおこそう。広い道は「偽預言者」に重ねられており、イザヤやエレミヤら真の預言者たちが神からの言葉として預かり、証言していたメシア(救世主)こそ狭いまっすぐな道を歩みぬいたナザレのイエスであり給うた。やはりここにこの救われる「わずかの者たち」を理解する鍵を見出すしかないと思われる。
アブラハムが神に義人の数を値切ったように、イエスご自身が山上の説教を語り、それに即して生きまた死なれた。それによって、旧約から新約にバトンが渡された。この「狭き門」は旧約的な前提のもとでその人数が語られたのであり、福音の啓示のもとに神はその理解を変えてくださるのであろうか。滅びる者が多いというこの表現に出会いつつも、神学においてはしばしば万人救済論が展開されてきた。その典拠は神が福音の啓示行為において知らしめていることがらは人類すべてにその救いの手を差し伸べているということである。「神はご自身のひとり子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:16)。イエス・キリストにおいて知らしめられた神の福音は彼を磔る敵をも含め、すべてのひとに差し向けられていることは明らかである。パウロは「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言する。
しかし、福音を差し向けることと福音を受け取ることは異なる。一方でパウロはこの神の啓示行為を報告しているが、他方、自らの救いに関してはイエス・キリストにおいてまた彼を介してほど知らしめられてはいなため、彼にとっては常にキリストにある救いを信じ、受け取ることは実質的なことである。彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」(Phil.2:12)と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度自ら信に立ち返りまた他に命じる。
個々人の義認と救いは福音においてほど誰にも明白には知らしめられてはいない。それゆえに、自らがイエス・キリストの福音を介して神に選ばれ、招かれていることを信じることは常に実質的である。万人救済論は正しいかもしれない。しかし、たとえこのように万人救済が神のご計画であったにしても、少なくとも明らかなこととして、永遠の現在にいます神による選びは二千年年前にナザレのイエスを介した福音ほどには明確に個々人には知らされてはいない。
日曜の話を取り次ぐ者は「狭き門からはいれ」という厳しい言葉に出会い、もはや立ち尽くすしかないと感じる。永遠の生命か滅びかについて語る資格のある者は誰かいるであろうか。もし偽りを語り躓かせた場合に、どのようにも責任を取ることができないと感じる。この春からずっと山上の説教を学んできたが、少なくともわたしは自らが道徳的次元のみにて生きるとするなら偽りであり、偽善者のままであることを告白せざるを得ない。もし、救いと滅びが道徳的次元において決着がつけられるとしたなら、絶望しか残されてはいない。これは自分には確かであると言える。
山上の説教においては、しかし、道徳次元が内側から破られていた。彼は「まず神の国とその義」を求めるように促し、常に万物の創造主であり鳥や花々をもケアする神の憐みのもとに生きることを教える。まずひとに求められていることは神との関係を正しいものにすることである。そしてナザレのイエスが山上の説教それ自身を自ら生き抜くことができたのは自らが神の子であることへの信の従順を貫くことによってであった。善行と悪行の反対対立の枠の中でのモーセ律法や道徳とは関わらない心魂の最も根源的なところで生起する信に基づく正義の世界が開かれている。
それ故に自分のできることは、できる限り聖書のメッセージを正確に理解するようお手伝いすることができるだけだということをご理解いただかねばならない。登戸学寮で聖書の話をするようになった理由は少なくとも二つある。わたしは長年言ってみれば半世紀、聖書の中心的メッセージに理解できないところ、矛盾があるのではないかと思い学んできたが、無矛盾であることを自分なりに納得でき、安堵した。そのゆえに、自分は少なくとも自分の学問的良心に偽ることなしに話ができるであろうということ、これが一つである。もうひとつは「探求と発見」のところでお話したように、自分なりに小さな回心の経験があり、そこに立ち返るたびに喜びをいただくので、喜んでいる限り、そう間違わないであろうと思い、一週間常にそこに立ち返ることをしてきたことである。
このような事情のもとに、日曜ごとに聖書のメッセージをお伝えしているが、みなさんそれぞれが自分の人生を通してそれぞれご判断いただくしかないと感じる。語る者が偽りであり、偽りを語る場合、イエスが言うように、その否定的な影響はより大きなものになっていくだろう。彼は警告する、「彼ら[パリサイ人]の業に即して行うな、彼らは言うだけで行うことがないからである。彼らは人々の肩に負いきれない重荷を結び付けそして担わせるが、彼らは自ら自分の指によってその重荷を動かそうとすることもない」(Mat.23:3-4)。
わたしどもはこのような緊張のときを週に一回経験している。皆さんの中には聖書の世界が日常生活とのあまりに乖離しており、折り合いのつけがたさを感じているひともいることであろう。しかし、翻って反省するとき、ひとの日常の営みも聖書のメッセージが何らかの示唆を与えるそのような枠のなかで遂行されていることがわかる。イエスは言う、木はその生み出す実によって知られる。そしてその実がいかなるものであったかは、最後の日に明確に知らされる。これはとても強い人間理解の主張である。しかし、われらは日々正義をめぐって争い、またその争いを克服すべく和解と執り成しを提案しながら、家庭において、地域社会で国家においてまた国際社会において暮らしている。この繰り返しが人間の営みであると言ってもよい。
社会とは個々人の営みを調整するシステムである。もちろん人間個々人は社会に完全に還元されることはなく、社会の制約のなかで個々人が自らの責任ある自由のなかで自らの人生を築いている。そこでは想像力や構想力がはばたき、個々人の才能が輝きさまざまに発揮されることもあるであろうし、良心が社会との共同の知識としてではなく、神との共知として働くこともあるであろう。明確なことは、ひとは正義と憐みの緊張と循環のなかで生きており、個々人の心魂と社会双方にとって基本的な等しさの実現から切断されることはないということである。ひとは怒るとき不当な仕打ちを受けたからである。ひとが憐れむとき理不尽で不当な状況に陥っているひとに向けられる。正義とは憐みとは何等か等しさを取り戻すことであった。
イエスは山上の説教において正義と憐みを天国との関連において位置付けられたのである。終わりの日に一切が明らかとなり、正義と憐みが実現されるこのスケールの大きい考察範囲の広い主張は、日々個人的に争い、そして何らか調停を試みているという自らの現実を認める者たちにとっては、唯一の希望として受入れられるかもしれない。一つの可能性であることには相違ない、しかもそれは救いか滅びかの二者択一のなかで提示されている。人々が日常生活で苦労しているのは、自らの欲求をもちながらも、それを野放図に開放するとき、社会からの制裁にあうことは経験しており、他方そのような者たちから被害を受けることも経験しており、課題はそのような循環を抜け出す救いを求めるかということに収斂されるからである。
イエスは人々の日常の労苦、悲しみそして喜びをご存じである。「空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養ってい給う。汝らは彼らよりも遥かに優ったものであるのではないか。汝らのうち誰が煩うことによって自分の身の丈に一キュービット足し増すことができるのか。また衣服のことで汝らは何を思い煩うのか。野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない」(Mat.6:26-28)。確かに永遠の生命に招かれている者はホモサピエンスの総数のなかで「わずか」かもしれない。ただ、その「わずか」「少数」の総数は具体的に知らされてはいない。そして自分がその選びのもとにいるかどうかも明確には知らされていない限りにおいて、それを信において乗り越えることができる。「疲れたる者われに来たれ」とイエスは招き給う(Mat.11:28)。「探せ探せば見つかる、求めよさらば与えられる。叩け、叩けば開けてもらえる」と励まされてもいる。
4「偽預言者」に抗して真の預言者が指し示すもの
以上述べてきた懐疑や絶望に対抗する一つの理解の鍵は「偽預言者」と真の預言者の判別である。狭き門と広き門は偽預言者と真の預言者を判別する文脈で提示されている。エレミヤは偽預言者をこう記述している。「主はわたし[エレミヤ]に言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって汝らに預言している。・・彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる」」(Jer.14:14-16)。
偽預言者たちは、自己欺瞞の中で楽観的な預言をする。エレミヤは主の言葉として報告する。「預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和」「平和」と言う」(Jer.6:13-14)。現代も欺きと偽りに満ちている。為政者たちは都合のいいフェイクニュースを流布し、人々を扇動する。いつの時代も偽預言者は存在する。最近自分でもおかしくなるのは、コロナウィルスに対する楽観論に触れると、ふと心の緊張がゆるむことである。わたしどもは百年ぶりにパンデミックのさなかにいる。そうか、感染してもファクターXの故に日本では重症化率、致死率が低いのかと思うと楽になる。医学者たちは今真相を明らかにすべく日々探求している。そしてこの世界に住んでいることの喜びは、ひとの身体をも含めて、世界と宇宙には明確なロゴス(理)があることである。真実を解明し知ることができれば、恐れからも解放されるのである、たとえそれがバッドニュース、不都合な真実であったとしても。それは真実である以上受け入れざるをえないからである。福音は懐疑のつど、困惑のつど、真であると信じるかが問われている。
イエスは偽りを語る者たち、偽預言者たちが、ひとびとをして広い滅びの道に導くと警告する。彼らは「汝[イエス]の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げた」こともあったであろう。しかし、イエスは終わりの日に彼らを偽りであると断罪される。「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。真の預言者は神の言葉を預けられる者たちである。エレミヤはこう告白する。「主よ、汝はわたしを惑わされましたそしてわたしを圧倒し勝たれました。わたしは一日中ひとに嘲られ、笑い者とされています。わたしは語り呼ばはるごとに、「暴虐」、「残虐(しいたげ)」と宣べ伝えます。主の言葉は日々にわが身の辱めとなり嘲りとなりました。しかし、もしわたしがもはやかさねて主のことを述べずまたその名によって語ることをしないと言うものなら、主の言葉はわが心にありて、火のわが骨のうちに閉じこもりて燃えるが如くなれば、忍耐(しのぶ)に疲れて堪え難し」(Jer.20:7-9)。このように自らの意に反してでも主に用いられ主の言葉を預けられたひと、人々の耳に痛いことを言わざるを得ないひと、それが真の預言者である。
5預言から福音へ
しかし、預言のときは過ぎ、福音のときが到来したと宣言されている。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。洗礼者ヨハネは最後の預言者としてイエスに出会いイエスを預言の成就として旧約から新約への時代の橋渡しとなった。マタイはこう報告している。
「ヨハネはパリサイ派やサドカイ派の多くの人々が彼の洗礼を受けにきたのを見て、こう言った。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「われらはアブラハムを父に持つ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこの石からでもアブラハムの子たちを造ることがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう。そして手に箕(み)をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われることであろう」(Mat.3:7-12)。
最後の預言者が水による悔い改めの洗礼を授け、「荒野に呼ばわる声」として「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mac.1:3)と言う先人の預言者イザヤの言葉を生命をかけて遂行する。それによって新たな時代がくる、火の試練と聖霊による洗礼の時代が来る。
イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子に真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、彼[イエス]はモーセとすべての預言者から初めて聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
真の預言者は苦難の預言を通じてそこからの救い主イエス・キリストを指し示していたのであった。偽預言者たちはイエスをキリストとして識別することのできない者たちであり、彼の弟子であろうとする者は分かりの悪い者たちによる迫害の道を歩まざるを得ないのである。狭き門とそれに通じる狭き道を預言者たちが証していたのであった。イエスご自身がモーセ律法を急進化した山上の説教を語りそしてそれをメシア(救世主)として生き抜いた。しかも、彼は信の従順のみにて十字架を忍び父のみ旨を成就した。それ故に新約としての信に基づく義の道を切り開かれた。狭き門に通じる狭き道とは実はイエスの御跡に従うことに他ならなかったのである。彼に信の従順のもとについていくその信仰こそ求められていたのである。「誰かわたしの後に従いたいと思うならば、自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」(Mat.16:24)。イエスご自身にとって自ら担うべき十字架とは全人類の罪であった。父なる神はその担うことを認可し、ご自身もそこに臨在された。
その暗示のなかで、「生命に導く門は何と狭くそしてその道は狭くなっていることか、そしてその門を見出す者たちはわずかである」と言われていた。イエスは言われた。「ひとの子がくるとき、地上に信仰を見出すであろうか」(Luk.18:8)。どんなに足弱であっても、弱りはて、頽(くずお)れるとき、「信じます。信なきわたしを助けてください」、「わたしを憐み給え」と縋ることはできるのではないであろうか(Mac.9:24,Luk.18:39)。そしてそこには主の次の約束の言葉を信じることも含まれている。「汝ら心を騒がすな、神を信じまたわたしを信ぜよ。・・わたしは道である、真理である、生命である。わたしを介さず誰も父の御許に至る者はいない。・・わたしは父に請う。父は他に助け主を与えて、永遠に汝らとともにおらしめ給うべし。これは真理の御霊なり。・・わたしは汝らを遺して孤児とはせず、汝らに来るなり」(John.14:1-18)。
6結論
わたしどもはここまで聞いて、再び立ち上がり、歩みだす。正義と憐みの両立をめざす狭い道を歩みだすには、ひとには基本的な心構えが必要となる。狭い門とそれに通じる狭い道というのは信仰の道であり門であったのである。イエスご自身が「生命であり道」であり給う。イエスの歩みに従うという信仰は幼子にも可能であった。そこでは「わたしは汝らを遺して孤児(みなしご)とはしない」と約束されており、聖霊の助けをいただき、転びまろびつしつつも、われらはその助のもとに狭くまっすぐな道を歩むことができるようになる。したがって、この箇所においても、山上の説教を生き抜かれた主に従うかと問われている。誰でも一つの明確な方向に歩みだすことはできる。たとえ足弱で人々から遅れをとっているように見えても、見えない助け主がわれらの二番底においてわれらを呻きつつ支え、慰め、励ましておられることであろう。