良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢と恩恵―

良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢(hexis,habitus)と恩恵―

                    日曜聖書講義2020.12.6

1テクスト

 羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良き木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

 

2 山上の説教が展開する人間理解

 この箇所における良い木と良い実の話が山上の説教のなかで実質的には最後の教えである。それに続く「これらのわが言葉を聞きそして行う限りの者は皆」においては、これまでの教えのまとめがなされている。説教を聞いても行いを伴わない者たちは地獄の火に投げ込まれるという警告を聞いてきた。そして先週は生命に至る者の数は「少ない」という最も厳しい言葉をも聞いた。そこでは生命に至る狭い道と狭い門と滅びに至る広い道と広い門の識別が真の預言者と偽預言者との対比において展開されてた。「汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう」と語られ、真の預言者と偽の預言者はその人生がもたらすものにより峻別される。

 この議論を支えるものとして木と実の譬えが用いられる。「良き木は悪しき果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良き果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。偽預言者が良き結果を生むことができないということは理解できるように思われるが、天候不順で良き木が悪しき実りをもたらすことなどは考慮にいれられていない。木と果実の関係は必要十分関係として展開される。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、善と悪は交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されており、そう主張されているように見える。

 ここでの問いはこの比喩は人間の実際の生活にどこまで適用されるのであろうか。ひとの努力の余地は残されていないのであろうか。生まれから善きものは最後まで善く、そうでない者はそうでないとはいかにも不条理に見える。一つの可能な応答は経験ある優れた果樹医師は木を見てその果実の良し悪しを予見できるであろうように、ここでの善悪を神ご自身の認識を伝えているというものとなろう。ひとには見えないが時空をはじめ宇宙を一切統べ治めておられる神はそのように認識しておられることであろう。今は論じることができない予定論等にそのような力能ある方として神は論じられる。

 福音は喜びであったはずである。いつも語るように、神の意志はイエス・キリストにおいて最も明確に知らされていた。闇の中に光が輝いたのである。闇は光にうちかたなかったのである。われらはこの闇と光の輝きのなかで責任ある自由のもとに自らの人生を構築している。

 今ここではその福音の前に旧約の厳しい試練のときを必要としていたことを思いおこそう。やはりここでもナザレのイエスは旧約の伝統に則りつつそれを急進化、純化そして内面化しつつ、厳しさを際立たせたうえで、しかも、それを内側から破る闘いのなかでこれが語られたことに思いおこそう。広い道は「偽預言者」に重ねられており、イザヤやエレミヤら真の預言者たちが神からの言葉として預かり、証言していたメシア(救世主)こそ狭いまっすぐな道を歩みぬいたナザレのイエスであり給うた。今回と次回は山上の説教のまとめとして、誰もが善と悪を識別しつつ生きる道徳的次元と善悪の人間的な認識を超える神の働きめぐる宗教的次元即ち信仰の次元についてどのように理解すべきかを諸説を検討しながら考察したい。これまでこの聖書講義では信の根源性のもとに包括的全体的人間像を心情倫理と責任倫理の統一などをめぐって展開してきたが、山上の説教に限定したさいにどれだけのことが語れるかを見究めたい。

 

3預言から福音へ

 狭き門と広き門は偽預言者と真の預言者を判別する文脈で提示されていた。エレミヤは偽預言者をこう記述している。「主はわたし[エレミヤ]に言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって汝らに預言している。・・彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる」」(Jer.14:14-16)。

 偽預言者たちは、自己欺瞞の中で楽観的な預言をする。エレミヤは主の言葉として報告する。「預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和」「平和」と言う」(Jer.6:13-14)。現代も欺きと偽りの先導者たちを巷に見出すことは容易である。自分自身が穢れと悪しき思いに満たされた偽り者であることは、道徳的次元に留まる限り認めざるを得ない。

 イエスは偽りを語る者たち、偽預言者たちが、ひとびとをして広い滅びの道と門に導くと警告する。彼らは「汝[イエス]の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げた」こともあったであろう。しかし、イエスは終わりの日に彼らを偽りであると断罪される。「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。真の預言者は神の言葉を預けられる者たちである。エレミヤはこう告白していた。「されど、主の言葉わが心にありて、火のわが骨のうちに閉じこもりて燃ゆるが如くなれば、忍耐(しのぶ)に疲れて堪え難し」(Jer.20:9)。このように自らの意に反してでも主に用いられ主の言葉を預けられたひと、人々の耳に痛いことを言わざるを得ないひと、主イエスを指し示すひと、それが真の預言者である。

 しかし、預言のときは過ぎ、福音のときが到来したと宣言されている。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。洗礼者ヨハネは最後の預言者としてイエスに出会いイエスを預言の成就として旧約から新約への時代の橋渡しとなった。マタイはこう報告していた。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-11)。

 イエスご自身、こう語った。「人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良き木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼ら[偽預言者]の果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう」。

 最後の預言者ヨハネおよび福音を今・ここで持ち運んでいるナザレのイエス、彼らふたりとも良い木は良い実を結び、悪しき実を結ぶことがないと言う。自然界の法則に訴えて、自然物のひとつである人間に適用されている。一切を正確に知る方は本物と偽物、善と悪これらを明確に判別しておられる。これは道理ある主張のように思われる。

 

 4心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―

 ここでのただちのチャレンジは救いとは悪しき者が悪しき者でありながら、罪深い者が罪深い者であるままに、恩恵のみにて罪赦されキリストの義を着て神に義人と看做されることなのではないかというものである。もし、この道徳的次元を離れた宗教的主張が偽りであり、溺れる者藁をもつかむたぐいのものであるとするなら、もはや道徳的破産者には絶望に沈むことだけが残されている。古来、信仰義認論であれ悪人正機説であれ、慈悲や恩恵に藁をもつかむ思いですがってきたのではなかったのか。「義人というのはおのれの罪があまりに深く、どれほど深いか知りえないことを知っている人間である」(ルター)や「罪悪深重、煩悩熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし・・法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(親鸞)が語られ、人々を導いてきた。

 或る注解者は、恩恵は山上の説教において展開される「彼の言葉を行う者」に注がれるのであり、イエスは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない」と明言する。U.ルツは言う。「イエスは自分の派遣使命において律法と預言者を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る者である。「わたしの言葉」というのは、このキリスト論的基礎をはっきりと堅持している。しかし、キリストは決して退却の可能性ではなく、「火の中を潜り抜けて来た者のように」(1Cor.3:15)ではあれ、必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。

 この強い主張に対しては、「義の道を歩む可能性を贈る者」としてのイエスの理解が問われよう。「可能性」とは神の前の可能性なのか。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が相互を媒介する働きではないのか、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は聖霊の援けのもとに神の国を一挙手一投足において伝えていたのではないのか。神の前では良き木と悪しき木は知られており、さらには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでの「可能性」はわれらの可能性、善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない。そのことはひとのことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえず、イエスご自身心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが、「可能性」そのものが恩恵により備えられていることを否定することはないであろう。

 立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、このような主張はなされないであろう。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実もよいか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか],Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれらにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して、今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。

 すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、ひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体の分裂なき行為の産出がめざされる。

 ここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。

 ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

 ルターにとっては信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのでないかが問われよう。

 E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれらには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで春から約一年三十回の講義を介して学んできた山上の説教そのものから応答を試みたい。

 

5 カトリックとプロテスタントの和解

 その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体として相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残しているのに対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、先述したルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じることに含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。

 カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。

 

6 少なくとも一人山上の説教を生き抜いたひとがいた

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼はヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行してい。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

(聖書研究の一方法として「歴史的批判的研究」と呼ばれるものがある。これは「歴史学」の枠のなかで福音書相互の分析を介して歴史的実像に迫ろうとするものであるが、方法的前提からして当然聖霊の働きをその行論に要求することはできない。われらはイエスが道徳的次元を内側から破るその力能をそれ自身として捉えたい)。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は、自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。ユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教が行われている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて道徳的良心に訴える言葉だけで理解されるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳である。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊が注がれている救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。

 

7結論

 以上のことは山上の説教の理解において強調しすぎることのない視点のように私には思われる。メシアがここでは言葉の力だけに訴えひととしての本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩んだのである。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

 

 

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