言葉の力能とその働き―奇跡物語序論(その二)
言葉の力能とその働き― 奇跡物語序論(その二)―
登戸学寮日曜聖書講義 2021.1.17
1テクスト
「イエスがカペルナウムに入ると、百人隊長が進み出て彼に嘆願して言う、「主よ、わたしの僕が全身麻痺となり、ひどく苦しんでおり、家で臥せっています」。イエスは彼に言う、「わたしが行って彼を癒してあげよう」。百人隊長は答えて言った。「主よ、わたしは、汝がわが屋根の下にお入りいただくのに相応しい者ではありません。ただお言葉をください、わが僕は癒されることでありましょう。といいますのも、わたしは権威のもとにある者です、わたしのもとにいる兵士たちを持っており、この者に「行け」と言えば、その者は行きます。別の者に「来い」と言えば、その者は来ます。また私の奴隷に「これを為せ」と言えば、彼はそれをします。イエスはこれを聞いて驚いたそしてついてきた者たちに言った、「まことにわたしは汝らに言う、このような信仰をイスラエルにおいて誰のもとでもわたしは見出したことがない。わたしは汝らに言う、大勢の者たちが東からそして西からやって来て、天の国においてアブラハムやイサクそしてヤコブと共に横になり寛ぐことであろう、しかしその国の子供たちは外の闇に追い出されることであろう。かしこでは泣く者と歯噛みをする者がでるであろう」。イエスは百人隊長に言った、「戻りなさい、君が信じた通りに、ことが君に成るように」。そしてその時僕は癒された」(Mat.8:5-13)。
2イエスの権威ある言葉―秩序をうみだすロゴス―
先週から奇跡物語を学び始めた。イエスの癒しや甦りという尋常ならざる働きについて、従来、これらは一般的にMiracleや「奇跡」と形容されてきた。しかし、従来の奇跡理解は自然法則に対する人間の認知能力の視点から記述される所謂不思議な事象、現象についての特徴づけであることを確認した。それに対し、イエスの働きは福音書においてはまず「神の力能・力」という視点から理解すべきであることを学んだ。実際イエスご自身は、神の意志、神が喜ばれることが何であるかのその都度の認識のもとに、その肉にある途上の生それ自身の一言一句、一挙手一投足をその実現に捧げている。
昨年三十回にわたり彼の山上の説教における力強い透徹した言葉を聞いた。その説教においてはイエスは道徳的次元に留まり良心に訴えて議論を展開しており、聖霊の賦与や悪鬼の暗躍が報告されることはなく、さらには「信仰」や「罪」という語句さえ、その派生語を除いて、語られることはなかった。天の父はひとびとの必要の一切をご存じであり、生活一切を「天の父の子となる」(5:45)その目標のなかで秩序づけることが慣習的なモーセ律法の理解を純化させ、内面化させる言葉の力のみにおいて遂行された。「まず神の国とその義とを求めよ」(6:33)というこの世界を突破させる力に溢れた言葉に相応しい行為、働きはいかなるものであるかを考察するときに、それはやはり天国の現実をこの世になんらか持ち来たらす神の力能を顕わすものになると思われる。イエスは端的に言う。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。ここにイエスの言葉と働きに権威がにじみ出ている。万軍の主が常に彼と共にい給うたのである。偽りがないということの最も純粋な顕われをナザレのイエスにおいて見るからこそ、ひとびとは彼のうちがわからあふれ出る「権威」(Mat.7:29)に印象づけられ、信じるにいたったのである。
キリストの「言葉と働き」は常に相互に支えあうものとして新約聖書において報告されている。本日のテクストで、異邦人である百人隊長がイエスのもとにやってきて麻痺で苦しむ部下に対する言葉のみによる治癒を嘆願したことが報告されているが、この治癒物語は権威ある言葉の力を如実に伝えている。そのローマの出身であると思われる異邦人の軍人は権威のもとにあり、部下に生命をさえ賭けるよう命じることができる現実を経験しており、その彼は権威ある言葉を語られそして治癒行為に従事しておられたイエスを見て偽りのない方であることを信じ、憐みを請うたのである。
そもそも宇宙全体が「光あれ」という神の言葉により創造されたことが報告されている。この特異点について今語ることはできないが、言葉は秩序を生み出すほどの明晰性と力能を備えたものだと言うことができる。「ヨハネ福音書」冒頭では神の御言葉が受肉したこと、つまり言葉(ロゴス)が土から造られた自然的な身体とその生の原理である肉において働いたこと(エルゴン)が報告されている。言葉は人間にとって自らが理性的な存在者であることを象徴する脳の一つの働きである。人類の歴史においてしばしば言葉の力がひとびとを一つにし、ひとりひとり何か協働の作業に従事してきた。家ひとつ建てるにしても設計図というロゴスのもとに、大工たちは協力しあいながら、一つの完成に向かう。契約や約束には一つの現実を生み出す言葉の力能(potentiality,power-ability)が備わり、当事者は或る拘束のもとにおかれ実現に向けて相互に力(force)が課せられる。例えば、プロポーズ、結婚の約束がそうである。そこには説得と内側からの納得が信頼とともに或いは信頼のなかで生起してきたのである。暴力は言葉なき、或いは言葉を必要としない身体的な無秩序であるが、言葉は或る事態の生成に秩序をもたらすものである。当然そこにも心魂の根源的態勢である信が、即ち偽りなきまことかが問われている。
他方、言葉の暴力は心魂の内側が秩序をもっていないところから生起する。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それ[不法]は、自らの不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで、自らに対し欺いたからである。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。ここでは擬人化されている不法が自らを欺くよう心のなかで内的言葉で語りかける。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、つまり真の神に祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺き、偽りとなるであろう。真の神は秩序ある力ある神であり、しかも聖書において信実に基づき正義であり正義の果実として憐み深い方であることが報告されているその神のもとに人生を構築するのでなければ、ひとは自覚しているかしていないに関わらず一切が偽りとなるそのようなものである。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。過日、寮生さんから「罪って何ですか」と聞かれました。そのときは一般的に答えましたが、山上の説教を学び終えた今なら「イエス様のようでありえないことです」と応答したいと思います。
心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。イエスは言う、「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。心魂の態勢、構と言葉の質とでも言うべきものは比例的、平行的なのである。清められているひとであればあるほど、イエスと同様のことが口から発せられることであろう。
何を語り、何を感じ取りそして何を行うかはひとの心魂の認知的そして人格的態勢に基づくものであり、それはイエスによる「倉」のたとえ話のところで学んだ。感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の実力、構(かまえ)がどのようなものであるかがそこにおのずとを示されるという議論を展開した。彼は感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。認知的とは心魂の知性、知識に関するものであり、人格的とは身体に関わるものであり、知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の完成されたひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪、良し悪し、すなわち価値に関わるものが人格である。人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は身体的受動である怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者は臆病者でもわきまえなき蛮勇者でもなくその中間である。欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。
また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と語る。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の蔵、倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮し行うことのできるひとのことである。そこにまことの神への信仰の不可欠性が生起する。正しい信に基づき、つまり理性の逸脱である狂信ではなく、また恐怖という感情の逸脱である迷信でもなく、正しい信に基づき生の一切が秩序づけられているとき、心魂の明晰性と堅固さを獲得する。
3言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)は相互に支えあう
パウロは自らが宣教において伝えるキリストの言葉と働きを「[神の]知恵の説得的議論」と「霊と[神の]力能の論証」と呼び、キリストを介した神の知恵と力能を伝達する(1Cor.2:4)。パウロは自らの伝道生涯を顧みて言う。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:17-18)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものでありそしてそれ故にその言葉と働きに偽りがないことを誇っている。パウロの自覚としてはキリストご自身が彼を介して言葉と働きにおいて、理論と実践において福音を展開しておられる。また彼のこの自覚、即ち復活の主が自らのうちにおいて働いてい給うという自覚とは別に、彼は肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの信仰における責任においてキリストの言葉と働きを伝達していることをも明確にしている。彼の宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。パウロは言う、「われらの福音は言葉において(en logō)だけではなく、[神の]力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。
福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの途上において自らに気づいていない弟子と共に歩きながら語ったことが報告されている。弟子たちは途上で復活の主について語り合っているとき、復活の主があらわれ何を話しているのかを尋ねると、「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」(Luk.24:19)についてであると答えた。福音書記者もロゴスとエルゴンが相互に支えあうものとして理解している。イエスにおける相互の支えあいとして、憐れみの発動という働き・エルゴンのなかでの、イエスの言葉・ロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」であった彼らを深く憐れんだ。そして彼らに多くのものごとを教え始めた」(Mat.9:35-38,Mac.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであった。これは言葉による宣教である。
なお、弟子たちには譬え話とは別に「諸天の国の奥義を知ること」(Mat.13:11)が授けられたと報告されている。パウロが「成熟した者たちには神の知恵を語る」と発言したことと或る平行性があるであろう。これは言葉による宣教である。「神の知恵」とは「キリスト」のことであり、その後神学の歴史等で伝えられた創造論や贖罪論や予定論などが何等か含まれていたことであろう。「ローマ書」の信に基づく義と選びはキリストにある神の知恵の一つの報告であった。
福音は一つのロゴスとして宣教され、そして各人の信仰によるその証は一つのエルゴンである。このように理解するとき、所謂奇跡とは決して稀なることではなく、神の力能のその都度の働きとして「[神の]力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)と言われるように、人類のなかで幾世代にわたって多くの人々が聖霊の喜びと平安を経験しており確かさを証している日常的なことのように思われる。少なくとも、信じるとは神が今・ここで信義と愛において働いてい給うことを信じることである。所謂心魂の二番底が抜けて、聖霊が「内なる人間」の一つの構成要素である各自の霊に触れている。これは不思議なる、驚くべきことであり、それに触れるとき絶えず心魂が刷新され喜びと平安に満ちる。パウロはのちに見るように復活の主が五百人以上の人々の前に顕現したことを報告している。この経験がイエスの弟子たちをして見違えるように変えたのである。
4神の力能の発現―神の国の現実の地上における証―
神の国についての言葉による伝達に相応しい、偽りなき働きは神の国の秩序ある現実、喜びと平安をこの地上に何等か実現すること以外にない。それが福音書で報告されている所謂奇跡物語である。弟子たちの復活を境にした変貌ぶりが神の力能の業である限り、一般には「奇跡」と呼ばれるにしても、われらは「奇跡」というような言葉を使わず、神の指の働き、神の力能の働きをただひたすら感謝し、賛美する。なにができなくとも、これを感謝し喜んで生きることはできるであろう。先週学んだトレンチはこう語っていた。
「一切は不思議だ、一人の人間を生みだすことは少なくとも死者から人間を甦らすことと同じだけ偉大な不思議である。畑の中で増殖していくその種はキリストの手において増殖されるパンと同じほど不思議なことだ。奇跡はそれらの日常のそして常に繰り返される過程よりも何か一層偉大な神の力能の発現ではない。そうではなく一つの異なる発現である」(Notes on the Miracles, R.C.Trench p.12(Kegan Paul 1911)
わたしどもは二千年前の言葉と働きを聖書という書物を通じて知る。手がかりは言葉なのである。その言葉を通じて、それが単に言葉の理解に留まらない力、言葉の理解に含まれる神の力、神の力能に触れることが連綿と経験されたがゆえにこそ、この書物は今日まで伝えられているのであると考えられる。力ある言葉には力ある働きの伴うことが相応しい。そのような歴史的背景のもとに聖書に学びつつ、キリストの弟子であろうとするものは、地の塩、世の光として神の国の現実と神の力能を何等かこの地上で持ち運ぶことに専心する者であるに相違ない。
そのとき自らの思いにすぐる神の力能が自づと溢れでるかもしれない。パウロは言う、「もしわれらの福音が隠されているとするなら、滅びる者たちに隠されている。神はこの世界の信じない者たちの叡知内容を盲目になさったが、その者たちにおいては神の似姿であるキリストの栄光の福音の光を見るに至ることがない。われらは自分たちを宣教しているのではなく、主イエス・キリストを宣教しており、自分たちはイエスの故に汝らの奴隷である。というのも、神は「光は闇から輝きでるであろう」、こう語っておられる方であり、その方はキリストの御顔における神の栄光の[われらの]認識の照明に向けてわれらの心のうちにおいて輝き給うたからである。われらはこの宝を土の器に持っているが、それは傑出した神の力能がわれらに基づくものでもあることのないためである。至るところでわれらは圧迫されるが、困窮せず、行き詰まるが、全く行き詰まってしまっているのではなく、追い詰められるが、捨て置かれず、倒されるが、滅びない。われらは常にイエスの死にゆく屈辱を身体の中に持ち運んでいる、それはイエスの生命がわれらの身体に顕われるためである。というのも生きているわれらは常にイエスの故に死に引き渡されているが、それはイエスの生命もまたわれらの死すべき肉において顕れるためだからである」(2Cor.4:3-12)。
神の傑出した力能はわれらの死すべき身体において発揮される。しかし、それは土の器にすぎないわれらの力能に基づくものではなく、イエスの死への屈辱がもたらした復活の生命がわれらの死すべき肉のうちに顕われるからである。われらがイエスの故に死に引き渡されるのは、復活の主の生命が今・ここにおいて顕されるためである。キリストの御顔における神の栄光の認識に向けてわれらの内側で神は輝いて働き給う。これが神の卓越した力能の働きである。
5デヴィッド・ヒュームの奇跡論
所謂奇跡を福音書やパウロはイエス・キリストにおいて実現された神の力能という視点から報告しており、そのように理解するとき、「奇跡」という呼び方が不適切であることがわかる。以下、前回予告したように、18世紀の英国の哲学者David Humeとアイルランド出身の神学者Archbishop Trenchの見解を提示し、従来どのように論じられてきたかを確認しつつ、神の力能理解を一層明確にすすめたい。
ヒュームにとっては或る信念の正しさはその証拠・エヴィデンスと比例的であることにより判別される。自然科学的検証が確かであればあるほど、奇跡への信仰は場所をもたなくなる。ヒュームは自然法則の侵害が「奇跡」であるとし、その主張のためには自然法則は、彼が「継起の恒常性(regularity of succession)」と呼ぶ一様であり堅固であらねばならず、それが一時的に侵害される場合だけ奇跡と呼ばれるものごとが生じる。例えば、イエスはガリラヤ湖上を歩いたとき、万有引力の法則は侵害され一時的に停止されていると考えられた。今、宇宙物理学において知られている四つの力(引力、電磁力、強い力、弱い力)の統一理論が求められている。他の未知の力をも含めたものであれ、統一理論が解明されるとき、引力とは異なる力能の発現の可能性についても理論化されるかもしれない。また、引力は光の速度で伝わることが分かっている。もし、未だ解明されていないタキオンのような光よりも高速な素粒子が存在するなどして、引力を凌駕する自然法則がある場合、事情は異なるかもしれない。この種の事例による応答は躓きを与えるだけかもしれないが、未解明の自然法則はないとはこの有限存在が十全性をもって語ることはできないであろう。しかし、ヒュームの主張は自然法則は一様ないし必然的であり、奇跡は生起しえないことを含意している。自然法則に即して稀なることが生起することは彼においては想定されていない。
以下のヒュームの議論は「奇跡」という当時の一面的な言葉遣いに捉われたしかも、自然の一面的な理解さらには、人間は既に自然法則の十全な認知をもっているという理解のもとでの議論であることを明らかにする。ひとが今理解している自然に基づく一様な経験以外にひとは経験できないという考え、さらには自然法則は人間により十全に知られている或いは少なくとも十全に知られうるという前提のうえに立てられており、これらの自らの暗黙の前提に対する吟味が十全ではないことを明らかにしていく。
デヴィッド・ヒュームは『人間知性の探求』において言う。「(87)賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる。・・(90)奇跡は自然法則の侵害(violation)である。即ち、堅固で変更不能な経験がこれらの法則を打ち立てたので、奇跡に対抗する証明は、まさに事実の本性からして、ありうるものとして想像されうる経験に基づくいかなる議論とも同じほど無傷(entire)である。すべての人間が死なねばならない(all men must die)ということは何故蓋然的なもの以上であるのか?その率先的手本は、それ自身、空中に漂っていることはできない。火は木を消費しそして水により消される。これらの出来事は自然法則に同調するということでなければ、これらの法則の侵害、或いは奇跡がそれらを妨げることが、要求される。もし自然の通常の経過においてそれがいやしくも生起するなら、何ものも奇跡であるとは思われない。健康にみえるひとが突然死ぬことは奇跡ではない。というのもそのような死は、他のいかなるものよりも一層非日常的ではあるが、しかしながらそう生じることがしばしば観察されてきているからである。
しかし、死者が甦るであろうということは奇跡である。というのもいかなる時代や国においても決して観察されてこなかったからである。それ故に、すべての奇跡的な事象に対抗して一つの一様な経験が存在しなければならない。さもなければその出来事はその名称[奇跡]に値しない。そして一様な経験は、事実の経験に基づき、いかなる奇跡の存在にも抗してここに一つの直接的そして十全な証明がある、という一つの証明に達する。またそのような証明は破壊されえない、或いは、より上位である一つの対立する証明によってではあるが、その奇跡は信用できるものとされる。(91)明白な帰結はこうである(そしてそれは注意に値する一般的な格言である)、「いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない、もしその証言が次の種類に属するということでなければ、即ちその[証言の]偽りであることはその証言が打ちたてようとしている事実よりも一層奇跡的であるという類のものである、ということでなければ。そしてその場合においてさえ、諸議論についての相互の破壊があり、そして上位のものだけが、より劣ったものを演繹したのちに、留まるところの力のその程度に相応しい確かさをわれらに与える」」(D.Hume,Enquiries, Section X 88,p.110, 114 Of Miracles, Oxford 1927)。
ひとは自然において「一様な経験がある」からこそ、奇跡はその経験に寄生することにより命脈を保つ。そこでは奇跡は自然法則に対する侵害として理解される。しかし、この自然の一様な経験を破綻させることはできず、かくして奇跡は否定される。この奇跡論に対し、パウロは数百人に復活のキリストは顕現しているのだから、経験的に十分な確証を得られている、そしてそれは一つには預言されてもおり「奇跡」と呼ばれる要もないと言うであろう。パウロは言う、「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。
確かにパウロの主張は神との関係における罪の処分という上位の法則に基づくものでありそしてその上位の法則は自然法則の侵害というより、凌駕であり、或いはより慎重にはわれらに知られていない自然法則を用いての遂行であり、多くの人々に経験的に確認された事件であることの故に、ヒューム的な意味での「奇跡」とはならない。パウロは身体をもった自然的存在者の生の原理である「肉」について、「肉と血は神の国を継ぐことはできない」(1Cor.15:50)と述べ、人類は生物学的に必ず死ぬということに同意するであろう。しかし、彼は生物学的な部位「肉」に還元されない心魂の部位「内なる人間」(Rom.7:24)に属する「霊」については、新たな連続的な自己同一性のもとでの霊体を伴う甦りの生命が付与されると語るであろう。
かくして、五百人以上の証言のあるキリストの復活について、ヒュームはその証言が真であるのは、人類の死滅のほうが復活よりも一層稀なこと即ち奇跡の名に値するということでなければ、復活は真ではないと主張する。彼は言う。「いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない、もしその証言が次の種類に属するということでなければ、即ちその[証言の]偽りであることはその証言が打ちたてようとしている事実よりも一層奇跡的であるという類のものである、ということでなければ」。ヒュームの理解する奇跡命題「すべての人間は必ず死なない」が真である場合に偽となる命題「すべての人間は必ず死ぬ」が一層奇跡的でなければならないと主張する。しかし、主語「人間」については、肉と霊と異なる部位により形成されているため、必ずしも必ず死にかつ死なないという矛盾命題が形成されるわけではないと応答されよう。「人間」によりその一切が指示されているわけではない、霊による自己同一性は保ちつつも。生物である限りの人間は必ず死ぬが、神の子であることを担う心魂の部位は眠りはあっても死ぬわけではないと応答される。それ故に、ヒュームの格言「その[証言の]偽りであること[「すべての人間は必ず死ぬ」]はその証言が打ちたてようとしている事実[「すべての人間は復活し神の前で審判を受ける」]よりも一層奇跡的である」はパウロの議論には妥当しないと言える。
彼は、生物的死は人間の本来性によれば「眠り」(1Cor.15:6,51)以上のものではないとする。神は「業の律法」と「信の律法」と呼ばれる二つの意志をそれぞれモーセとイエス・キリストを介して知らしめている。また神は業の律法のもとに生きる者はすべての律法を満たさねばならないが、誰も義とされないという認識を示している。その結果、「すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通した」(Rom.5:12)と一度は誰もが罪を犯したその罰を受けると理解される。「死はアダムの背きと同じ様な仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」(5:14)のであり、誰もが一度は業の律法のもとに生きたため、生物的死は罪への罰として与えられている。
他方、神が「イエスの信に基づく者」(3:25)と看做す者を義とすることを知らしめている。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。それ故に、誰もが信の律法のもとに義とされた場合には、たとえ生物的死があったとしても、それはその当人の霊と霊体の甦りまでの一時の眠りでしかない。キリストの復活は罪に対する勝利として永遠の生命をもたらしている。従って、生物的生の次元だけでは死者の甦りは解明されないとパウロは主張する。ヒュームの「奇跡」は自然法則の侵害としてのみ論じられるが、パウロに言わせれば自然よりも上位の法則への侵犯に対する罰としての死があったのである。「死よ汝の勝ちはいずこにかある」(1Cor.15:55)。「死」は「罪の給金」(6:23)即ち罪が自らの奴隷になった者への褒美であるある限り、罪が克服されるとき、死は打ち負かされる。
ヒュームはそれでも「霊」は経験できず、二千年前のこれだけの証拠では甦りの否定が甦りよりも「一層奇跡的」であると呼ぶことはできないと言うであろう。彼は基本的に経験の頻度を規準にして或る事象を「奇跡」と呼ぶかを決めている。ここに経験主義者の特徴と限界がある。どうしてわれらの経験はそれほどまでに祭り上げられうるのであろうか。彼が「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」というとき、ここで「証拠」は感覚に基づく観察可能なそれ自身として個別的なデータである。そこでは信念は感覚的経験、エヴィデンスとしての知識の根底に置かれるのではなく、いわば対等であり比例関係においてある。感覚的経験が心魂の根源的態勢であると言う主張であると言うことができる。これは経験していないものを真であると信じることを禁止しブロックする議論である。経験していないものの信による突破はあってはならないという主張が含意されている。秩序ある働きのなかにはそれ自身としては観察されないロゴス・理のあることを認めない立場である。
しかし、われらは信が知に変換されることを多く経験しており、知識論、認識論としても経験のロゴス性を無視した主張である。イギリス経験論と対比される大陸合理論は、その基礎に矛盾律に基づいた言葉の確かさに認識の源泉を置く。アリストテレスにより「ロギケー」と呼ばれものは、経験に依拠することなしに矛盾律に基づく確かな言論の構築を遂行する技術である。そこから論理学やプロとコントラの議論を提供する弁証術の実践の理論さらには存在論が展開される。もちろん感覚にもとづく情報は多くの知見を提供するが、雑多な情報はカント的にはアプリオリ(経験以前的)な形式的枠組みにより処理されるか、アリストテレスのように感覚器官の発動のさいに外界から与えられる感覚対象の内部に一般的な理論を展開させうるロゴス、情報が力能において内在していると理解するか、により総合が企てられる。ともあれ、ヒュームは経験主義の特徴と限界のなかに留まっていることは確かである。
6結論
「言葉が肉となった」とは、この雑多な経験の世界に秩序が到来したということである。新約の新しい酒つまり生命の躍動が新しい革袋である福音のなかに入れられたが、それにより旧約の古い酒も正しく秩序のもとにおかれ取り扱われることになったのである。