復活をめぐって―奇跡物語序論(その三)
復活をめぐって―奇跡論序論(その三)
日曜聖書講義2021年1月24日
[聖書朗読はルカ24章。なお、録音は4節まで。次回あらたに5節以下を変更のうえ掲載します]。
1テクスト
「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。
2ロゴスとエルゴンの相補性―経験論と合理論の統一―
奇跡論の第三回目です。奇跡は基本的に神の力能の顕われであり、それは自然に反したことでも、自然法則への侵害でもない。それは基本的に神の国の現実がこの地上で何等か実現されることとして、治癒行為のように失われた秩序、健康を回復するものです。ひとが人間にとって非本来的な悲惨のうちに沈んでいるその苦境にある人々への憐みがイエスをして秩序の回復を願わせます。従来の「奇跡」という人間的な基準で驚くべき稀なることという理解は自らの認知能力の限界のなかでの主張にすぎず、一面的であることをヒュームの議論を紹介しつつ展開してきました。
感覚的知見と信念の形成は比例的であるとヒュームは言いますが、これは経験主義者の特徴であり限界です。ヒュームは時間的に先行する或る事象から後行する或る事象への「継起の恒常性」を帰納に基づき主張します。一つの事象と他の一つの事象の間の恒常性は感覚的経験の拡張により語れるが、しかし、ヒュームは双方の事象のあいだにつまり一般に「原因」と呼ばれる事象と「結果」と呼ばれる事象のあいだの因果性そのものを観察することはできないとします。例えば、針が風船を割りますが、針が次第に近づいて風船と接触するのを観察できます。そして続いて風船の破裂を観察します。これは何度やっても同様の観察が得られます。そこで継起の恒常性を認めることはできますが、原因と結果は観察されないとして因果性を認めない立場が展開されます。このようにヒュームは個別的な感覚知をあらゆる認識の源泉とし、そこからあらゆる経験的事象の説明を企てます。
しかしながら、人間は個々の多様な感覚知とは別に、経験に依存しないつまりアプリオリな確かさを持っています。それは矛盾律に即した言葉の展開力であり、アリストテレスにより「ロギケー(形式言論構築術)」と呼ばれました。矛盾律とは「AはAであると同時にAでないことはない」というものであり、実際にAなるものを見ることなしにもその主張が真であることが分かります。矛盾律はあらゆる道理ある思考の源泉です。「神学」のギリシャ語は「神」と「ロギケー」の合成語(theo-logikē)であり、感覚的に捉えられない神の理解についてはロゴスの確実な展開が不可欠なものとなります。そしてそれはアンセルムスの神の存在論的証明に見られるように、感覚に訴えずにロゴス(言葉)の力だけで、理性のみによりその存在が論証されています。イギリス経験論と大陸合理論という認識の源泉に対する二つの立場がありますが、アリストテレスやカントはもちろんその統一理論の構築をめざしたのです。
イエスもパウロも「ロゴスとエルゴン」すなわち一般的な言葉の展開と今・ここの個々の経験は相互に支えあうものと受け止めていました。イエスはパリサイ人は言葉だけで実践の伴わない偽善者であると論難します。弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46) と警告します。イエスは双方の統一を人生のただなかで他の誰にもできない仕方で遂行し完成させたのです。
パウロはその理論化とともに、イエスに従う者としてその証を自らの人生において遂行しました。パウロは言います。「もしわれらが生きるなら、われらは主にあって生きる、もしわれらが死ぬなら主にあって死ぬ。かくして、生きるにしても死ぬるにしてもわれらは主のものである。なぜなら、キリストはこのことへと、死者たちと生者たちの主となるために死にそして生き給うたからである」(Rom.14:8-9)。
ナザレのイエスは山上の説教でユダヤ教の伝統のもとにあるモーセ律法を前提に道徳次元に留まりました。そこでは、彼は聖霊の賦与や悪霊の唆しに一切訴えることなしに、道徳的次元のみでは正しい者ではありえないことを、そこに見いだされる偽りを、ロゴスの力だけであぶり出し、「神の国とその義を求める」ように、「天の父の子となる」その信仰に導いたのです。これは権威ある教えであったために、人々は彼につき従ったことが報告されています。この透徹した言葉に対応する振る舞い、働きが神の力能の顕われとしての数々の秩序を回復させる力ある業でありました。それはのちに「奇跡」と呼ばれましたが、神の国の秩序ある喜ばしい現実をこの地上で実現する神の力能の顕われだったのです。
ロゴスとエルゴン、言葉と働き双方の証あいなしには、一方、単なる言葉は思弁や独断となり、他方、単なる体験は混乱した雑多なものに留まることでありましょう。証あいの成功した場合には、ひとの行為の一挙手一投足、自然の個々の事象に秩序をもたらす理・ロゴスが内在していることでもありましょう。パウロはイエスにその完璧な成功例を見たのです。少なくともロゴスとエルゴンを彼らは緊密な関係におきました。ひとつの主張が優れたものであるかどうかの規準は、何であれ双方の相補性の展開力にこそあります。
3トレンチの奇跡論
ここで前回のヒュームの奇跡論に対する応答としてトレンチの奇跡論を紹介します。続いて、最も驚くべき奇跡と言えるイエスの復活を彼のリアルタイムの人生の進行の視点とそれが完成された段階で理論化したパウロの視点の相違を確認しながら、考察します。神学的には御子の復活は人類の歴史においてこの古い天地が巻き去れるまでに一回だけ生起しまたそうでなければならないものであることを確認します。
ヒュームの自然法則の侵害としての奇跡論に対する反論はR.C. Trenchの『奇跡についてのノート』に見いだされます。(Notes on the miracles of our Lord, R.C.Trench 『奇跡についてのノート』(Kegan Paul 1911(1846)).トレンチは「奇跡と自然」の章において「自然」と「世界」という概念を特徴づけて、「秩序」であるとします。イエスの驚くべき働きは病人の治癒に見られるように失われた秩序のもとにある世界の秩序を回復させる営みであったと論じています。そして自然こそ秩序の担い手である以上、奇跡は自然法則に対する侵害ではなく、より高度のより純粋な自然法則による低度の自然法則に対する凌駕でありさしあたりその中立化であると主張します。
「奇跡はかくして自然ではないが、それは自然に反するもの(against)でもない。どれほど人口に膾炙した日常的なものであるにしても、これらの素晴らしい神の働きについて自然法則の「侵害(violations)」として語るその言い方はまったく認可できない。それはわれらが知っている自然を超えて(beyond)、自然を超えそして自然のはるかうえ(beyond and above)ではあるが、しかし自然に反対するものではない。この区別をして怠けた概念であると言わせてはならない。怠けているどころか、スピノザの奇跡に対する全的な攻撃は(それは彼の真実の反論ではないが、というのもそれらはより一層深いところにあるからであるが、ともあれ彼の攻撃は)、われらがのちに見るように、真理のこの誤った陳述[自然を超えるか反対するかの二者択一]についていかに取り扱うべきかを彼が知っているところの優越さ・有利さ(advantage)に向かう。そして、それが正しく述べられたとき、ただちに場違いのものとなる。奇跡はかくして不自然なもの(unnatural)ではない。さらにそのようなものではありえない。不自然なものは、秩序に反するものであり、それ自身神なきものである、そしてそれゆえいかなる仕方においても神的な働きについて、われらがそれとともに為さねばならないそのようなものとして、肯定されえない。世界というもののまさにその観念が証言するものは、それが担うひとつの名前より多いものとして、それがひとつの秩序についての観念(that of an order)であることである。それゆえ、世界が失ってしまっているこの観念を世界をして実現させるべく可能にするものとなるところのものはそれ自身まさか無秩序なもの(a disorder)であることはないであろう。それどころか、真の奇跡はひとつのより高いそしてより純粋な自然である、妨げられることのない調和の世界から下りてわれらのこの世界に、この世界においてはそれほど多くの不一致が軋みまた混乱させているものであるが、その世界にやってくる、そしてこれを再びそのより高いものとの調和に再びもどしつつ、なるほどそれはひとつの神秘的で預言的な瞬間とは別のものではあるが。病気のひとの癒しはいかなる仕方でも自然に対抗するものと折り合いをつけられることはありえない、癒されたところの病は人間の真の本性に対立したものであることに鑑みて、即ち異常であるのは病であり、健康でないことであることに鑑みて。癒しは原初的な秩序の回復である。われらは奇跡に法則の違反を見るべきではなく、低い法則の中立化、より高度の法則によるさしあたりのその停止を見るべきである。これについては豊富な類比的な事例がわれらの目の前にはこれまでにまして前に進んでいる。われらの周辺世界において、われらは継続的に、より高度の法則による低い法則が停止されているのを目にする、力学による機械学、生命にかかわる法則による化学的な法則、道徳的なものによる物理的なものがそうである。しかしながら、われらはこう言っているわけではない、法則の何らかの侵犯があった、或いは自然に反する何ものかが通過するべくやってきたとか。むしろわれらは、ひとつのより偉大な自然の法則がより低度の法則を飲み込んでいることを承認する。・・・どこからわれらはあえて結論づけるだろうか、われらが知っているいかなるものもそれら[e.g.湖上歩行]を生じさせないがゆえに、そうするであろういかなるものもそのように存在しないと。それらはわれらの(our)自然の諸法則を凌駕している、しかしそれ故にそれらはすべての(all)自然の法則を凌駕しているということは帰結しない」(p.15-17)。
トレンチが主張するここで人々が認識している「われらの」自然法則と端的な「すべての」自然法則を判別することは道理ある。われらの知らない自然法則がわれらの知っている自然法則を凌駕することのあることは想定可能である。神学上、人類に一度だけ生じたであろう復活は生物的死が不自然なものであり、非本来的である限りにおいて、秩序を回復させるものとして捉えられる。人類にとって、死者を甦らせる神の力能が何らかの上位の自然法則の発動によって引き起こされることは想定可能である。聖書的にはもしアダムが罪を犯さなければ、それに引き続きすべての者が罪を犯さなければ、生物的死という同一事象は単に復活までの「眠り」と特徴づけられたことであろう。復活も人間の本来性の回復と捉えることができる。
トレンチはその書物の結論とでも言うべき議論をこう展開する。「むしろ、キリストを勝利のうちに水の上に保持したのはキリストの意志である。・・・奇跡は、その真実な観念によれば、法則の一時的停止(suspension)でも、ましてやその侵犯ではないということ、そうではなく一つのより高い法則の流入であることが既に力説されてきている。それは自然法則のただなかにおける一つの霊的な法則の流入である。そしてその領域と到達が拡張する限りにおいて、それが持とうと意図された優位性のそのより一層高いその法則への主張は、しかし人間の堕落のために、常により低いものを超えて保持してきているものであろう。しかもこのことに伴い、それがある日回復するであろう優位性に留まることの一つの預言的な予期と共に。まさにかくして、ここには、その意志が、外的な自然を超えて、神の意志との絶対的な調和のうちにあるとき、人間の意志の主であること(lordship)の徴があった」(p.307)。
神の意志に人間の意志が調和するとき、霊的な法則が自然法則のただなかに流入すると主張されている。人間の堕落をどう捉えるかはここでは論じることはできないが、神の力能の道理ある理解のためには、自然の秩序の理解と矛盾するものであってはならず、神が自然法則を介して時空に関与する可能性を許容する限りにおいて、われらはいわゆる「奇跡」を道理あるものとして理解することができる。トレンチのこのヒュームらの奇跡理解に対する反論は少なくとも理解できるものである。そして人間の理解力を限定してしまわないという意味でより道理あるものである。奇跡を一様な自然法則に反したものであるという理解そのものの背後にある、自分たちはその自然法則を十全に知っているという高ぶりと宇宙の栄光を目の前にした知性の背後にある心魂の矮小さを示している。
4 イエスとパウロの置かれた状況の相違―信の従順による十字架の道vs.復活の主に出会い主の生涯の勝利の視点からの福音の宣教―
ここでは所謂奇跡のなかの奇跡と言われるイエスの復活をめぐって、イエスの生涯という視点とパウロの宣教という視点から考察します。そのさいまず二人が置かれた状況の異なりを確認します。イエスは生身の肉においてあり、荒野で誘惑を受けており、またおなかもすきました。そのわれらと同じ制約のなかで自らの言葉に忠実であるべく、天の父への信の従順を貫き、十字架に至るまで彼の言葉に合致した働き・振る舞いを遂行しました。彼の真実そして憐みさらには常人ならざる柔和に惹きつけられ、多くの人々が彼に従うものとなりました。もし彼が途中で十字架から降りてきてしまったなら、神の意図がナザレのイエスにおいては実現されなかったかもしれない、まさに肉にある途上の生を完全に生き抜いたのです。彼にとって復活は聖書に基づき預言されてはいたものの人類未経験のことであり、信仰箇条であったのです。
パウロはそのイエスの信の従順の生涯に基づき神学理論を構築しました。彼はダマスコ途上で復活の主にであっており、福音が御子において実現されたその視点からイエス・キリストにおいて啓示された神の意志を記述し宣教しました。「これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう」(Rom.10:8-9)。歴史の展開のなかで彼は復活の主の視点からイエスの生涯を顧みることができました。人類にとってこの唯一の出来事は預言されていたとはいえまさに驚嘆すべきことがらであり、人生観、自然観そして存在論が一気に変革されるそのような出来事であったに違いないのです。パウロはこの働きが持つ勝利の視点から主の十字架に至る途上の生をも理解することができました。
ナザレのイエスは信の従順を生き抜く途上を経験しており、福音書記者はそれを旧約聖書の枠のなかで基本的に叙述していますが古い革袋(業の律法)から新しい革袋(信の律法・福音)に至る過程が描かれます。そこではイエスにおける言行一致の生命の躍動が新しい葡萄酒として古い革袋、イスラエル主体の旧約を破ってしまうそのような力動感溢れる彼の言葉と働きが記録されています。パウロはイエスの生涯を神の義・正義がそこにおいて啓示されてしまっているものとして受け止め、新約が成就したことを知り、そのうえで旧約と新約、業のモーセ律法と信の律法・福音を正しく秩序づけました。
もちろんパウロ書簡と福音書における所謂伝記の記述には視点の相違はあるものの相互に補いあうものであり、矛盾は見いだされません。カナンの女性が娘の治癒を懇願したさい、「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答したとき、イエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自らを自己規制していたことを明らかにしています(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動しましたが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのです。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言いました。そのとき、イエスは彼女お応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのです。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのです。信に基づく正義の一例がここで生まれました。罪赦され、そのうえ願いがかなえられたのです。彼の一言一句、一挙手一投足は、そのロゴスとエルゴンは信に基づく正義と信に基づく憐みの双方の実現に向けられていたのです。
パウロはこの事態を受け止め異邦人への福音宣教者となったのです。信は誰にとっても心魂の根源的態勢であるからです。そして信に基づき神の義を受け取り、その「義の果実」(Phil.1:8)としての愛を満たすという信の律法と業のモーセ律法を関係づけることができたのです。モーセ律法がめざすものは愛であり、愛が成就されるとき、神の意志である律法の一点一画たりとも過ぎ去らず満たされたと理解されています。
5この被造世界において一度しか生起しない復活をいかに理解できるか
このロゴスとエルゴンの展開についてイエスとパウロのおかれた状況の違いにはとても興味深いものがあります。パウロにおいては父なる神の専決行為である死者ナザレのイエスの甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができました。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。福音とは信じると神が看做す者を救い出す「神の力能」でした(Rom.1:16)。イエスの復活がその信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられました。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができたのです。イエスはユダヤ人やローマ人により冤罪を帰せられつつも十字架に至るまで信の従順を貫きました。彼は人間の偽りにより死刑に処せられましたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍したのです。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死の遂行を嘉みしました。
イエスの十字架刑において神は信の従順を貫いたイエスに罪人として罰を与えるという類の不正を行っておらず、刑罰代受・代罰ということではありません。パウロは言います。「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここでイエスは罪びとの身代わりとして罪人の位置につくことを自ら為さったが、罪を犯したのではなく、人類の罪を担い、自らの義の上にわれら人類の罪を着たのです。そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」。即ち神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。神において、イエスが「罪を知らざる方」であるという認識は揺るぎませんが、この身代わりを認可しました。罪なきままに人類の罪を担うことを「罪と為した」とパウロは報告しています。
復活はその歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、「われらが彼において神の義となるためである」。復活は「(義である)イエスにおいて」信じるわれらが罪赦され、義となることを為さしめるものです。復活はイエスを神の子と信じる者を義とすることへの信仰を引き起こすものです。
復活は現代のわれらにはもはや見られるものではなく、信じられるものです。唯一の御子以外にこの人類の歴史において復活が生じた場合、もちろんそれは神の自由に属しますが、スキャンダルだと思います。この古い天地が巻き去られるまで、起こってはならないことだと思います。人類の罪は「一度限り」御子において贖われたのです。「もしわれらがキリストと共に死んだなら、キリストは死者たちのなかから甦り、もはや死ぬことはないであろうことを、われらは知っているので、彼と共に生きるであろうことをもわれらは信じる。というのも彼が死んだ死とは罪に対し一度限り死んだところのものであり、彼が生きる生命とは神に対して生きるところのものだからである」(Rom.6:8-10)。ヤイロの娘やラザロの甦りは蘇生(resuscitation)であり、イエスの復活とは異なる種類のものであると思われます(Mac.ch.5,John.ch.11)。イエスの地上での復活体は魚を食べることができ消化器官を備えていたようです。また脇腹に槍の穴があり、指をつっこむことを疑うトマスに促しています。他方、ドアの通過性があり、単なる三次元の身体ではありません。これは人類において一度だけ生じたため、復活の主との聖霊を介しての共なる生は信仰箇条に留まります。
他方、二千年前のユダヤの地方において、復活を目撃することのできた幸いな人々がいます。当時、エマオの途上の弟子たちが興奮のうちに復活の事件を語り合っていたように、数百人に目撃されています。パウロは証言しています。「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。このようにパウロは、復活はイエスの身代わりの死によりひとびとの罪を赦し、和解をもたらすものとして位置付けられます。「汝ら神と和解せよ」(2Cor.5:20)というパウロの促しは死者の復活を信じることそしてそれ故に「新しい被造物」となることの促しです。「誰であれキリストにあるなら、新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものなのです。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができたのです。
あまりに尋常ならざる事件が歴史のなかで生起しました。単にモーセ律法の遵守による義の追求では到底まかないきれない神の知恵が「信に基づく義」の世界を切り開いたのです。心魂の根底に信があることにより、その信仰が嘉みされるのです。もちろんそれは理性の逸脱からくる狂信ではなく、恐れというパトスの過剰からくる迷信でもありません。正しい信は認知的にものをよく見知ることのできるようになり、人格的に「律法の充足」(Rom.13:10)である愛を満たすようになるのです。復活はモーセ律法の遵守によってではなく、心魂の根底に立ち返り信仰によって受け止められるものなのです。ナザレのイエスの信の従順の貫徹のゆえに、信に基づく義が切り開かれたのですが、神ご自身にとってこの「信の律法(意志)」(Rom.3:27)が「業の律法(意志)」(3:27)より一層根源的なご自身の義を示すものなのです。認知的、人格的に十全な神はアブラハムに対しひいては人類に対する自らの約束に対して信実であったのです。そしてその信実のもとに人類への愛を御子の受肉と十字架そして復活により示されたのです。パウロはこのようにナザレのイエスの信の従順の生涯から神のメッセージを読み取ったのです。
そこに、神の人類に対する愛を見出すことができます。各人はパウロにより「汝が汝自身の側で[自らの責任ある自由において]持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じ、自らの責任ある自由のもとで神の信義が彼において啓示されており、自らはそのもとで信に基づき義であると神に看做されていることを信じるよう促されています。十字架だけで復活がなければ、われらは神が罪なきイエスが冤罪のもとに死に処せられることを放置したないし認可し、ご自身は不義ではないかという嫌疑に十全な応答ができないことになります。復活はイエスの生涯は神に嘉みされたものであり、無罪であることを歴史のなかで知らしめる行為として位置付けられます。復活という所謂奇跡も神による人類への愛という「神の力能」働きだったのです。「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてこそ、われらに信仰に基づく義を与える福音(良き音信(おとずれ))が語られるのです(Rom.1:4)。神の御子が人類の歴史に関わった以上、人類の歴史においいて一度だけ生起した、そして二度目を必要としない一度限りの復活を信じるかが問われています。奇跡ではなく神の愛の力能を信じるかが問われています。
6われらの思いにすぐる神の平安
神の力能は自らその存在と働きのあることを信じて、実験してみる以外に体得できないそのようなことがらです。「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。このいかなる理解をも超える神の平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからです。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。
われらの思いにすぐる神の平安がわれらを支配しているとき、神の静かな力能を実感します。山上の説教に即して生きてみようとしない限り、その実現はおろか、イエスご自身がその途上で体験した神の援けを経験することもできないでしょう。二千年間多くの人々がその信仰により励まされ喜びを経験してきたのです。そしてそのような神の力能の経験の基礎には神の信実に対応するひとの信仰が不可欠でした。信仰はひとが神に対して取りうる心魂(こころ)の根源的な態勢、構だからです。認知的、人格的に十全な神が御子において人類に対し信実であったとき、不十全な人間は神の信についての認識にいたらずもそれに信によって応答することだけが偽りのない唯一の態度なのです。心魂の奥底で偽りがあれば、すなわち二心や三心があれば、もうすでに神と正しい関係をむすぶことはできない。これは山上の説教において学んだことです。神がイエス・キリストにあって人類に対し信実であったとき、それへの適切な応答は信実であろうとすることである。神の力能とその働きであるキリストにおいてあらわされた愛を信じ、そのもとに生を構築する以外に神の力能を知ることはない。これは懐疑のうちにあるものはその当該のものごとを知ることができないという一般的な知識と信念の関係に基礎づけられるものである。ヒュームは真理に対するこの根源的態勢としての信のもとにいない。彼は信は感覚的に得られる証拠と「比例的」でなければならぬと主張していた。それ故に、人間を秩序あるつまりものごとに理・ロゴスが内在している自然の中で正しい位置に置くことができていない。
「信」を心魂の根源語と理解することは道理ある主張である。宇宙万物の創造者、時空の創造者その方が一切を支配しておられ、われらの認知的、人格的力能はとても貧弱であり、限られているとき、それを突破するのは宇宙の創造者がいまし、その御子が栄光を捨て、われらのために受肉しひととなったその愛を信じる以外に適切な態度はとりえないのです。
そしてその信が生起する場所は心魂の根底にある「内なる人間」と呼ばれる部位です。そこは常に「刷新」が必要とされる部位であり、内なるひとは神の霊に反応する「霊(プネウマ)」とその認知的働きである「叡知(ヌース)」により構成されている(Rom.7:22-24,7:6)。ひとは土から造られている即ち自然的な存在者であり、その自然的な身体を持つものであるひとの自然的な原理は「肉」と呼ばれます(Rom.6:19)。肉の底に「内なる人間」が神の力能を運ぶ聖霊に触れるごとに生起し、身体とその生の原理である肉を刷新します。
ヒュームは「人間は必ず死ぬ」と主張していましたが、「人間」を構成する二つの部位「肉」と「内なる人間」のうち「人間」により「肉」を理解する限りヒュームに同意することができます。しかし、「内なる人間」は神の霊に反応する部位として生物的に死ぬことはない。
このように理解するとき、神の力能に反応しうる部位がすでにわれらのうちにあるからこそ、われらを介して所謂奇跡と呼ばれる病気の快復や不思議なる力ある愛の業がわれらを通して遂行されます。右の頬を打たれて左の頬を向けることはもはや奇跡です。身体をもった存在者としてわれらの肉によっては為しえない出来事です。このエヴィデンスを積み重ねていく以外に、山上の説教の言葉の力とイエスご自身による癒しや所謂奇跡における神の力能の顕現を確かなものとして経験することはできないでありましょう。