キリストにある一つの体(2)―党派心を乗り越える

 キリストにある一つの体(2)―党派心を乗り越える―

                       日曜聖書講義 2021年8月1日

[録音は自由に話しており、朗読は1と5途中からである。先週アップしたものとは連続性を重視したが、文章としては全体を書き直している。一学期は17回目の本日で終わる。お役にたちうるなら、幸いです]。

 

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、彼はわれらと一緒に[あなたに]つき従おうとしないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 今東京オリンピックたけなわである。爆発的感染拡大のただなかで、日本選手たちは競技に参加しうることを喜び感謝し、その感謝を伝えようとする思いが選手たちの躍進の力になっていると思われる。サッカーの森保監督はそう語っていた。確かに、開催が危ぶまれた状況のなかで、アスリートたちはこの機会を得たのであり、若者たちはそこで輝いている。彼らのひたむきな姿に感動と勇気を与えられる。

 登戸学寮の若者たちもそれぞれのオリンピック、甲子園、ワールドカップがあることであろう。或いは、一切の営みに虚しさがつきまとうひともいよう。確かにコーヘレトは言う、「空の空、空の空なるかな、すべては空なり、日の下にひとの労して為すところの諸々の働きはその身に何の益かあらん。世は去り世は来る」(Ecl.1:2)。これらの定まらない思いに対しては、誰もが心魂のポテンシャルとして二番底をもっており、足弱であっても、或いは足弱であるからこそ、「肉」と呼ばれる身体を持つ自然的存在者の生の原理の底に、「内なる人」と呼ばれる神から力をいただく二番底があることに眼差しを向ける。誰もがこの常に刷新を必要とする部位を持っており、心をいつも新しくすることにより、新たな力をいただき自らの目標に日々精進することができる。

ひとは言うでもあろう、アスリートたちは朽ちる冠のためにあれだけ情熱をかたむけているのに、信仰者は朽ちない栄光の義の冠のためにどれだけ集中しているのか、と。確かに朽ちるものと朽ちないものの栄光には差があるであろうが、しかしここでもひとは同じ心魂(こころ)を持っていることに注意を向けよう。パウロは言う、「汝ら知らぬか、競技場で走る者たちはみな走るが、一人が賞を獲得する。汝らそれを獲得すべくこう走りなさい。すべて競技をする者はなにごとにも自制する、かくして、彼らは、かたや、朽ちる冠を獲得すべく、われらは朽ちぬ冠を獲得すべく自制する。それ故、わたしは定めのない漫然とした仕方で走ることはない、わたしは空を撃つそのような仕方で拳闘をすることをしない。むしろ、他の人々になんらか宣教しながら、自ら失格者とならないように、わたしはわが体を拘束する」(1Cor.9:24-27)。朽ちる冠であれ、朽ちない冠であれ、目標を定めそれを獲得するひたむきさ、集中の様式は変らない。このことは朽ちない冠をめざすのであれ、自ら自制しつつひたむきに習練するアスリートは朽ちない冠を得るよい訓練をしているということを含意する。求める方向さえ変われば、それまでの自制と修錬は朽ちない冠にむけても有益であることであろう。信仰は自らの生の方向、まなざしを天に向け、まず神との正しい関係の確立を求める。そして心魂における信の根源性は常にそこに立ち帰る以外に心の刷新はないことを含意している。信仰はそこにおいて神の意志、愛が知らされている受肉した神の御子イエス・キリストを介して神に眼差しを向ける。

 信仰の世界は幼子の世界であった。幼子が天国の上客であった。小さい者を受入れるとき、イエスを受入れると言われていた。イエスは小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上で小さい者は天国で大きい偉い者であると彼は主張する。そのことを明らかにすべく彼は自ら父とともにある偉大なる栄光を捨てて自らひととなった。イエスは小さい被造物ひととなった。イエスは十二弟子を伝道に派遣し、その成果の報告を受けたとき、大きな喜びに捕らわれたことが報告されている。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです」 (Luk.10:21)。

われらは競争世界のなかで少しでも大きな者になろうと努力しているのではないだろうか。しかし、二番底、「内なる人」の力を信じる者は、自然な欲望によってではなく、清められて生きることこそ魅力に思えてくる。イエスのようになる者は小さな者たちを受入れる。ひとはここに躓くが、二番底に生起する信仰は他者との競争のことがらではなく、神との端的な関係である限り、ただ心魂の根源における信頼し委ね任せまつるそれだけでよいということが全知であり全能の神との関係においては相応しい。

 今日も信仰と憐みについて学んでいきたい。先週の続きであり、共同体はイエス・キリストにあって一つの体を形成するとき、各器官、各部位は有機的な働きのゆえに、力を発揮するものとなることを学びたい。一つの体を構成するには相互のリスペクトが不可欠である。とりわけ、人間的には小さい取るに足らないと思われる者こそイエスは招き給うのであるから、われらの心が清められ、キリストの思いが自らにも働くことを求める。

 

2 イエスの柔和こそ平和を造る

 憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせる。

 イエスは弟子たちによる伝道がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。

 福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。この世にすがるべきいかなる者も持たない者、この世のいかなるものによっても満たされない者、そういう者たちが神を求める。

 福音はこの神への眼差し求めがイエスにおいて成就されたと告げ知らせる。イエスは「天の父の子」にふさわしいはずの平安と喜びそして愛がこの地上にはなく、羊飼いのいない羊のように彷徨っている群衆に深い憐みを感じた。そして、天国について教え始めた。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。イエスの憐みは天の父の子がいかなるものであるかの知識と、それとの対比、コントラストにおいて、何も知らずに彷徨っている人々を見たことのギャップから自然に湧き出てくるものであった。

 彼のこの憐みのパトスと平和と柔和な心持こそ、ひとびとのあいだの争い、諍いそして憎悪さらには国内での分派、分裂、さらには国家同士の戦争のうちに時を過ごす人々の悲惨な現状を克服したいという意志が彼の公生涯を特徴づけた。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者(いとたかきもの)の住みたまふ聖所をよろこばしむ。神そのなかにいませば都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国はうごきたり、神その声をいだしたまへば、地はやがてとけぬ。万軍の主はわれらとともなり、ヤコブの神はわれらのたかき櫓(やぐら)なり。きたりて主の御業をみよ、主はおほくのおそるべきことを地に為したまへり。主は地のはてまで戦いをやめしめ弓をおをり、矛(ほこ)をたち戦車(いくさぐるま)を火にてやきたまふ。汝ら静まりてわれの神たるを知れ」(Ps.46:4-10)。

 神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣された。平和の君は驢馬(ロバ)の子に乗ってくる。イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は山上の説教の第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。この神の御子の故に人類は平和への希望を持つことができる。

 イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Luk.11:28)。

 

3 キリストにある一つの体の形成

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。

 キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。イエスはご自身を葡萄の木にわれらをその枝になぞらえている (John.15:1-5)。イエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。

 われらはキリストにつらなる体の各部位である(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。

 神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。各人の能力や才能を神との関わりで見るがゆえに、直接的な関係において生じる嫉妬や羨望とは無縁であり、いかにそれぞれの能力が協力しあって、良き実を結ぶに至るかに集中する。「汝らはキリストの体であり、諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:27)。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。

 この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。

 人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。

 

4 党派心の根にある誘惑への身の引き渡し

 今回のテクストの、この誰が偉いかという議論はただちに党派主義(sectarianism)に通じる。一番偉い者は子分を従え、二番目に偉い者はその子分よりの下の子分を従えることになり、権力、覇権を争うことになるであろう。その一例が、ヨハネの応答にはしなくも顕れている。或る者がイエスの名前に言及することにより、悪霊を追い出していた。ここで悪霊とは、イエスの癒しの事例によれば、暴れまわる凶暴さを示すそのような手に負えない乱暴狼藉を働く一種の心の病である。それを或るひとがイエスの名によって癒したと報告されている。

 イエスが非ユダヤ人の土地であるガダラ地方に着くと、悪霊に憑りつかれた者は不浄とされる墓場からでてきたと報告されている。ルカによれば、「ゲラサ」と呼ばれる土地の「墓地に住んでいた」裸の男が悪霊につかれていたが、イエスは悪霊を豚に乗り移らせたことにより正気に戻った男の話が報告されている(Luk.8:27)。ガダラにおいては、イエスは憑りついた悪霊を追い出し豚のなかに追いやると、豚の群れは下の湖になだれ込み死んだ。彼らが正気に戻ったかは報告されていないが、憑りつきから解放された以上、ゲラサの墓堀人と同様癒されたのであろう。

 他方、豚飼いたちは豚を死なされたことからくる経済的損失を蒙ったために、イエスを村から追い出した。地上の宝に心を奪われている者はたとえ神の働きを目にしても自らの利益にとらわれ、人が癒されたことで神を賛美することはなかった。まさに「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)である。われらも悪霊に憑依されることを何らか経験している。心の平衡を失い平安が去ってしまい心がささくれ立ち、悪しき思いに満たされることを経験する。もちろんそこに程度はあるが、何か自らのうちにないものに心魂を引き渡してしまっているそのような感覚を持つこともあろう。ふとしたことで平安を取り戻したときなど、正気を失っていたと気づくことがある。二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。

 一旦、自らの心魂を引き渡してしまうとどこまでもそれはエスカレートしてしまう。「穢れた霊は、ひとから出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出てきたわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、でかけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(Mat.12:43-45)。ひとは自らの心に生の方向を失うとき、空虚となり、誘惑にかられやすい。一度、何らかの憐みにより悪しき思いから解放されたとしても、聖なるものに守られないとき、もっと悪い思いがひとを虜にすることがある。これはわれらも何らか経験していることである。

 イエスの聖性に気が付くとき、自らの穢れの深刻さ、尋常ではなかったことに気づかされ身震いする。眠らされていたのである。悪霊に憑りつかれるこれらの話は、過去のおとぎ話ではない。聖なるものとの対比においてのみ、われらの悪しき思いは聖性に対抗する穢れや悪の仕業であることを知るに至る。

 パウロと共に心を新たにする。「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの器官を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの器官を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。われらは罪の奴隷であったとき、それが自らに破滅をもたらすものに魂を売りわたしていることに気が付かない。そのコントラストを、即ち聖なるものを知ることによってのみ、それがいかに醜悪なものかを知るにいたるかるである。

 醜悪なものとは、或る場合には、自分たちは特別であると他者や他のグループと差別化をはかる党派的な思考、党派主義である。これもコントラストを知ることなしには、いかに醜悪な思考であるかに気付くことはない。党派心は人間の自然であって、誰かに従属することにより保護を受けつつ、敵対する者に対しては蹴落とし、破滅させようとし居丈高になる。弟子ヨハネもその一人であった。権力や数を支配する者が偉い者である。イエスはその考えと戦う。

 

5 宗教における党派心とその乗り越え―黒崎先生の場合―

 「ルカ」9章のテクストに戻ろう。ヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出している者を咎めた。それは「われらと一緒に」イエスに「つき従う」ことをしなかったからであるとされる。これはいかにもイエスのことに配慮し、彼を崇める敬虔な態度のように見える。しかし、これは自分たちのグループを特権的なものだと思い込んでいることからくる、他人の働きを妨害するものだとイエスにより、諫められる。その男は悪霊の追い出しという良き癒しをおこなっているのであり、ことがらとして責められるものではない。われらも縄張り意識を持つことがある。誰かが同様のことを為しているとき、自らの業界、職域、専門に無断で入り込んでいるように思え、自らその領域の権威であると看做す自己に敬意が払われない、侵害されていると感じる。これは心の狭い、偏狭な自意識過剰である。イエスは言う、「汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Mat.9:50)。

 黒崎先生は党派心の分析とイエスにおける信仰の異なりを説明する。「この場合ヨハネは既に信仰を自分たちのグループの独占としようとしたのであった。そして自分たちの権威を以って真のイエスの弟子と然らざるものとを判断しようとして。この精神がローマカトリック教会において復活し、プロテスタントにおいて継承された。そして無教会のなかにも幾分これが残っている。しかるに、一方イエスはイエス自身を中心とし彼を主と仰ぐべきことを徹底的に主張し給うた。「われと偕(とも)ならぬ者はわれに背き、われと共に集めぬ者は散らすなり」(「わたしと共にいない者はわたしに敵対する者であり、わたしと共に集めない者は散逸させる者である」)(Mat.12:30,Luk.11:23)とあるように、いかなる場合でもイエスは中心でなければならず、イエスが神の国の首(かしら)でなければならないことを主張し給うた。「われは道なり、真理なり、生命なり、われに由らでは誰にても父の御許(みもと)にいたる者なし」(John.14:6)と言い給うたことも、イエスの絶対性を主張しておるのであり、いかなる者もイエスを主と仰がずに救われることがないということを明白にしておるのである。そしてペテロは「使徒行伝」4:12にこの天の信仰を告白しておる。

 しかしこれをイエスの宗派根性と考えることはできない。何となればイエスは神の子であり神より遣わされた救い主であるからである。イエス中心が神の福音の本質であり、イエスを離れてキリスト教もなく福音もなく救いも無い。イエスが自己を唯一の救い主と主張し、イエスを離れて救いが無いことを主張することは当然である。そしてイエス以外には何人もこの主張を為すことができず、もしこの主張を為すキリスト者があるならばそれは呪わるべきである。

 しかるに所謂分派精神は煎じ詰めると自分の宗派の主張が絶対無謬であり、他派は間違っており異端であると決定する態度である。「無教会にあらざれば救われない」と言う人もあるとのことであるが、彼は自分をキリストの地位に置く高慢な人間である」。(黒崎幸吉『一つの教会』p.40(聖泉会 1953)。

 聖書が主張する信仰の集まりとはイエスが「首(かしら)」となり、それにそれぞれの特徴を有する個々人が自らの持ち分を発揮することにより身体の四肢として一つの生命を分かち合う有機的な身体を構成すると理解されている。この文章はその英訳がOne body in Christとあるように、キリストに連なる共同体の構築こそ、信仰者のつとめであるという主張である。これは黒崎先生の信仰告白である。イエスは唯一の救い主であり、他の何人をもイエスと同列に扱ってはならない、絶対化してはならないという主張である。キリストへの集中は大方の賛同を得るであろう。この点において異論を主張するひとがあれば、直ぐに自己神化の「高慢」を咎められるであろう。

 問題は、ひとは自覚せずにもいつのまにか信じることにおいて教祖とともに自己を絶対化しがちであるということである。人格が高潔であればあるほど、誘惑は大きくなるであろう。サタンは多くの者たちから賞賛を得ているその者を堕落させるなら、罪と死の支配を広げることができるため、さまざまな党派主義への誘惑をしかけてくることであろう。そしてそれがキリスト教の分派の歴史であった。人生は朽ちる栄冠を獲得する競争ではなく、朽ちぬ栄冠をいただくべき罪と悪との戦いなのである。

 

6 イエスの信とわれらの信・信仰―「信」の二相の判別による乗り越え―

 黒崎先生のこの信仰告白に対し単に敬虔な主張とわきにおいてしまうのではなく、イエスが一つの有機体の頭脳部・首(かしら)であるという主張がパウロにおいて「信・信仰」の二相の分析に基づき秩序づけられていることにより先生の議論を信じる者にも信じない者にもテクストの読みとして同意されうる次元で一般的な論拠を提示したい。「信仰・信」の二相を判別することにより、イエスご自身における信の在り方はわれらの信・信仰の在り方の目標であり続ける。「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25-6)。またパウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。常にイエス・キリストにおいて生起した神の信義を自らのこととするよう勧められている。他方、われらはその啓示の媒介となった「イエス・キリストの信」とは異なり相対的な世界で生きている。「6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、[賜物を用いよ]」(Rom.12:6)。

 われらは肉の弱さのゆえに、信仰においても程度の世界に生きている。この自覚がないとき、イエスを崇めているつもりでいつの間にか自己をイエスに同化させ、他のグループから自らを特権化してしまう。イエスは確かに黒崎先生が仰るようにわれらとは異なる。彼には偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。イエスはご自身を神に至る唯一の道であること、彼自身が真理であり、生命であることを主張せざるをえない。自ら神の子であるという信のもとに生き抜いた者が他の者たちに他の道を勧めるということは信義の問題として、すなわち裏切りの問題としてあり得ないことである。イエスは山上の説教において究極の道徳を語った方であり、それを実現すべく信の従順を貫いた方である。

 端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。イエスの聖性とわれらの穢れ、このコントラストこそ正面から引き受けねばならない。さもないとき、福音を知ることはできない。この聖なる方が共にいたまうと約束しおられる。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った(Mat.6:25-34)。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。

 他方、ひとは「肉の弱さ」において生きており、信仰の強い者もいれば弱い者もいる(Rom.6:19,14:1)。この相対的な世界において、神にとって信が根源的であるなら、ひとにとっても信は根源的であり、信に対して信により応答することがふさわしい。神との関係は信により心魂の根源からのものであることが求められている。神はご自身が「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)を介して人類に信実であったとき、ひとは信じるのか、それとも裏切るのかが問われているからである。われらはその啓示の故に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられる。イエス・キリストにおける神の前の信をそのつど自らのものと信じるよう招かれている。ここに信の二相がある限り、われらは決してイエスを祭り上げることを通じて自己を祭り上げる党派根性はブロックされている。信は根源的なものである以上、神との関係においては他の道は拒絶されているが、ひととの関係においては個々人の心的態勢は強い弱いが帰属する相対的なものである限りにおいて、自らの信仰も啓示の媒介となったイエスの信のようなものではありえない以上、他者に対して寛容となる。われらはあくまでその都度自らの業を誇り、自己を栄光化する業の律法のもとに生きることから悔い改めを介して信の律法に立ち返るのである。そこに党派主義に陥る余地は構造上残されてはいない。

7 結論

 ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。

 

 

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)―聖書の死生観における死の二重性序論―

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キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―