キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―
キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―
日曜聖書講義 2021年7月25日
聖書箇所
「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、彼はわれらと一緒に[あなたに]つき従おうとしないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。
1 はじめに
このところ、学寮の先輩立花隆氏の逝去の報せなどを契機にして、「何を為しても赦されるか」、「イエスとパウロ」、「信仰にはマジックはあるのか」という主題で、道徳不用論と信仰の関係、信仰と正義と愛との関係について学んできた。あるひとは「頭をフル回転させて聞いた」と言っていたが、これらキリスト教神学の中心となる概念をめぐる神学的議論は難しかったかもしれない。これらの議論の以前には、今年度は「福音書」を中心にイエスの憐み深さについて、本来性と非本来性のコントラストの知識との関連で学んできた。信仰と憐みの関係は深いものがあり、今後もこの二つを中心に学んでいきたい。
今日は先週のテクスト(Luk.9:46-8)の続きを学ぶ。先週は前講で、Y君から小学校時代の暴力少年S君との交わりにつき聞いた。母上は彼を何とか守ろうとしつつ、「敵をも愛せよ」という教えを伝え、共に祈った。彼は一学級しかない学校で六年間、劣悪な家庭環境で育った腕力強い少年に対しけなげに聖書の言葉に従って対応し、生きぬこうと苦闘した。彼のその葛藤が彼を心理学の勉強に導いた。
転校したらとか、教師がさらには政治が悪いという感想まで飛び出した。確かにイエスもパウロも「汝らの肉の弱さの故に」人間中心的な対応を認めている。親が教師などに相談し善処することは当然でもあろう。ある人は彼が小学校生活を棒に振ったと考えることであろうし、理不尽に思えよう。小学生にこのような状況は酷であり、自らの信仰を押し付けるべきではないとも言われよう。ただし、何であれ人間的に解決するとき、イエスの言葉に従う際の葛藤はないであろうが、イエスが共にいたまう喜びと平安を経験することもない。信仰とは心魂の根底において神の恩恵を信じて幼子のようにイエスの言葉と働きに従うことだからである。母上様は怪我が絶えない愛する子供とともに、憐み深い神を信じて聖書の言葉を信じて実践したのである。
父親に暴力を振られ続け連れ子に暴力を振るう劣悪な環境で育った暴力少年S君に対しイエスは深く憐れんだことであろう。その憐みをY君親子はキリストの弟子として示そうとしたのだと思う。
イエスの教えに従って生きようとすることは暴力にさらされ生命掛けとも言える。少なくともY君にとっては六年間暴力に耐えた。しかし、イエスに従おうとする者は自らがこの世界におけるイエスの救い主であることの証人であり、ひととして正しい人間理解のもとに生を紡いでいることを証する。歯を食いしばって、右の頬をうたれたら左の頬を向ける。キリストに従う道は狭くてまっすぐである。しかし、そこには人間の本来性を獲得したという喜びを伴う。偽りから解放されているからである。
神が公平に審判してくださるという信があるからこそ、神の怒りに任せ、自らはイエスの御跡にしたがう。「17誰にも悪に対して悪を報いることなく、あらゆるひとびとの前で善き事柄に配慮しつつ。可能なら、汝らの側からはあらゆるひとびとと平和を保ちつつ。愛する者たち、自ら復讐することなく、むしろ怒りに場所を与えよ。・・21悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:17-21)。
今日も、イエスの言行を学び、信仰とそこから生まれる憐みという心魂の態勢について学びたい。憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせることを明らかにしたい。
2 非本来性のうちに生きる者たちへの憐みー「より偉い者」とは―
先週の復習をする。ナザレのイエスは人として非本来性に沈む人々への憐みによって、癒しなど所謂奇跡により群衆から注目を浴びた。イエスに従っていく者たちのなかでペテロやヨハネら十二人は自分たちが「弟子」として選ばれたことに誇りに思ったことであろう。
イエスが十二弟子を伝道に派遣したさいに、彼は彼らに特別な力能を授けてこう語っている。「行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、皮膚病を患っている者を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(Mat.10:7-8)。イエスは憐みの故に人々を癒していたが、その力を彼らは授けられたこともあり、自分たちの尋常ではない力の行使を誇っていた。そのようななかで弟子たちは彼らのなかで誰が偉いかと心の中で推量し、また口にだして議論していた(Mak.9:38-41)。たとえば、誰がイエスの傍らに座るかなどの具体的状況のなかで、イエスは彼らの心の動きに気づき、幼子を傍らに招いて、「大きい」と「小さい」という比較について、見るだけで明らかな背の高さを比べて、ひととしての「偉さ」「偉大さ」の規準を提示している。
「より偉い」という言葉は文字通りには「より大きい」という物理的な量を示す単語である。傍らの子供は誰よりも小さい。イエスは「天の国はこのような者たちのもの」であるとして、幼子こそ天の国を継ぐ者であると語る(Mat.19:13-15)。偉大さの規準はその子を受入れ愛するか否かだとイエスは明確に語る。この世界で虐げられ、苦しめられるひと、弱いひとも小さい人たちであろう。イエスはことのほか、「地の民」と呼ばれる差別され、蔑まれた人々と共におり、励ましていた。「アーメン、わたしは汝らに言う、汝らがわがきょうだいであるこの最も小さい者たちの一人に為したものごとは、わたしにしてくれたのである」(Mat.25:40)。イエスは悲惨な状況におかれた学校に通うS君とY君たちに深い悲しみとともに憐みを感じられたことであろう。
イエスはより小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上でより小さい者は天国でより大きい偉い者であると主張する。そのことを明らかにすべく彼は自ら父とともにある偉大なる栄光を捨てて自らひととなった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ここで「似様性」という表現は自らの受肉故にまったきひとではあるが、その間神の前において神の子であることをやめなかったため、われら肉において創造された者とは「似た様」においてあると書かざるをえなかったのである。このような状況において、イエスは小さい被造物ひととなった。
イエスは創造者神よりも小さい「苦難の僕」として生きる自分を神の子として受入れるか否かを問うている。小さな寄る辺ない幼子を受入れることは自分を受入れることであるとイエスは主張する。というのも、イエスはその幼子を自らのこととして受け入れ愛しているからである。自らが愛している者を受入れる者は自らをも受け入れているのであり、天の父は自らを「天の父の子供」として受け入れておられるのであるから、「誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる」とイエスは主張する。
イエスがその者たちのために自らの生を捧げた罪人たちは、彼に敵対する者たちでもあったが、彼はそのような敵を受入れ愛したのである。イエスご自身は誰であれ敵を受入れ愛する者たちがご自身を受入れる者として受け止められたのである。われらと今共に過ごすY君が「敵をも愛せよ」の母の言葉に即して歯を食いしばってS君を赦し愛そうとしたのである。イエスの言葉への信頼、聖句への献身が憐みの感受性の基礎にある。敵に対して神の国における本来性から遠い者であるコントラストの認識にイエスには「憐み」が「はらわた」から湧き出てくる。われらはこのような感覚を持つであろうか。小さな者たちをさらには自らを責めさいなませる者に憐みを抱くであろうか。悪に対し悪で報いず、善により対応し、彼らの幸いを願う。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じる。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清める。イエスは人類をそのような仕方で受け入れ愛したのである。非本来性のうちに沈んでいる人類に深い憐みをいだいたのであった。
イエスはかたわらの幼子のように自らも父なる神により神の幼子として受け入れられ愛されていることを信じている。われらにとっては、その宇宙の創造者であり一切の秩序の源である偉大なる神が御子をこの世界に派遣した。その御子は栄光を捨てひととなり僕となったのである。この人類を受入れ、憐みそして救いだすためである。この低さ、小ささが神の国における偉大さを示している。イエスがご自身の栄光を捨て人類の救済のために受肉したこと、それが神の意志であると受け入れ信じることが、神の国における偉大さの規準である。イエスの一切の言葉と働きは自らが神の子としてこの世界に遣わされたという信により貫かれている。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じる。わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見る。わたしを信じる者が誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(John.12:44-47)。
イエスの謙りをこそ、われらは内側から身に着けたい。その低さのままで天国においては偉大なのであるとされる。イエスは偉大であり続けたが、この世界では軽蔑され、殴られ、殺された。その低さ、小ささこそ偉大さ、偉さを示しているのである。キリストの弟子であることを喜ぶ者には感受性が変化し、もはや人に偉大に見えることに何ら魅力を感じなくなる事であろう。
3 イエスの軛に繋げられる者は「柔和と謙遜」を得る。
このように小さな者になった方と共に生きるとき、見えてくるもの、感じることがらに変化がおき、イエスに似た者にされていくことであろう。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から次第に柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂き、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」になっていく(Gal.6:1,Mat.5:9)。
この喜びを経験するとき、二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。「汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であった。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである」(Rom.6:20-21)。
4 キリストにある一つの体の形成
イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。
キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。「わたしはまことの葡萄の木、わたしの父は農夫である。わたしに繋がっていながら、実を結ばない枝はみな、父は取り除かれるが、実を結ぶものはみないよいよ豊かに実を結ぶために清くしてくださる。わたしが語った言葉の故に、汝らは既に清くなっている。わたしに繋がっていなさい。わたしも汝らに繋がっている。葡萄の枝が、木に繋がっていなければ実を結べないように、汝らもわたしに繋がっていなければ、実を結ぶことができない。わたしは葡萄の木、汝らはその枝である。わたしに留まる者は、わたしもまたその者のうちにおりその者は多くの実を結ぶ、というのも、わたしを離れては汝らは何もなしえないからである」(John.15:1-5)。ここで「多くの実」とは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。
パウロはこのキリストとの繋がり、交わりこそひとを造りかえ一つの清められた体を構成すると主張する。「われらが賛美する賛美の杯はキリストの血の与りではないのか?われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか?パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:16-17)。
「まさに体は一つでありそして多くの器官を持ち、他方体のあらゆる器官は多でありながら一つの体であるように、キリストもまたこの様式においてある。というのも、われらは皆、それはユダヤ人であれギリシャ人であれ奴隷であれ自由人であれ、一つの霊において一つの体へと潜浸させられたからであり、そしてわれらは一つの霊を飲んだからである。というのも、体は一つの器官ではなく多くの器官だからである。もし足が、「わたしは手ではないから体からでていない」と言うにしても、この発言に即して足が体からでていない、というわけではない。また、もし耳が、「わたしは目ではないから、わたしは体からでていない」と言うにしても、この発言に即して耳が体からでていない、というわけではない。もし体全体が目であるなら、聴覚はどこにあるのか。もし全体が聴覚であるなら、嗅覚はどこにあるのか。
しかし、今や、神はそれらの器官を据えたのであり、それら器官のそれぞれ一つのものは神が意図した仕方で体のうちにある。もしあらゆるものが一つの器官であったなら、体はどこにあるのか。しかし、今や、多くの器官があり、体は一つである。目は手に対して「わたしは君を必要としない」と言うことはできない、或いは今度は、頭が足に対して、「わたしは君たちを必要としない」と言うことはできない。それどころか、体のより弱いと思われる諸器官は一層必要なものごとが内属することがある。さらに、われらがかたや体のより尊ばれないと思うものどもに関してわれらはそれらに一層尊いものを授けた、またわれらの見栄えの良くないものどもはより一層見栄えのよいものを持つ。われらの見栄えのよいものども[例えば、顔]はその必要を持たない。むしろ神はより劣っているものに一層の尊さを与えることによって体を統合した、それは体に分裂がなく諸器官が互いに同じものごとに配慮しあうためである。もし一つの器官が苦しむなら、すべての器官が共に苦しむ。もし一つの器官が尊ばれるなら、すべての器官が共に喜ぶ。汝らはキリストの体でありそして諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:12-27)。
「ローマ書」12章ではこう展開される。「12:3わたしに賜った恩恵を介してわれ汝らのうちのおのおのすべてに告げる、思うべきことがらを超えて思いあがることなく、むしろ神が各自に分け与えた信仰の量りに応じて、思慮深くあるべく思うように。4というのも、それは、まさにわれらはひとつの身体に多くの器官を持つが、器官すべてが同じ働きを持つことはないように、5そのようにわれら多くの者もキリストにあって一つの体であり、一人に即して互いに器官だからである。6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、7あるいはもし奉仕を持つならその奉仕において、あるいは教える者はその教えにおいて、8あるいは勧めを為す者はその勧めにおいて、分け与える者は端的に、指導する者は熱心に、憐れむ者はほがらかに[賜物を用いよ]。9愛は偽りなきものである。悪を憎み、善に親しみつつ、10互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とし、11熱心に怠けることなく、霊に燃え、主に従僕し、12希望において喜んでおり、艱難において忍耐し、祈りに固着し、一三聖徒の必要において分担し、旅人のもてなしに勤めている。14汝らを迫害する者たちを祝福せよ、祝福せよそして呪うな。15喜ぶ者たちと共に喜び、泣く者たちと共に泣くこと。16互いに思いを同じくし、高ぶった思いを抱かず、低き者たちと共にありつつ。汝ら自らの側で賢き者となるな」(Rom.12:3-15)。
われらはキリストにつらなる体の各部位である。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。
神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。われらは「一人に即して互いに器官である」。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。
この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。
人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。
[講義では時間切れとなり、来週の予告を兼ねて黒崎先生による分派主義の分析を紹介して終わりました(この部分録音あり)。来週1学期の最後の講義として「キリストにある一つの体(2)」として続きを講義します。]