小さな者が「より偉い」

小さな者が「より偉い」

                       日曜聖書講義 2021年7月18日

[録音では或る事情により予定したものより短いルカ9:46-48の範囲で「より小さい者」が「より大きい(偉大である)」ことについて話した。録音にあわせ、原稿として用意したものの一部を掲載する。次回に、信の二相の判別によりひとは党派心に陥ることなく信仰を持つことができることをルカ9:49-59の範囲で論じたい]。

 

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、というのも、われらと一緒に[あなたに]彼はついてこないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 この何週か、朝礼拝の話や学寮の先輩立花隆氏の逝去の報せなどを契機にして、「何を為しても赦されるか」、「イエスとパウロ」、「信仰にはマジックはあるのか」という主題で、道徳不用論と信仰の関係、信仰と正義と愛との関係について学んだ。あるひとは「頭をフル回転させて聞いた」と言っていたが、これらキリスト教神学の中心となる概念をめぐる神学的議論は難しかったかもしれない。最近三度のこれらの議論の以前には、「福音書」を中心にイエスの憐み深さについて、本来性と非本来性のコントラストの知識との関連で学んできた。ふたたび、福音書を中心にして、イエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせることを明らかにしたい。イエスにならい、ひとの心の奥底に認知的そして人格的力能、可能性として宿っている憐みという心魂の態勢について学び、獲得したい。

 

2 非本来性のうちに生きる者たちへの憐みー「より偉い者」とは―

 ひとはしばしば自らを他人と比較する。容姿について、生まれ、仕事、所得、人格、知識、家族、友人、恋人等について、たとえ口に出して言わないとしても比べてしまう。背後に競争心があり、恐れがあり、誇りがあるからである。ナザレのイエスは人として非本来性に沈む人々への憐みによって、癒しなど所謂奇跡により群衆から注目を浴びた。イエスに従っていく者たちのなかでペテロやヨハネら十二人は自分たちが「弟子」として選ばれたことに誇りに思ったことであろう。

  イエスが十二弟子を伝道に派遣したさいに、彼は彼らに特別な力能を授けてこう語っている。「行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、皮膚病を患っている者を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(Mat.10:7-8)。イエスは憐みの故に人々を癒していたが、その力を彼らは授けられたこともあり、自分たちの尋常ではない力の行使を誇っていた。そのようななかで弟子たちは彼らのなかで誰が偉いかと心の中で推量し、また口にだして議論していた(Mak.9:38-41)。「心の」なかでの思案ということは、やはりそれは主が喜ばれないという思いがあったから、公に議論することは憚られたのであろう。たとえば、誰がイエスの傍らに座るかなどの具体的状況のなかで、イエスは彼らの心の動きに気づき、幼子を傍らに招いて、「大きい」と「小さい」という比較について、見るだけで明らかな背の高さを比べて、ひととしての「偉さ」「偉大さ」の規準を改めて提示している。

 「より偉い」という言葉は文字通りには「より大きい」という物理的な量を示す単語である。傍らの子供は誰よりも小さい。イエスは「天の国はこのような者たちのもの」であるとして、幼子こそ天の国を継ぐ者であると語る(Mat.19:13-15)。偉大さの規準はその子を受入れ愛するか否かだとイエスは明確に語る。この世界で虐げられ、苦しめられるひと、弱いひとも小さい人たちであろう。イエスはことのほか、「地の民」と呼ばれる差別され、蔑まれた人々と共におり、励ましていた。「アーメン、私は汝らに言う、汝らがわがきょうだいであるこの最も小さい者たちの一人に為したこものごとは、わたしにしてくれたのである」(Mat.25:40)。

 イエスはより小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上でより小さい者は天国でより大きい偉い者であるということの確認に基づき、彼は父なる神よりも小さいこの地上のイエスを神の子として受入れるか否かを問うている。小さな寄る辺ない幼子を受入れることはイエスを受入れることである。というのも、イエスはその幼子を自らのこととして受け入れ愛しているからである。自らが愛している者を受入れる者は自らをも受け入れているのであり、天の父は自らを「天の父の子供」として受け入れておられるのであるから、「誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる」とイエスは主張する。

 イエスがその者たちのために自らの生を捧げた罪人たちは、彼に敵対する者たちでもあったが、彼はそのような敵を受入れ愛したのである。イエスご自身は誰であれ敵を受入れ愛する者たちがご自身を受入れる者として受け止められたのである。この感受性が憐みの基礎にある。敵に対して神の国における本来性から遠い者であるコントラストの認識に彼には憐みがはらわたから湧き出てくる。われらはこのような感覚を持つであろうか。小さな者たちをさらには自らを責めさいなませる者に憐みを抱くであろうか。悪に対し悪で報いず、善により対応し、彼らの幸いを願う。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。イエスは人類をそのような仕方で受け入れ愛したのである。非本来性のうちに沈んでいる人類に深い憐みをいだいたのであった。

 イエスはかたわらの幼子のように自らも父なる神により神の幼子として受け入れられ愛されていることを信じている。われらにとっては、その宇宙の創造者であり一切の秩序の源である偉大なる神が御子をこの世界に派遣した。その御子は栄光を捨てひととなり僕となったのである。この人類を受入れ、憐みそして救いだすためである。この低さ、小ささが神の国における偉大さを示している。イエスがご自身の栄光を捨て人類の救済のために受肉したこと、それが神の意志であると受け入れ信じることが、神の国における偉大さの規準である。イエスの一切の言葉と働きは自らが神の子としてこの世界に遣わされたという信により貫かれている。

 

3 山上の説教から導出される信の根源性

 イエスには偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。しかし、聖書はその特別視を一概に否定しているわけではなく、「汝の隣人を、汝自身を[愛する]如くに、愛せよ」と言い、「われ」と「汝」のあいだの「等しさ」を主張する。ひとりひとりとのあいだに、支配からも支配されることからも自由となり相互の等しさが出来事になるとき、もはや自分を特別視していることにはならない。ひとは愛が出来事になるとき、自らの良心が宥められていることにであう。喜びがあるからである。

 しかし、悪人に手向かうなという命令はどうであろうか。所謂イエスの「無抵抗主義」である。自分に関しては、ちょうど殉教者たちが不思議な平安に満たされたときのように、可能かもしれないが、自分の愛する者がそのような状況にあるとき、看過することはできないように思われる。「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、神はわれらにモーセ律法の同害報復のように比較比量的な対応とは異なる、比較を絶する善をイエス・キリストの信を介して人類に示した。比較考量の世界では決して良心に平安を得ないのである。業に基づく正義とは別に信に基づく正義の領域が開けてくる。このことが想定されるとき、右の頬を打たれて逃げたり、愛する者のために正当防衛を試みることが完全には神の御心に適うものではないのではないかと思われてくる。神の想いはわれらの想いと異なる(Isaiah.55)。  偽りは究極的には神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すことに他ならない。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。「それ故にわたしは汝らに言う、汝らが何を食べ、何を飲もうか汝らの魂によって思い煩うな、また汝らが何を着ようか汝らの身体によって思い煩うな。魂は食べ物より以上のものであり、身体は衣服より以上のものではないか。空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる。汝らは鳥よりも一層優っているのではないか。汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の悪しきものごとはその日だけで十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。

 

4結論

 天国では偉さの規準が異なる、神の子が栄光を捨てて弱き肉となり、父なる神への信の従順を貫いた。それにより父なる神は小さな者を受入れる者であることを知らしめた。この世界でより小さな者が天国では偉い者である。イエスのこの憐みの感受性は天国にふさわしい神に似せて造られた人間がこの地上において羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて生きていることに対する反応であった。山上の説教は道徳的次元における偽りを摘出することにより、道徳的次元では神に正しくあることはできないことを示している。業のモーセ律法を純化したうえで、良心に訴え、業のモーセ律法を内側から破り、イエスは信仰に招いたのであった。まず神の国と神との正しい関係を求めるように。ひとは信仰により神との正しい関係にはいる。その霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないものは神の国を求める。小さな者はこの世に頼るものがないからこそ、祝福されたのである。信じることが残されているからである。だからこそ、より小さい者が天国においてはより偉いのである。

 

Previous
Previous

キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―

Next
Next

信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―