信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―
信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―
7月11日 日曜聖書講義
聖書箇所
「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。
1はじめに
先週は道徳的次元とは異なる宗教的次元というもののあることをお話した。それに伴い心魂にも自然的な肉の次元の底に神の働きに反応できる「内なる人間」と呼ばれる部位のあることを示唆した。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)とは心魂におけるこの根源性を表現しており、その根源から生きるときひとは神と正しい関係にはいいるとされる。ルターは心魂の根源性を「信仰のみ」と表現した。心魂を肯定的、創造的に秩序づけ統一する信が道徳的次元をも秩序づける。信仰に生きるとき、律法即ち道徳を守り満たすことができる。神とひと双方を媒介するものが信仰であり、正しい信仰は道徳的次元以前の超越的な神との人格的な関係を正しいものにすると理解されてきた。神はアブラハムへの約束に信実である正しい方であり、イエス・キリストにおける福音の啓示においてご自身の義を最も明白に知らしめた。
今日は人間的な理解として、道徳的破産者であった者が信仰によって道徳的要求を満たすことができるようになるとしたなら、信仰には何らか魔法的な効力があるのではないかという問いに応答したい。「信仰・信」には明確な説得的議論を展開できることの一端を示したい。
天涯孤独、寄る辺なき、援けなき、他の何ものにも縋ることのできない状況において、藁にも縋る思いで神の援けを信じるということがおきる。信仰には人間の認知的、人格的実力いかんにかかわらず、特別な力が与えられるのではないかが期待されてきた。ひとはそれを「聖霊の援け」と呼んできた。イエスはそれを約束しておられる。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7)。
パウロは見えない聖霊が「霊の果実」としての愛や喜び、平安を引き起こすとエヴィデンスによる論証を遂行した。「霊の果実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、信、柔和、節制である」(Gal.5:22)。風のように自由に吹く聖霊は超自然的な魔法的な力であって、理性的な理解を拒絶するそのようなものであろうか。二千年続いてきたこの宗教において、ひとはそのつど不思議な力をいただいてきたことを言葉と行為において証してきたが、その心的事実は否定されないであろう。理性に反する端的な狂信、パトス(情動)に引きずられる端的な迷信であれば、それは歴史のなかで淘汰されていたことであろう。
実際、パウロは福音において啓示された神の意志を一般的な仕方で知ることができると主張している。彼は「叡知(ヌース)」という不可視なものに対する接触知について明確な理論を提供している。「叡知」は感覚や良心のように瞬時に働く認知的な機能であり、これは「内なる人間」と呼ばれる心魂の部位に宿る。今日はこの叡知については語ることができないが、その叡知が発動するさいに伴う聖霊について少し説明する。この聖霊について聖書は明確に人間の心魂の態勢(たいせい、かまえ)そして働きとして受け止める「内なる人間(ひと)」と呼ばれる部位があると語り、それを様々なエヴィデンスのもとに説明している。「たとえ外なる人間(ひと)は衰えていくにしても、内なる人間(ひと)は日々刷新される」(2Cor.4:16)。この所謂「二番底」の働きの最良のエヴィデンスは喜びであることを明らかにしたい。
2道徳不用論
ひとは救われたいという願望から信仰に魔法・マジックを帰属させてきたのではないか。この最初の躓きは、どんなに悪い人間でも信じるだけで救われるという主張から生まれてくる。ひとはそこにモラルハザード(道徳的危機)を見てきたのである。この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得を要求する魔法の言葉なのであろうか。それなら潔しとせず、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。
確かに、信仰の持つダイナミズムを表現するために、道徳不用論が語られることがある。実際、パウロも後述のように「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界において生きることをやめたと語っている。とはいえ、それはキリストとの新しい生命の関連において語られており、道徳は新たに秩序づけられている。
パウロは明晰に理性において理解できるよう「知恵の説得的議論」と呼ばれる論証を「聖霊」に対する一切の言及なしにディアトリベー(談論風発)と呼ばれる様式において展開している(1Cor.2:4)。実際、「ローマ書」における信仰義認論と予定論(選びの教説)には一切「聖霊」という言葉が見られない(Rom.1:17-4:25,9:6-11:36)。他方、「ローマ書」5章から8章においては「霊と[神の]力能の論証」と呼ばれる、人間の肉の弱さを前提にして聖霊の援けのもとで霊的な秩序づけの議論を展開している(1Cor.2:4)。
パウロは「ローマ書」で4章までにおいて信仰義認論を理性のみにて展開したあと、5章から8章まで聖霊の働きに訴えて信徒には道徳は無用である、旧約以来連綿として伝えられてきたモーセの業の律法のもとにいないと説得する。「罪は汝らの主人とはならないであろう。それは、汝らは律法のもとにではなく恩恵のもとにあるからである」(Rom.6:14)。
内村鑑三は「律法のもとにない」とは律法が不用であるということだとしてこう主張する。「律法が全く廃滅してしまうかまたはわれらが律法に触れぬほど潔(きよ)まるか、いずれにしても律法なるものと事実上絶縁してしまうということが必要である。一言にして言えば道徳不用である、故にすこぶる革命的である、したがってこれを誤解するときは可成り危険である、しかしながら誤解を虞(おそれ)てこの大切なる真理を敬遠することは出来ない、人は実に道徳不用の境地に一度到達せずしては真の信仰の喜ばしさ、貴さを知ることは出来ない、もちろん「聖潔」は道徳不用の境[究極地点]である、されば道徳廃棄は人をして真の信仰と聖潔に至らしむべき必須なる要因である、道徳の下にあるとき人はおのれの罪を悟らされるのみで、決して信仰の歓びと聖潔のさいわいに至ることは出来ない、この道徳を一蹴したるところに生命も安心も歓喜も起こるのである、七章一節―六節はさらになおこの道徳不用の主張である」(『羅馬書の研究』全集26p.259)。
「ローマ書」7章4節以下にはこうある。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。信じる者を救い出す福音が知らしめられたことの故に、ひとは業の律法から解放され、信じることにおける霊の新しさのもとに生きることができるようになった。石板であれ紙であれそのうえの文字としての律法、法律、道徳訓はひとに力を与えない。罪が寄生し誘惑するからである。罪の誘惑は7章で展開されるが、今語ることはできない。
文字と対比されるのが霊である。ひとはここにマジックを見出すことであろう。霊の働きを信じられない限りにおいて、言葉や紙の上での人間のあるべき姿を表現するものでしかない道徳に対して、自らの態度を決定するしかない。ニーチェのように「神は死んだ」として、善悪をすべて嘗め尽くし、善悪の彼岸にいたる超人(スーパーマン)を目指すこともあろう。この道徳を道徳的次元それ自身において満たそうとするとき、常に罪に敗れてしまうとパウロは主張する。罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし、の人間は神や弥陀の憐み、慈悲に縋らざるを得ない。信仰にはマジックはないが、恩恵のあることを把握しなければならない。それにはまず信仰が喜びをもたらすのは、道徳的世界から解放されたところで、全知全能の正義にして憐み深い人格的神との恩恵の交わりにはいることによることを理解しなければならない。ナザレのイエスが自ら身代わりの死を遂げることによって無償の贈りものとして永遠の生命の希望の根拠を歴史のなかでうちたてたのである。
黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。
この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。黒崎先生によれば「本当の信仰」はその不当利得ではないかという懐疑を乗り越えるものであるとされる。パウロが「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界に即して生きることをやめたと語ることができるのは、それに代わる福音が啓示されたからである。そこでは善行を為すか為さないかという道徳的主体が問題ではなく、神が御子において人類に信実であったとき、信じるかそれとも裏切るかという心魂の根源における人格的関係が問題となっている。人間に求められているのは、憐み深く正しい神を裏切るわけにはいかない、神を信じついていこうというものだけである。この信仰が神との正しい関係を開く。これが信仰義認である。信仰義認論は神ご自身の信に基づく正義が啓示されたことを基礎にして展開されており、その信に基づく義は人間にも適用されることにより導かれる。
3信に基づく正義と憐みの成就―神による甦らし「へ」のイエスの道と「から」のパウロの宣教―
ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。
パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(Mat.5:48,cf.Ps.139)。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。これが人格的義である。それに対し、モーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。神の義の一方を「人格的正義」と呼び、他方を「司法的正義」と呼ぶことにする。
常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。
パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化の故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた(ここで「義化」とは「義とすること」の名詞表現である)。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。
4復活を信じうることに伴う喜び
十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。もちろん、科学は例えばあらゆる物質を通過する素粒子の研究などにより知見を重ね、一般的な仕方でドアを通過し、脇腹に槍穴のある質量をもつ三次元の存在者についてのその科学的仕組みの解明に向かい続けるであろう。そういう意味で現在われらに不思議に思えることがらの一般的な探求とその解明は蓄積されていくことであろう。とはいえ、復活は優れて信仰の対象であり続けるであろう。一般に信念は知識をもたずにも、或る命題を真理であるという信念をいだく知識以前の認知的働きだからである。そして預言されていることとして復活は終わりの日にしか個々人には救いとして体得的知識とならないそのようなものだからである(Phil.3:8-11)。キリストの来臨に伴う終わりのラッパと共に死者が呼び起こされる。その再臨信仰を基礎づけるものがキリストの復活である。
パウロは天国も黄泉もキリストへの言及なしには理解できないことがらであるとして、信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うことがらだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教にとりくみ、死者の復活について語り始めると、「われらはこのことについてはまたあなたから聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11)。肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることできることそれだけで喜びであることを含意している。
種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らにこの生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは山上の説教の「祝福されている」と八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて良き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。
主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。
モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。子供の治癒を懇願する男性の願い方に反応し、イエスは応える。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mak.9:23)。「できる」というその力能は宇宙万物の創造者にして救済者である神にいたるまで一切との秩序を回復させる心魂の根源的態勢としての信である。秩序のもとにある信にあらゆる肯定的な力能が含まれるとして、そのあらゆるものごとは神においてそうであったように当然愛の業に秩序づけられ収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。
5結論
ひとは信仰には魔法があると思っているかもしれないが、パウロはこれだけの人間一般の心魂の分析のもとに復活という歴史のなかで生起した一度限りの尋常ならざる事件を受け止めたのである。そこにマジックがあるのではなく、恩恵があると。