枡形夏の聖書講義2 パンデミックと聖書(その一)-イエスの山上の教えー
枡形夏の聖書講義2
パンデミックと聖書 (その一)―イエスの山上の教え―
2020年8月22日
序
2020年のオリンピックイヤーはパンデミック一色となり危機の年となった。新型コロナウィルスは衰えを知らず、世界を飲み込んでいく。医学の進んだ現代、人類はこの新たな脅威に迅速に対応することであろう。ここでは門外漢のわたしに医学的知見を述べることはできない。この感染症の世界的蔓延に対してひとはどのような心の在り方をできるかについて、歴史の審判を経たものとして人類が最も読んできた聖書に即して語りたい。ひとがひとに病という悪を介して悪影響を与えそしてそれを感染伝播させ再生産を繰り返すその根本にあるものとそれをいかにブロックするか、について聖書の知見を二回にわけてお話ししたい。
この四か月、登戸学寮の日曜聖書集会においてマタイ福音書5、6章において展開される山上の説教を学んできた。その視点を手掛かりに今回のパンデミックについて聖書的なメッセージ(使信(Botshaft))をお伝えしたい。二心なき心の清い者はただ神に嘉みされることだけを求めて行動を選択する。コロナ禍における選択もさしていつもとかわらない。山上の説教をそのまま生きることである。「神の国と神の義」を「第一に」求め、神はひとびとに必要なものを「一切ご存知であること」を信じて、何を着ようか、食べようかと「明日のことを心配しない」で今日為すべき労苦に取り組むことである(Mat.6:32-34)。そこでは感染するかもしれないし、感染しないかもしれない。感染した人をもまた感染した人々を攻撃する人々に対しても「裁くな、裁かれないためである」という戒めのもとに、その現実を受け止めることである(Mat.7:1)。ただ、善人にも悪人にも穀物の成長のために雨を降らす神は、善人にも悪人にも立ち帰る試練を与え給うことであろう(Mat.5:43-48)。それらはすべて神の国を求めることを願っている神のご計画に属することであろう。
山上の説教に見られるこの終末的な生の日常的な在り方、これはなにかとても単純な応答である。「天の国の報いは大きい」(Mat.5:12)。これは利益の最大を目指す功利主義的な思考というよりも、地上での名誉や評判を得た場合には、「報いを受けとってしまっている」(Mat.6:2)と言われるように、そこでは地上の報いに加え天国の報いを得ることは過剰となり正義における等しさが崩れることからそう語られている。この等しさの正義において「報い」はまず理解されねばならない。それに続いて、この全世界を得ても、自らの生命を失うなら何の得にならないという功利主義的な理解も許容されている。
この彼岸を規準とした行動規範は単純すぎてそしてあまりに浮世離れしていて、これは現実に健康不安や経済不安に苦しむ世界中のひとびとに指針となる応答を与えているのであろうか。信じる者個々人の対応としてはこれで十分であるにしても、世界、社会の立場はこのような個人の立場とは異なっており、肉の弱さに譲歩した現実的な対応が求められているのではないだろうか。ひとびとはこの二千年間、山上の説教を聞いて、審判や誓いの拒否さらには無抵抗の勧め等の教えに、常に裁判制度はどうするのか、防衛はどうするのか等の問いを差し向けてきた。ひとびとは心の内的な動機付けのみが問われているという心情倫理と、その動機付けを一旦棚上げし考慮せず、動機はいかなるものであれそこで為されたことがらの結果、影響が問われているという責任倫理を分けて、政治などの責任ある立場の者は山上の教えをそのまま取ることはできず結果責任から政策などを選択せざるをえないとしてきた。この教えは個々人の心魂の在り方としては人類の理想的な動機を示す規範であり、もちろん、その動機付けから行為の結果に至るまで秩序づけられ正義が実現されるなら申し分ないが、現実世界は多様、複雑そして混沌であり、ひとびとは言ってみれば人類最高の道徳の教えを希釈して現実と妥協しつつ受け止めてきた。
信じる者個々人の対応としては山上の説教一つで十分だとして、しかし、小さいながら一つの共同体の管理・運営の責任を持つ身としては、このような個人の立場とは異なる、肉の弱さに譲歩した現実的な対応が求められているのではないだろうか。学生の生身の心身の健康を守ることを責務とする身として、神の国と地の国のバランスが求められているのではないだろうか。この点を二回にわたる「パンデミックと聖書」において考察したい。
1運命共同体と個々の責任
ここで、ひとびとが共約的につまり誰であれ同じ物差しのもとで計測できる、誰もが同意できるであろう一般的な規範について確認したい。今回の病気の特徴は、罹患者と医療者だけの問題ではなく、それが他者と感染を介して影響を与え合うことである。このたび、ひとりの人の行動が他の人に不可避的に善悪をめぐって影響を与える医療的であると同時にとりわけ道徳的な状況が出来した。あたかもすべてのひとが覆面をかぶっているかのごとくに、疑心暗鬼のなかでひとと接している。他者への関わり方、とりわけ物理的、心理的距離感がその都度問われている。普段、ひとに迷惑をかけない限り、自由に振舞ってかまわない、当事者間で同意があればその行為の選択がいかなるものであれ問題はないという認識の人々も、自分は知らずに感染させる、或いは知らずに感染させられるその可能性のなかで他者と交わる。自らに感染させた者への怒りと呪い、自らにより感染させられた者に対する良心の咎め、そのような道徳的状況が感染症においては露わとなる。
誰もが感染を通じて他者を死に至らせる可能性のもとにある。ひとに感染させ、それが重篤化させた場合、どのように責任を取ることができようか。自分も感染させられたのだから、生物上同じ生理的構成にある者たちの集まりという意味での運命共同体として仕方のないものであったと割り切り、双方水に流すのであろうか。そこでは善悪も、責任も問われないのであろうか。ここでの「運命共同体」という語句によって、生物的共同体が理解されているが、ひとは生物的に制約されつつも道徳的存在者であり、その共同体に帰属する者たちはそれぞれに責任を伴うものとして理解されよう。さもなければ、誰も責任を担わない烏合の衆であり「共同体」の名に値せず、ただ地球という同じ船に乗り合わせたという偶然以上のものを意味しないであろう。
この状況のなかで、わたしどもは、ひとの在り方として感染させるより、感染させられる方がよいと受け止めているか、が問われている。誰かを隔離するより、隔離されるほうを選ぶかが問われている。これは古くからの議論であり、ソクラテスは不正を犯すよりも不正を受けるほうがよいと判断していた。心魂の在り方として不正を犯す心魂は劣悪な劣ったものだからである。何をするにしても、心魂を優れたものにするものが善であり、どんなに利益を得ようと心魂を劣悪にするものが悪である。これは山上の説教においても同意される。「悪人には手向かうな、右の頬を打つ者には左の頬をも向けよ」(Mat.5:39)。
共同体には対話と同意による内的な秩序が不可欠である。これが神から相対的に独立した存在者として、また神の前の義と罪に対して「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在にある存在者としてある人々の集合体の責任であろう(Rom.6:19-20)。共同体という一つの制度は神の前に義とされる可能性を持つものであり、よりよい制度は神の国から相対的に独立しつつも、人間的に理解する限りのことであるが、神の前の生命を生み出しやすいそのような、正義による秩序づけられた支配、さらには永遠の生命に方向づけられるような人間の責任の範囲内の制度のことであろう。もちろん神の自由は侵害されず、全体主義的な独裁国家においてさえ、神はそのなかで永遠の生命を付与することでもあろう。そのこと、すなわち神の思いは人類の相対的状況に影響されないことは、人類は歴史の教訓に学びつつ、公平で各人の人権および自由を保障するより良い社会を求めてきたことを無意味な試みとして否定しさられることはないであろう。各人の責任において自らの行為を選択することができない社会や共同体は山上の説教の理解する人間の本性、即ちひとは道徳的存在者としてどこまでも各人の良心が問われること、にも適合しないであろう。善と悪が判別不能であるような社会においては、良心を麻痺させやすいそのような共通認識、共知(con-science良心)を醸成することになろう。もちろんかえってそれだからこそ、神との共知としての良心の宥めに至ることもあるであろう。これはあくまでも相対的な話である。しかし、小事に忠実であることをイエスは求めてい給う。
2小事に忠実なる者が大事に忠実である
ひとは自らの不公正や、不正義そして無慈悲に良心の咎めを感じてきた。イエスは良心の咎めが宥められる、心魂の根源的自由のもとでの内側からの納得に至る信に基づく義を自らの人生をかけて提供した。福音の納得を得ることを妨げない、或いはより容易にさせる人間的与件というものはあるのであろうか。これは神と個々人の関係であり神の選びの自由に属する限り、人の側から明確なことを語ることはできない。ただし、信教の自由や教育の機会を得ない人々は山上の説教にアクセスする機会さえ与えられないことでもあろう。イエスは「不正な管理人」の譬えにおいて、この社会が金銭をめぐり完全に正義ではありえないとする。人間同士の約束のもとに紙に数字を印刷した金銭に関して、誰もが完全に正義であるということはない。それは、例えば労働の対価としての金銭を支払うという人間的な正義のもとに、黙々と自然資源を提供するマザーアース(母なる地球)からの搾取を正当化したり、富者の富は貧者からの搾取であったりさらには所有が窃盗でありうるそのような状況を想定すれば同意されよう。この前提のもとに、イエスは言う、「最も小さなものに忠実な者は大きなものにも忠実である。最も小さなものに不忠実な者は大きなものにも不忠実である。だから不正な富について忠実とならなかったならば、だれが汝に本当に価値あるものを任せるであろうか」(Luk.16:11)。「善かつ忠実な僕よ、汝は小事に忠実であった、わたしは汝に一層多くのものどもについて任せよう」(Mat.25:23)。それゆえに、相対的自律性をもった人間社会は天の国との関連において小事であったにしても、それに忠実でなければ、天の国についても忠実であることはできないとされる。そのことは、イエスを信じる者にとっては山上の説教が伝える「まず神の国と神の義」を求めよということ、そしてそれに伴う心魂の完全性を求めることにこの現実世界の大小様々な営みすべては方向づけられていることを含意している。
小事と大事はタラントの譬えに見られるように相対的であるが、現在は三密を避けること(密閉を避け換気すること、密集を避け距離をとること、不要不急の密接を避け独りの時間を多くとること)など小さなことの積み重ねが感染防止になることであろう。わたしどもが直面している現実的な喫緊の課題は医療を崩壊させないことそして同時に社会を崩壊させないことである。これは誰にも同意されよう。身近には例えば一つの共同体である登戸学寮を崩壊させないこと、それが個々の構成員の責務となる。これらのことに忠実であることが求められている。医療と社会を同時に保持することは緊張の伴うものであるが、責任ある者の態度としては自らがその枠のなかに置かれている双方を念頭に置きつつ個々の行為が選択されることになる。生活者である限りゼロリスクはありえず、そのなかで、例えば、自分なりの道徳規範のもとに、他者に危害を与えないよう留意したかはやはり自らの責任内のことがらであろう。ひとは与件(given)のなかで、例えば社会のなかで生きていかざるをえない。望ましくない与件であったにせよ、その現実の状況から歩みだす以外にない。イエスは「主よ、主よ」と言いながら天国のことだけに関心を持つ者が天国に入るとは限らず、彼は、これら小事にも忠実であることを求めている。彼は信仰熱心な者たちに、「汝らのことは全然知らない、不法を働く者ども、わたしから離れされ」と言い、また「わたしの天の父の御心を行うものだけが天国に入る」と言う(Mat.7;21-23)。山上の説教はこうまとめられている。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聴くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(Mat.7:24-27)。
3 不知ないし無知なるものを前にした信の根源性とそれがもたらすヴィジョン
現在、自分は感染しているかもしれないという前提のもとに行為を選択することは、ひとびとに明確な行動規範を与える。それはちょうど結婚した当事者が既婚であるという制約のなかですべてが営まれるように。同様に、ナザレのイエスの信の従順の生涯を介して啓示された神の罪の赦しの福音のもとでは、自分は神の前に或る視点(「業のモーセ律法」)のもとでは罪を犯したと看做されているという認識が悔い改めてもはや業の律法に死に、「信の律法」すなわち福音のもとに新たな自己を受け止めることに導く。イエスの生涯はひとを業のモーセ律法の枠組みから解放し信の律法のもとに、一切の営みを遂行することを可能にしたことであった。そして同時にそれによって業の律法が収斂する愛を実現する道を指し示したことである。
ひとはすぐ高ぶり、自らの不都合な真実に気づかないまたは気づかない振りをする。双方とも自らの現状の無知が行為選択の不確定性を与えるなかで、この制約の枠組みのなかでは、つまり自ら感染しているないし罪を犯しているという自覚においては、ひとつの信念のもとに行為すること、総じて生きることが形成される。後で詳しく述べるように、神は誰であれ業のモーセ律法のもとに生きる者は怒りの対象であり、悔い改めを必要としていることを歴史のなかで明らかにしている(Rom.1:18-32)。神の意志として一般的に義人とは「イエスの信に基づく者」のことであり、罪人とは「業の律法に基づくすべての肉」のことであることが啓示されている(Rom.3:20,26)。ただ個々人にはイエスの信の従順の生涯を介したほどには、またモーセ律法の啓示を介したほどには義人であるか罪人であるか明確に知らされてはいないため、神が愛であることを信じることは常に実質的である。
自らの過去も未来も一切を正確に知っていたなら、この来たりつつありまた過ぎ去りつつある現実世界においては、わたしどもの人生は存在しない。この現実世界では常に不確実性、無知を伴って行為が遂行される。何らかの信念を誰もが持っており、その信念について無自覚、無反省なときには具体的な行為は一貫性を欠くことになる。単に被感染を前提にするだけではなく、また神の前で失われた者であることを単に前提にするだけではなく、そのうえで感染をたとえ自分が犠牲になったとしても、各自の自覚により、伝播させず自分だけで留めること、抑えることができるという信念、また宗教的には自分の罪は赦された、人類の罪は神により十字架上で赦されたという信念が、ひとの行動を肯定的、創造的なものにしていく。自らの与件を引き受けたうえで、それを乗り越える信念が全体性のなかに現状を位置付けつつ肯定的行為を形成していく。これが与件の運命共同体のなかでの肯定的かつ創造的な振舞い方である。
運命共同体の行く末についてのヴィジョンなしに、構成員は同じ方向を向くことはないであろう。構成員各自において皆でこのコロナ禍を乗り越えるという気概なしには、抑制不能のまま漂うだけとなろう。宗教指導者の務めは神のご計画のヴィジョンをそのつど明確に伝えていくことである。このパンデミックのただなかで、手をこまねいて専門家に任せるだけではなく、自らパンデミックを神の国との関係において捉えなおし、ヴィジョンを示し導くこと、それが宗教に携わる者の務めである。
聖書は一切を正確に知り、正しく審判ししかも憐れみ深い神が今・ここで働いてい給うと主張する。この考えはわたしどもの人生に明確な規範を与える。従来、「お天道様に恥じない生活を」という仕方でたとえ明確な名前をもたずにも見えない存在者を念頭に、自分たちの生を全体的な枠組みのなかで築いてきた人々がいる。そのように、今回のウィルスのように小さすぎて不可視な存在者や、全体を知ることができず信念に留まる自己の本来の在り方のような不知を伴う対象にとりくむときの究極的な基準は、知識に基づく正義と憐れみある存在者をモデルにし、正義と憐れみ、双方の実現に向かうこと、それが最も本来的な生を築くことであろう。
これすなわち一切を正確に知り正義にして同時に憐れみ深い存在者への信念は一般的な仕方で妥当する。ひとはそのような信念を持つことはその特定の神を信じるよりは或るひとびとには容易な行動規範を与えるであろう。誰もが自己について世界について十全な知識を持っていないこと、しかし、その不定性のなかで何らかの信念のもとに行為を選択せざるを得ないことを認める。そうであるなら、つきつめるところ、その信念の対象が全知であり全能しかも正義にして同時に憐れみ深い神でなければならないであろう。
4山上の説教を生き抜いたイエス
今はグローバルな危機の中にあり、そのなかで宗教が貢献できるとするなら、それはひとびとに自分たちは無知や不知のなかに生きており、そのなかで行動を選択せざるを得ない状況において、明確な行動規範を与えるものを提供することである。そのなかで自らがその病に感染しているという前提、キリスト教的には神の前に業の律法のもとでは罪を犯しているという前提のもとに、真理の探究に向かいつつ、その真理に従うという従順で謙虚な態度が不可欠な基礎的構成要素となるであろう。さもなければ、自分も誰かに感染させられたのだから、感染させてもやむをえない、運命だったのだという無限連鎖を断ち切ることはできないであろう。ひとは心に決めなければならない、この疫病の蔓延の中で感染させるより、感染を被るほうを良しとすると。そしてその場合、自己の利益よりも他者の利益を優先させることをも含意する。そこではたとえ感染が不明であるにしても、あたかも感染しているかもしれないという前提のもとに行動が選択されることになる。それ以外にアメリカのCDCの担当者がout of controlと言っていたように、この国もいつまでも連鎖を断ち切ることはできないであろう。ただし、ウィルスが弱毒化し共存できるという状況になれば、ひとびとのcontrolをめぐる認識は変わることであろう。それは専門家に委ねられていることである。ともあれ、感染させるよりまた不正をなすより、感染を被ること不正を被ることをどう心の中で納得するか、受け止めるかが問われている。
無償の恩恵を説く福音は明確に身代わりを提案している。少なくとも福音書やパウロ書簡が報告する限りにおいて、ナザレのイエスがそれの霊によって神の国を渇き求め、ひとの本来性と現実の落差に大きな悲しみと憐れみをいだき、柔和に自らについてくるようにそして安息を得るように導いている。この世界の悲惨にたいし深い憐れみをいだき、天の父の御心のみを遂行することに集中する心の清さをもち、迫害のうちに無抵抗で平和を造りだす方であった。彼は山上の説教を実現したその方であった。
そして彼は死んでも死なない生命の主として今ここに共にいて励ましていたまう。パウロは言う、「イエスの死をいつも身体において担っているが、それはイエスの生命がわれらの身体に現れるためである。というのも、われらは生きていることによって常にイエス故に死へと引き渡されているのは、イエスの生命がわれらの死すべき肉において現れるためだからである」(2Cor4:10-11)。パウロはわれわれの肉がただしく霊に即して生きる限りイエスの生命の座でありうると主張している。「死すべき身体」と不可分離の生の原理である「死すべき肉」において十字架の死に至るまで信の従順を貫いたイエスに似た者になっていくとき、そこにはイエスの生命がそこに宿っていると言われる。
「イエスの死をこの身に負う」。ここで人間にとってぎりぎりの選択が迫られていることは間違いない。彼と共に迫害の死を引き受けることである。感染であれ、何であれ、取返しのつかない過去を持ってしまった者、取返しのつかない過去をもたされてしまった者には罪の赦しの権威をもちたまうこの方と共に生きる以外に良心のなだめ、平安、平和を得ることはないであろう。そこまで人間であることのぎりぎりの限界が語られている。山上の説教の言葉を希釈してはならない、少なくとも人類のなかで一人の人がこれを語ったという事実そしてこれを生きまた死んだという事実、このことはイエスを知りついていく以外に内側からの納得を生じさせることはないそのようなものである。パンデミックに対処する根源的な方法は一切を正確に知りそして正義でありかつ愛である神がイエス・キリストにおいて人類の救済を明確に知らしめたこと、そのことを信じることである。「神の国とその義」を信じることである。そこから少しづつこの地上において何が必要かをご存知の主が供え給うことであろう。