枡形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教

桝形夏の聖書講義1                                   2020年8月16日

生き抜かれた山上の説教

序言

 オリンピックイヤーであったはずの2020年8月、世界はパンデミックのただなかに苦悩しています。35度をも超える猛暑の日々、登戸学寮は60周年改修工事のまっさいちゅうです。多くの方々の若者への期待の証としてご寄付により学寮が整備されていきます。感謝です。多摩川から盛り上がる桝形山(標高85メートル)に囲まれた登戸学寮は5分も歩くと山頂につきまたその谷には蛍が舞う閑静な環境に位置しています。木々に囲まれ蝉時雨(せみしぐれ)が夏を絢どっています。

 学寮は毎朝の礼拝や食事の提供もない夏休みとなりました。留まっている学生は自炊生活となります。日曜の聖書講義も夏休みとなり、私はこの夏不定期に録音により聖書講義をお届けします。聖書に帰るたびに、平安と喜びをいただきます。この苦難の時代にあってこの喜びの福音をお分かち致したく存じます。この四か月マタイ福音書5-6章の山上の説教を学んできました。幾つかの自分なりの発見をいたしましたので、お伝えいたしたく存じます。継続的に聞いてくださっておられる方々には復習を兼ねて、いつも新たなメッセージを届ける聖書がもつその力、その生命に新たに触れることができますように。(録音では聖書引用箇所を厳密に語ることをしませんが、HP上の原稿により確認ください)。

1究極を語りそして生きるイエス

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方である。山上の説教においては、信仰が勧められることも、不思議なる業(わざ)所謂奇跡が遂行されることもない。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に立ちその誤りないしその不徹底さを指摘し、新しい急進化されたモーセ律法ないし究極的な道徳、新しい「教え」をただ言葉の力によって「律法学者のようではなく、権威を持っている者として」(Mat.7:29)展開している。その権威はどこから湧き上がってくるかと言えば、イエスご自身がご自分の語られることを内側から納得しており、そして単に言葉で語るだけで終わるのではなく、ひとびとにそれをそのまま生きる方であるというその気迫が伝わるそのような偽りなき人格を身に着けておられたからである。リアルタイムにその説教を聴く者たちには、彼の信実が伝わったことであろう。地の塩として大地を支える確かな堅固さと世の光としての翳りなき、清らかさと輝きが彼をつつんでいたことであろう。

 この説教は誰もが理解できる道徳の次元でその道徳上の究極が語られている。「道徳上」とはひとの善悪をめぐる判断の座である心魂の在り方のことである。道徳を主宰するのは各人における良心である。ソクラテスが「ダイモニオンの声」と呼んだもの、即ち心魂にごまかしや分裂があるときに勝手に痛みを伴い発動してしまう良心がそこでは道徳の座ないし主宰者であり、いかに主宰するかと言えば心魂の動きのそしてその帰結としての行為の監視役でありまた告発者となることによってである。

  もちろん監視役や告発者は慣習や悪に買収され発動を鈍らせることもあるが、良心の発動それ自身はひとの選択の外にあり自らのコントロールの外にある。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「何故私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為することになる」。「何故に?」を自他に問いかけているあいだ、そして「何故なら」と説明を与えたり、個人的な自己弁護しているあいだ、ひとはその根源から生きていず、懐疑や探究さらには保身のうちにある。「何故に?」の問いが伴うことなしに生起する、ある心魂の痛みを伴う発動、それは良心というものが各人の心魂の各人なりの根源的座であることを示している。

 ここに一つの問いが起きよう。一方、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼についていく者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないかという問いと懐疑である。イエスは言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄すべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画(イオタとケライア)たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。

 わたし個人としてはこれを語ったその人のゆえに、彼が怒りをもたらす告発者で終わるはずがないという思いがある。権威ある者として語ったそのひとがひとを欺くべく道理のない、ひとを苦しめるだけのことを語っているはずはないというこの思い、本当にひとはこの厳しい山上の説教という新しい教えを「成就する」ことができるのではないかというこの信念は個人的なものに留まるのであろうか。それともすべてのひとに妥当するものとなるのであろうか。もしこれがわたしだけの思い込みであるならば、山上の説教は福音ではないであろうし、イエスは福音を生きる方でないことはもとより、福音を言葉の上で告げる方でもないことになろう。

 権威ある者として語ったその方に偽りがなく、彼は山上の説教そのものに即して生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方であることが明らかにされねばならない。個人的には、山上の説教はイエスにより生命をかけて遂行されたということに立ち返るとき、厳しすぎてあたかも拒絶し告発するように見えるその人に、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」という言葉を信じてそのふところに入っていくしかないと感じる。そこにしか良心の咎めがさり、道徳的苦悩は止むことはないと感じる。この感覚には道理があるのであろうか。この感覚の背後にそのひとへの信が発動している。

 先の懐疑への応答は「わたしの後についてこい」(Mat.4:19)というイエスをどれだけ信じるか、そして彼とどれだけ信頼関係にあふれる関係を築けるかにかかっている。「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)。この方は嘘を付く方ではない、そしてわれらを欺く方でもわれらを見捨てる方でもない、という信がその信頼関係を醸成しまた築く。この信念は道理のあるものであるのか。ひとは山上の説教を生きるとき、生命を賭すことになるが、この信念は道理のある正しいものなのか。これは福音書やパウロ書簡によりその一挙手一投足の働きが報告されておりそして彼がキリストであることが理論的に展開されているナザレのイエスそのひとをよりよく知ることによってしか、この懐疑は克服されないであろう。だからこそ福音の宣教はいつの時代でも不可欠なのである。イエスの懐に入っていくには彼をよりよく知るしかなく、とりわけ彼が生ける神の子であることを内側から納得するそのような相互の親しい関係を築くしかないのである。日曜の聖書講義をするこの身が彼と共に生き喜んでいるのでなければ、この永遠の生命は伝わらないであろう。少なくとも講義する者の必要要件であろう。聖書に描かれるイエスをできる限りテクストに即して理解すること、それがこの聖書講義の務めであり喜びである。

2業のモーセ律法と信のキリストの律法

 先の引用文における「律法の一点一画」とはモーセ律法が神の意志である限り、たとえ上位の意志に従属することがあるにしても、細部にわたりそれは天地が過ぎ去るまでは効力を持ち続ける。ただし、六百を超える律法そして戒めには重要性において差異がある。「ウーアイ(ああなんということだ(ouai, woe))、偽善なる律法学者、パリサイ人、というのも汝らははっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中で一層重要なものども、公正な審判と憐れみそして信とを等閑にしている」(Mat.23:23)。ここで「公正な審判と憐み」すなわち正義と愛とならんで「信」が挙げられる。

 愛や憐みは公正な審判とともに伝統的に「業の律法」(Rom.3:20,3:27 「モーセ律法」1Cor.9:9)に属するが、イエスとパウロは業のモーセ律法をラディカルに理解し愛に収斂させた限りにおいて、「信の律法」(Rom.3:27, 「キリストの律法」Gal.6:2)と「業の律法」が関連する唯一の道は信から愛であることがナザレのイエスの従順の生において明らかにされた。キリストは「業の律法」の充足即ち愛することをただ信に基づき遂行したのであるからには、「愛せよ」という戒めを「信の律法」と関連づけることが不可欠となる(Rom.3:26-31,13:8-10)。業の律法はイエスにより第一の戒めである神への愛と第二の戒めである自らに等しい者としての隣人への愛に収斂されている(Mat.22:36-40)。愛があるとき、すべての律法は満たされる。パウロも「愛する者は他の律法を満たしている、・・愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:8-10)とし、業の律法を「愛」に収斂させる。ナザレのイエスは死に至るまで従順の信を貫き、愛を全うした。「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)。信の根源性のもとに、自らの力能を誇示する奇跡のような業ではなく、愛することが遂行される限り、キリストの足跡に従うものとなる。かくして、愛への道はただ一つ信に基づくこと、即ちキリストを「受け入れること」(Mat.10:40)が残されている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。

 これはイエスの生涯のパウロによる理論化である。イエスはご自身の生涯においてリアルタイムにおいて「信の律法」を満たしつつある。或いは人間的な言い方が許容されるなら、確立しつつある。最後の十字架上でもし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神にその信が嘉されなかったかもしれない、そのような一挙手一投足が福音書において報告されている。

3山上の説教の文脈―道徳的次元における対人論法、偽りの摘出―

 そのイエスは山上の説教(マタイ5~7章)においては信への立ち返りを直接には求めず、道徳的次元に踏みとどまる。山上の説教を心魂の偽りという視点から考察するとき、道徳的な領域と司法的な領域さらには神の領域、これら三つの領域ないし次元のあいだのユダヤ人における癒着を摘出することができる。彼に「羊飼いのいない羊のように」打ちひしがれてついてくる群衆たちに対し、「偽善者」や「偽預言者」を見分けるように教えている。イエスは、モーセ律法の枠のなかで先祖代々伝えられた教えを聞いて育ってきたユダヤ人に向けて、モーセ律法を急進化、先鋭化する。そのさい彼は弁証術(dialectic)と呼ばれる議論を吟味する技術を用いて、彼の論敵を論駁する「対人論法(argumentum ad hominem argument to the person)」の議論を展開し、彼らの道徳的、司法的次元ならびに神の前の次元の癒着を明らかにしている。対人論法とは、対話者双方に共有される見解を確認しつつ、自ら固有の立場を一旦棚上げし、対話相手ないし対話相手が馴染んでいる考えの土俵ないし立場に立ち、その土俵が持つ暗黙の前提を明るみにだし、彼らの気づかない思い込み、偏りや誤りを指摘する論法である。

 山上の説教の土俵とは、ユダヤ人が伝統的にそのもとで育てられたモーセの十戒のことである。それは多くのユダヤ人にとって彼らは神の意志としてモーセの十戒しか知らされていなかったため、イエスも彼らへの対人論法としてその次元に留まっているからである。そこではイエスは自らが立つ立場である「信」を一旦棚上げにして直ちには持ち出さず、さらには信じる者への憐みのもとに遂行される癒しなどの不思議な業(所謂奇跡)を行うこともせず、ただ言葉で同胞の伝統にチャレンジしている。ユダヤ人であるイエスと群衆のあいだで同意できることとして、神の国と地上の国そして天国と地獄さらにはユダヤ人と異邦人の二分による思考方法は馴染み深いものであり双方に共有されているという前提のもとに語りかけられる。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれ、神の意志としての律法を授けられた民であるという認識を持ちまたそれを誇りにしている。イエスはそのモーセ律法を良心に訴えて先鋭化して、出エジプト以来の一千年のあいだに蓄積された偏りや隠されていたものを明らかにしていく。

 モーセの律法即ち十戒は神の山(シナイ(ホレブ)山)において神からモーセに示された神の意志であるが、その始めに神による恩恵の注ぎが確認されている。「われは汝らをエジプトの地から、奴隷の家から導きだした汝の神、主である。汝らはわが前に他の神々を持ってはならない」(Exod.20:2-3)。恩恵の確認のもとに、各人の責任における戒めの遂行が求められる。他の神を拝むな、偶像を作るな、安息日を守れ、などこれらを遵守する者たちと遵守しない者に対する神の正反対の対応が語られる。「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5-6)。たとえば、殺すか殺さないか、盗むか盗まないかという各人の行為、業に応じて神の恩恵と罰が与えられる。そこには「目には目を」などの法的な正義としての同害報復が見られ、それに対応するものとして恩恵は良き行為に対し付与されている。これは「応報思想」と呼ばれる。

 イエスはここに比量的な次元に留まりつつ自他を比較するひとの肉の弱さからくる司法的な次元と道徳的な次元の癒着の可能性を見ている。さらに神権政治(theocracy)ないし宗教的支配と司法的次元ならびに道徳次元これら三つの領域の癒着の可能性を見ている。その癒着を彼は「偽善」と名付ける。「見てもらおうとして、ひとの前で汝らの正義を行わないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天の父のもとで報いを獲得することはない。かくして、汝が施しをするとき、ちょうど偽善者たちが礼拝堂や街角で、人から褒められようとするように、自らの前でラッパを吹き鳴らしてはならない。われ汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受け取っている。だが、汝らが施しをするとき、汝の右手が何をするかを汝の左手に知らしめてはならない、それは汝の施しが隠されているためである。隠れていることを見ている汝の父は汝に報いを与えるであろう」(Mat.6:1-4)。

 父からの報いをいただくべく右手でなす善行を左手に知らせない、そのような急進化がなされる。ここで報いを第一に功利主義的に自らの利益として受け止めてはならない。比量的な次元で思考が展開される「目には目を」のモーセ律法における報いは正義として理解されねばならない。「彼らは自分たちの報いを受け取っている」と地上で報われた場合には、天上においても得るとするなら過剰となり、もはや等しさが成立しないため、さらに与えられることはないとされる。天の報いのほうがはかない地上の報いよりも利益になると功利主義的に考えることと両立するが、第一には等しさの分配として理解されねばならない。彼はモーセ律法の道徳的次元に留まっている。

 イエスの論敵とは厳格に業の律法を守る、しかし形式主義的な律法主義者になりがちな聖書学者とパリサイ派であった。律法主義とは簡潔に言えばまず命令形で「汝~すべし」において神の意志が与えられ、それを満たすとき直接法で「汝救われた」と救いが与えられるという思考様式である。福音とは反対方向であり、「汝救われた」と直接法により与えられ、「それにふさわしい実を結べ」と命令形が後続する思考様式である。形式的な律法主義は救いに至らない偽善であるとイエスは言う、「パリサイ人(びと)たちのパン種に注意せよ。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない。だから、汝らが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(Luk.12:1-3)。

 イエスは彼らに「偽善」を見出し、こう非難する。「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。この「ああ、なんということだ」という間投詞(これ「ウーアイ」はそれ自身としては意味がなく、ただ音調により理解するしかない言葉)で始まる難詰はえんえんと七回も語られる(cf.ルカの平野の説教Luk.6:17-26)。誰がこの難詰に耐えられるであろうか。イエスは弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46)と警告する。

4道徳の座としての良心

 彼はこのように指導者たちの偽りを指摘するが、そのさいの彼の唯一の武器は誰の心魂にも宿る「良心」である。イエスは良心の発動の一つの状況をこう記している。「汝が祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が汝に何か反意を(ti kata sū)もっていることを思い出したなら(mnēsthēs<mimnēskō)、その供え物を祭壇の前において、まず兄弟と仲直りし、それからそれを供えよ」(Mat.5:23-24)。ひとを傷つける言動や小さな不和の芽に気づいたら、まずそれを取り去って良心の咎めを解消してから、供え物によってであれ神と心おきない懇ろな交わりに入るよう命じている。力点は「まだ訴訟人が汝を裁判官に引き渡しそして裁判官が下役に引き渡し牢屋に投獄しないあいだに」という「投獄」の恥辱を受けたくないという功利主義的なことがらにあるのではなく、そのような計算以前に、誰かの反感に気づく、目覚めていること、ないし良心の発動におかれるべきである。イエスはここで「思い出す」という仕方で良心の発動を前提にしている。小さな否定的な事件や不和の芽が摘み取られることは大惨事が未然に防がれたことを含意しているかもしれない。今日的にも「ヒヤリハット」は大事故の背後にはそれに至る多くの小さな危険が潜み、蠢いていることを表現している。「汝らはあらゆる好機に祈りつつ目覚めていよ」(Luk.21:36)求められる。

 さて、「良心」とは「共同の知識(suneidesis, con-science)」ということを意味していた。問題は何と共に知るかということである。人食い人種は部族と共にカルニヴァルに何ら痛みを感じない。今際の時に、友人に自分の一番おいしい部位を与えるのだと言う。イエスもパウロも福音は人々に喜びをもたらすとするが、それは良心の咎めと両立しない。業の律法のもとに生きる限り、ひとは良心の咎めのうちに生きることになるであろう。神と共に、聖霊と共に知ることに、良心のなだめを見出している。正義との観点で良心の平安を考察してみよう。

 イエスは正義のために迫害されるものの祝福を第八福としてこう挙げる。「祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:10-12)。

 第八福は正義に関わる人々への祝福である。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さである。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵や友は偶然的な関係にすぎないからである。

 彼はこの文章に続いて所謂「無抵抗主義」を基礎づけるが、それは例えば今・ここで襲われている愛するひとのために正当防衛として相手に立ち向かい自分の生命を捧げるそのような行為をさえ拒否する理由となる。「自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにどんな報いがあるであろうか。[ローマ帝国雇用の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となれ」(Mat.5:46-48)。愛する者が暴力を振るわれているときに、生命をかけて守ったとして、それは巷間では勇敢な行為と看做されることもあろうが、聖書的には肉の弱さへの譲歩に過ぎない。友を愛し敵を憎むとき、そこに自らの二心を見出し、その偽りに良心が発動することもあろう。家族への愛、好む同士の友愛、ひとはどこまでこの人間的な思いに居座り続けるのだろうか。

「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者であれ」と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22)が開かれたとき、認識することのできるものである。パウロは神の意志を知ることができるとし、その認知機能に「叡知(ヌース)」を割り当てる。「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわれ汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う汝らの礼拝である。汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。二番底と言うべき、自然性の生の原理である「肉」の底に神の働きかけに対応する部位が「内なる人間」であり、霊と叡知からなる。「外なる人間は日々滅び衰えるが、内なる人間は日々新たである」(2Cor.4:16)。この叡知の刷新による変身を通じて、次第にキリストに似た者となる。

 その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。最終的には聖霊と共に知ることである。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の発動は聖霊により保証されており、痛みなしに平安のうちに神についての明晰な認識として働く祝福された者である。良心という自然性に属するものとしてではなく、むしろ叡知として平安のうちに神の意志を知り、平安のうちに神との共知が成立している。その叡知の発動においては良心は肉の部位の一番奥底において平安のうちに宥められている。ただ、その聖霊の証の体験も肉の弱さのために例えば記憶として肉に回収されるために、常に叡知の刷新が求められている。

5パウロにおける憐れみ―聖霊による良心の証―

 パウロが「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言したその直後に、彼は同胞に対し「わたしに大きな憂いそしてわが心に絶えざる痛みがある」と自らの止み難いパトスに言及する。それは彼がかつて共に迫害者であった同胞ユダヤ人に対し今なおキリストを受け入れない者たちに抱くパトスの発動であった。

 パトスは常に変化する身体に伴うものであるがゆえに、彼と言えどもその人生のエルゴン(働き)として絶えず喜んでだけいるわけではない。外的環境の過酷さに身体が悲鳴を上げたり、また何かのきっかけに過去を思い出したりするときの身体の働き・エルゴンは一様ではない。それだから、変動する身体の働きとは別にロゴスの知識の安定性が求められる。「わたしはわが主キリスト・イエスの知識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわれ一切を失ったが、それらをわれ塵芥と看做す」(Phil.3:8)。この看做すはパトスとは離れた認知的な働きである。迫害のただなかで身体的苦痛を受けている状況においても、ロゴス上の明確な理解はそのひとの心魂を支え励ますこともあるであろう。

 パウロは「ローマ書」8章終わりの勝利の賛歌に続き、救いなき同胞への憐れみが自然に溢れ、彼は「自らキリストから離され、呪われてあることを祈った」(Rom.9:3)。パウロはかつてユダヤ教の指導者としてキリスト教徒を迫害していた。彼は旧約聖書の正義の観念に基づき新しい「この道」の者たちが誤った教えであると思い、迫害した。復活のキリストに出会い救いを見出した(Act.9)。義人アナニアはダマスコ途上で光にうたれ落馬したパウロを助けるように示され、驚いて言う。「主よ、わたしは、そのひとがエルサレムであなたの聖徒たちにどんな悪事を働いたか、大勢のひとから聞きました・・」。「行け、かれは異邦人や王たちまたイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどれほど苦しまなければならないかを(hosa dei auton huper tu onomatos mu pathein)、わたしは彼に示そう」(Act.9:13-16)。パウロはこの回心後、いまだに旧約に留まっており新約を、福音を知らない同胞に強い憐みと責任を感じた。

「わたしはキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共にわたしに証ししている、わが心に大きな憂いと絶えざる痛みがわがうちにあると。すなわち、わたしは肉におけるわが同族、兄弟たちのためにキリストから離され、自ら呪われてあることを祈ったのである。彼らは誰であれイスラエル人であり、子の定めと栄光と契約と律法制定と礼拝と約束は彼らのものである。父祖たちもそしてキリストも肉に即しては彼らからのものである。この方こそあらゆるものごとのうえにある神であって、永遠に褒め称えられるべき方である、アーメン」(Rom.9:1-5)。

 同胞のユダヤ人はナザレのイエスを長く預言され待ち望まれていたキリストであることを認めようとしない。そして現代までユダヤ教徒にとって神は沈黙を保っている。ユダヤ人のこの無知識はかつての自分のことであった。救いを知った今、自分は救いからもれてでも同胞を救いたいという憐みの思いに支配されている。第五福で学んだ憐みとは、誰か苦境にあるひとにたいし対極の認識に基づく落差の知識に基づき生じるものであった、しかも、その不幸にふさわしくない人格の持ち主が陥った困窮している、不運な事件に巻き込まれているそのようなひとに対する認識に基づくものであった。一般的にも、神による人間ついての認識を学んだ今、パウロは神の前での同胞の本来性と現状の落差に深い憐れみを感じずにはいられなかった。救いの喜びをなんとしても伝えたかった。痛みを伴う自分のこの思いが真実であることは聖霊が共に証してくれると主張する。その自己認識に偽りがないことが聖霊により保証されており、良心の痛みとしての発動はない。良心は聖霊と共知しており、その確かさには揺るぎはない。ただし、身体的なパトスとして「大きな憂いと絶えざる痛み」が彼を襲う。憐れみからくる憂いと痛みである。神ないし聖霊との接触による知識としての叡知の刷新は肉に例えば「記憶」として回収されるために、常に叡知の刷新が必要とされる。

 パウロ同様ひとは終わりの日までは完全には癒されることはないであろう。パトスとして否定的な過去が首をもたげることもあるであろう。そのたびに十字架を仰ぐことであろう。自らの外に確立された福音の高貴さ、高価さ代えがたさに彼は自己の救いの追求さえも塵芥と看做す。それほどおのれから解放されていたのであった。「わたしに生きることはキリスト、死ぬことも益なり」(Phil.1:21)。彼の良心と信仰は彼のこれらのパトスの底においてわれらの外(extra nos)にある救いの確かさに平安を見い出していた。

6結論

 自らの知的誠実さ、学的良心と信仰のあいだの不一致、ギャップに苦しむ者たち、いわゆる哲学者にパウロから一つの問いが投げかけられることであろう。「汝は神よりも人格なき矛盾律をより一層信じ愛するのか」と。ひとは知性から成り立っているように、身体を備えたものとしてパトスからも成り立っている。認知的な次元での信は「死者の甦りを信じる」という類の目的語を伴うが、信実な神の圧倒的な現臨の前においては目的語や信念内容の表白ではなく、ただ「信じます、信なきわれを憐れみ給へ」という端的なひれ伏しが遂行されるであろう。イエスご自身、天国から新鮮な空気がそそがれ喜びが溢れ出すパトスと天後の知識を持つに至った知性を祝福して言う。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされる。天国のことを学んだ者はきちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。そして山上の説教を遂行しているイエスご自身はこの新約を身にまとっていたのである。福音を彼自身の一挙手一投足を通じてこの地上に実現している。イエスは言い給う、「神の国は汝らのただなかにある」(Luk.17:21)。彼と共にあるとき、神の国がいかなるものであるかを知ることができる。福音である。喜びである。

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