枡形夏の聖書講義3 パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―
桝形夏の聖書講義3
パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―
序
本日の講義は8月23日日曜日の「パンデミックと聖書(その一)-イエスの山上の教えー」の続きです。今回の疫病に対して聖書はいかなるメッセージを発信できるかに挑戦しています。
今Covid-19は現在進行形であり、世界中とどまるところを知らず感染者が3000万人にもおよぼうとしている。日本も油断をするとすぐ増加することは経験的に明らかになってきている。今回のパンデミック、そして地球温暖化その他多くのグローバルな問題は科学の問題であって、宗教がそこで神をもちだし何らかの口出しするとき失笑を買うことが常のこととなっている。かつて雷はゼウスの怒りとして受け止められた。人類の科学的知見が広がり精密化するにつれて、神を持ち出して説明する領域は狭まり、やがて神は不要となると主張されることがある。これは解明されるべき地平は一つであり科学と宗教は領域を異にしており勢力を争っているという領域論的思考と呼ばれる。科学が万能であり、宗教的知見はやがて消滅するというこの思考とは別に科学と宗教のあいだには対応論的・両立的思考や科学が解明しえない不可視なものまた終末をも包括しうる総合的思考が提示されている。
個人的にはこの春まで哲学的な理論の世界に留まっており、宗教家として実践的な指針を与えるという務めを職務として負うことはなかった。しかし、今キリスト教の学生寮の運営と共同生活を通じて学生の心身の健康を預かる身となって、何らかの実践的指針を提供しなければならない立場となった。科学と宗教、政治と宗教、社会と宗教これら双方の対話のなかで、小なりと言えども職務として宗教的指導者の立場となった今、聖書の一字一句の解釈に留まっていることができる状況にはなくなっており、何らかの発信が求められている。しかし、8月に「パンデミックと聖書(その一)」を発信してみたものの、やはりとても難しいと感じる。福音だけを説き、喜びだけを語っていたいと思う。そのなかで具体的な実践は各自の判断に任せるということも可能ではあろうし、自己禁欲として必要なことでもあろう。他方、イエスの弟子であろうとする限り、彼がヘロデやピラトさらにはパリサイ人との戦いに巻き込まれたように、何らかの政治的立場、社会的立場に巻き込まれていくことも避けえないように思われる。この夏、パンデミックと聖書というテーマを選んでしまった以上、今回はそれを避けては通れない。
明らかなことは、各自の実践はそれぞれの時代に置かれての固有の文脈上のことであり、聖書を解釈して適用するにしても、当方の責任に属するものであり、聖書が伝える神を盾に責任を逃れることのできないということである。テクストの上で正しい読みはいかなるものかという問いに長く関わってきたが、今や実践へのその適用が自らの責任において求められている。しかし、聖書講義である限り、やはり福音を伝えることが第一の使命であり、聴衆に実践上の指針を与えることは派生的なものに留まる。そういう意味ではこれまでとかわらない。ただし、個々人の具体的な状況にかかわるより複雑な状況での発言ということになる。今回の疫病は神の怒りであるという直接的な宗教的発言をなすことはできないが、歴史における悪というものに対する神の聖書的応答がいかなるものであるかを一般的に伝えたい。
2.科学のメッセージと聖書のメッセージ
宗教家が何か言うことはもちろん言論の自由に属することであるが、聖書は明らかに終末について預言している。どのような形で人類にそして人類がそこに住む天地が巻き去られていくかについてヴィジョンを示している。それは日本語では「黙示」と呼ばれる啓示の報告或いは霊感づけられた聖書記者たちの記録である。科学は例えば過去50年で野生生物の個体数がどれだけ減ったか、地球の平均気温がどれだけ上がったか、疫病の感染者数はどれだけであるかを伝えることができる。また何年後かの隕石との衝突を知らせることもできるであろう。これらの知見は尊重されねばならない。他方、科学的知見に基づいて科学者が何か政治的、社会的発言をするときには、今回われわれがメディアを通じて経験しているように、今後の生活形態についての科学者諸個人の総合的判断を提示している。その点では聖書解釈者が聖書の知見に基づいて総合的判断を形成するのと、いずれがより信用されるかは別にして、構造は変わらない。人類は常に未来のことがらに関しては、信念や判断の表明以上のものを伝えることはできないからである。
地球に終わりがくること従って人類に終わりが来ることは今や科学的に自明なことであり、科学が聖書に追付いてきたとも言える。聖書は神が宇宙を創造してそしてこの惑星においてご自身に似せて長い年月をかけて人類を創造し新たな天地における救済の手を差し伸べていることを報告している。これは科学の救済手段の提供とは異なる。それは神がひとと異なる限り、創造者と被造物が異なる限り、被造物である科学者の見解とは異なるものである。たとえ神の存在が被造物の願望の投映にすぎないという懐疑が提示されるにしても、無矛盾な明確な主張が歴史の審判を経て伝えられているとするなら、それは謙虚に学ぶに値することであろう。そして聖書は神の国との関連でこの地上の営みが神の導きにより秩序づけられると主張する。
かくして聖書と科学は、科学が人間の営みであるという自ら抱える制約からして、神の意志の数式的な解明はできても、神の人格的な意志については語りえないものである。領域論的な相違というものではなく、聖書が神の意志を報告するものであるという立場から、神自身の知らしめという啓示行為の視点のもとにそれを報告している聖書に基づき応答を試みることは有意味なことである。少なくとも一つの科学に還元されないしかも有意味な視点を提供していると言える。もし明確な科学的知見があるとすれば、それと矛盾しないことは当然この神の視点からの知見、発言に求められている。全知全能な神が存在し宇宙を創造し、何らかの仕方で宇宙と人類の歴史を導いているという信念は人類がその創生以来持ち続けてきたものであり、むしろ人間本性に根差した自然な発想の一つであると言うことができる。この点はこれ以上追求しないが、その前提のもとで今回のパンデミックについて聖書は、今回はとりわけパウロはどのように捉えているかについて探索したい。
3.ヴィジョンとそのもとでの日常
前回は山上の説教に基づき、感染の連鎖を止めるべく、自ら感染させるよりも、受動する方がよい、被害を与えるより、害を被るほうがよいという判断が道徳的にも感染の連鎖を止めるためにも不可欠であることを確認した。三密を避けるマスクを着用するなど小事に忠なることは、生の一切がそれにより秩序づけられ統一されるヴィジョンを必要としており、山上の教えにおいてはそれはまず「神の国と神の義」とを求めることであった。その信のもとにこの地上の必要な物事をご存知である神を信じつつ、一切を秩序づけることが聖書的な生である。そこでは具体的な今回の文脈においては、小事の積み重ねにより、他者に危害を加えることのないよう留意して生活することが責務となる。これが医療と社会を崩壊させない最低限の自覚である。
ものごとについて知りえないまたは知らない状況において、ひとは行為の選択をせざるをえない状況が今回のパンデミックの特徴である。そしてそれは聖書と同様に信を要求する。聖書の信は一切を正確に知っており、しかも正義にして同時に憐れみ深い神が今・ここで聖霊を介して働いてい給うことに向けられる。知らずに感染させられ、感染させることのありうる今回のパンデミックにおいても、感染の連鎖を止めるヴィジョンへの信が要求される。それは誰もが自ら感染しているかもしれないという信念を前提にする。感染の連鎖を止めるのは各自の自覚であり、自らが感染者となってもそれを他者に伝達しないことにより、止むという信念が求められている。
ちょうどパウロが報告する神の知らしめによれば、業の律法のもとにある者については神が罪を犯していると看做していることが知らされており、そこでは悔い改めることは業の律法に死に、新たに示された信の律法のもとに生きること、「イエスの信に基づく者」としてイエスの軛を共に担い、共に歩むことがヴィジョンとして明確に知らされていた。このヴィジョンのもとでは、罹患し独り隔離され、ウィルスと共に生命を終わることを承認することまでも含まれることになろう。イエスは言う、「わがために罵られ、迫害され」「義のために迫害される者たちは祝福されている。天の国はその者たちのものだからである」(Mat.5:12-13)。現在では延命治療を行わない決断が認められるように、他の生命を救うべく自らで連鎖を止めるそのような選択肢はありうるものであろう。これはこの生物的生命以上の生命を信じる者にはより容易な信念となる。
ダビデはサタンの誘惑のもとにイスラエルの人口調査を企て、主の怒りを買った(「歴代誌上」21)。三つの罰の選択肢のうち「三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされる」ことを選び、七万人が倒れた。ダビデは自ら責任を取りたいと主に訴える。「ダビデは神に言った。「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家にくだりますように。あなたの民を災難に遭わせないでください」(1Chr.21:17)。いつの時代でも自らの責任が問われている。
4.悪と神義論
パンデミックにおいては、今われわれが経験しているように、それ以前とそれ以後は明確に判別される。ひとの行動様式が著しく制約されることとなったからである。パンデミック以前の世界を懐かしむことであろう。しかし、人類は今やコロナと共に生きていかざるをえない状況となった。この状況は病人を増やし、経済の縮小をもたらし、ストレスによる不健康をもたらすなど、多くの悪を伴っている。悪と言っても天災と人災は異なる。人間の力の及ばない天災に関しては諦めるしかないことがらであろう。ただ「天災ですかそれとも人災ですか?」といずれかを問うことが有意味な文脈があるように、天災と人災は相互に密接に関係している場合がある。産業革命以来の人間の活動が気候変動に影響を与えたと言われる。人類が森林の奥地まで開発しなければ、このウィルスは動物たちだけのものあるいは風土病として限定されていたかもしれない。また備えや予防があれば、天災の発生に際し、被害を最小限に抑えるそのようなことも想定されよう。
自らの非力ではいかんともしがたい自然災害、人類の悲惨、怠惰、悪、無力な出来事が次々に報道される。このような思考は神義論に導かれるであろう。神は沈黙し人類を放置しているように見える。神は正義であるなら、なぜ神は悪の跋扈をまた落度なき者たちの不幸を放置しているのであろうか。それに対する聖書の応答は明快である。汝らは地の塩、世の光である。堅固な足場を造り世界を腐敗から守るように、全身が翳りなく、光のように輝くことによって世界を導くように。汝らの「良き業」を見てひとびとが神に栄光を帰すように。呟くよりも、神の思いと道は人間の思いと道とは異なり、神の十全性を信じることから道は開かれていく(Mat.5:13-16)。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。
すなわち、ひとの煩いは認知的、人格的に制約されたなかでのことでしかなく、「明日のことを思い煩うな」、「神が完全であるように完全であれ」と諭される(Mat.6:34,5:48)。御子の受肉と信の従順の信の生涯により、人類は大丈夫であるというその福音が宣教されている。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業のモーセ律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。それゆえに、単なる楽観論とも単なる悲観論とも異なる、悲惨のただなかで御子の受肉と十字架および復活のゆえに救いの希望のもとに「喜んで」生きる。
聖書は人間の悪を神との関係において罪として捉える。「肉の欲」(Gal.5:16)とは所謂自然的な色、金、名誉に代表される自己追求であるが、それは罪の誘惑の座、きっかけとなる。罪は神に背かせ、あわよくば自ら虜にした者たちが神に捨てられ永遠の滅びに至ることを画策する。それに対抗するものとして、聖霊が各人の心魂の奥底で呻きをもって執り成してい給うことであろう。
5.福音のもとに秩序づけられる自然現象
マザーアースが黙々と人類に食料、灯りや空調さらには乗り物のエネルギー源を与えているあいだに自然環境の破壊はいつのまにか人類や他の生物の生存を脅かす状況になってきている。人類は紙に数字を書き、流通させ労働の対価として賃金を払うことにより人間間の正義を保証させつつ、地球から自然の恵みを頂いている、或いは搾取している。語ることのない地球全体とのあいだでそこに正義が成立しているかは常に問われよう。
ひとは天災を介してひとに立ち返りを求めていることもあろうし、試練を与えることもあろう。神は今回の災いにより人類に立ち返りを求めているのかもしれない。しかし、このようなことは神が御子イエス・キリストを介して人類に知らしめたご自身の信義そして信義に基づく愛ほどには明確に知らされていない。従って、この神の信義と愛の根源的な知らしめにいつも立ち返り、この世界の歴史を考察し位置づけることが課題となる。この根源的な啓示への信、これがひとが持ちうる根源的なヴィジョンとなる。一切がこの啓示との関連において思考されまた行為が選択される。個々人の責任ある自由はこのヴィジョンから相対的に自律したものとして許容されているが、それは「われ汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という神の前の現実を自らの現実と受け止めがたい、肉の弱さへの譲歩としてのみ許容されている。従って、御子の受肉と生涯ほどに明確に知らされていない出来事については、自らの責任ある自由のなかで相対的に自律した見解として提示されねばならない。これが神の意志であるという端的な主張は許容されていない。自然災害についても、人間の業である戦争についてもそして個々人の死についても同様である。ただし心魂の根源に立ち返ることにより、これらが自らのなかで新たに位置づけられ秩序づけられる。
神はご自身の意志を明白には二つの仕方で人類に一般的に知らしめているとパウロにより報告されている。一つは3000年以上前にモーセを介して「十戒」ないし「業(わざ)の律法」すなわち偶像を拝む・拝まない、盗む・盗まない、姦淫する・姦淫しない、貪る・貪らない等という行為の二者択一の要求であり、業・行為の一方を為すとき神に正義であると看做されるその基準である。各人の責任ある自由のもとにひとは行為を選択するが、それは勧善懲悪を特徴とする「応報思想」と呼ばれる、行為の善悪により祝福か懲罰が与えられる。
イスラエルの民は神に選ばれ律法を与えられたことを誇りとしたが、それによっては義と看做されないことが、その後の歴史を介して、とりわけ神の御子の受肉と信の生涯とその教えにより明確にされた。神は業の律法のもとでは「それ[福音]以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し」(Rom.3:25)と報告されているように、恩赦とでも言うべき忍耐と寛容のうちに十全な仕方で正義を貫徹することがなかったが、神は媒介者「イエス・キリストの信」(イエス・キリストに帰属した信(帰属の属格))を介して「神の信」とそれに基づく「神の義」を最も明確な仕方で信じると神が看做す者たちに新たに知らしめた(Rom.3:21-27)。それは神の信に基づく神の義・正義の啓示である。これは「信の律法」(Rom.3:27)ないし「福音」(Rom.1:17)と呼ばれる。
信の律法と業の律法との異なりは、神がイエス・キリストにおいて人類に対し信義であったときさらにはその信義に基づき愛であったとき、ひとはそれを信じるか・裏切るかの二者択一を迫られているということである。一方、福音においては神の行為に対する信による応答が求められている、他方、業のモーセ律法においては神による義の要求に対するひとの正しい行為が求められている。このことは信に基づく義のほうが業に基づく義よりも神ご自身にとってもより根源的であることを示している。福音は「[業の]律法を離れて、しかし律法と預言者により証されて」啓示されている(Rom.3:21)。従来業の律法の枠のなかで福音が理解されたため、イエスの身代わりの死を刑罰代受・代罰という誤った理解がいきわたってしまった。罪のないイエスを人類の代わりに罰する神は不義でもあろう。
イエスの身代わりの死は信の従順を貫いた帰結であり、それが神に嘉みされ「イエス・キリストの信を介して」神の義がこの地上に打ち立てられた福音であり、業の律法の比量的な計算と異なる比較を絶する善が知らしめられた。99匹の健全な羊をおいて、迷える一匹の羊をさがし求める神である。それは9999匹であっても、9億9999万匹であっても同様であり、宇宙の創造者にして救済者である方のこれまでとの比較しようもない善が歴史のなかで生起したのである。この比較を絶する善によってしか、ひとは良心の宥めを得ることはできない。業のモーセ律法のもとに生きる限り、ひとは良心の咎めとその気晴らしの枠のなかで生涯を「罪の奴隷」として(Rom.6:21)生きることになる。それ故にひとは「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中間存在であるが、そのつど福音に立ち返ることを求められている。「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」と(Rom.14:22)。自然現象に対するその都度の対応も福音との関連で信において対処するよう求められる。
6.神の公平性
「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業のモーセ律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)、そして「神はおのおのその業に応じて報いるであろう」(Rom.2:6)からである。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(Rom.11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(Rom.3:26)かにより審判を遂行するからである。
「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(Rom.9:13,Malaki,1:2-3)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(cf.Gen.ch.33)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(Rom.11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(Rom.1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(Rom.1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう (Rom. 11:22,2:4)。まさに神は振る舞い給う、「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。
業の律法も福音も人類に対する神の正義を知らしめる二つの意志である。二つの正義の意志のあいだにイスラエルの歴史の展開が見られた。なお、永遠の現在にいます神に「忍耐」や「寛容」などの時間的経過を帰属させることが許容されるのは、神がとりわけ御子の受肉を介して時間的な存在者となることを引き受けたため、時間的に限定された人間的な記述、例えば「忍耐」、「寛容」さらには人間的な理解を容易にすべく「後悔」をご自身に帰属させることを許容したことによる。
これらが神の意志の人類に対する明白な二つの知らしめである。パウロはこれらを報告しているが、自らの救いに関してはイエス・キリストを介してほど知らしめられてはいないため、彼にとっては常に信じることは実質的なことである。彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」(Phil.2:12)と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る。個々人の義認と救いは福音においてほど誰にも明白には知らしめられてはいない。それゆえに、自らがイエス・キリストの福音を介して神に選ばれ、招かれていることを信じることは常に実質的である。
7.二種類の正義:福音(信に基づく義)と「神の怒り」
神の正義の知らしめの一つは福音でありもう一つは「神の怒り」である。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom. 4:15)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」1章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され(1:16-17)、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに、「引き渡し」(1:26)、勝手にしろという仕方で啓示されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。
現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身が「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」(1:19)と過去時制により報告している。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに十戒を提示された時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。パウロが用いた七十人訳には「(神の)怒り」というギリシャ語語句と共に出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、「律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである」(Rom.2:14)と言われるように、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法の役割を果たしている、それは共知(con-science)のことであり、何と共に知るかに応じて相対的に留まるが。比較を超えた福音において良心の宥めが生じる (「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」: Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14).
「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]」(3:20)と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。「信じます、信なきわれを憐れみ給え」(Mac.9:24)。
この「引き渡し」は神の怒りの非神話的、非物語的記述であると言ってよい。これは各人の責任ある自由に引き渡されていることを意味するが、さらには擬人化された罪に引き渡されることをも含意する。ひとは肉の弱さをその被造物であることからくる制約として抱えているが、罪の誘惑にさらされる。その誘惑に同意するとき、罪の奴隷となる。悔い改めない限りは、その引き渡しのなか罪の奴隷の軛につながれたままの生涯となる。信仰を持つにいたる人々は、「その時汝らはいかなる果実を結んだのか」(6:21)という問いのもとに、「汝らが今では恥としているものではないか」(6:22)ということを心魂の奥底から経験した人々である。もはや二度と奴隷の軛につながれたいとは思わない人々である。信仰に熱心な人々を見て奇異に思われることもあろうが、彼らは自らの人生のあるときに、その大きなメタノイア(悔い改め・方向転換)をそれぞれの具体的な窮状において経験した人々である。キリストの軛につながれ、彼の「軽い荷」すなわち信仰を運ぶことのほうがはるかに喜びなのである。そこには柔和で謙ったキリストがいつも共にい給うからである。救いとはいろいろな文脈において語られるが、それまでの闇が濃ければ濃いほど、光のもとにその闇から救い出された喜びは大きいのである。闇における果実は「淫行、穢れ、好色、偶像崇拝・・恨み、争い、徒党、憤怒、宴楽」やその類のものである(Gal.5:19-21)。パウロが「わたしはわが主キリスト・イエスの知識の卓越のゆえに、あらゆるものを損失であると看做している」と語るように、かつて魅力的であったものが今では塵芥(じんかい・ちりあくた)と看做すものである(Phil.3:8)。
8.肉に対する罪の誘惑
引き渡しは自然的な肉欲や神に対する不当な認識、思い込みに基づく認知的な偏りとして自然的なものである。しかし、罪はその肉の弱さにつけこみ、まず生物的な死に向かわせ、さらには神の前での永遠の滅びを画策する。叡知と霊が宿る「内なる人間」と肉そして罪の三つ巴の葛藤は「ローマ書」七章で描かれている。そこでは福音が啓示されたあと、それを受けて業の律法の新しい機能は罪の罪性の著しさを伝えひとびとに葛藤を引き起こし悔い改めに導くことであるとされる。それは創世記の堕罪物語を基礎にその展開として提示されている。罪に欺かれている人間「われ」は自らが成し遂げていることを認識していない。すなわち死を成し遂げているのであるが、主観的には人生の充足の興奮であったり、独りよがりな思い込みであったり、「死を成し遂げている」というそのような否定的な含意に気づくことはないとされる。パウロは言う。
13それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。14なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり、罪のもとに売り渡されているからである。15というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[霊的な律法に従うこと]をわれ為さず、憎むところのもの[死]をわれ作りだすからである。16しかし、もしわれ欲せざるところのものを作りだすなら、律法にそれ[律法]が善きものであると同意している。17しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。18なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。19なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。20しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。21かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。22なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法に喜んで同意しているからである。23しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあることによって罪の律法にわれを捕らえている。24惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。25しかし、われらの主イエス・キリストを介して神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(Rom.7:13-25)。
ローマ書七章は福音の啓示を前提にして、業の律法の新たな機能の解明にあてられる。罪の罪性の著しさを暴き出し福音に追いやることが律法の仕事となる。罪のターゲットは自然的で中立的な肉である。それが罪に引きずり込まれるとき、人類は多くの悪、不幸を経験することになる。そして神はそのとき「勝手にせよ」と罪に肉を引き渡してしまっている。
引き渡しとしての神の怒りは、この主張に同意するか否かは別にして、一つの見解として容易に理解できるものである。神の働きかけを認めない者は自らの結果としての惨状に自業自得と考えることもあろう。自らの過失による感染が生じた場合、自ら気づかずに感染し、気づかずに感染させているという事実に、罪に同意することが必ずしも自覚をともなうものではないことを含意する。誘惑に負けるというのは「まどろみの霊」(Rom.11:8)のもとに眠らされているということである。だからこそいつも「目覚めて」(Rom.13:11)いることが求められている。引き渡されの中で罪に同意するとき、ひとは死を成し遂げている。そして感染症という病は死を加速していることは確かに語りうることである。新型コロナに感染すると20年年齢を重ねるのと同じ身体的衰えを経験するとさえ言われる。
感染により今までの生活に問題があることにきづき、悔い改めに導かれることもあろう。聖書が語りうることは、「立ち返れ」というメッセージをことあるごとに伝えることである。地道に地の塩として世界を支え、全身が輝き、光として世界を導く、そのような者になることが求められている。肉の欲に目がくらむとき、すぐに罪の誘いのもとに走る。わたしどもは各人の人生において常に思いを刷新させ喜んで生きるその根源を持つことができるなら、感染への抵抗力は機会においてそして身体的な免疫力においてますことであろう。福音が明確に打ち立てられており、そこにそのつど立ち返るであろう。その意味で、今回のCovid-19が人類にとって特別だということにはならないであろう、それは世界を揺るがす大事件であり、自らを顧みるよい契機であるにしても。