終末預言と憐み
終末預言と憐み
2021年5月9日
聖書箇所
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
「イエスは街や村を残らず回って、会堂で教え、天国の福音を宣べ伝えひとびとのあいだでありとあらゆる病気や疾患を癒した。また群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(Mat.9:35-36)。
「イエスは船からあがり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のようなものであることに深く憐れんだ。そして多くのことを教え始めた」(Mak.6:34)。
1はらわたからの深い憐み
イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ(splagchnizomai)」という動詞は「はらわた、ひとの内奥(splagchnon)」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは相応しくない仕方で或いは不当な仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。
現代の情報のあふれる時代においては、誰もがどんなフェイクニュース、誹謗中傷をも公的に発信できる時代になった。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同様の不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。ひとは疑心暗鬼にさらされている。信頼できると思った人々に裏切られるあるいは裏切るということが公的なダメージの強い仕方で遂行される。愛が冷えた時代である。
イエスが今の時代を生きていたら、何ら確かなものなしに右往左往している現代人に深い憐みをもたれたことであろう。イエスは神に似せて創造された人類が神の子に相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。それはこの憐みをいだいたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。羊飼いのいない羊のように彷徨っている者たちにイエスは、彼の憐みが溢れだし、最初に為したことはひとびとの認知的な混乱を解消することであった。世界は野の百合、空の鳥に代表される自然をも含め、天の父により養われているのであり、「天の父の子となるべく」(Mat.5:45)秩序づけられていることを教えた。ひとびとは不可視な者は存在しないと思い、この地上の生だけが一切であると考える傾向にある。これをパウロは「肉の弱さ」(Rom.6:19)と呼んだ。
イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。今の時代においても、最も真実で確かなもののうえに生が築かれることが求められている。自分で真偽を考え判断する力、さらには善悪を判断する力そして実践する力が求められている。
2感情の文法―悲しみと憐み―
感情には文法がある。感情を構成しているものは三つある。それは文脈と実質そして表出である。これら三つの要素、視点からそれぞれの感情は分析される。悲しみについて言えば、感情の文法の分析によれば、この身体の受動的なパトスが生起する文脈は愛しいものを喪失したときに生じる感情、というものである。その感情実質には胸が張り裂ける感じや身体が崩れ落ち自己を保てない感じ、何ものによっても慰めを得ない感じが挙げられる。その表出には涙ながらの嘆きや叫び、或いはその感情実質を隠す可能な振舞いが挙げられる。
喜びと悲しみは双方とも混り気がなく、端的なものである。嫉妬は羨望や怒りなどを含む複雑な感情であるが、そのような複雑な心持のときに生じる感情とは異なり、明確になぜ悲しいかが自覚されるそのようなものである。この世のものに富み、満足し喜んでいる者たちには実質的に天上のものを必要とせず、眼差しを天に向け神を仰ぎ見ることはない。地上の関心で埋め尽くされているからである。イエスは端的に言われる「汝の宝のあるところそこに心もある」(6:21)。悲しむとき、自ら失ったもの、自らに欠乏しているものを明確に自覚する。そしてそれは天国を求めることでしか慰められないそのようなものであることを自覚する。
憐みの文法は愛や悲しみに似ている。憐みが生起する文脈はそのひとに何ら落ち度もないのに相応しくない仕方で或いは不当な仕方で不運や不幸、悲惨な目にあった場合にそのひとに対して抱く感情である。「憐れみ」とはアリストテレスによれば、ある人がそのひとに「相応しくない仕方で(anaxios, unworthy)」不幸や悲惨な目にあうことに対して生起する苦しみの感情である(Ar.Rhet.II8)。オイディプス王のように自分にあずかり知らないところで父である王を殺害し、母と結婚してしまうそのような悲劇にひとびとの感情は揺さぶられる。「相応しくない仕方」で不幸や悲惨に見舞われるひとびとに憐み(エレオス)が生起する。また相応しくない仕方で幸運を手にする者に対しては「妬み(phthnos,jealousy)」が生起する。パウロは「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」と詰問する(1Cor.3:3)。嫉妬と競争心は表裏の関係にある。所謂勝者はますます競争的となりより多くを得ようとし、敗者は卑屈となり強者への嫉妬に駆られる。そこには比較級の世界しか存在しない。憐みは嫉妬や競争心のあるところには生起しないことは確実である。その心が清くなく、様々な怒りや憎しみなど負の感情に襲われていたり、欲望に捕らわれているとき、ひとは憐みを持つことはない。
憐みの感情実質は、何故あのひとにという運命の過酷さの驚きと恐れを伴う可哀そうという思い、不憫さである。本来そんなことがそのひとに起こってはならないと思われるとき、哀れにまた同情を伴う悲しみに襲われる。たまたま自分ではなかったが、自分にも起こりえたという恐れも伴うことであろう。人生というものの不可計測さのなかで自らを破壊するものに遭遇するときに生じる恐れを伴うことにより、憐みは深くなる。憐みの振る舞い、憐みの表出はそのひとのために嘆くことであり、慰めることのできるあらゆる振る舞いが考えられる。
憐みの背後には人生というものは運命のなかにほうりだされ翻弄されてしまうものだという人間というものの儚さ、寄る辺ないという感情や認識がさらなる文脈として通奏低音のように響いていることであろう。時折そのような人間認識がはからずも感情の発露において明らかになるであろう。しかし、ペシミズムに終わるなら、ひとには憐みはわかない。ひとはひとに対して愛情をいだかないとき、不幸な目にあっても自業自得だという仕方で憐みは生起しない。ひとびとのあいだから愛が冷えるとき、憐みも薄れていく。人間の世界は所詮こんなものだ、ひとびとはおのが道を彷徨い、何も確かなものがなく、死と共に滅びる。
イエスは違った。彼はひとは本来神の子であると認識していた。それ故にこそ、人間の真実を知る者が憐み深い者となる。だからこそイエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれている人々を見て憐みを感じ、最初になしたことが人間について天国について「教える」ということであった。ものごとが、即ち人間の本来性がよく見えないときひとは憐みを抱くことはない。おのれと世界をよく知ることが肝要であること、憐みのわかないひとは自己中の世界にひたっており、隣人や世界がよく見えていない人々のことであることがわかる。イエスにとってはすべてが「神の国とご自身の義」により秩序づけられる。彼は天国の消息を伝えて人間の本来性を教えようとした。
3八福
山上の説教の冒頭は所謂八福である。八つの祝福される心の態勢が描かれている。神に祝福されるひとびとは三人称で呼びかけられており、個々人を特定せず一般的な仕方で妥当すると言える。神との関係においてその霊によって貧しく、この世の何ものにも満たされない者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者、このような人々は祝福されている。彼らはイエスに似た者となっていくからである。八福は相互に関連しあっているが、すべてを満たさねばしかもあらゆる時にそのような心の状況にならなければ祝福されないということではない。イエスご自身、七十二人の伝道の派遣の成果により喜びの声をあげ、神を賛美した。
イエスは十二人の伝道派遣に引き続き七十二人の弟子たちを伝道に派遣し、彼らが福音を宣教しそして癒しなどに大きな成果をあげてもどってきたのを見て、大きな喜びにとらわれている。「わたしは悪魔が稲妻のように天から落ちるのを観想した。視よ、わたしは汝らに蛇や蠍をそして敵のあらゆる力を踏みしだく権威を授けた、しかもいかなるものも汝らに不正を働くことはない。ただし、霊どもが汝らに服従するからといって喜んではならない。むしろ汝らの名が天に書き記されていることを喜べ。・・そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです」」(Luk.10:18-22)。
イエスはこの出来事がこの世界で軽んじられている幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。彼はユダヤの王ヘロデアンティパス等に憐みを抱いたことは報告されていない。イスラエルの失われた羊に遣わされたという自覚を持つ彼はユダヤの虐げられた人々に深い憐みをいだいた。その心によって清くない者は権力者であれ、誰であれ、ものごとがよく見えない者たちである。八つのうち一つでも祝福されているひとびとはすべて神の国に入れていただく人々のことである。
先週は「その心によって清い」そのような人々のことを少し学んだ。この現実世界のただなかで困窮しているひとびとが救われないとしたなら、人類にセーフティネットがどこにもないとするなら、ひとはただこの世界で翻弄され、人生の終わりとともに絶望のなかで消えてゆくだけとなる。イエスは深く憐み、彼らにこそ天国の鍵を与えた。知者は高ぶるからである。ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。誰であれひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、そのひとがどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由を譬え話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。
それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
4コロナ禍と終末
今世界中がコロナで苦しんでいる。感染者が増えるたびに変異の確率はあがっていく。地球の裏側のことがひとごとではなく人類は運命共同体であることをコロナは教えている。われらはこの苦難から人間の本質を学ぶことができる。憐みをもつことができるかもしれない。この21世紀のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。
もちろん、人類は聖書に限らず、同じ人間として救いを模索してきた。古代ギリシャ以来人類はドラマになにを託すかというと、悲劇であれ喜劇であれ、ありそうでない或いはなさそうである、そのようなストーリーを構築し、生活に追われる人々そして何か現実逃避に陥る人々の日常とは異なる通常ではないしかし本来ひとの心魂(こころ)の真実そして深みを開示することをめざした。創作芸術は心の浄化(カタルシス)、心の刷新をめざしてきた。現代では漫画であれアニメであれ、ストーリー構築において、テクノロジーのもとに形成される現代のわれらの生活の中で、2000年前とは異なるセッティングではあっても、苦難や悲惨の克服や戦いそして愛を描くことによりやはりかわらない心魂の真実を探索している。現代の著しい特徴はリアルとヴァーチャル(仮想)の判別が難しくなったことである。とはいえ、ひとは死すべき存在であることにはかわらない。この死を克服することなしにひとは憐みを持つに至らないとさえ言えるであろう。イエスは十字架の信を貫き、罪とその値である死を克服した。イエスは透徹した心の目で人間の終末にいたる現実を見抜いていた、そこに深い憐みをいだき、信の従順を最後まで貫いた。そこにひとは救いを見出した。
疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。終末時の迫害の預言ののち、弟子たちを励ましている。「しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:14)。
この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで「神の子の信」(Gal.2:20)の従順を貫いた。彼には終末にまでいたる人類に生じるものごとがよく見えており、この神の子にふさわしくない罪に沈む人間に深い憐みをもたれた。いつの時代もひとびとはこの緊張に耐えられず、繭の居心地の良さに逃げ込む。われらは救いを必要としている。比較を超える比超級の世界を神の愛がもたらした。「神は独子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:18)。この比超級の基盤における毎日の心魂の刷新のもとに、比較の世界であらざるをえないこの世にあって勉学、芸術、スポーツそして経済活動に従事するとき、良き実りがもたらされることであろう。
5憐みを受けた者が憐れむ
心の清い者、或いはより正確には清くされた者は神を見るのであった。ものがよく見えるひとは、人間の本来性についてもよく見えるようになるであろう。ひとは神の子なのであり、それは信に基づいて知ることができるようになるそのようなものであった。
ひとは憐みをかけられてのみ、憐れむ者となる。憐れまれたことの経験あるひとはは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、不意にあのことがおきなかったら、自分は破滅していた、と。或いは軽く罰せられ、あれさえなければというオセロの黒石と思えたものが、あれがあったからと一気に白石に変えられたことに憐みを経験する。これは祝福されたことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神から憐みを受け、祝福される者である。
そしてその者のこの渇き、請い求めは喜びと賛美に代わる。詩人は自らの回心をこう語る。文語訳ではこうである。「その咎を赦され、その罪覆われし者はさいわいなり。主がその罪を数えざる者はさいわいなり。その心に偽りなき者はさいわいなり。われいひあらはさざりしときは終日(ひねもす)かなしみ叫びたるが故にわが骨ふるびおとろへたり、汝のみ手は夜も昼もわがうへにありて重し、わが身の潤沢(うるおい)はかはりて夏の旱(ひでり)のととくなれり。かくてわれ汝のみ前にわが罪をあらはしわが不義を覆わざりき。われいへらくわが咎を主にいひあらわさんと。かかるときしも汝わがつみの邪曲(よこしま)をゆるしたまへり」(Ps.32.1-5)。
個人的なことではあるが、自らの回心の経験のあと、この詩篇32篇に出会って以来これは私の詩(うた)となった。この詩篇32篇を読むたびに心魂が刷新される。詩人は賛美する。「主をほめたたへよ、もろもろの天より主をほめたたへよ、もろもろの高所(たかどころ)にて主をほめたたへよ、その天使(みつかい)よみな主をほめたたへよ、その万軍よみな主をほめたたへよ、日よ月よみな主をほめたたへよ・・」(Ps.148:1-3)。喜びと平安と賛美、これらが記録されている旧約聖書も新約聖書も同じ霊に導かれて書かれていることの一つの証となるであろう。
6結論
ひとは憐みを受けてのみ憐みを持つことができる。そこでは憐みを受けた時の喜びがあるからである。刷新されるたびに、ひとは嫉妬や競争から自由にされ、ものがよく見えるようになり、非本来性に沈んでいる隣人に憐みをいだく。キリストの弟子であることを無上の光栄となし、喜びいさみ賛美のうえに神に栄光を帰する。