その心によって清い者は秩序と平和を造る
日曜聖書講義 2022年4月17日
その心によって清い者は秩序と平和を造る
聖書
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
第六福 「祝福されている、その心によって清らかな者たち(hoi katharoi)。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。
1 イースター
今日はイースター(復活祭)です。春分の日の次の満月の次の日曜日が主イエスの復活を祝う日と定められています。毎年満月になる日は変りますので、イースター復活祭の日もかわります。何か今日は月がピンクになるピンクフルムーンだそうですので、今晩晴れていれば枡形山に見に行きたいものです。この二回神と聖書について入門的なお話をしてきました。今後も神と聖書はこの日曜聖書講義の中心ですので、毎回でてきます。理解を深めていきましょう。神と聖書への尊敬がこの日曜の基礎にあります。今日は毎朝朝礼拝で読んでいるマタイ福音書の5章から7章の山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる箇所から心の清さについて学びたいと思います。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられます。イエスの復活は心の清さの結果です。永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生き抜いたその清さによるものです。復活は人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらであることを最初にお伝えします。
2 その心によって清い
イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされます。「汝(君)の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。
ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。
これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。イエスが何故彼についてくる群衆が羊飼いのいない羊のようにうちひしがれているのを見て、「深い憐みをいだいた」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)かと言えば、人間は、本来、天の父の子であり、こんなに争いや飢餓に苦しむそのようなものではないという認識とのコントラスト・対比の知識から身体に湧き上がってきているからである。憐みはパトス・身体の受動的反応でありひとは選択できずに湧き上がってくるものである。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。
イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰か知らない人々がウクライナにおいて悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。
キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。しかし、「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つのことを欠いている。即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされない心を欠いている。それ故に天国の知識をも欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、この祝福が語られている者たちであある。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。今回の理不尽な侵略は衝撃的だが、天国は理不尽な死を遂げるひとたちのために存在しなければならない、存在しているに相違ないと思わされる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。
3良きものどもの秩序づけ
良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じる。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教において旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝ら(君たち)は聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。愛とは支配からも支配されるところからも唯一自由な心の場所において生起する我と汝(私とあなた)の等しさである。
二千数百年前「レビ記」の記者により、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り次ぎ命じたことが報告されている。「汝自身の如くに」により表現している「汝」は自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な心の場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
山上の説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。欲深き者は自らが悪しき者であることを知らない、清さとの対比することができないからである。ひとはコントラストにおいて自らの位置を知る。イエスとのコントラストにおいて自らの穢れを知る。
このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。
その秩序づけをイエスは山上の説教において呼びかけそしてその説教を生き抜いた。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(Mat.7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:33-34)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。
4心の成長
ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ知恵者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」(13:51)。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものごとをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。
人格的な有徳性・卓越性とは、人間が身体をもった存在者として自ら選択できずに自然にわいてくる喜怒哀楽や憐みそして苦悩などのパトスに対して良い態勢にあることである。哲学者は言う、「パトスはヘクシスのセーメイオンである」つまりひとの心にどんなパトスが生じているかによって、そのひとが培ってきた心の実力、態勢(ヘクシス)がどのようなものであるか分かる、パトスはその実力の徴(サイン・セーメイオン)であると言われる。このパトスに対して良い態勢にある者が人格的に有徳であり、悪い態勢にある者が人格的に悪徳者であるとされる。例えば、正しい人はその怒りのパトスに良い態勢にあるひとである。その人は怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で適切な量の怒りが湧いてきて、等しさを選択分配する。勇気あるひとは恐れに対して、愛あるひとは喜びに対して良い態勢にある。このようにパトスは身体的反応を伴うことに見られるように、身体を持つことが善悪と関わるものとして人間を特徴づける。
他方、人間は認知的徳・卓越性は真理と偽りの認識に関わる心の態勢を持つ。学問は心のこの部位を訓練する。真理を探究する者は偽りから自由にされ、心に秩序を得る。人生はこの真理と偽り、善と悪の闘いであると言うことができる。
5 結論
心の清い者が平和を造る。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う、「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座・主体である(Rom.5:5)。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。キリストが共にいることにより心が清くなる。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。