聖書とは

第二回日曜聖書講義  聖書とは

          2022年4月10日 

聖書箇所 ヘブライ人への手紙第4章12-16節

 神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣より鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。さらに、神の御前では隠された被造物は一つもなく、すべてのものが神の眼には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵にあずかって、時宜にかなった援けをいただくために、大胆に恵の座に近づこうではありませんか。

 

1 聖書という書物

 聖書は旧約聖書と新約聖書からなる。エルサレムがローマの将軍ティトス(その父皇帝ウェスパシアヌス)の軍により紀元70年に陥落したあと、エルサレムから逃れたユダヤ人学者によりヤムニア会議が開かれ39書がユダヤ教の正典とされた。紀元前10世紀頃から収集された伝承に基づき、紀元前5世紀ごろから旧約聖書が編纂された。

 新約聖書はユダヤ人ナザレのイエスが自ら旧約聖書において記録されている神を「天の父」であると説き、自らは神から派遣された「神の子」であると主張し、ユダヤ教改革運動を引き起こした。そしてローマ総督ピラトとユダヤ王ヘロデ・アンティパスのもと処刑されたが甦り、このイエスこそ旧約聖書で預言されたメシヤ(油注がれた者=神から選ばれ意志を具現する者→救世主(ヘブライ語))(キリスト(ギリシャ語))であると直弟子やパウロにより宣教されて、キリスト教が生まれた。そのイエス・キリストをめぐる伝記や手紙そして終末預言からなる27書が新約聖書として2世紀までに成立し、旧約聖書とともにキリスト教の正典とされた。

 

2 歴史の連続性とそれを支える一神教

 二つの書物は歴史の連続性と展開として位置付けられている。その連続性は新旧聖書の神は唯一であり、歴史を導いているという神観のもとに基礎づけられている。イエスは自らが神の子であるという自覚をもったが、自らそれを旧約聖書に基づき立証した。聖書が伝える神は唯一神である。これは中近東、エジプト、ギリシャにおいてもほとんど見られず(一時エジプトでアメンホテプ4世(紀元前14世紀)が一神教を奉じたとされる)、ユダヤ教、キリスト教の神観の連続性と独一性を物語っている。

 例えば、パウロはナザレのイエスがキリストであることを論証する433節からなる「ローマ書」において60節以上旧約聖書から引用するが、それはすべてキリストの預言として肯定的に用いられている。イエスの伝記を記した福音書においても同様であり、イエスは旧約聖書の伝統のもとで、福音(信徒を救いだす神の力)を宣教し、そのために処刑されたが、父なる神は彼を甦らしめ、自ら派遣した神の子であることを知らしめている。

 

3 一神教であることが理にかなっていること

 現代の宇宙物理学によれば、138億年の歴史を持つ宇宙は、ビッグバンにより始まったことそしてそれは自然法則のもとに生起していることが解明されている。宇宙に始まりがある以上、終わりがあるということが道理をもって推測されている。これは、いくつかの含意を持つ。まず、われらの頭脳の産物である理性は宇宙の法則を解明できるということである。宇宙の理(ことわり)と同じ法則のもとにわれらの理性が形成されているということである。この広大深淵なる宇宙を理解することができる人類は宇宙の栄光であるということである。またたとえ宇宙人がいたとしても、彼らは光より早く飛べないし、彼らが宇宙法則を理解していたとしたなら、われわれと何らか交信可能であり、恐れるにたらないということである。

 神は時空の外におり、時空に支配されない永遠の現在にいまし、宇宙を創造したと聖書で報告されている。これまでの物理学が解明したことがらは、一神教が道理ある主張であることを裏付けている。もちろん、有神論と無神論の問題はこれにより解決されたということではないが、一神論と多神論のあいだの問題は或る道理をもって解決されると思われる。この法則的で秩序ある宇宙が複数の神々により創造されたとした場合、そこに秩序が見いだされる以上他の神々を統一する主神の存在は不可欠となる。争いや分裂は法則性を備えた宇宙に相応しくないからである。一切を統帥する存在者がいるとするなら、人類はそれを「神」と呼んできたのである。人類の歴史は、かくして、初めがあり終わりがあることもそこから推論される。

 問題はその神が宇宙の盲目の必然のメカニスムではなく、われらと同じに心を持つ人格者、神格者であるかという問いが残る。創造者が被造物よりも優れたものであるという主張は道理あるものである。われらは宇宙全体を造りえない。われらが人格的である限り、神は或る経綸、計画のもとに宇宙を造り、われらを創造していると想定することも道理ある。歴史にかかわっていると想定することは道理ある。

聖書はナザレのイエスがその神とひとを媒介するまことの人の子そしてまことの神の子であると報告している。

 

4 聖書の権威 聖書は神の言葉か

 一神教が道理ある主張であるとして、人間の言葉で書かれている聖書は神の働きを正しく伝えているのか、単なる人間の捏造ではないのか。聖書の神との関係については二つの理解とその間に多くの立場が想定される。ひとつは「逐語霊感説(verbal inspiration)」というものである。聖書記者はすべからく神から霊感を受けて、それがインクの染みとして伝達されているという理解である。聖書記者はそこでは神とインクの染みのあいだのペンのような立場にあるとされる。それに基づき聖書は神の言葉であり、無謬つまり聖書の言葉はすべて正しく誤りがないと主張される。ただ記者たちは肉の弱さを担っており、眠くなったりなどして伝達のあいだに誤りを認める立場も想定される。この逐語霊感説の対極にあるのが捏造説(fiction theory)である。イエスには精神疾患があり、狂信のもと自らを神の子であると僭称し、人々を誑かしたというものである。聖書記者たちは騙され、何らか自らの欲望のもと、彼についての文書を遺し、人類を誤り導いたという考えである。これらの両極にはさまざまな立場が想定される。

われわれの立場は、唯一の神が宇宙のかなたにいまし、人類をご自身の愛の交わりの相手として創造されたことを信のもとに前提している。神の交わりの相手として責任ある自由をも与えた人間が背いてしまい、生物的死と生存の労苦を罰として与えられた。そのハンディのなかで人類は神との交わりの歴史を紡いできたが、自ら罪と悪とを克服できずに、御子の受肉による派遣を介して救いの道が示されたと信じている。これらの神との交わりが聖書に記されているが、神は人間の限界ある言葉でこのようなご自身の人間への愛と罰が記されることを許容しておられる。文字として神の認識や判断、行為が神の言葉として遺されることを許容し、認可している。そして神の言葉と働きを最も権威ある仕方で伝達するものとして歴史のなかで審判され、逆に審判する書物が聖書である。聖書は神の言葉であるかという問いに対しては、神が人間の有限で誤りうる力能のなかで今あるように伝達されることを許容し、認可したという意味において「神の言葉」である。そして聖書研究を通じて、それは検証され、誤訳がただされ、より神の意志にそうように改善することができると理解している。

 

5 結論

 まとめるとするなら、聖書は人類の歴史のなかで最も権威ある書物として唯一神ヤハウェと神の子イエス・キリストを伝達している。そして生きて働いていたまう神により改善の余地はあるものの今ある仕方でも伝達されうるものとして認可していると言うことができる。

 

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