秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(7)―旧約における個々人の屹立から共同体の形成へ―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(7)―旧約における個々人の屹立から共同体の形成へ―
日曜聖書講義2021年11月7日
聖書箇所「エペソ書」2章11-18、3章4-7節
「それ故にあなたがたは記憶しておきなさい。かつてあなたがたは肉において異邦人であり、所謂手による割礼者のもとでは「無割礼者」と呼ばれていました。当時あなたがたはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神なき者たちでした。しかし、あなたがたは、以前は「遠く」離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において「近い」者となったのです。
というのも、キリストご自身が私たちの平和だからです、[イスラエルと異邦人]二つのものを一つにし、ご自身の肉において隔ての壁、敵意を解きほぐし、教えにおけるもろもろの戒めの律法を廃棄しました、それはキリストがご自身において敵意を滅ぼし、双方をご自身において一人の新しい人間に造り上げて平和を実現し、十字架を介して一つの身体において双方の者たちを神と和解させるためです。キリストはやって来られ、遠く離れたあなたがたに平和の福音を告げ知らせましたそして近い者たちにも平和を告げ知らせました。われら双方ともご自身を介して一つの霊において父に対して近づきを得ています」(エペソ書2:11-18)。
「キリストの奥義は、今、彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それは異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の共同相続人にして共同の身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それは[神]ご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(エペソ書3:4-7)
6:1 旧約人も制約のなかで永遠の生命を求めていた
旧約人は最初の人間アダムとその後の人類はアダムを模倣しつつの自らの背きのゆえに、著しい制約のもとに置かれている。彼らはモーセに啓示された神の意志、モーセ律法を規準に共同体の秩序ある形成に努めた。神の意志はその都度の指導者、王、預言者を介して伝えられ、モーセ五書や預言書のような文書は直接的に神と出会った者たち、啓示を受けた者たちの記録として整備されていった。多くの人々はそれを伝承として受け止めており、書物を読むということはなかった。
その神との交わりを記録された文書によれば、預言者たちや王たちそしてヨブのような神に選ばれた顕著な人たちが単独で立ち上がり、神と関わり、周囲やユダヤ民族にその行く手を示した。基本的に単独者が孤独な歩みまた戦いを強いられており、主にある交わりを形成することはできなかった。この制約が救世主の待望を募らせている。
最初の人間による神への背きのために、神にブロックされてしまって言挙げすることが憚られたこと、即ち彼らが心理的な抑圧を感じて表現しにくかったことがいくつかある。
なによりも、詩篇には執り成しの祈りは見られない。一般に神に対するひとの執成し手はアブラハムのようにわずかである。なお、十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(Exod.20:7)に楽園を追放された者たちの姿を見ることができる。アダムは楽園において神と会話していたが、禁じられた善悪を知る木の実を食べ神から隠れたように、その後の人間はこの制約のなかで神と関わる。それでも詩篇に見られるように、詩人たちは神の憐みを直接求め、多くの場合この世界における正義の実現、罪の赦しに神の祝福を見ていた。旧約人には永遠の生命への願望を端的に言い表すことが、楽園喪失以来、神に阻まれているかのごとくである。
とはいえ、人間が人間である限り、病や困難における絶望のうちにあるとき、光明を求めるように、究極的には救いを永遠の生命をもとめざるをえない。歴史の積み重ねから振り返れば、旧約人は永遠の生命を伝える新約をめざしていたに相違ない。旧約と新約の異なりと連続的展開の確認は神の経綸(計画、運営)を知るうえで重要である。ラートは旧約人における「永生への希望の明白な欠如」を指摘していた。しかしながら、旧約においても人々は自らの生の延長線上に何らかの希望を抱いていたことも指摘されるべきである。ヨブはいつの日か正しい神が塵の上に立ち贖ってくださることを神に訴える仕方で待ち望んだ。ヨブのように苦難を受けた多くの無名の義人たちも公平な審判の下される日を待ち望んだことであろう(cf.Gen.18:25,Ps.1:1-2,11:5,103:5,140:12-13,146:8,Isa.45:24,Jer.12:1)。(樋口進「旧約における正義」(『神戸教育短期大学研究紀要』第1号pp.24-35,2020)。
また「永遠(オーラーム)」という概念は旧約においても何度か語られている(Hos.2:21,Jer.32:40,Ezek.43:7,Isa.60:21)。ホセアは神の言葉を取り次ぐ、「その日には・・わたしは汝と永遠の契約を結ぶ。わたしは汝と契約を結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」(Hos.2:21)。イザヤは古き天地が巻き去られ新天新地を待ち望む。「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように、汝らの子孫と汝らの名も永く続く」(Isa.66:22)。
旧約の基本的な流れは神の御名をむやみに唱えず、神の沈黙に耐えることの覚悟であった。とはいえ、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、聖書記者たちは神との今・ここのやり取りを記録することに傾注したと言うべきであろう。旧約人はヨブやイザヤのように神にまみえるという幸いな体験を与えられることを望んでいたに相違ない、ひそかにであれ待ち望んでいるものがあったに相違ない。しかし、それが神の隠れ或いは神から知らされていないことからくる抑圧であるとするなら、彼らに蓄積された待望のエネルギーはどれほどのものであったかが伺い知れる。
「主は汝の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、生命を墓から贖いだしてくださる」(Ps.103:3-4)。「死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ苦しみと嘆きを前にして主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(Ps.116:3-4)。その意味において、御子の受肉と受難と復活は彼らが憐みを求め、罪の赦しの救いを求めてきた真剣な人生の時が満ちたことを伝えていると捉えることができる。
かくして、フォンラートの「此岸性」を別の言葉で言えば、或いはこの言葉で捉えきれない旧約聖書における神とひとの関わりを表現するものがあるとすれば、それは神の前とひとの前を分けない「今・ここの働き」、「具体性」或いはこれらを一括して「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神の今・ここの交わり」と表現し直すことができよう。ひとは各自の責任において神の意志である律法を遵守する。神はそれに対し祝福と懲罰を与える。神は憐みにより時に罰を思いとどまったり、軽くすることもある。この双方の働きのやり取りをこの語は表現している。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりと言うこともできよう。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。
旧約聖書におけるこれらの特徴は此岸と彼岸を分けない神の擬人化された働きとひとの働きの交渉という捉え方のほうがより適切であると思われる。知らされていないものごとの制約のなかで、単にこの世の生を義しく保つだけではなく、罪の贖いを求めて神に呼びかけて生きていたことは明らかだからである。この書においては、ひとの待望のもとでの呼びかけとともに、創造者にして一切を統帥しつつも隠されたところのある神がひとの一挙手一投足に関与したことがらについて集中的に報告されている。その意味において旧約に登場する神はご自身の正しさと憐みの双方を伝えるべく、あたかもひとであるかのごとく擬人化して表現されることを許容したと言うことができる。神は人類に対するご自身の計画のなかで、御子の派遣による救済に向けて、旧約人と擬人的な仕方で具体的に関わっていったと言うことができよう。
6:2 旧約人における媒介者による共同体形成の欠如
旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような共同体や教会の観念をもたなかった。C.H.マッキントッシュは言う、「個々の霊の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。・・旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M著『創世記講義』p.16,18黒崎幸吉訳 一粒社版 1927)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった」(Ephes.3:4)。
旧約人は新約のようにキリストの体としての秩序ある共同体、教会を持ってはいなかった。パウロは異邦人に向けて神の計画のもと今や旧約の人々と繋がり、一つの歴史を展開するとして言う、「それ故にあなたがたは記憶しておきなさい。かつてあなたがたは肉において異邦人であり、所謂手による割礼者のもとでは「無割礼者」と呼ばれていました。当時あなたがたはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は「遠く」離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において「近い」者となったのです。
というのも、キリストご自身が私たちの平和だからです、[イスラエルと異邦人]二つのものを一つにし、ご自身の肉において隔ての壁、敵意を解きほぐし、教えにおけるもろもろの戒めの律法を廃棄しました、それはキリストがご自身において敵意を滅ぼし、双方をご自身において一人の新しい人間に造り上げて平和を実現し、十字架を介して一つの身体において双方の者たちを神と和解させるためである。キリストは来られ遠く離れたあなたがたに平和の福音を告げ知らせましたそして近い者たちにも平和を告げ知らせました。われら双方ともご自身を介して一つの霊において父に対して近づきを得ている」(エペソ書2:11-18)。
「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それは異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の[イスラエル人と共に神の国の]共同相続人にして共同おの身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それはご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(エペソ書3:4-7)。
旧約と新約を媒介する方なしには、イスラエル人は異邦人と何ら障壁を取り除く術(すべ)を持たなかった。預言者たちやヨブのような傑出した個々人の働きが記録されそしてその促しのもとでの民族の歩むべき方向が指し示されてはいるが、共同体全体の形成にいたる力に乏しかった。個人の救済は記録されても、全人類の救済に向けられた福音が福音として明確に立つことはなかった。
イザヤは神からのメッセージをこう伝える。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。旧約人は民族の選民思想へのこだわりのなかで良心の宥めをひそかに求めていたに相違ない。
6:3 イエスの憐みによる旧約の制約の突破
イエスご自身、旧約の制約のなかで一歩一歩福音を実現していった。或るとき、カナン地方の女性が自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願すると、イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答した。そのときイエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女に応えた、「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにモーセ律法を極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでる。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信義の果実としての憐み、愛の双方の実現に向けられていたのである。
そしてそれが異邦人をも含む全人類の救済に向けられている。旧約の制約を知れば、知るほど、そのコントラストとしてのイエスの言葉と働きはあらゆる障壁を打ち破り、人類を一つの共同体として作りあげていく力を与える。
6:4 人々を一つにするキリストの甦り
人々が信仰によってしか突破できず、それによってしか力を得ることがないものがキリストの信の従順の生涯に与えられた正義の果実としての甦りであった。パウロは天国も黄泉(よみ)もキリストへの言及なしには理解できないことがらであるとして、信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教にとりくみ、死者の復活について語り始めると、「われらはこのことについてはまたあなたから聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11)。肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることできることそれだけで喜びであることを含意している。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13,cf.Gal.5:22-23)。聖霊による促しのなかでは「信じること」の対象への言及は必要とされない。既にそこにあるからである。