秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(8)―旧約におけるキリストとその復活の預言

 秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(8)―旧約におけるキリストとその復活の預言 

日曜聖書講義 2021年11月14日

 

聖書箇所 エゼキエル書37章1-10節

 「主の手がわたしの上に臨(のぞ)んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。

 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。

 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。わたしが見ていると、実よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(Ezek.37:1-10)。

 

7.1 はじめに(復習をかねて)旧約の制約と新約への方向付け 

 ここまで、旧約聖書と新約聖書二つの文書の連続性と飛躍を見てきた。楽園を追放されたアダムの末たちが報告されている旧約聖書には、著しい特徴として「永遠の生命」に対する記述を見出すことができない。せいぜい、祝福のもとでの長寿と民族の隆盛を期待することができるだけであった。モーセが神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、ホレブ山において神とまみえたとき、神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:4-5)。この民族はモーセを介して与えられた神の律法を規準にして、選ばれた民として、神への畏れのなかで律法遵守の道を1千年以上にわたって歩み続けた。彼らは著しい制約のなかで、あからさまにまた喜びを伴い永遠の生命をいただく希望のうちに生きることができなかった。神から離れた自立的な者として善悪を判断しつつ生きる限りにおいて、彼らは常に罪にからみとられる歴史をすごしてきた。預言者たちがそのつど民に悔い改めと立ち帰りを訴えた。

 この神の民イスラエルの歴史をつづった旧約聖書と新約聖書を分けるものは著者たちがイエス・キリストを知っていたか否かである。キリストを知らない著者たちは信に基づく正義と愛の両立としての十字架上の罪の贖いを、さらには復活、甦りを知らされてはいない。彼らは著しい制約のなかで民族の歩むべき道をモーセ律法にたよりながら、いわば手探りで神に直接その顕現を願いつつ嘆願のうちに歩んだ。新約の記者たちは旧約を引用する際に御子の出来事への預言或いは裏付けとして捉え直している。それにより旧約は新約をめざすものとして位置づけられる。新約から彼らの制約はこう語られていた。

 「キリストの奥義は、今、彼[キリスト]の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それ[奥義]は異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の共同相続人にして共同の身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それは[神]ご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(Ephes.3:4-7)。恩恵は異邦人にも与えられるべきはずのものであったが、ユダヤ人はほとんどその思いにいたらなかった。

 「ヘブライ人への手紙」の著者は福音の媒介以前と以後をこう述べる。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。アブラハムに代表されるように、信仰義認、信に基づく正義は旧約においても働いていた。そしてそれが民族を統一するものであった。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-3)。

 キリストの甦りはひとが甦りについて信仰を持つにいたり義とされるために生起したが、彼らには知らされてはいなかった。「その彼はわれらの逸脱故に引き渡され、そしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。この人類の歴史の然るべきときに一度限り生じた復活を旧約人は知るにいたらなかった。彼らには永遠の生命を希望することはブロックされていた、或いは彼らの意識として躊躇されていたのであった。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。

 しかしながら、旧約においても救世主の預言そして復活の預言が時に与えられていた。ここではイエス・キリストを展開点とした二種類の文書における待望と成就の一直線の歴史において旧約から新約の連続性と飛躍の動的な歴史的展開の方向をメシヤ(救世主)預言において確認したい。新約の視点から見れば、旧約聖書において報告されているユダヤ民族の神の直接的、間接的交渉は、ユダヤ民族に救世主を待望させ、この民族のなかに御子の派遣への準備期間として位置付けられる。旧約の制約のなかで正しく生きてきたシメオンは赤子を見つけ、マリアから幼子イエスを抱き上げ言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。

 

7.2メシヤ預言

 ここまで旧約聖書の歴史の途上性を確認してきた。彼らは知らされていることと知らされていないことのあいだで、その都度民族として生きた神との正しい関わりという一本の道を模索してきた。そのなかでユダヤ民族は一人の神に出会い、福音と新天新地の創造に至る信仰の一本道において預言者たちが遣わされ、時折、救世主を預言しまた幻を見ていた(Heb.11:1-40,Isa.ch.65-66,Zec.ch.14)。それが死後の世界に対する幻を垣間見ることともなった。生ける神の愛がイエス・キリストにあって明確に啓示され、知らしめられた限りにおいて、ひとびとは神とともにある永遠の生を希望することが許されるにいたる。そこで初めて明確なロゴス(理(ことわり)、理論)を得ると言ってもいい。このことは旧約人が死後の生への禁欲のなかで歴史の展開を介しての救い主への待望の強さを伝えている。

 ナザレのイエスの誕生と生涯を受けて記された新約聖書には、至るところに旧約の引用が見られるが、キリストの到来の預言として捉えられた。例えば、パウロはナザレのイエスが誰であり、人類にいかなるものをもたらしたかを体系的に明らかにした彼の神学的書簡「ローマ書」において旧約聖書を約60回引用しているが、すべて肯定的にイエス・キリストを証するものとして用いられている。マタイ福音書の著者マタイもイエスの生涯が旧約の預言の成就としてメシヤ(救い主)であることが描かれている(eg.Mat.2:15,17,23,5:18,8:17,12:17,15:7,21:4,22:42)。

 ここでは最初にエゼキエルとヨナの復活のヴィジョンを、続いてイザヤのメシヤ預言を確認する。エゼキエルは紀元前6世紀に、500年続いたダビデ王朝がバビロニア帝国に滅ぼされゼデキア王はじめ高官が捕囚の民となったときに、預言者として召命された。民族の死骸は谷に打ち捨てられて枯れた骨がうずたかく積まれていた。エゼキエルは捕囚の民が打ち捨てられ絶望のうちに「われらの骨は枯れた。われらの望みは消え失せ、滅びる」という声のなかで、終わりの日の救済のヴィジョンを見た(Ezek.37:11)。乾いた骨同士がカタカタと言う音を立てて近づき、「筋と肉が生じ、皮膚がそのうえを覆った」。続いて預言者は命じられるがままに言う、「霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ」。霊が吹き付けられて、枯れた骨は「生き返って」自ら立ち、大きな集団となっていった(37:1-10)。預言者は死者の復活の比喩を介して敵国の墓場にいる民族の再生のヴィジョンを語った。

 後にイエスに神の子であることの徴を求める者たちにこう言う、「悪しき背きの世代は徴を求める。預言者ヨナの徴を除いて徴はこの時代には与えられない」(Mat.12:38-42)。ヨナの物語はこうである。ヨナはニネべの町に罪の悔い改めを説くよう神に強いられるが、神の前を逃れて地の果てタルシシに向かうべく船に乗った。大きな嵐が起きた。船が難破しそうなのは神から逃走を計る自らのせいであるとして海に落とされたが、そうすると嵐はおさまった。彼は大魚に飲み込まれ三日三晩大魚の腹中の暗闇のなかで過ごした(Jona.2:1)。彼はこの話を用いて自ら死者のなかに三日三晩留まり復活することを預言した。イエスは言う、「ニネべの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさる者がいる」(12:41)。イエスはヨナが好きでありヨナを自らの先駆と位置付ける。

 イザヤはメシヤを預言している。イエスはイザヤのインマヌーエール預言や苦難の僕の預言の成就であると認識している。「見よ、処女が身ごもりそして息子を産むであろうそして彼の名を「インマヌーエール(神われらとともに)」と呼ぶであろう。・・闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・ひとりのみどりごがわれらのために生まれた。ひとりの男の子がわれらに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国は権威を増し平和は絶えることがない。王国は正義と恩恵の業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」(Isa.7:14,8:1-6Mat.1:23)。旧約聖書の言葉が一つ一つイエスにおいて満たされていく(「生まれた」と過去形で表現されるのは「預言的過去」と呼ばれる)。

 イザヤは苦難の僕を介して死を乗り越え生命を与える救い主ナザレのイエスを預言する。「主よ、誰がわれらの伝聞を信じましたか。また主の御腕は誰に啓示されましたか。・・この人はわれらの罪を背負いそしてわれらのことで苦しめられており、われらもまた彼が苦しみ、神によって病のうちにありそして圧迫のうちにあると看做した。しかし、彼はわれらの罪の故に傷つけられたのでありそしてわれらの不法の故に病いを負わされたのであった。われらの平安の訓育(paideia eirēnēs hēmōn, cf. musar(ヘブライ語), discipline)が彼のうえにあり、われらはその傷によって癒された。

 われらはみな羊の如くさ迷い、ひとはおのが道に迷い込んだ。そして主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された。そして彼は苦しめられているということの故に口を開くことはない。彼は屠り場に引かれた羊のごとくに、毛を切る者の前に黙す子羊のごとくに、彼は口を開かない。その辱めにおいて彼への咎めはもくろまれた。誰が彼の世代を述べ伝えることになろうか、彼の生命はこの地から取り去られ、わが民の不法の数々から死へと運び去られたことを。「わたしは彼の埋葬の代わりに悪者たちを、そして彼の死の代わりに富者たちを与える。なぜなら彼は不法を為さなかったからである、彼の口に偽りは見いだされなかったからである」、そして主もまた彼を疫病から浄めることを望みたまう。もし汝らが罪に関して[自らを]捧げるなら、汝らの魂は長生きの子孫を見ることになるであろう。そして主はご自身の御手のなかで彼の魂のその苦しみを取り除くことを望みたまう、それは彼に光を示し、そして理解を形成し、多くの者に良く仕えたその正しい人を義とするためである」(Isa.53:1-12七十人訳に基づく)。

 この箇所はイエスによる罪の贖いの基礎テクストの一つである。苦難の僕は辱められ傷つけられ死へと運びさられた。ここで苦難の僕における同胞の罪の贖いの様式が問われる。僕についてイザヤは「われらの罪を背負い」また「主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された」さらには「われらの平安の訓育が彼のうえにあり」、「彼自身多くの者たちの罪を担いあげた、そして彼は彼らの不法の故に引き渡された」と報告している。これらのギリシャ語語彙はパウロを始め新約聖書に引き継がれている。

 「罪を背負う」、「担う」、「罪に引き渡される」という罪の贖いがイエスにおいてどのような様式において遂行されたかをここで論じることはできない(「愛の身代わりの力能」『方舟』61号2020参照)。注目すべきことは、ナザレのイエスはまったき人として肉の弱さを抱えていたが、「神の子の信」(Gal.2:20)のもとに、旧約聖書において報告される神の言葉を自らのことがらとして受け止め、それを忠実に実践したということである。(旧約)聖書を介した神の言葉は一人のひとが自らの生をそのもとに捧げるそれだけの真実と力能を持つものであった。

 

7.3 イエスはご自身を旧約の預言の成就と看做した

 イエスはこの預言を「神の言葉は失墜しない」という信のもとにご自身への預言と受け止め死を引き受けた(Rom.9:6, Mat.1:21-23,3:3,4:15,12:18,21:5,26:63)。これらの預言はナザレのイエスにおいて成就されたと言うことができよう。

 イエスは、パウロによれば自然的な肉の底に「内なる人」と呼ばれる神の霊に反応する「霊」と神の意志について霊的な接触を伴う知識である「叡知」と呼ばれる認知機能を持ち、叡知がその都度働いていたと思われる。旧約聖書の引用は自らの叡知の発動(エルゴン)の確認(ロゴス)として用いたと思われる。旧約の引用の報告はそのような認知機能をもちがたい律法学者や民衆に対する説得の言葉であると捉えることができる。ただし、イエスご自身肉の弱さを抱えていたがゆえに、十字架上で極度の苦痛のなかで「キリストの叡知」が一時的に発動しなかったことがあったかもしれない(Mat.27:46,2Cor.2:16,cf.Rom.11:33-34)。

 神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。しかし、此岸性が彼岸性にとってかわられたわけではない。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりが記録されていった。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。

 この前歴史のもとでイエスは喜び喜べという天における報いを望みつつ、この世界を雄々しく耐え生き抜く力を提示している(Mat.ch.5山上の説教)。生と死は神に属するものつまり神の裁量のもとにあるという考えは旧約においても揺るがないが、新約聖書が記すように神はナザレのイエスにおいて顕現しているなら、人類はやはり他に何を必要とするであろうか。死も生も、天国も地獄もキリストを介して最も明確な仕方で知らされている。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛した。それはご自身を信じる者がすべて滅びず、永遠の生命を持つためである。というのは、神が世界に御子を派遣したのは世界を審判するためではなく、世界が御子ご自身を介して救われるためだからである」(John.3:16-18)。

 このように、ナザレのイエスへの探求は人生にとって避けては通れないものとなるであろう。自然的な人間には理解できない、また同じ一人の人間による甦りが人類の歴史において生起したということは自らのうちに自分に知らされてはいない力能が宿っているかも知れないことを告げ知らせるからである。

 イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちに自らの生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」が自らについて書かれたものであることを説明した(Luk.24:27)。ルカは復活の主イエスによる弟子たちへの言葉をこう報告している。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべく随伴する弟子たちの叡知を開き示した。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまでポリス(都市)に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」と回想している(24:32)。

 

 

 

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