罪の誘惑(8)律法と罪と内なる人間の三つ巴
日曜聖書講義6月26日
罪の誘惑(8)―律法と罪と内なる人間の三つ巴―
(録音は2節まで))
「ローマ書」七章
1 律法からの解放と律法が罪でないことの第一議論
ここまでわれらは「われ・わたし」とは律法により二人称単数で「汝~為すべからず」という呼びかけのもとでの命令に対し、一人称単数「われ」により応答する人間一般を指示していることを学んできた。この議論は「今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(Rom.7:6)者たちにとって、パウロが神の意志である限り廃れることのない律法の新たな機能を確認している箇所である。もし、解放されたはずの律法のもとに、あらためて生きるなら、律法を差し出された人間は誰であれ、「惨めだ、われ、人間」と叫ぶそのような葛藤することが求められている。ひとに罪の罪性の著しさを知らしめ、神がイエス・キリストにおいて知らしめた信の律法のもと福音に逃れるよう導く機能が業の律法に与えられている。それはパウロであっても二千年後のわれわれにもあてはまり、その意味で「われ」は誰にも適用される虚構の「われ」である。
第一議論は、律法は罪ではなく、罪を知らせるものであることを明らかにしている。神の意志によれば、キリストの出来事は人類をモーセの業の律法から信の律法に移行させるものである。人類は業の律法から解放されてしまった。第一議論は、人類がそこから解放されたその律法は、文字として捉えられる限り、擬人化される罪が利用するものであることを明らかにしている。パウロは人類の始祖アダムの堕罪を念頭に、蛇に比せられる罪が文字としての律法を利用し機会を捉え人間を欺き、「われ」が生物的死を引き受ける者となったことを過去形により表現している。「われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である」(Rom.7:7-12)。
神の意志である限り、モーセ律法そしてそのもとにある戒めは罪ではなく聖なるものであるが、人類の始祖に見られるように、誰もが罪の虜となり生物的死を罰として引き受けることになった。人類は罰としての生物的死を生きるさいのハンディとして引き受けるが、それを乗り越える永遠の生命に与ることが福音の力である。第一議論において主語は「われ」であるが誰であれアダムであれ、パウロであれアインシュタインであれ、生物的死を罰として引き受けることになったことは人類が罪の誘惑に負けたことの故にであることを明らかにしている。神の前では「あらゆる者は罪を犯した」(Rom.3:23,5:12)のであり、その罰としての生物的死がある。それを乗り越えらた者たちにとっては、生物的死は「眠り」となる。
「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらのために死んだ、そのことにより神はわれらにご自身の愛を示したのである。九かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。一〇なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう。一一しかし、ただそれだけではない、われらはその方を介して今や和解を得たそのわれらの主イエス・キリストを介して神において大いに喜んでいる者でもある。
一二その[「和解させられた者として、彼の生命において救われる」]ことの故に、ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。一三というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、一四しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである。彼は来るべき方のひとつの型[モデル]である」(Rom.5:8-14)。
アダムは人間の一つの代表「型」であるが、それはキリストにおける救いに向けての「型」である。アダムとキリストは罪に負けた者における生物的死を与件にする者とキリストにおいて罪に勝利した者の永遠の生命に与る者とのコントラストとなっている。キリストの信の生涯においてもたらされた、永遠の生命がいかにわれら個々人のものとなるかは「ローマ書」8章で展開される。罪は死を介して神の前の永遠の滅びを画策するが、キリストにある限り、「キリスト・イエスにおける生命の霊」(8:2)に与る者とされる。
2.第二議論における律法の新たな機能―罪と律法と内なる人間の葛藤―
第七章の第二の議論は律法は罪ではないとして、善である律法が死に貢献するのかが問われる。それへの応答として、パウロは聖なる霊なる律法と文字としての律法の異なりを明らかにし、罪は文字としての律法に寄生できることを指摘する。ひとの肉即ち生物的生の原理であるそれ自身中立的な心魂の部位は罪が寄生することのできるものであるが、人間の心魂には罪が寄生できない部位がある。パウロはそれを「内なる人間」と呼び、そこにおいて神の霊、聖霊に反応する人間の「霊」が力能として宿っており、それを介して「叡知(ヌース)」が発動して、神の意志を知ることができるとされる。パウロはその部位は常に刷新の必要とされる部位であるとする。彼は12章で言う、「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわれ汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う汝らの礼拝である。二汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。ここで変身とはキリストと共にあり、キリストに似た者になることに他ならない。
ここに、罪と律法と内なる人間の三者の葛藤が描かれる。
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法違反を介した死]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
この箇所第二議論は第一議論と異なり、現在形で描かれ今・ここでの葛藤を表現している。新共同訳の21節の翻訳は「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」とあるが、「いつも」という言葉は見られない。今・ここのことがらとして「われ」は悪が自らのうちに働いている、その悪をもたらす罪の律法を見出している。「しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす」。罪の律法に捉われることがあるが、「いつも」そうであるわけではない。虚構の「われ」は今・ここでの葛藤の主体である。そのわれは「肉」と「内なる」人間により構成されている。パウロは一方「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知る」(7:18)と語り、この葛藤を引き起こす状況においては自然的な生命原理である「肉」に善が見いだされないことを記録している。もし、この生命原理が悪しきものであるとすれば、人間の産物は一切悪しきものとなろう。ひとはこのような人間観に同意できないであろう。イエスもパウロは肉の中立性を語っており、自然性そのものが悪であると言う議論は見いだされない。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある(6:19-20)。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属するはずの端的な自律性を自ら主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
「肉」は身体を持つ自然的存在者の心魂にその座を持つ生物的な生命活動の基本原理であり、そのつど発動する「叡知」と「霊」という「内なる人間」と呼ばれる根源的部位と何らか関係する心魂の一つの構成部位である。肉は生きている身体においては身体とは分離されないものとして働く。これは通常の身体と心魂の関係と類比的である。見るという心魂のその都度の働きは目を通して今・ここで見ているという身体の働きと分離されない。そして身体におけるキリストの生命への同化過程は、以下引用文斜体の「というのも」(2Cor.4:11)という理由文において肉におけるキリストの生命への同化過程により説明される。心魂の一部位である肉の変身が身体の変身をもたらす。
「一方、われらはわれら自身をではなく主イエス・キリストを宣教する、他方、われらはイエスの故に自分たちを汝らの奴隷であるとする。というのも神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうたからである。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。[4:11]というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:5-11)。
ここで肉は「死すべき」と形容されるが、この死すべき肉こそそこにおいてイエスの生命が顕れる場である。「肉」は弱さを抱えつつも、復活のキリストが内なる人間(叡知と霊)を介してそこにおいて顕現される心魂の一つの座である。そのさい「イエスの生命」は身体的な働き(エルゴン)を伴っている。ここで理由文「というのも~」に見られるように、「肉」は概念上「身体」から分離され、「肉」が「身体」におけるイエスの生の顕現の理由を与えており、ロゴス上「肉」は「身体」に先行する。しかし、働き(エルゴン)上、肉は何らかの身体的働きを伴う。愛の行為は「霊の果実」、「義の果実」であるが身体を介して遂行されることであろう(Gal.5:22,Phil.1:11)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置づけ、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も善きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう。この傾きのなかでひとは自らの心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
「ローマ書」七章においては肉が罪の律法に仕え、善が宿っていないことを見出している。しかし、完全に罪に欺かれているわけではなく、内なる人間の叡知が霊を介して発動している。「善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」。この葛藤をもたらすことこそ、律法の新たな機能である。
3.業の律法から信の律法に導く悔い改め
一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。悔い改めは旧約においては業の律法のなかでのことであった。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の原罪を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。
罪が滅ぼされるとき、罪からの「給金」である「死」も滅ぼされる(Rom.6:23)。そしてそれは最終的に終わりの日に「瞬時に」生起する。「「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにかある、死よ、汝の棘はいずこにかある」。しかし、死の棘は罪であり、罪の力能は[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:52,15:54-57)。ここに福音のダイナミズムがある。
4.中間時
われらはキリストの出来事から終わりの日にいたるこの中間時において、肉の途上の生を生きている。そのわれらにとって、主の十字架と復活を介した福音の勝利が罪に罰を与えており、そしてそれ故に罪から逃れる道を示されている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。さらに中間時における罪の審判はやがて来る終末における最終的な「イエス・キリストを介した勝利」により「最後の敵である死」を克服し「神の国」に与る希望が生じることに確認できるであろう。「神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(8:4)。イエスは自らの信・信仰により罪に勝利したために、「イエスの信」は神の信に対応するひとの信として神の義の啓示の媒介に用いられたからである。罪に対する罰は罪が寄生する文字としての業の律法とは別に信の律法が啓示されたことにこそある。
この中間時にあっては、罪に対する審判の表象は擬人化された罪、サタンを足もとに踏みしだくそのようなものとして描かれる。ひとは今・ここの具体的な状況において「道そして真理そして生命」(John.14:6)でありたまうイエスの御跡に従う限り、つまり信に基づき愛への道行きに従う限り、イエスは共にいたまいサタンを足で踏みつけていたまい、最後の日に神が踏み砕かれる。「平和の神がすみやかに汝らの足下にサタンを砕くであろう」(Rom.16:20)。
もし業の律法のもとに生きるなら、キリストはサタンから足をはずされ、ただちに罪の誘惑にさらされるであろう。この肉の生においては信のもとに復活の主とともにある限りにおいてだけ、罪から解放されている。終わりの日にいずれの律法のもとに審判を受けるかは個々人には明確には知らされてはいない。幼子の信は肯定的、創造的生を生み出す心魂の根源的態勢であり、善き業としての愛はその「義の果実」(Phil.1:11)であり、心魂の根底にある態勢とその帰結、結果としての働きは類比的ないし平行関係においてあり、いずれかから審判されることであろう。いずれの場合においても「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)、その信の根源性こそ考慮の基点であることには相違ない。
「ローマ書」においてパウロは隣人を裁くことに、業の律法のもとに生きていることの一つの証が見られると主張する。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を裁いているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。隣人の欠陥をあれこれ裁くとき、当人も隣人同様「同じことを行っている」つまり業の律法のもとに比較と競争のなかに生きている。パウロはこの認識の表明に続いて、「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」(2:4)と悔い改めに導く。
他方、福音書のイエスの言葉には、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。
5.結論 感情、理性そして信―生の指針―
中間時に生きている限り、われらは罪と律法と内なる人間の葛藤はやまないであろう。ただわれらにできることは、そのつどキリストの福音に立ち帰ることである。ゲーテのファウストは「感情こそすべてである、言葉は単なる音のつらなり、煙である」と言う。感情が生の指針たりえないことは先週学んだアリストテレスにより既に明らかにされている。「われらは選択することなしに怒りまた恐れるが、徳は一種の選択であるか、選択なしにはないものである。これらに加え、われらは感受態により「動かされる」と言うが、しかし、徳や悪徳により「動かされる」とは言わず、「何らかの態勢にある」と言う」(1106a2-6)と語る。彼は魂に生起する自然的なものと責任のもとにあるもの二つの状態を判別し、人間の学としての倫理学の主題である徳を魂のなかにまず或る種の態勢として位置づける。
アリストテレスは「徳」を「或る種の無感受態つまり平静である」と定義する者を「彼らは単純に語っており、そうなるべき仕方と、そうなるべきでない仕方について、またそれがいつかということ、さらに他の諸規定が加えられていない」との理由で退け、「従って、徳は快と苦に関し、最善のものどもの行為に導きうるそのような[上記の具体的な限定を伴う]態勢であり、悪徳はその反対であることが基礎におかれる」と基本的な理解を一般的な仕方で提示する(II3.1104b24-28)。適切なときに、適切な仕方で、適切な程度において感受態が発動するそのような態勢にある者が有徳な者である。有徳な者はその感情や情動が適切なロゴス(理)に聴従している者だからである。「しかし、魂の何か他の自然はロゴス(道理)無し(alogos)であるが、しかしロゴスに何らか与っていると思われる。というのも、抑制ある者と抑制なき者について、彼らが所有するロゴスを賞賛し、彼らの魂のなかでこのロゴスを所有する部位を賞賛するからである。というのも、ロゴスは最も適切なことについて正しく勧めるからである。抑制なき者の衝動は[意志とは]反対の方向に向かう。尤も、われらは身体においては逸れゆくものを見るが、魂においては見ないのではあるが。しかし、おそらく、魂においてもロゴスに対立し、抵抗する、別の何ものかがあると少なくとも看做すべきである。それがどのように異なるかは問題ではない。しかし、これは、語ったように、ロゴスに与るように見える。かくして抑制ある者のそれはロゴスに従う。さらにおそらく節度ある者そして勇気ある者のそれはよりいっそう聴従(euēkoōteron)している(1102b13-28)。
感情が理性に聴従しているとき、ひとは分裂なきものとされる。しかし、生の指針をこの理性、ロゴスに委ねることができるであろうか。人間の心魂の葛藤、分裂は信なしに癒されるのであろうか。ルターは言う、「キリストにより愚かにされた者にとってだけ、アリストテレスは無害である」。確かにそうである。解放されよう。信の律法は業の律法からの解放を告げており、解放された魂の場所には「キリスト・イエスにおける生命の霊」が宿る。永遠の生命の喜びがそこにある。心を理性主導の律法により占めるとき、この生命に与ることはできない。このことは確かなことである。